画家 齋藤芽生の日記


by meo-flowerless

外部リンク

カテゴリ

全体
絵と言葉



匂いと味



映画
日記
告知
思考
未分類

最新の記事

2024年3月の日記
at 2024-03-04 01:47
変奏曲の魔力、からの解放
at 2024-02-28 22:09
2024年2月の日記
at 2024-02-03 14:46
2024年1月の日記
at 2024-01-13 15:12
珠洲 2017
at 2024-01-13 15:11
2023年12月の日記
at 2023-12-16 10:31
2023年11月の日記
at 2023-11-10 06:59
2023年10月の日記
at 2023-10-07 02:03
2023年9月の日記
at 2023-09-23 01:30
2023年8月の日記
at 2023-08-05 03:09

ブログパーツ

以前の記事

2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
more...

画像一覧

間つなぎ視聴覚世界


間つなぎ視聴覚世界_e0066861_13382027.jpg


非常時下だが、主要なニュースはラジオかネットで得ている。
なぜなら、うちにはテレビが無いからである。
10年くらい前に壊れて以来、買っていない。夫婦共々あまりテレビが好きではないので、それでいいとは思っている。



必要とは思っていないが、最近深夜になると、ふとテレビの青い光の存在を思い出すことがある。
十代二十代の頃、実家であれ独居のアパートであれ、深夜だけは不思議とテレビをつけていた。
生活時間に放映されるテレビでは、テレビ局や芸能人の世界とだけ家が繋がっている感覚がばかばかしかった。しかし、暗い部屋で音を消し青い光だけを発散している画面をぼんやり眺めている、というのはそれと別で、この世のどこにもないエアポケットの時空と繋がっているような気分がするのだった。CMも少ないからか、通常のテレビ受信感がない。突如明け方に延々と続く健康関係通販のダサい映像が流れたりするのも、奇妙なテレビジャック感があった。



うちにテレビはなくとも、海外出張や国内旅行の宿で、深夜の無意味な映像を眺めることは多い。
海外だと、素人の音楽オーディション放映が多いように思う。音を消して過剰な表情の出演者だけ見ていると、不思議な気分になる。そういえば夕方ではあったが、フィンランドのテレビに延々と映っている馬の記号表と退屈そうな女(やる気がなくて、よそ見したり咳き込んだりする)だけ流している時間帯があって、それもなかなか味があった。
日本の地方都市では、その街のどこかに設置されている「ライブカメラ映像」を何となく見つめてみたりする。ほとんど画像が荒く、街の光が朧に見えるだけなのだが。



この非常事態に思い出すのは、深夜に定期的に挟まれる臨時ニュースの間に流れる「間つなぎ」の映像たちだ。
台風の時などは夜更かしして、「間つなぎ映像」を寝床から無意味に眺める習慣があった。NHKだと、放送終了映像の国旗はためき、しばらく画面もツーと消え、カラーテストの帯が映し出され(その頃には一時眠っている)、明け方の3時半とか4時ごろに急にパッと風景映像に切り替わったりするのだ。ブラウン管のテレビの波長に敏感だったのか、その画面の切り替わる音波の感じで、ふっと目覚めることがあった。



他に使える再放送映像が無いのか。大自然の映像かなにかが呑気に映し出される。そしてイージーリスニングの音楽が、ふんわりとそれに添えられる。その音は消さないで、低く流しておく。
この暗い部屋の青い四角の中にある、まばゆい世界の光。一体どこの時空にあるのだろう。あまりに隔絶されているような、しかし遠くで異世界を覗いているような。宇宙船にこもって漂流しているような感覚が好きだった。



花に飾られたドイツの窓辺&やたら明るいポルカだとか、竹の子族が原宿でフラフープをする映像&80年代ヒット曲「キッスは目にして」だとか、アメリカの巨大タイヤ特別車両ショー&カントリー系ロックだとか。
「今その世界観は必要ないだろう」と思われる視聴覚世界が、心ざわめく不安な夜に逆に不思議な静寂の一滴を与えるのだった。



けれど次第にこの「間つなぎ」視聴覚世界を、見たくない気持になってきた。
決定的だったのはあるトンネル崩落事故だ。中にまだ車がいるのに救助が難航している事態があったが、そのトンネルの入口の明け方の映像を延々と写しながら美しいクラシック音楽が流れていた。黙ってテレビを消した。
感覚が麻痺していくとはこういうことだ、と流石に思った。
その後、世界では相次ぐテロの惨禍。日本では、大災害の後も常に季節の災害に打撃を受け続けるような時代になってしまった。
自分はテレビ自体に最低限しか触れなくなって、最近の深夜の緊急ニュースの合間にあの「間つなぎ映像」が放映されているのかどうかは知らない。



今思い返すと、自分があの「間つなぎ視聴覚世界」に触れていたのはバブルの終焉前後だ。世界のシリアスな情勢も危機も、遠い世界にあるかのように思えていたのは、年齢的なものだろうか。それとも、前時代の栄光からまだ醒めきりはしなかった時代の雰囲気なのだろうか。
幼年期から思春期までがちょうどバブルだった自分にとっては、なおさらその終焉頃だけが、氷柱花のように鮮やかに閉じ込められて、今の自分の人生と分離している気がする。
昭和は何もかもが平和で鮮やかだったなどとは、とても懐古する気もしなくなっている。今回のコロナ禍で特にそうなったかもしれない。



が、あのテレビの「間つなぎ視聴覚世界」の嵐の前の不穏のマイクロ多幸感と孤独な浮遊感覚は、情報漬けネット時代の陰湿な泥沼にはなかった、遠い儚さがあった。
あの時空に関しては、今後の作品の中に登場させたいという気持ちがある。



by meo-flowerless | 2020-04-29 13:19