画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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四十路【今さら】スケッチ道①


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スケッチをあまりしない人生を、画家としては見直さなくてはいけない。
私は、言葉によってイメージをメモする半生を送ってきてしまったのである。
言葉のイメージ自体に後悔はなくとも、最近色々と、人生やり直しの反省点に立ち竦んでいるのである。
何にでも、地道な迂路を考えたり、滋味が出るまでゆっくり噛みしだくようにならなくては、空虚な余生しかないのではないか。
とにかくじっくりと、じわじわと実感して生きていきたいのだ。感受性の癇癪玉を自分にぎっしり充填していきたいのである。


まあ、そういう思いが最近強いので、夫を誘ってスケッチ散歩に出る。
夫がいい場所を思い出してくれた。家の前のバス停から不意にバスに乗って終点の街まで気まぐれに行ったことがあるが、その時に偶然出会った風景である。



家からバスで20分強。
......







郊外の団地街を越えたところに突然広がる、鄙びた田園地帯に降りたつ。
もうここは他県である。山林と湖の集まった地域だ。
山を背後に、黄色く芽吹く田畑、野道、屋敷森に囲まれた農家、咲き乱れる梅の木々、紫の野焼きの煙の光景が広がる。
曲がりくねった小川に沿って素直に、くねくねと野道は続く。



その中途にはいくつも、様々に色褪せたボロベンチが置かれている。企業のロゴや商品名の色褪せた、商店の店先にあるような奴もあれば、どこかの家庭から持ち出した簡素な家具のようなやつもある。
此の世の「忘れ去られた幸福」の凝縮体のようなボロベンチだ。
静寂のなか、遠くチェーンソーの音だけが聞こえている。これも此の世の「すべての老境の含蓄」を増幅させたような音である。まあ少しオーバー気味に言ってはいるが。
金の霞に飽和しきれずこぼれていくような陽光。眩しいが肌寒い。梅の香が混じりけもなく生真面目に鼻に飛び込んでくる。


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野焼きの煙をまず描こうと思い、用水路の脇に座り込む。
とにかく我ながら呆れるほどものの見方が固くて、むきになる。
描く端から「ださいな」とか、「説明的だ」とか、「おーお何と当てずっぽうな事よ」と思ってしまって、気が散る。
自分を見返る暇があるということは、まだ全く描ける姿勢になってないということなのである。
結局、あとで記憶の色彩を足し、即興性よりはイメージ換起的な絵に変えていった。
あとで付け足すことを邪道などと思わずそういう作業をした方が、むしろ一心不乱になり自分にとっては有効な絵になることもあるのである。



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小川が曲がるところの、梅の木のある農地が大変気にいる。
Y字の印象的な枝振の木。
丸カーブ90度に立て込められた低い石塀。エメラルド色の水草の合間に、煌めきながら僅かにのぞく水流。
絵心を動かされるという意味では、完璧な場所だ。
しかししかし、情けないことにまた、一生懸命鉛筆で描いたはみたのだがどうにも下手で捉えきれない。
しばらく別の場所をふらつき、また戻って来た時に同じ場所を五分ほどでペン描きし、あとで色を思い出して描き足した。そちらの方が好きな絵になった。


描いている途中、うねった河道や農道を、散歩や農作業後の老人が、時折通り過ぎた。
静かなので聞こえるのだが、老人たちは、何か独言を言ったり歌ったりしている人が多い。
白金色の花粉の靄の中、「ぎゃーてーぎゃーてー」と般若心経を唱えながら、山に向かって去ってゆく人もいた。妙にその文句が瞑想的に心に残り続けた。



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最後、もうだいぶ日が傾いてからボロベンチに腰かけて描いた線描が、今日の中では、まあまあ現場での定着度が強かった。
なんでもない他人の住む農家が、何だか自分の親戚の家のように思われて来る。
田に響き渡る近所の老人たちの「ヨシオのところに行ったか」「あいつこのごろ....」などという声が耳に入ると、知らない良雄だか義男の顔が、従兄のように浮かんできそうである。
片手でコンビニのチキンを持ってほおばりながら、適当に描く。これくらいの距離感の方が、寸法をスッと捕えられる時もある。何でもないものは、何でもないように描けるのが一番である。それを目指していこうと思った。



不穏な曇天から漏れる白い陽光も、繊毛のような雑木林のラインも、桃源郷の静けさの底にあるような家並も、全て絵に描きたい。しかし、そんな多声的な豊穣な世界は、とうてい自分のスケッチ力では捉えられない。
描くためにまず苦労することは、言葉を消すことである。どうしても言葉で情報を捉えて考えてから描こうとしてしまう。しかしそれでは非常に嘘を感じる描線になる。



スケッチは何のためにするのか、ということを毎回考える。
私自身の最終的に描きたいものを描くためには、スケッチの情報量だけでは、準備がおぼつかない。
しかもスケッチの名手でも何でもないので、再現性がほとんど無い。
ただ、風景に直に向かうと、それだけで「これか....スケッチの意味は」と納得させられる何かがあるのだ。
手だけでは無く、目だけではなく、身体がもうその空間になるような感覚まで行かなければ、到底追いつかないほどのことをしているのである。いわば、世界の複雑さと身体の複雑さが切り結ばれる無数の地点を、確認する作業だ。
自らの身体を変容させる柔軟さ、敏感さを身につけるためにするのだ、と毎回自分に言い聞かせる。



描き慣れてスケッチ上手風になってしまっても駄目であり、描き慣れずいつまでも力技で状況説明をするのでは全く駄目であり、さらっと格好よくというのも私にとっては身にそぐわぬ「嘘」である。
自分の絵だなと思える何かがにじみ出て来るのに、じつは作為性も時間数も関係がない気がする。
自分の後の仕事や人生に有効な再現性はどこで捕えるのか、何を留めればいいのか。そういうことを、頭では無く身体の勘で判断していかなくてはいけないのだろう。
これは紙面上の像だけの絵では無く、身体のプロセスとうまく絡ませて記憶させる絵なのだ。



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今日は行かなかったが、集落が途切れた先は、S山への遊歩道や湖を周遊する長い山の道に続いていくようだ。
道端にはスミレが咲いている。山路きてなにやらゆかし、という感じそのものだ。
ゆかしいばかりの田園景だけではなく、個人でやっている瓦礫廃物の解体屋の荒涼とした仕事場や、何かを中断しただらしない工事現場跡地のような場所が、梅の花園に入り混じって出現するところが、なかなか面白い。
また描きに来たい、と思った。



by meo-flowerless | 2019-03-17 23:06 | 絵と言葉