画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2019年4月の日記



2019年4月の日記





4月某日



束の間、父の介護から解放された母を、何処かに連れ出したい。
最近訪ねたいくつかの里山に行こうとしたが、あいにく気温が低いし雨も降りそうだ。母の提案で、市内の「都立小宮公園」に行くことにした。


大きい公園だと、地図をみて理解していた。桜の下で人々がピクニックに興じたり子供が走り回ったりしている「通常の広い公園」のイメージを持って訪れた。
しかし全く、良い意味で予想を裏切られた。広大な林、ただそれのみの公園である。
自動販売機だの屑篭だの噴水だの、余計なものは一切ない。原生の雑木林を、そのまま見せる形だ。
ブナやコナラの梢は、一望出来ないほど高い場所にある。谷間には簡素な木道が巡っている。思わず、長野かどこかの高原にいると錯覚してしまう。そしてこんな広大な敷地でありながら、不思議なくらい人間がいない。



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静けさのなか、鳥の声に耳をすます。
鷹やキジの声が林広く響き渡るが、熊笹の茂みのどこにいるかは見当がつかない。記憶の古層から叫んでくるように物悲しい。
片や、ウグイスはすぐ間近で「谷渡り」の練習をする。どことなく息づかいまで感じ、友達の声のようである。
目視できたのは、木を穿つコゲラ、エナガ、シジュウカラ、アオジ、ヒヨ等。
木道の下から不意に飛び立った、重たげな赤茶の鳥。これは後で調べると、どうやらアカハラらしかった。


今はまだ葉がないので寒々とした林だが、青葉の季節、盛夏、紅葉の時分など、それぞれ素晴らしいのではないか。山林の土着性強い暗さとは違う、人の営みから遠く在る感じの神秘的な林だった。
外郭には芝生や菜の花畑も人口的に配置されてはいる。遊具も少しありはするが、俗っぽい作りではない。
木だけのことを考えているような、魅力的な公園だった。

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木々とたくさんの鳥。菜の花畑にツグミ。母は「出会いたいものに出会えた」と言い、満足そうにしていた。
帰りは夫も含め3人で、駅の雑居ビルのさなかにある昭和臭い談話室でしばらく茶をし、夕には実家で母の手料理を食べた。





4月某日


「美しい花」と言ってまず連想するのは、桜でも薔薇でもない。
例えば赤いチューリップの開ききったやつ。褪せて薄水色や肌色になった造花。崩れたりしおれたりした人工的な花のほうが、「美しい花」の在りようとして浮かんでくる。



頻繁に思い出しもしないのだが、意識の底にある「美しい花」がもう一つ。
「折紙で折ったユリの花」である。
寂れた町の食堂のサンプルケースやテレビの上、折紙の薬玉と一緒に飾ってあったりするやつだ。実は私自身は、今もユリの折り方を知らない。幼い頃から、自分ではない他人が折るから、憧れていたのである。



堅い感じの、紙らしさしかない、四弁くらいしかない、爪でしごいた痕が律儀にキキッと残っているようなユリ。広告チラシかなにかで折ったのが色褪せていたりすると、特にジンと来る。百合と漢字で書かないのは、その漢字の湛える香気や気高さからはほど遠いからだ。
自分は多分、客観的に美的であるかどうか、にはさほど興味は無いのだろう。いじらしいような「ものの感情」を感じた時に、美しいと思う。



:::


先日、郊外の山林付近を探検していて辿り着いた場所を思い返している。
竹藪に囲まれた舞台のような草むらの真ん中に、一本の棕櫚がただまっすぐ立っている風景。
見た瞬間の、ショック効果音のような脳内反響が忘れられない。不協和音の管楽器がフォーン!と一音鳴り響く感じである。
曖昧な夕闇のなか迫り来る、おそらく様々な人間の事情を吸い取りながらずっと在り続けているものの悲哀。



とにかくあの初見の、瞬間的にはりつめた時空のインパクトが強かった。
あのように「凍りつく一瞬」が、自分にとっての「絵」の究極の憧れなのではないか。



余韻が残る道程とは、近場への散策でも遠い旅であっても、まずは、すれちがう人にあまり出会わない道程であったほうがいい。
人のかわりに「空間や物体が意志を持って、無言で何かを問うているような瞬間」に多く出会うのである。言語に翻訳出来ないような謎めいた設問感覚のある、そういう場所を通る。何かしらの手がかりを探したくなることがかえって、次なる入れ子の時空に自分を進ませる。



