画家 齋藤芽生の日記


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2020年5月の制作中音楽


2020年5月の制作中音楽


今月も作業中や就寝前に聴いた音楽の記録を。







5月某日


Baden Powell
「Three Originals」


歌謡曲ばかり収集していた自分も、2000年前後には多少幅を広げて音楽を集めていた。他人より狭い好みではあったが。
とにかく、生活の拠点だった新宿、下北、高円寺界隈には中古CD屋が多くあった。
「LATIN」とは別のブースに「BRAZIL」だけの視聴コーナーを大々的に作っている某CDショップ。ラテンのおすすめには手が伸びても、なかなかブラジルおすすめにピンとくることがない。大御所の面々であってもだ。その時は、いかにも暗くて悲哀が強いものを探していたのだからイメージと合わなかったのだろう。



ブラジルこそ音楽の深い密林らしいぞ、と知識で知っていても、なかなかその入口は見つからなかった。
「心地よいそよ風のような」「チルアウト」「気だるい夏の午後の」のような文字がショップ店員のおすすめテキストに何度も繰り返し出てくる。音楽というより、むしろその文言を素通りしたかったのかもしれない。



そのうちもう街のどこでも、いかにも小洒落たカフェからコンビニまで、「女性ボーカルのつぶやくようなボサノヴァ」をかける東京になっていった。ポルトガル語ではなくフランス語の女の子のささやきボサノヴァなどもあった。
猫も杓子も、とはこのことだと思った。ボサノヴァに全く罪はないのに、あまりに安易に消費される音楽のイメージが自分の中に焼きついてしまったのは不幸だ。ブラジルの音楽文化のさわりも知らぬうちに、勝手に遠ざかる原因になっていた。



サンバは別の理由で何か遠いものだった。陽性なノリをやけに強調するような日本でのイメージもあるし(長谷川きよし以外。)大学の芸祭の名物のサンバパーティの大音響に学生時代の自分がどうしてもノレなかった記憶もある。



それから私も歳を重ねていっているが、そのボサノヴァやサンバへの狭苦しい思い込みを、一撃の稲妻の如く吹き飛ばしたのが、バーデン・パウエルのギターだった。だいぶ後になってからの邂逅だった。
音楽の神様がゴロゴロいるブラジルの中でも歴史に残るギタリスト。
なぜあの頃、若い私に誰かこの至高の音楽家を教えてくれなかったのでしょうか.....



「Three Originals」は3枚のアルバムを一つにまとめたもの。
「Tristeza On Guitar(1967)」、「Poema On Guitar(1968)」、「Apaixonado(1973)」どれも傑作だ。
特に「Feitinha Pro Poema( 邦題:詩人にぴったり)」から始まるPoemaは、少ない楽器編成でこその切れ味が際立って圧倒される。パーカッションに対してバーデンパウエルがどんなリズムで走り抜いていくか何度も聴き惚れる。
確かに自分の思っていたサンバのリズムではあるが、聴いているうち何故か初めて知るリズムだとも感じる。ボサノバがサンバとつながっているのだということも自然に感じさせられる。
次第に儀式の静かなトランスのように集中させられていくが、祭騒ぎの興奮とはまた違う。



明るい旋律ではない、南米特有の哀調がある。「Samba Triste(悲しみのサンバ)」など途中でバッハ的フレーズもありつつ、そこに甘さのない打撃音のトランスが加わっていくのが格好いい。複雑だが無駄なものが一切ない。
強く豊かな弦の弾き方で、一音一音が身体に刻み込まれる。余計な映像的イメージは脳裏から去り音に集中する状態になる。匕首を突きつけらるような迫力に、しんとしてしまう。
至高にして孤高の音楽家。またその音楽がそのまま顔になっているような顔貌。



サンバ=陽気で全てを忘れさせる、ボサノバ=スノッブでメロウ、だなどという認識はもう持たないぞと心に誓うことになった。自分がいかに「イメージ」だけで音楽を聴いているか、改めて身にしみたのだった。













5月某日


Os Tincoãs
「Cordeiro de Nanã/Canto do Boiadeiro/Promessa ao Gantois/Chapeuzinho Vermelho」EP 1978


Youtubeで「Deixa A Gira Girar」を聴いた時の、青い涙がブワッと滲むような感激。真青な海辺を上半身裸の三人の青年が歩いているジャケットがこの上なく爽やか、というのもあるが、その美しいハーモニーにじっとひれ伏して聴いてしまった。



外はどんどん気温が上がって夏日和になっても、今の自分にはどこに旅に出ることも叶わない。せめて部屋に風を入れて、気分だけでも青い海に飛ぼうと思ったら、心はすぐ飛んでいった。



オス・チンコアンスは、黒人系ブラジル文化が色濃く残るバイーアの地のグループ。バーデン・パウエルもバイーアのアフロブラジリアンに影響を受け音楽を作ったらしいが、アフリカに根ざす土着密教「カンドンブレ」の神様のことをもし調べ出したら面白くてやめられなくなりそうだ。火や水、空や風や川などそれぞれのオリシャ(神様)がありそれぞれに人格、色、持物が決まっている。抽象的ではない具体的なカラフルなイメージを沸き起こさせる。



「Deixa A Gira Girar」収録のアルバムとは違うが、このアルバムには4曲が収められている。
初めの曲は「ナナンの子羊」といって水の神様への捧げ物を歌った歌のようだ。どこかで聴いたことがある。一気に南国の風が吹き込んでくるような素晴らしく気持ち良い曲で、これもメロディラインが美しい。明るさと暗さがうまく入れ替わるしっとりした旋律だ。また、彼らの言葉の発音の優雅さと言ったら。
南米音楽のハーモニーは独特の不協和音も含む独特の内向きな美しさがあるが、それとはまた違う、アフリカンの伸びやかな感覚がある。
「貝に耳を当てると波の音が」と言うが、この人たちの歌声が、貝から聞こえてきそうだ。



自分が生きているうちにブラジルの地、しかもバイーアを訪れる機会などあるかな.....と色々、思いを巡らす。
寝床の中でふと思いつきgooglemapのストリートビューで、サルバドールの町の全く知らない普通の家並に迷い込んでみた。
ストリートビューは奇妙な時空をこの世に作り出してしまったツールだが、いきなり「どこでもドア」で他人の土地の中に潜入する後ろめたい気分を捨て、今日は想像の旅を堪能した。
町外れの住宅によく使われているタイルや飾金具をしげしげ眺め、レンガの崩れや雑草の生え具合まで目に焼き付けていると、あっという間に朝になった。



