画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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メモ・憑依力のある言葉 ② 〜安永蕗子【魚愁】

安永蕗子全歌集(河出書房新社)を枕元に置いている。
最近、メモとして彼女の歌の憑依力について書いた。
ただし、二年前の北陸への旅に抜粋の歌集を持参して、風景の中で読んだからこそ、その憑依力を感じた部分も大きいかもしれない。


そこで、改めて歌に向き合う。憑依力についての話はいまは措く。
歌一首の意味や彼女の人生について解釈など出来はしないので、とにかく琴線に触れるものを何度も読む。
まだ膨大な歌のすべてなど読みきれはしないが、私が惹かれる歌の多くはは処女歌集【魚愁】なかのものだ。安永蕗子が42歳の時に満を持して世に出した歌集だ。



歳を追うごとの円熟や滋味がその後の歌集には現れてくるようだが、やはり処女歌集の抉るような悲哀、抑制の内に感じる絶唱感は、特別なものを感じる。
肺病を持っていたため縁遠く、独り身を貫いた。この処女歌集の頃は特別、その孤独の境遇の暗さを溜息のようにダイレクトにうたう「細い声のブルース感」があるように思う。



ただ、同じ歌集の中でも、Ⅰ.孤独の室内で自我を見つめる懊悩から、Ⅱ.外界に身を運び風景に紛れて無我を知り、Ⅲ.やがて風景を自分の魂のうちに取り込み、自我無我の一体感を歌の身体として屹立させる......ような歌いぶりの違いが見て取れる。
歌を詠んで歌集【魚愁】を編むまでの彼女の、対象、言葉との距離を、しばらく読み返し読み返しして、掴んで行こうと思った。






Ⅰ懊悩 (己を見つめて嘆く)

風塵の激しき町に棲みわびて内なる声の熄むときもなし
ひとり棲む家の未明にめざめゆき心放ちて嘆くことあり
ゆるされぬ悲しみなれど伏してをる今のとき自在の風も侵すな


Ⅰ−b  (懊悩を景のうちに対象化する)

耐へ居ればながき凝視のなかにして雪の表を炎えてゆく風
吾が生きむ限りの視野と思ふとき紅藻が繊し水の中より
失楽の日々とはいはねど陽のなかの階くだるとき折るる吾が影


Ⅱ忘我 (景に紛れ景をうたう)

対岸に組まるる石の限りなく声なきものに茜は激し
平明に海ある視野に傾きて浮標が人に告げいる朱さ
雨濺ぐ海の面の濁りさへ一途なる色もちて拡がる
形骸の白としいへど北に行く雲の帰投は舟より迅し


Ⅲ一体化 (己のうちに景をとりこむ)

淡からぬ心おのれにたしかむる潮の帰趨をかく測りつつ
熄む間なき放浪砂丘いづかたにうねりゆくとも終の雌伏ぞ
町なかの橋ひとり来てわたるとき夜の底ふかく吾にありつつ
色感のなき夜に想ふ湖の心炎もゆるときの深霧
風象のごときを常にたたしめて夥し我れが短き生



私が一番魅力を感じるのはやはりⅢのグループである(勝手に分けたのだが)。
閉じていた自己の殻を破って外界の他者 - 風景と遭い、その他者との無言の間合いを【距離】として自己の内側に憶える。
そして全ての対象との距離と引力のなかに、シンプルな知覚としての自己が独立する。
飄然として厳しい姿勢。骨の確立感としてこちらの身に迫ってくる感じである。
それでいて、女性であることの官能がふと残像の色のように纏い付く。
後年になればなるほどもっと対象への距離感が安定し、飄々感が増してゆき、「痛みとしての色感」のようなものは登場しなくなるように思う。
 


:::



【魚愁】 のあとがきの本人の文章が、何よりも本人の精神を言い表していると感じるので、書き写す。


「感情が灼熱したとき、表現はいたく抽象的な形を求めるものである。抽象の過程が徐々に冷却して定型のなかに凝結するとき、それが光焔であったときとはいくらか異なるが、ひとつのユマニテを持つ作品となる。火焔から冷却までの過程は極地的なことであり、つかの間の時間の変化であったりしたが、究極は抽象という一語につきた仕事であった。
それは具象に対する抽象ではない。抽象の対極に具象をおくといった間柄の抽象ではなく、そうした既成の抽象具象の位置づけを抹殺したあとで、抽象とは夥しい省略の結果としてなりたつ統一の仕事だということだ。抽象とは狂的な曲線模様からなる不可解な画面ではない。五百余首の作品の背後には夥しい省略の山が在る。日常的な生活の現象もそのなかに在る。社会的な現象も、対人的な感情の声や愛恋の声もその中に在る。それら背後の山積のなかから抽出されたものが五百余首の歌になった。三十一音という定型はその短さの故にことのほか抽象を要求した。それだけ真実に近付くことも熾烈であることを確信した。......」


自分の心の教本にしたい文章である。




by meo-flowerless | 2019-03-03 00:10