「何となく気がかりな風景」のポイントを通過していく。みかけ上、別に異常があるわけではないが、一抹のSF感が匂うような気がするポイントである(かすかに一抹、でなければならない)。
切通しの上にあるらしい何かの家畜小屋の臭気。しかし何の獣の気配も声もない。
街道沿いの狭く細長い空間にひしめき合うように集められた、車高の低い改造車ばかりの廃車捨場。
誰の気配もない女子大学のセミナーハウス。
思わぬ裏道から奥に続く落葉の山道、木々の隙からわずかに覗くコンクリートの遺構的水路。
静まり返った木々の丸太置場に、西日を浴びる深赤の大きな椿一本。
何か意味有りげに思え、しかし、なにもかもはっきりしなかった光景。



幻想とは、何の「サービス精神も遊戯性もなく」現れたり消えたりするもの、なのかもしれない。白いビニルのレインコート程度の化けの皮を剥げば、凡庸きわまりない日常があるだけ。そんな薄皮一枚、ビニル一枚化けの皮のたよりなく貧しい幻想感覚が、私にとって重要な幻想だろう。


:::


プルースト【失われた時を求めて】今になってようやく読み始めた。凄い。嵌まらないわけがなかった。
共感覚的なものに親近感を感じるならば深く没入出来て、案外早く読破出来るものなのかもしれない、などと思ったりする。





4月某日



夜のショッピングモール前のテラスで、少女が3人で何かの「ごっこ」をしている。口調がファンタジーに没入している。
うち2人はなぜか弁当屋の店員のように三角巾をキュッと頭に巻き、大き過ぎる角ばったサングラスをかけている。
「私の水色は駄目」「エメラルドグリーンはどう?」「エメラルドグリーンがあったわ。エメラルドグリーンならいいわ」
などと言っている。何ごっこをしていたんだろう。


:::


真夜中、コンビニに行こうと家を出た。
花冷えの夜気を縫って、どこからかポーンと、ハープの弦の一番低い音が聞こえた気がした。美しく物憂い女神の竪琴を一瞬思い浮かべ、興味を惹かれながら歩く。
すると、ハープと思っていたものにボン、ボン、ボンと連続性がつき、だんだんコントラバスを弾くジャズの低音部だと思えてくる。春の夜のジャズか、しかしこんな住宅街で珍しいなと思ってさらに歩く。
と、しまいに、それがカラオケスナックから響いてくる、男の低い低い歌声のエコーだと判明したのだった。ボワワワーン、ブボボーン、と、あまりにもマイクに口を近づけ過ぎて音響が増幅されているのだ。曲も演歌でジャズではない。
夢からだんだん覚めていく過程を、現実の音によって擬えているような数分間だった。




4月某日



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先日、謎の池のほとりの倒木からひと枝、夫が試しに持ち帰った。ひ弱な若葉が少しと小さな蕾だったが、窓際にさしておいたら3日で元気に咲き始めた。
何という種類の桜かはわからない。
挿し木について調べ、花が終わったら、植えてみるらしい。
そして、朝焼けが美しい日だ。



:::


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朝焼けの日はその後天気が崩れる、というが、夕焼けも美しい日だった。




4月某日


夢想家ではありたい。と同時に正気でありたい。その二つは矛盾しない。
この二つのことに関して常に自覚が更新されるような文章を探して読みたい。

:::


眠ることができず朝を迎えてしまい、睡眠が欲しいので困ってはいるのだが、桜の花瓶越しに開けた窓から桃色の朝焼が差し込み、若芽の萌え始めた裏山の影の方から、鶯と画眉鳥の乱れ啼きが響きわたってきて、寝床の脇では滋味のあるダークジャズが小さく流れていて、…些細なことだが、「健全にさせてくれるものたちは朝から晩までちゃんと自分を包んでくれている」と実感する。



短い春休み。制作や仕事を焦らず、じっくりと疲れを取ることに使った。
木々をただ見ること、鳥の声をただ聞くこと、外界の匂いを嗅いで歩くこと、田や畑をぼんやり眺めること、なんの目的なくスケッチすること、読了を気にせず色々な大量の本を次々に読み齧ってはうつらうつらすること、私という主語を忘れること、必要もなく人に会わないこと。
何かやっと枷が外れてきたような気がする。その枷とは虚栄心なのだろう。書けば馬鹿馬鹿しいように思える虚栄心、しかし実際この虚栄心から自由でいられることは、そう簡単ではないかもしれない。