実際に旅行者として行ったらこのような徘徊は難しいだろう。
生きていることにつきものの、このどうしようもない距離を考えると、切なくなる。










5月某日



Altamiro Carriho , Gilson Peranzzetta , Sebastiao Tapajos , Mauricio Einhorn
「Encontro de Solistas」



自分は名盤だと思うんだけど.....情報を調べようとしてもこのアルバムに関してはあまりネット上で出てこない。
演奏はセバスチャン・タパジョスのギター、ジルソン・ペランゼッタのピアノ、マウリシオ・アインホルンのハーモニカ、アルタミロ・カリーリョのフルート。
もともとグループというのではなく、ブラジルのその道の名手たちが集まったセッションである。



奏でられているのは主に、楽しいアップテンポのブラジルのスタンダード曲やショーロの曲たちだ。ショーロは19世紀頃からブラジルに興った室内音楽で、黒人の音楽に西欧のクラシックが融合しながらできて行った形態だという。即興性を持って奏でられる音楽としてはジャズよりも先にあったものなのだとか。アレンジの自由さはジャズに通じるが、どんなにリズミカルでもしっかりメロディーは聴かせる。
ショーロはここ数年、クラシック畑の人の演奏で少しづつ聴いてみていた。リズムの歯切れや楽器の絡み合いに、気分が高揚する。全身でエモーショナルに踊るという感じではないが、とにかく足で高速の「拍」を刻みたくなる。



とにかくこの四人の出す音の全て、「強い」ことと言ったらない。
全曲を貫き通しているドットコしたリズムは機関車だ。汽車に初めて乗った喜びのような演奏、「なんだ坂こんな坂」精神。駅に止まることもない。



打楽器もベースもない代わりにそれを全て、叩きつけるような低音のピアノのスタッカートが請け負う。セバスチャン・タパジョスとジルソン・ペランゼッタのギターとピアノはどちらとも非常な高速テクニックと硬質感でぴったり絡み合っている。一体何の楽器の組み合わせだが、パーカッションのように思えることもある。この二人だけでセッションしている別の盤もまた、山越え汽車感があって素晴らしい。



超絶技巧の早弾き演奏というのはフュージョンとかに多いがどうも冷たくて好きになれないと思っていた。でもこの演奏は面白い。手業が火花を散らすというような緊張感ではなく、皆一緒に夢中で曲を分解し、また違う形を次々立ち上げて遊ぶような感じ。



現代っぽいクリアーで厚みのある増幅音は何も入っていない。自分はどうしても年々そういう感じが苦手になる。音楽の厚みは、たとえ室内の小編成でも、奏者や歌い手の底力で表現できるのではないか。そういう音楽を探す方が楽しい。このアルバムのような音を聴いた後、エフェクトが重く被せてある現代のバンドの音やポップスのナルシスティックな抑揚に触れると、とても派手な感じがして入り込めない。
しおれきった生活だが、打音のリズムが体を再起動させてくれる気がする。












5月某日


Andre Mehmari, Danilo Brito & Andre Mehmari Trio
「Nosso Brasil」 2019



そして徐々に......ブラジル音楽の奥深い密林に足を踏み入れ始めたのだろうか。
今だにボサノヴァではなく、興味を惹かれるのはもっと古い「ショーロ」である。
演奏者によってクラシック的にもジャズ的にも変化する可塑性がある。



ここ最近の試聴で、気になるラテンやブラジル関係アルバムを次から次にウイッシュリストにあげていると、ある同じピアニストの盤を複数選んでいるのに気づいた。
アンドレ・メマーリ、現代のピアニスト。
自分の目黒区美の個展の直前に、めぐろパーシモンホールに来日公演していたらしい。その頃知っていれば。



さまざまな情報からすると、今のブラジル最高のピアノの奏者との評価高く、総合的な音楽家で作曲家。ブラジルには音楽の天才がゴロゴロいるが、現代においてもそうらしい。
メマーリは少年期からジャズでもクラシックでもジャンルを超えた名手だったというが、ピアノ以外の楽器も操り曲を作り出す、要するに総合的な音楽家なのだ。欲しかった音源の全てが、際立って密度に満ちていたのがわかる。多様なジャンルの奏者とそれぞれ違う音楽を手がけながら、どの音にも丸い光の粒のような質感がある。



「Nosso Brasil」は、メマーリのピアノと、これもバンデリンの若手鬼才奏者と言われているダニロ・ブリートのショーロ作品収録作である。



メマーリのピアノは、クラシックの一流ピアニストの持つまろやかな残響音で始まる。とても天井の高いホールの天蓋に反響しつつ遠くから降ってくるあの、雫のような「芸術」の音がする。
だからクラシック寄りなのかと思って聴いていると、前景すぐ近くに生々しくバンデリンの音が入ってくる。ピアノの存在は空間に広く響いてゆくのに、前景のバンデリンには微細な陰影まで映し出すスポットライトが当たる。
二つの楽器の音の質はとても違う気がする。それなのに遠くと近くで対話しているようで、他の音楽よりも広い演奏空間の像が立ち上がってくる。



バンデリンとピアノは掛け合いながら、次第にそれぞれの声の質を際立たせていく。鍵盤の上から下までをくまなく滑りながら次第に壮麗になっていくピアノはショーロというよりピアノソナタのように聴こえるときもある。
そうかと思うと歯切れ良い。ただ優雅なクラシックに流れてしまわず、翳りのある激情も聞かせる。
BGMで軽く流すのではなく、ヘッドホンでもいいから大きな音量で聴いたほうがいい。二人とも高音から低音の深いところまで、また強音から弱音に至るまでよく行き渡るたっぷりした音を奏でている。



高い山が海になだれ込んでいる地形、山肌には小さな人の営みの粒子が慎ましく張り付いている。遠くから見るとそれは星のようでもある。風景の中、神の白い足が、はるか山から見えない透明な階段を海まで降りようとしている。そうかと思うとその足は別のところで野を駆けている。
と、いうような入眠幻覚ではっと目覚める。
そんな神々しい感じで、高い鍵盤から低い鍵盤まで美しい打音が転がり降りてくる。若者のバンドリンは地上の永劫変わらない海の波のように、トレモロを刻み続ける。



乾ききった野草の自分が、光る雨を十二分に浴びたような恍惚感。
音楽を聴くなら「徹底的に聴き応えのあるものを聴かなければいけない」と、また考えさせられる。










5月某日


Sonido Gallo Negro
「Cumbia Salvaje」2012




しばらくの在宅。毎日チマチマと自炊し、野菜や海藻などを取り入れて気を使っている。しかし。時々反動で「袋のインスタント焼きそばに卵を割り入れた」のとか、体に悪そうな駄菓子などがふと食べたくなる。
音楽を聴くのでも、そんな時がある。名手・生楽器・名演の音など聴いたあとには発作的に、よっちゃんイカや粉末いちごソーダの赤色102号をした、人工的でチープな音が聴きたくなるのだ。



「アルゼンチン」で思い出したCDがあってすごく聴きたいのだが、あいにく大学の仕事場の奥深くしまいこんでいて、しばらく探しにいけない状況。
誰の名義かは忘れたが、60−70年代頃のピロピロしたチープな電子音を現代であえて使った不思議なインスト音楽集で、ラテンのリズムなのだがとてもそうとは思えない切ないやぼったさ。しかしそのCDではわざとやぼったさにスポットを当てていた。



確か10年前くらいに手に入れたそのCD。「アルゼンチン 電子」などで検索して、謎のオランダ人プロデューサー、ディック・エル・デマシアドという名の人が編集したコンピ【クンビア・ルナティカ】だとわかる。
けれど入手も難しくなっているし、ダウンロードもできないので、ぼんやりその音の感じを思い出すしかない。
初めの曲しか覚えていないが、エコーが独特、印象が強烈だった。地の底からくる深いエコーではなくて、透明のビニールを何枚もレイヤーしたような薄さの大量増幅感。
元のオルガン電子音がそもそも細々としてピカピカした哀愁のある音で、「蛍光灯の中でさらに蛍光色のネオン文字を電子万華鏡(そんなのあるかよ)で見ている」ような電流感があった。



そのものにはしばらくお目にかかれなさそうなので、そういう音をもろに使っている現代のバンドを、代わりに聴くようになった。メキシコの「ソニード・ガジョ・ネグロ」というグループだ。
よっしゃ!と拳を握るほど思い切り、あのピカピカ電子音を使ってくれている。ある日市場でペルー70年代のチーチャ音楽のバンドのテープを彼らが見つけ、その電子音の独特のチープさにインスピレーションを受けたのだとか。



チーチャとはペルーにおけるクンビア音楽のことらしい。
クンビア自体は、ルンバとかサルサとかサンバなど複雑なリズムやステップを持つ音楽より、単純なノリの二拍子のリズムだ。田舎のお祭りでかかる歌謡曲といった野暮ったい雰囲気である。発祥はコロンビアのようだが、ラテンバンドによくありそうなリズムではある。コロンビアのクンビアを聴くと、ブラスや男コーラスなどいかにもラテンバンドという感じがする。
しかしペルーでは他の南米の国より電子歌謡が盛んで、よりサイケデリックなダンス歌謡が多発したようなのだ。しかもアンデス的な郷愁を誘うメロディーが強調される。
基本的にソニード・ガジョ・ネグロの再現している電子クンビアは、プンチャカプンチャカというリズムに、ピヨピヨリとかペナペナリという悲しいメロディと合の手が入る感じだ。特にこの2012年の1st(?)は、最近出したものよりも直球のエコー具合が良い。



ディック・エル・デマシアドのアルバムタイトルは【クンビア・ルナティカ】だったが、デマシアドは「デジタルクンビア」に活路を見出した人なのだそうな。その後、ここ10年ほどで随分この手の音楽のコンパイルや自身の音楽に取り入れる若い人が続々出てきたみたいだ。ある時期の辺境音楽発掘の流れに対する、その後の若手ミュージシャンの反応なのかな。
電子クンビア、買った時は気づかなかった。これはハマる。



後発の世代が、とても価値を見出されそうにない昔の市中の騒音的歌謡サウンドに、新鮮さと驚きを感じる気持ちはよくわかる。
何か元ネタがあるということはフェイクの枠の中に収まるということなのかもしれないが、音楽はそんな誹りを突破してもなお、時代も文化圏も超え無作為に情緒に訴えかけてくるから面白い。
ピリピリヒロヒロした電子オルガン音、サーフギター、調音の合ってないヴィヴラフォン、やる気のないマラカス、スピーカーのからの割れた叫び声......古臭いドリーミーな音を使いたいだけ使って「どこにもない時代のどこにもない文化圏」の幻を立ち上がらせる感じは、制作時に良いお供になりそうである。(ただし書類仕事にはアウト)



なんか思い出すな、と思ったら、学生の頃はやった「ランバダ」だった。
北海道の知床岬に旅した時に同行者がたまたま持っていた、赤い光のピロピロともるヨーヨー。手に弄ぶと、電子音の「ランバダ」のメロディが、微かにそのヨーヨーから鳴った。
思い出したら、青春の切なさがドッと来た。












5月某日

Los Miticos del Ritmo
「Los Miticos del Ritmo」 2012



クンビアはクンビアでも、これは電子クンビアではなく、アコーディオンやたいこやラッパ、手拍子のローファイ的な音楽。地元の街角でぽんぽこ鳴らして二、三人が踊っているような規模の演奏。
だから音質が悪いとか田舎臭いかというと、これが全くそうではない。
地味ながら実は洗練されているのは、このLos Miticos Del Ritmoを束ねているQuanticというおにいさんが、現代のダブとかエレクトロニカと南米の様々な地域音楽を変幻自在に結合する多彩なヒトだからだ。
英国人だが、南米音楽の採集に本腰を入れて取り組むためコロンビアに移住したらしい。




ジャンル横断的な鬼才プロデューサー、などというと身構えて近づかないことが多いのだが、Quanticの手掛けている多くのユニットは、どれも素晴らしいクォリティだと思った。
元々デジタルでも様々な音をミックスしてきた上、手掛けているユニットでは地元コロンビアのミュージシャンに演奏を委ねているので、絶妙なアナログの郷愁感も堪能できる。




このLos Miticos Del Ritmoが、彼のユニットの中では一番素朴な編成なのかもしれない。アコーディオンはQuantic自身だというが、そのアコーディオンの音が一番ツボを得た寂しい丸みがあって、このアルバムの雰囲気を統一している。パーカッションがゆったりかつキレよく締めているから、上滑りしないで聴ける。
とにかく音をよく知っているんだろうな、と思いながら、飽きずに聴いている。どこの方角からいつどんな音がして欲しいのか、というあの手この手に嫌味がなく、でもユーモアも感じる。いかにも流行りという感じの音加工に溺れていなくて、いろんな音がシンプルにそれぞれのボリュームでバランスを保っている。