4月某日



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休日。独り相模湖へ。今日はスケッチ三昧の日とした。
新作は湖のイメージ案が一つある。綿密に画面を構築するにはやはり写真を撮影し組み合わせなくてはいけないが、スケッチは間接的ながら空間設定の勘所に影響を及ぼす。
きょう最初二時間くらいは感覚が硬くがちがちであったが、10枚くらい描いて多少空間を掴めるようになってきた。



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湖面では大学対抗のレガッタ(というのだろうか?)の試合が繰り広げられている。
湖畔で絶叫の檄をとばすOBや部員の掛け声が、独特で鋭い。
それより遥か遠くの試合中の部員たちの漕ぐ声がさらに独特だ。しかしなんと言っているかはわからない。
彼らは、私のトロいスケッチ視界をあっと言う間によぎっていってしまう。
ので、画面に書き留められるのは、憂いを帯びてゆっくり進む遊覧スワン丸か、船着場のくじら丸だ。



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鄙びた乗船所と土産屋街。いつもは閑散とした相模湖も、流石に今日は人が多い。
黒い背広の煙草男が、モデルのようにいい位置でいい煙をくゆらせている。




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十年以上に渡りウォッチしてきた、湖付近のゲーム場廃墟。
ガラスや壁の崩壊は、かなり進行しているように見受けられる。
ロープに遮られ、遠くから見るのみだ。






4月某日


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都内西南部、ある歴史ある林道。
よく晴れていたが、なんとなく凄みのある場所。
例の如く先に歩いていく夫から遅れて20分ほど、一人のろのろとスケッチしながら行く。


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石段の上にある御堂の跡地が林道の終了。さらにその先を行くと急にポカッと下界に高速道路と街が広がる鳥瞰景。
眺めはいいのだが、手すり一つしかない、草木も周りに無い非人間的な階段を見て、高所恐怖症のせいか気分が悪くなってくる。



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あとで林道付近自体が曰くつきの場所だ、と聞かされ、そういえば聴いたことがあるな、と調べてみる。
詳細は措くが、曰くを知ってしまい何とも言えない悲しみに襲われた。神妙に祈るような気持ちになる。夜、部屋で独り香を焚いて思いを馳せた。

:::


三つの都県が接するような、辺境といって差し支えない山林地の団地が、自分の故郷であった。
今まで団地という居住形態や建築についての思いは語ってきたが、場所自体の持つ境界感覚、「裏であり陰である」ような空気が、のちの自分の感受性に結構な影響を与えていることを今更感じる。



数日、似たような土地を歩いてばかりいた。雰囲気の薄暗さになんとなくあてられてしまったせいか、単純に風邪のせいか、最近は身体が重く気怠かった。
それでいて、子供の頃の率直な感受性に再び戻っているような最近でもある。
薄暗い空気感をすぐ付近に感じつつ折り合いをつけ、うっすらした邪気と共存するような感覚は、今よりも幼い頃の私の方があった。
世の日陰を明瞭に見つめること。ひとが忘却するものを心の内で忘れないこと。喪失したものから見えない透明な糸をたぐり寄せること。その上で自分の生に感謝の念を噛み締めること。
日本の多くの土地を旅して来たが、むしろ自分のよく知る土地にて再び、視線の原点を再確認しはじめている。


:::


遥か昔の人々は、あれらの山地をトボトボと山越えしていたのだが、その道には裏街道のようなものもあったろう。
狼、熊、難所、追い剥ぎ、魔物の噂の数々。
夫が【日本昔ばなし】の古い映像をネットでしきりにみているのを横から覗き込み、最近歩いた数多の道が脳裏に思い出され、民話の暗さとともに再結晶されるのを感じる。



【日本昔ばなし】は幼時にかなり観てはいたが、好きだったかと言われれば、決して好きではなかったと思う。怖い話のの怖さが子供騙しの感じではなかったし、哀しい話の哀しさはさらに輪をかけてトラウマになったものだ。
しかしかつては、その「民話」のトラウマのようなものこそが、それを伝え聞く子供の世界観に陰影と立体感を形作らせる切っ掛けとなって来たのではないかとも思う。「民話」の身体化には、現代っ子の冷やかし的「オカルト」への接近とは全く別の、地に足の着いた強度を感じる。