自分のPCを探したら60-70年代のクンビアバンドのコンピレーションをかなり前から持っていたことに気づいた。その時はあまり真剣に聴いていなかったので忘れていたが、改めて聴いてみた。
やはりラテンの現地音楽に必須なのは、あの掛け合いのような歌声である。あのかん高い声の男性コーラスが始終賑やかにワヤワヤ言っていなければ、ラテンというイメージは持てないかもしれない。
けれど、それを敢えて無くしてインストだけにしてみると、改めてリズムや楽器がどう絡んでいるかを、新しい音楽のように楽しめたりする。
聴く方も、このアルバムの作り手も現地の人間ではないからこそ、自由なイメージを持って音に接したくなるんだろう。
一過性の消費として伝統音楽が取り入れられることには軽薄な部分も多いかもしれないけれど、長い目で歴史を遡ると、音楽の生き延び方とは元々そういうものだったかもしれない。



少なくとも、Quanticの手がける音は一過性の軽さではない、音楽の根っこを感じさせる。ダウンロード時代だけれど、これは「持っていたい」と思わせるナニカがある、と思った。
この一枚はジャケの絵も気に入っている。レコード時代は、本当はそういう楽しみもあったろうな。
そういえば彼の、コロンビア往年のミュージシャンの演奏に自分の演奏や西欧圏のミキサーを加えて作り上げた、「ONDATROPICA」名義のものも、とても楽しめる。











5月某日


Combo Chimbita
「Ahomale」 2019



オオオ....これは、と鳥肌立つやつが来た!
同時代の音楽に気後れしたり興味を持てないことが多い自分だが(1970年ごろのばかり何故か集める)、今現時点のミュージシャンのものを探すのも大事だと強烈に思わされた。



今の音楽シーンでクンビアはどうなったのかなどと探していたら行き当たったグループなのだが、もはやこれはクンビアの面影はない。
全曲を覆い尽くすのは、シャーマンが何かの儀式をしているような魔術的な緊張感。
非常に張りのある詠唱的でソウルフルな声の女性が、天からのエコーの中で叫んでいる。ラテンのメロディに重たいロックとサイケデリックな電子音が重なり、重層的な万華鏡みたいに脳裏を侵していく。




一曲目はスピリチュアルな叫びのような歌だからずっとそっち系で進むのかと思ったら、暗くも激しいロック調の二曲め「Ahomale」で完全に心を持って行かれた。なんという素晴らしいシャウトでしょう.....。重い黙示録系のプログレロックのようににわかになるが、ピタッと静かになって、冗長ではない。行ってはいけない銀色の宇宙につままれて持っていかれるような、高音の絶唱。
アルバムのタイトルでもあるこの「Ahomale」という言葉は「祖先を崇拝するもの」という意味だと書いてある。プリミティヴなところから源泉を得ているが音は現代的で無機質感があるのがいい。



ニューヨークのグループで、メンバーはコロンビアにルーツがある。しかし文化圏の枠を超えた謎の魔術的なスケールを感じる。東欧の民族ルーツ的な声とも感じられるし、辿ってゆくところには勿論アフリカの匂いもする。二曲めはなぜかベトナムの夜の街角をふと思い出した。アジア的な感じは全くないのだが、ベトナム独特のメロディラインの暗さと似ているところがあって思い出したのだろう。
ボーカルの強烈な歌唱力もすごいが、演奏自体が非常に複雑で完成度が高い。アナログシンセのような音もディレイの残響も、過去のパロディのような使い方ではなく、自分たちの未来的な世界観の中に自然に練りこんでいる。
ねっとりしていて不穏な雰囲気なので嫌いな人は嫌いだと思うが、世界観の強さとレベルの高さは確かなものだと思う。



世界を覆い尽くす不穏な災厄、それ以上に深刻な人間の退化に、何か綺麗な神聖さでは済まない畏怖を感じるような天の声が響いている気がする.......そんな今こんな音楽に出会ってしまって、はまりすぎだ。しかし、稲妻のような出会いがあって良かった。



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深夜の制作中、Combo Chimbitaをイヤーホンで聴いてダークメタリックな宇宙に飛んでいたが、ふと外したら、隣の部屋のラジオ深夜便から島和彦の「雨の夜あなたは帰る」が小さく流れていた。いい......。これも別の青暗い宇宙だ。この曲は深いのだ。どこまでもぬかるみを掘れる曲。救いのないエコーの中でちあきなおみが歌うバージョンが、さらにいい。






5月某日


松田聖子
「Touch Me Seiko」 1984



突然、松田聖子が聴きたくなったのだった。
たくさん聴きたい音楽があって新ジャンルを開拓しようとしているのに、なぜ真逆の世界観のものが聴きたいのか。
この一日をよく思い返してみる。ローソンに行ったら、冷蔵棚に清涼飲料スコールのパイナップル味があったので、おっ!と思って買った。そのジャンク&フレッシュな甘さに、自宅隔離中の体の細胞がパチクリしたのだ。
「スコール」「パイナップル」といえば松田聖子の初期の夏のLPのタイトルだ。そういえば松田聖子は「パナップ」アイスのCMにも出ていた。
ま、そんな単純な連想からだ、とわかった。



このように年に数度は松田聖子デーが訪れるため、前から松田聖子の初期アルバムはCDで揃えている。実際、ファンではない。結婚後の(どの結婚かは知らんが)松田聖子が自分らしさを全開していくにつれその自分とは遠い価値観に、いまだに興味を持てない芸能人の一人だ。



しかし、デビューから数年までの松田聖子の珠玉の楽曲たちは、確実に私の人生の何かを導いたのだ。何と言っても、小学校5年くらいの時、人生で初めて自分のために買ったレコードが、聖子シングルB面集のこのアルバム,「Touch Me Seiko」だったのである。
ちあきなおみとか藤圭子あたりの歌謡曲を好むのはもっと後からだ。「アカシアの雨がやむとき」を初めて聞いたのも、なんとテレビの音楽番組で聖子が歌ったので知ったのだった。今考えれば貴重だな。その歌唱は西田佐知子のそれとは比較にならなくとも、とても深い印象に残ったことを覚えている。



B面集の「Touch Me Seiko」。だいたいシングルB面の曲には隠れ名曲が多いと言われるが、この曲のラインアップを見ると、うなづける。レコードを何度も擦り切れるくらい聴き隅々まで覚えているからかもしれないが、全曲が無駄のない名曲である。
小学生のくせにB面集を真先に買うとは、今のこのひねくれ具合が、もうその頃からあったということだろう。
若さ、瑞々しさ、たゆたうような甘さ、爽やかさ。私が失ったもの...というか獲得し損ねてそのままきてしまった「何か」の全てが、一曲一曲、違う色の誕生石のように結晶している。
私は拒絶反応なんか起こさず、深呼吸したくなるほど贅沢なリゾート的青春の気分に思い切り浸る。なにせ、小学生から高2ぐらいまでは、こういう青春が本当に待ってると思っていたから。違ったけど。