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様々な理由で打捨てられ、いわゆる忌み地になっている場所というのは在る。しかし、忌まれる事柄の隙間にかならずあったはずの平穏な時間、ことによると栄華の時期、普通の幸でも不幸でもない日々、を、想ってみたいのである。


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先日訪れた場所での感覚。そこで没した他者の人生について。
平板で陰惨な「事実の伝聞」だけでは浮かび上がりようのない、日々の細やかな光と影がその人の人生にも存在したはずだと実感したこと。そういう生の事実は石碑だの伝説だのの形骸によって忘れさられる運命にあること。
【夢幻能】であらわされているのはこういう感覚体験なのではないかと、ふと。




4月某日


気候か年齢か、はたまた何かの病気が悪化しているのか…
ここ数日の体の疼痛と怠さはひどい。熱はないようだがとにかく関節が軋むように痛んで、頭もぼうっとする。夜眠っていても痛みで起きてしまうこともある。あまり飲みたくはないが鎮痛剤を飲んでやっと明け方眠れた。
股関節の症状は特に悪く、長歩きが今日はできなさそうなので出校を諦める。



昼、公園のぶら下がり器で恐る恐る柔軟をし、少し改善。
川原に寄り、八重桜の咲き誇るのと鯉流しを見てから帰る。
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今日、惹かれた場所。

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4月27日


連休始まる。
スケッチなどには夢中だが、本作の進行は絶不調。案はもうできているので精神的な問題である。心に火か涙かの何れもが足りない。
何が足りないんだろう、どうすればこの憂鬱を脱するのかと休日初日に考え、単純明解なな結果に到った。そう…しばらく、わたくしは、歌を忘れていたのである。
近所のカラオケで二時間ほど絶唱する。ほぼすべてブルース歌謡か演歌を。何年ぶりかに【港町ブルース】を歌い、感慨にふけり涙ぐむ。
港函館…には行っていないが苫小牧、釜石、気仙沼、三崎、焼津、高知、高松、別府、長崎、枕崎…行ったことのある海ばかりが出てくるので、一つ一つ光景を思い出して味わう。(焼津は五年生の時のツナピコ工場だが)
太平洋側ばかりだな?と気づき【能登半島】を絶唱しウルウル。【柳ヶ瀬ブルース】はこの間行った、カラオケ画面の中の華やかなネオンは最早消えかかって弱々しく点滅していたっけ、と思い、さらに涙のハナをすする。



少し自分を取り戻してきた。馬鹿みたいだが、本当、実は大事なことなのだ。
歌がなかったら生きてはいない、というくらい孤独な心境の時が多くあったからな。


:::


帰って絵の資料のために過去の写真何千枚を流し見る。
全て見ようとすると何千枚じゃ済まないか…写真も随分撮っている。
そしてまたジンとくる。「思い出してはまた涙、夢は夜ひらく」である。
特に屋島、小豆島あたりの写真の忘れていた素晴らしさに、身震いした。



数多の旅の中で、ここだけは再度訪れたいという海。
香川は小豆島、屋島。和歌山の和歌浦、鹿児島の指宿と山川、母の住んでいた福岡西戸崎、三宅島、宮城の気仙沼と吉里吉里、北海道は野付半島。石川、能登半島の先端珠洲。とりあえず数日後は学生を連れ近場、三浦半島へ行く。


:::

夏の香水は、海を感じるものにしたいという、かねてからの夢。
しかし私は人工的なマリンノートの香料を嗅いでいると腹を下す体質のため、マリン系香水をほとんど所持したことがなかった。
イギリスはHEELEYの【セル・マラン(海の塩)】、イタリアIL PROFVMOの【ピオッジャ・サラータ(潮の雨)】の自然な磯臭、柔らかい潮の匂いの表現に出会い、やっと「身に纏う海」の夢がかなった。眉間にズンと重く感じたりすることのない、柔らかな潮の匂いを感じる。休日に楽しみたい。




4月28日



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川沿いを下った所に、まあ何ということもない小さな公園があり一つ二つ遊具も置いてあるのだが、とても見事な藤棚がある。
藤の花の香りはマメ花らしい青臭さがあるのだが、それに加え独特の葡萄のような甘い匂いも含んでいて、だんだん花房が美味しそうに見えてくる。
熊蜂が蜜を集めている。熊蜂はなんとなく単独で気ままに花蜜に潜って遊んでいるように見える。悠々ひとりで幸せそうだ。あれでも他の蜂のように蜂社会の組織に属する女戦士で、女王蜂のために労働中なのだろうか。