白いテニスコート。港の引込み線。樹にもたれた貸自転車、コテージから光を縫ってきた。マリーナの桟橋。.....
松本隆の描く世界のそれら風景は、だいぶ後になって廃墟を取材などするときに多く出会っている。軽井沢や苗場の、誰もいない80年代なごりの施設に「あっ、白いテニスコートとはもしかするとこれか」「あっ、これ、マリーナの橋を渡ってるんじゃないか」などといった形で出会った。リゾート的恋愛には無縁の人生にふとフラッシュバックする、他人の光と影。



私には珍しくリゾート地でも大好きな、奥ゆかしい油壺の海でたまに昼寝をしていたシーボニア下の芝生は、今あるのかな?
三年にいっぺんくらい行っては、そのヨットハーバー付近で長い時間を過ごしたが、「マドラスチェックのブレザーを着て、僕のヨットに乗れよ、と誘いかける」ような男に出会ったことはない。いや人影すらも滅多に見たことはない。
そんな人が実際にこの世にいるのか想像もつかない。80年代のイラストレーションの中にいた幻の人格なんだろうと思う。実際そこらにいたら「チェック柄似合ってないっすね」くらいの感想しか持たないかもしれない。マドラスチェックに罪はないが。



最初の「SWEET MEMORIES」はヒットして有名だから置いとくにしても、次の「Romance」から「愛されたいの」まで、AOR的ありオールディーズあり静かなバラードありと息をつかせぬ名曲で、全てまったりとした晩夏のトロピカルアイスのような松田聖子クオリティーに貫かれている。
A面でも、「瞳はダイアモンド」あたりまでの松田聖子の歌は、そういう珠玉のクオリティだったと思う。季節を絶妙に音楽化するユーミンのテイストなのかもしれないが。



スコールパイナップルと松田聖子でフルーティフレッシュな気分になり、調子に乗ってフルーツロールとキウイも食べてしまった今日だった。












5月某日



M.A.K.U Sound System
「Mezcla」2016



様々な世界の音楽と、小さなイヤホンで繋がる深夜。ほんの小さな入口から、息を飲むような表現圧が押し寄せてくる。
最近自分が試聴していて「どこの音楽だろう?」とハッとする濃さを感じるものは、2010年代以降のNYのミュージシャンの作る音楽だったりする。
NYに生きる移民のグループが、それぞれのルーツであるカリブや南米、アジアそしてアフリカを繋ぐ複雑な音の要素を、細分化することなく、いちどきに混在したような音楽を作っている。それに惹かれることが多いようだ。




NYが世界の縮図である、世界一の音楽の坩堝である、ということはもちろん当たり前に言われることだろう。けれどこれらの音楽から感じるのはむしろ、世界中の多様性をそのまま万華鏡のように映すカラフルさではなく、NY移民文化というのがそれ自体としてローカルな強いアクというか特徴を持っているのだろう、ということだ。
音楽の躍動性というより、どこか殺気あるシリアスさが通底しているというか。
自分はたくさんの音楽を聴きこんでいるわけではないしNY事情に詳しくはないので分析などはできないが感覚的にそう思う。




大都市の不条理と閉塞の中で濃い色の花を咲かせながらも、どこかひやりと無機質に醒めた感受性も持ち合わせている。「この世のどこの場所とも違う」ユートピアに向かうのではなく、「もはやここは世界のどこでもない」ディストピアを像として知ってしまっている、そういう無国籍性。まあそれは表裏一体で、歴史上の大都市の文化はいつでもそうだったのかもしれない。




M.A.K.U SoundSystemはコロンビアからの移民からなる8人のグループだという。
ギター・ベース・ドラムの基本にホーンとシンセもあるので各文化の多様な音を入れ替わり立ち替わり表現するが、ボーカルはアフリカンの民族的要素が強いようだ。
このアルバムの最初の曲でも英語でかなりメッセージ性の強い台詞を叫んでいるようだ。歌はスペイン語だろうか、でも多分それも社会的な意味を含んでいるのだろうと推測される。彼ら自身がプロフィールに移民として都会で生きる者のアイデンティティを明言しているようだ。




言葉がわからなくても音楽を聴いてすぐに、怒りのパンチ力のようなものに腹をドンと突かれる。特にボーカルのパワーは強い。パンク精神で叫びながら、世界の音楽の中にある「エレジー塊」を走って集めているような感じだ。
世界の音楽についてマニアックに一過言あるような聴者がこれをごった煮とか雑食などと批評したりできるかな、という、意思的な暗さと切迫感がある。今の若い世代が世界各国の音楽的要素を使うのは、決して遊び心ではない、という感じがする。
「ここまで人間共通の悲しみを蔑ろにするようになってしまった全世界に対して、居ても立っても居られないのに、とっかかりが見つからない! 」という焦燥がカタマリになって迫ってくる感じがある。言葉がわかると、さらに全く意味を増強して迫ってきそうだ。



ラテンの中のラテン、アフロの中のアフロを思い切り聴くのとはまた違う体力が、聴く側にも必要かもしれない。独特のパワーは、最近良いと思ったCombo Chimbitaのメンバーがここにいるということで、なるほどと納得させられた。
昨日の「フルーツケーキを食べちゃ休み食べちゃ休み」のペースと違い、今日はこれを聴きながら正体不明の闘志が湧き上がってきて、制作に集中した。








:::



Red Baraat
「Bhangra Pirates」2017


こちらもNYブルックリンを拠点とした、インドのドラムとブラスが特徴のグループ。
リーダーの人はインド系で、インドの大きな伝統的太鼓のドールというのを両手で叩いている。メンバーはインド含め多国籍だそうだ。男臭いと思ったら男しかいない。



試聴で聴いたときは「渋さ知らズ」のような感じかと思ったが、通しで聞いてみると、もっと違う至近距離の感じがある。人数が少ないというのもあるし、「渋さ」のような大人の余裕の遊び心&演劇性とは、違うところにいると感じる。
ホーン隊の晴れがましいうるささも過剰ではなく、最後まで聴くと非常に聴きやすかった。ジプシーブラスバンドとも通じるかと思ったが、むせかえるような民族臭ではない。基本的にはロック好きそうなところに、とっつきやすさがある。
ギターが加入したのがこの頃なのか、アルバム最初の方の曲がロック色が強くて音が重く、最後に行くにつれこの人数編成らしさがバランス取れた形で曲に現れてくる気がする。私はシカラムータ好きなので、この人数くらいで肉薄してくる演奏が、聴いてて性に合う。