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買物に出かける実家の母と、夕暮いっしょに歩く。母は川原道を降りてスーパーの方へ路地を入っていったが、私は簡易椅子を置いて黄昏の道を描く。
道の端に桃色の縁取りのように、桜の花びらが吹き溜まっている。
20分、30分と時が経つにつれ、日は沈み、五月らしからぬつめたい風が吹き荒れる。
甘いオレンジに染まっていたはずの景色が微妙なブルーグレーに変わっている。
ふと頭をチョンと押されたので振り向くと買物帰りの母だった。少しの間側にいてくれる間に描きあげた。
いつか後で見たとしても「あ!川のあのあたりだ」と自分自身はよくわかるような絵になった。


:::


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数年前に滞在した香川の膨大な量の風景写真、夫の制作の記録写真など織り交ぜて、襖にプロジェクションしてみる夜。
部屋に流れる、佗しげなラジオ深夜便の歌謡曲が追憶を掻き立てる。
今はなき「孔雀園」の廃墟にじっと見入る。廃園の時空のこの無国籍さ。
私達が潜入した時には無人の食堂のテーブルに、誰かが食玩サンプルを持ち出して、さも今からカレーを食べるように置いていた。


孔雀をから飛ばせるショーがあったとかで、多くの孔雀がそのまま脱出を重ね廃園に追い込まれた。哀愁の歴史を持つ廃墟だった。こういう運命にある無数の捨てられた場所の記憶も、そして私という人間の生きた記憶も、どんな密度を持ってどんな大量の記録をしたところで、消えていくものなのだ。





4月29日



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付近の某公園の山へ。
季節の勢いというのは凄い。ここの所気温がこんなに低いにもかかわらず、もう原始的に生い茂り始め「森」の深みになりつつある。


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不穏な雲とぎらぎらした山稜、白金色の鈍い日差し。雨を連れてきそうな風。
しかし山並みを水彩で描くなんざ、私には百年くらい早いようだ。次回は鉛筆やコンテで丁寧に追いかけようと思った。
四月末によく、一足早く夏のように雷が鳴ったり通り雨があったりするのが好きだが、今年は肌寒いから、そこまではいかなさそうだ。



次は気に入りの森の横、墓の手前に簡易椅子を移して、また山稜を見て描く。
山の森を抜けたところにある静かな古い寺の墓地だが、そこのポッカリした眺望にいつも惹きつけられる。
中学校あたりにあるメタセコイアの大木も好きなのだ。しかしじっさいあの付近を歩く時にはメタセコイアなぞ意識して感じたことがないし、どこにあるか把握していない。
ここから見るのがいいのだ。



小2、3年生くらいの男の子たちが声をかけてくる。
「こんにちはー、何やっているんですか」と最初は敬語だ。絵を描いてんのよ、君たちは?と聞くと、
「うんあのねー、秘密基地を作っててね、そこに行く道をきれいに作ろうと思ってんの」と黄色い服の野球帽が言った。見るとお兄ちゃんらしき二人切った竹や杭などを抱えて持っている。
「楽しそうだね。基地は家みたいになってんの?」
「ううん、家ほどはいかなくてぇ、でも服を掛けたりしてぇ、遊んでたりする」



子供たちは茂みの奥に入っていってしきりに杭を打ったりしていた。
黄色い野球帽はこちらが気になるようで、もうできたかな…絵は描けたんかな…などとつぶやきながらちょくちょく来て後ろに立つ。
気がつくと左手に握りしめた水彩クレヨンが溶けて掌が真っ青に染まっていたので、絵も切り上げた。山稜の線も雲に混じってしまった。
子供らに「そっちも終わったの」と声をかけると、絵を見たがって寄って来た。「早!絵できるのハヤっ!」と言っていた。またここに来て遊ぶの?と聞くと、最後はまた敬語になって「はい」と丁寧に言って別れた。

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昔から思うのだが、私のスケッチやクロッキーや水彩は、なんかドシャドシャしている。ゴソゴソしている。「澄んだ、淡い、儚げ」な水彩は描けない。端正な針金細工みたいな線のスケッチも無理だ。しかしまあ、描き方なんか覚えない方がよいな。記憶に刻まれるようなやり取りをしたいだけだ。












































by meo-flowerless | 2019-04-02 11:44 | 日記