〇〇文化の味を取り入れて見ました、とあえて看板にせずとも、楽器が力合わせて音楽を作っていけば自ずとわかるモノづくりの楽しみ、のようなものを感じる。それとともに前者の「M.A.K.U」にもある、奥底の生真面目さと切迫も。



インドカレー屋は好きでよく行くが、必ずと言っていいほど店内のモニターで「大人数が踊りながら、主役の姫&王子的男女の恋愛譚を盛り上げヒンディポップを歌っている」映像が流れていて、いつも時間を忘れたように黙って見つめてしまう。世界のあまねく場所が均一の欧米ポップス色に染まって行く中で、絶対に無くならない土着文化の濃さがここにはあるんだよな、と感心しながら見ている。そういう「いかにもインド」なイメージと、このグループの音楽はまたかなり違ったものだ。ただ、癖になる中毒性という良い意味で共通してはいる。
知ったばかりだが、もうすでに制作時に大音量ローテーションしそうな音楽である。










5月某日


Eduardo Zurita
「El Quinto de Eduardo Zurita」




「電子音」と言って忘れられないのは、テクノやエレクトロニカなどの音楽との出会いではない。自分の好きな心細い蚊の羽音のような、あるいは割れないシャボン玉をプンと突いて見たような電子音を思うとき、いつも油壺の夏の木々と入江を思い出す。



もうなくなって20年以上経つが、横堀海岸の上に古びた食堂があった。
鬱蒼とした半島。原生林の木々の上に突き出たテラスには、折れそうなデザイン鉄柵が巡らされている。当時の油壺は寂れた避暑地の雰囲気、高校生の自分は人の気配もないテラスでさざえの壺焼きを食べていた。会話も少ない家族旅行だった。



木々の狭間から、若い人たちがどっと笑う賑やかな声がなんとなく聞こえていた。寂れているが、下の海岸では若い団体客が集っているのだと思った。
そのうち賑やかな雰囲気の中に、か細い電子オルガンの哀愁ラテンメロディが流れ始めたのだ。その音に強く感情をそそられた。
日記にも記してあるが、最初に流れ始めた時の曲のメロディは「ラシドーシラ ソ#シーラミー」というフレーズ。ふるふると消えそうな蛍光塗料の光じみて、炎暑の濃い影の中をその音は縫ってきた。



その音に惹かれてというのもあり、食堂を出たあと、急な坂を下りて小さな入江に出てみた。そこに夏合宿か何かの若い客の集まりがあると想像していた。
しかし音を聞いてから20分もしていないのに、海岸には単独客が侘しげに散っているだけで、電子オルガンのメロディやら笑声がするはずのないような、静かな場所でしかなかった。アイスクリームを売っている昔ながらの商人が一人歩き回っていて、麦わら姿でチリーンとベルのようなものを鳴らしていた。そのベルがまた時代をまたいだようで、行脚の虚無僧のように見えた。
確かに音は聞こえて空耳のようなものではなかったので、不気味さではなくむしろなんとも言えない孤独感を感じたことを覚えている。
その狐に包まれたような真夏の旅愁以来、油壺を好きになって、たまに訪れていたのだった。




このエドゥアルド・スリータという人は、1960年代ごろから活躍したエクアドル電子音楽の第一人者だそうだ。
ありがとうございます.....!とひざまづきたくなるほど、欲しかった電子音だ。
油壺で確かに聞こえたあの電子音は今思えば空気オルガンだったので、この人の放つ初期電子オルガンの音とは少し違う。でもこれはこれで、よく行った西武球場を思い出してまた泣かせる。アワワー...と七回裏後くらいにバックスタンドから流れる憂愁音。ロングセラーのアナログゲーム「ゲームロボット9」の光るボタンを強打しすぎて機械が困り果ててる時のブブブッという音にも似ている。
聴き始めて曲が一曲進むごとに、涙腺を確実に震わせてくるマイナーコード(泣きメロ)の名曲の怒涛だ。
手をお祈りみたいに合わせて、感激している。




最近興味を持ち始めた電子クンビアにも様々な音の電子音が使われていて、特に昔のバンドのそれはテクノ以降の整理された電子音とは全く違う、すすり泣きのようないい音の宝庫。けれどこの人の使う電子音は、何かのメーターから漏れる警告音みたいな危うさがあるし、プチ感電しそうな不安定さもある。
すすり泣き電子音の総本山、エクアドルにありなのか。
独特の音質といい選曲といい伴奏のシンプルさといい、自分の求める感じにぴったりハマる演奏はそんなに多くはないが、これは求めていた電子音の憂いを帯びている。



思えば自分が博論の代わりに書いた小説でも、空耳の電子オルガンの音が大事な要素になっていたので、それ以来随分そういうイメージの音楽を探し続けてきたもんだ。30年、絶えず身体のどこかにあの音はあり続ける。
数少ないいくつかの当たり音楽を含め、これからこの人の音源も大事にしてゆくだろう。











5月某日

Victor Rice
「In America」2003


大人のスカ。と言ってこの「In America」のジャケットのイメージだと、夜間飛行のアダルトなムード音楽のようなものと思われそうだが、重くはなく、スカはスカである。
スカはどうしても小走りの脚を感じるリズムなので、空撮の夜景の遥かなイメージと合うかと言ったら....合いはしないと思う。それでも、60−70年代のイージーリスニング・ラテンを彷彿とさせる瀟洒な感じの音ではある。



スカのリズムには、青年性を感じる。自分は尖った青年達のパンク入った疾走スカはあまり聴かない。でもこれは、いい具合に無駄を削ぎ落としつつ熟成したインストなので、制作中に聞いても眠る前に聴いても、いい気分になる。メロディや楽器遣いに素朴な丸みがあり、素敵なスカだ。




Victor RiceはNYのベテランエンジニアで、ブラジルなどに長期滞在し多くのスカミュージシャンのダブやミックスを手がける仕事をしている人物らしい。youtubeで検索すると、ほとんど彼が機材をいじる映像ばかりだ。
ミキサーが自分名義で出すアルバムというのはやはり編曲のバランスが良いものが多いのかもしれない。リズムや音選びに間違いがない、という印象を受ける。シンプルでも抜かりなく楽器のハーモニーが構成されている。欲張らない音の中で印象的なリフレインを使うからかえって中毒性を生み出すんだろうか。
私はこのぐらいの少ない音の編成が好きなので、いつまでも聴いていられる。








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Victor Rice
「Drink」 2020


「In America」は2003年の名作アルバムだが、17年後のこの5月に出した新作アルバム「Drink」は変わらず同じ情調の音楽、さらにシンプル&メランコリックで、こちらも良かった。
「Drink」の3年前には「Smoke」を出していて、まるで対のようにどちらもポカンと抜けたデザインのアルバム。こっちはおサカナだが「Smoke」はネコの絵柄。よりジャズ感があるようだ。持っていないけど。
人生の中で何らかの過渡期を迎えていたらしい本人が、酒と煙草の日々の中で作った曲たちが「Drink」「Smoke」というアルバムになった、というような内容の本人談があった。




「Drink」は極めてシンプルな音になっているぶん、スカだけではなくラテンのリズムの構造がとてもわかりやすく耳に入ってくる。何拍目にアクセントを置くかとか、どこでスティールドラムのアクセントが入るか、聴いているとなるほどと思わされる。小節の最後でカッカラカカンカン!と急かしてくるドラムが自分はとても好きなのだと思う。




昔からそうだが、私はレゲエを今まであまり聴こうとしない。
The Trojansなどしか持ってはいなかったもののリズムとしてはスカの方が断然好きだ。でもレゲエやスカに抱いている住み分けも、こちらの単なるイメージでしかない。
ラテンとアフリカのリズムは国や文化ごとに非常に細分化されて発達しているが、おそらく知り始めるとやめられなくなるぐらい面白いだろう。
いろんなジャンルに手を出して聴いてみたいこの頃。










5月某日


L`Orchestre du Montplaisant
「S.T」 2011



アルバムの紹介に「無国籍音楽」とあると、必ず試聴したくなる。
ときには「ごった煮バンド」などという文言にも、うーんとためらいながらも反応して、一応音源を探して聴いてみる。
ただ、大体の「無国籍音楽」はバルカンやジプシー寄りの、似た感じの音楽であることが多い。大道芸のいかがわしさや人の寄りあつまる楽しさが肝である。
男女多人数編成で賑やかに演奏するのはいいが、気合が入りすぎていて繰り返し聴いていると疲れるものもある。腕づく、という感じの演奏なのである。
自信満々の男性太声やちょっと媚びた女性ボーカルなんかが幅を利かせていたら、私はあまり興味を惹かれない。


そんなに「張り切っていない」無国籍音楽が聴きたいのだ。
ヨレッとした情けなさがあるにもかかわらず、シンプルな楽器編成だけで不思議と足りているインストゥルメンタル。
無国籍好きとしては、安易なジプシーっぽさや見世物小屋感を演出するのでなく、「その楽器でその地域のメロディーを奏でるのか?」「そのテンポであの国の音楽のリズムを使うのか?」という絶妙のミックスチャーが欲しいのだ。



このイギリスのグループOrchestre du Montplaisant。
何かの紹介文を見たわけではなくジャケットの絵でビリっと電流が走ったので試聴。四人組のようなので、音の素朴さがちょうどいい。
何より各地の音楽の感じが遠慮もなく混在していつつ、ちゃんとメロディアスな曲の骨格があるところで、これはいけると思った。



アコーディオンによる遊園地哀愁音楽といえばそうなのだが、よく聴くと東欧の望郷感あり、ラテン的パーカッシヴあり、古いサーフギターのサイケ感あり、ハバネラのようなリズムあり、カーボ・ヴェルデ的リズムギターあり、エチオピアの演歌的メロディあり、それらがわざとらしくなく「淡々と投げやり」に、絡み合っている。
エレキギターが曲の中の合いの手で「ジャララッッ」と短く入ってくるのが効いているのが特徴か。
無国籍音楽を聴いたり演ったりするのは、こういう「投げやりさと虚無感」を理解してこそだ!と自分は勝手に思う。



眠り込んで、知らない土地を旅する荒唐無稽な長い夢、を見ることがある。
夢の中では風景の違和感が気にならないのが、覚醒して行くにつれて「あれとあれの要素が繋がってあんな不思議な結合風景になったのか」と、脳の脈絡がわかっていくときの変な感じ。この音楽を聴くと、その感じを思い出す。
ジャケットの絵の綿密なのに遠近感や色の虚無的/模型的な感じ、にそそられる。
その絵のように、ミニアチュールの不思議な凝縮感が、音楽にもある。












5月某日


DJ.Tudo e Sua Gente de Todo Lugar
「Nos Quintais do Mundo」 2010
「Pancada Motor」 2014




「DJ .〇〇」といえば、「重低音ダブや深刻な感じのラップを大音量で流して、大きいホールで若い子を踊らせるヒト」というイメージを持っている私は、若いダンス民ではないのでそういう名義の音楽にはあまり触れないことが多い。
しかし、どうやってたどり着いたか忘れたこれらの二枚のアルバムの作者DJ.Tudoは、様子が違いそうだ。



DJ.TudoはAlfred Belloという名でも活動していたが、ブラジルのミュージシャン兼プロデューサー兼民族音楽収集家、とのこと。
知った後から検索してみたら「ブラジル北西部を中心に数知れない地域の音楽を収集してフィールドレコーディング、それをまた世界の色々な場所でそれを編集」というような内容の文章が某CDショップの紹介にあった。



フィールドレコーディングといえば、「ザーッという雑音とともに虫の声と現地のおじいさんが遠くで民謡を歌いポコポコと打楽器を叩いている」ような「生活音楽のごく自然なサウンドコラージュ」という感じしかしていなかった。
が、これらのアルバムを聴くと、まず曲としてドラムやメロディーの骨格がしっかりしているのが魅力的だ。
歌はあるが前面にフィーチャーされてはおらず、基本はインスト曲なので、まさに今の私が聴きたい感じである。



「Nos Quintais do Mundo」(上) 一曲目の、ドカドカとやっと重い腰をあげるような不揃いのサンバの打楽器隊を聴いただけで、すぐ「このアルバムは買おう」と思った。
フィールドレコーディングから練りこんでいる様々な音が、実はブラジルらしい楽器の音や笛やリズムだということは聴き取れる。
その素朴な音の連なりと少しずれるようにホーン隊のメロディが入ってくるが、これは結構ファンキーである。
最初は「合ってるのか?ごちゃごちゃしてるぞ」と思うのだが、次第にそれらが一体化して一つの音がいうとして盛り上がっていくのが、うまい。




そういえば誰かの音楽を思い出すな?と考える。
お国は違えど、ガトー・バルビエリの73-4年頃のアルバムの曲、「民族楽器隊と掛声でジャカポコと祭の馬を歩かせている」ようなあの感じだ。
主張の強いバルビエリのサックスが無いだけで、ここにそれが重なったら、似た雰囲気を醸すんじゃないか。
不揃いのアンサンブルで始まり、だんだん興が乗ってきて音が大きくなり打楽器も締まってきて、不思議な中毒性とともに自然に体が動き出す。いい感じである。
都会のイベントでは無い「地元の祭」で、長々と何日もかけ流す民謡流し的ダンス音楽の良さが、現代のクリアになった音の中で再構成されている。
聴くほど飽きない、スルメ盤である。




そして2014年制作の「Pancada Motor」(下)の方にも手が伸びてしまった。
さらに、ダブやミックスの強力な専門家が加入しているらしい。
ローカル/トライバルな感じの音にさらに複雑な加工が加えられ、アレンジもよりジャズ・ファンク味が強くなっている。
打楽器、管楽器、ギターの人々がよく互いを見やりながら慎重に事を進めていて、初めはフィールドレコーディングの再現でしかなかった田舎のおじさんの声が、だんだんこの楽器演奏隊によって本当に踊らされているかのようにも聞こえてくる。




ここでもやはり思うのは、プロデュースやミキシングをしている側の人が自分で音楽を作った時の、絶妙なバランス感覚だ。
リズムが早すぎることも遅すぎることもない。
別々にレコーディングしたものをどうやって矛盾なく組み合わせているのだろうか、と想像すると、ミックスする作業も魔術のようなものだと思える。
元曲に非常に単純なミックスしか加えないでつまらん加工品になる人もたくさんいて「いじる意味があるのか?」と思うこともあったのだが、複雑なものを聴くと、音の編集作業の大事さを思い知る。



自分の好きな音の組み合わせのツボを心得てきたので、最近選ぶ音楽はほぼ当たり。
飽きずにずっと聴き続けられそう。









5月某日


music1  制作中音楽 (ラテン・アフリカ)
music3  制作中音楽 (東欧・中欧・中東)
music4  制作中音楽 (ラテン・アフリカ)

music5  制作中音楽 (ラテン・アフリカ)

music6  制作中音楽 (ラテン・アフリカ)

music7  制作中音楽 (ラテン・アフリカ)

music8  制作中音楽 (ラテン・アフリカ)

music11  制作中音楽 (ラテン)

music12  制作中音楽 (ラテン・アフリカ)

music13 制作中音楽 (夜)

music15  制作中音楽 (ラテン・アフリカ)

music16 制作中音楽(アフリカ)


5月某日


Hypnotic Brass Ensemble
「Book of Sound」 2017



食べたことのない南のフルーツの外皮みたいな、この美しいピンクのジャケットに惹かれたということ。
「Book of Sound」というアルバムタイトルが魅力的だったこと。
8人全員がホーンを担当する、独特の厚みを持ったアフリカサウンドであるということ。
そしてその8人が腹違いを含め全員兄弟でサン・ラーのトランペットの人の息子だということ、実はその兄弟は他に2−30人いるらしいという情報.....(本当か....)



どの要素に惹かれてまず興味を持ったのか忘れた。
しかしとにかく、そういう最初の興味の諸条件を軽々と超えて、衝撃的にスバラシイ音楽の内容。特大の親指いいねを突き出しながらダウンロードボタンを押したのだった。



極限までドラマチックな展開を抑制した和音が、様々な織り込まれ方で帯のように連なっていく。絶妙に苦味のある不協和音は、大海に沈む夕日を見送る儀式の音楽のような荘重さで水平に水平に響き渡る。寄せては返す波の繰り返し。
重い声のコーラス、男たちの黒い足が棺を運ぶ葬送のイメージも脳裏に浮かぶ。



管楽器の音の緊張感というのは、使い方によってこのように幽玄な表現に結びつくのだ。若い頃は管楽器の魅力がわからなかったが、最近はブラスの入った音楽によく手が伸びる。



大変渋い音楽だが、同時に枯れてゆく大輪の花みたいな鮮やかさもある。名盤だと思う。
体温調節が効かずひたすら体に熱がこもって、だるい夕暮れ。
色々な憂鬱を音の海に流す気持ちで聴く。







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The Souljazz Orchestra
「Innar Fire」 2014



The Souljazz Orchestraはカナダのアフロ・ジャズ・ファンクグループ。
2006年の「Freedom No Go Die 」を持っていたが名前まで意識して覚えておらず、その時は聴きやすく精製されたファンクバンドというイメージで、格好いいから持っているものの、聴き込んだりすることはなく年月が過ぎていた。



最近になって、この人たちが実力派として今でも旺盛にアルバムの枚数を重ねていることを知り、いろいろ視聴してみた。
アルバムごとに巧妙にアフロ要素・ラテン要素・ディスコ要素などカラーを変えて飽きさせない展開をしている。1960〜70年代のプロパガンダポスターのようなデザインのジャケットも一つ一つ魅力的。



中でも赤い火の鳥でカッコ良い(なんか他に言い方ないのかね)この「Innar Fire」が、本当にジャケと全く合うドスの効いた哀愁メロディに満ちていて、「ウーッ、これだ!」の拳を固めさせる一枚だった。



二曲めの「Kingdom Come」を初めて聴いて、もしこの曲について「メンバーが日本に滞在した折に年末の紅白歌合戦での北島三郎の『まつり』を聞いて衝撃を受け、日本のソウルミュージックであるエンカへの挑戦として作った曲」と解説があったなら、...まあそんな解説はないのだが....とにかく私は完璧にそう信じ込むだろう。
というくらい、ど演歌である。その中でも漁師歌である。大漁節。
この重くもリズミカルなドンドコビートに、メロディをつけて北島三郎の声を乗せてみたくてしょうがない。
ムラトゥ・アスタケを思い出すとかなり演歌と近しいので、この曲はエチオピアとかその辺の音楽に影響を受けているのだろうか。



全曲を通して聴くと、ジャズ的でもありラテン的でもある。一概にどこのなにと言えない、広範囲の国々に分布する黒人音楽の諸要素をうまく消化し、目指すかっこよさに向かって迷いなく音楽を作っているのだと感じる。シャッフルして様々な音楽をランダムにかけている時、「あれ、いい曲だな」と思うとSouljazz Orchestraだったりする。いい曲多いんだ。
近作は打って変わってディスコ調なのでそれは手に入れるかどうかわからないが、旧作の他のものもいいので、少しずつ集めたいと思っている。








by meo-flowerless | 2020-05-04 18:55 |