画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


by meo-flowerless

プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る

外部リンク

カテゴリ

全体
絵と言葉



匂いと味



映画
日記
告知
思考
未分類

最新の記事

2019年6月の日記
at 2019-06-04 00:20
2019年5月の日記
at 2019-05-02 00:45
岐阜日記
at 2019-04-16 03:35
2019年4月の日記
at 2019-04-02 11:44
四十路【今さら】スケッチ道②
at 2019-03-31 22:04
四十路【今さら】スケッチ道①
at 2019-03-17 23:06
2019年3月の日記
at 2019-03-05 12:17
メモ・憑依力のある言葉 ② ..
at 2019-03-03 00:10
メモ・憑依力のある言葉 ①
at 2019-03-02 12:31
タイの田んぼのルークトゥン
at 2019-02-26 05:50

ブログパーツ

以前の記事

2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
more...

画像一覧

メモ・憑依力のある言葉 ①



憑依力のある言葉、ということについてたまに考える。
自分の表現のどこにどう役に立つのかはさておき、おそらくは自分がこれからずっと惹かれ続ける問題だろう。
そういうものに触れるたびに、小さなことでも思ったことをを書き残していこうと思う。



私が探す「憑依力のある言葉」とは、あくまで個人の表現における内的なものであり、世界に対する主張や煽動などとは別のところにあるものだ。まして承認欲求の横溢や自尊心の罷り通りに満ちているいまの混沌とは、一線を置いて探したい。
言葉との格闘と本人の人生とが、じわじわと見えないところで絡み合い、なにかの律を発している…というようなことを、自分の表現のために考えてみたい。


::::


近年、惹かれて読みはじめた昭和の歌人・安永蕗子の短歌。短歌の技術や歴史には詳しくないので、あくまで印象まで。






同じように惹かれる歌人・葛原妙子と比べて思ったのだが、安永蕗子の歌集を読んでいると急にフッと彼女の自我と自分がシンクロするような気になるときがある。ある意味、憑依的なのである。


「憑依的」「霊的」な光景が似合うのは、どちらかといえば葛原妙子である。おそらく彼女は色んな気配を察知しやすく、異界性を負うような感受性に満ちた人なのだろう。歌じたいもまるで呪文や予言のような暗示力を感じる。
しかし、私がふと葛原妙子自身の「私」に成り替わるような、例えば内部の空虚や心情まで感じる気になるかというと、そういう気はしない。彼女はあくまで個性的な別の他者であり、私とは違う人間である。



安永蕗子の歌は、葛原妙子のように気配の喚起に寄るあまり五七のリズムを崩したりするようなことはない。他の歌人のように現代口語で実験的に詠み同時代性に彩られる、などと言うこともない。
短歌らしい響きを持ち、格調高く、現代の風景を描きながらも日本語本来の構造と技巧を重んじている(多分)。
しかしそれだけではない。そういう彼女のうまさ、以上の何かを感じるのだ。人間性なのか、なんなのか。



彼女の体の歯切れが、私の体の振動のように思える瞬間がある。「彼女として」私は今まさに波打ち際に立ち、風に吹かれている。葛原妙子が無意識をまなざすなら、安永蕗子は意識を見つめるひとである。前者が肉の溶出なら後者は骨への収斂というイメージがある。
歌に想いは具体的に書いてはいないが。私は「彼女として」その思いを無言で経験している。厳しくて苦いような、黙って微笑したくなるような、言語化は出来ないような微妙な感情が、ふとよぎるのである。



それは私の過去の体験とシンクロするからなのだろうか。いや、必ずしもそうではない。
これまで見たこともないような日本海の野性に初めて触れ、晩夏の珠洲の浜辺で風に吹かれて立ったとき、安永蕗子のある歌が自分の声のようにポツッと浮かんで来た。歌われていたものを先に実感として知っており、経験の方が後に来たのである。



  風波のほか何もなき海に来て心ひとつの塊ぞ濃き



短歌の技術については全く知らないので、この歌が専門的にどう評価されるかなどは解らない。
けれど或る風景を目の前にしたその時の自分には、何かこれ以上、細分化された解釈の不可能な、他の要素に還元不可能な表現はないように感じられた。
場所と身体。迫り来る映像と放たれる響き。絶唱と絶句。風景の虚無と人間の孤独......何の組み合わせでもいい。不思議なのは、コントラストとして歌われているものが何故か渾然として、シンプルな「一体」として感じられることだ。剥き出しの骨一つを感じる。もっと言えばこの身がその骨として、浜風に晒されながら海に対している気がする。




これははたして短歌術で弄りイメージや語感を切り詰めたりするだけで出来る類の歌なのか。
彼女の歌の抑制感は彼女の人生観からも来ているだろうし、みぞおちに匕首ひとつで命をしとめるような強さ、は、歌の瞬間以外の鬱積の重さに等しいだろう。
何かが均衡を保つとき、拮抗するときというのは、同時に何かが一体化するときでもある。私が感じたのは、怒涛的な孤独に対峙して抗っていた精神が、ふと無の境地に変わってその孤独を受け入れてみようとするときの、身体の解放感みたいなものかもしれない。



珠洲の海辺でこの歌を思い出した瞬間、と言うのは自分にとって暗示的な転機だったかもしれない、と思う。まだそれが自分をどう変えていくのか、は解らない。
あのときはっきり思ったのは、この体験を私は自分の絵の技術で翻訳するように描いたりは出来ないだろう、ということだ。
言語表現にも絵画表現にも技術はやはり要る。技術の習得で得られる、構築を統括する千里眼感覚のようなものは重要である。されど技術だけでは、作品は作れても表現には絶対に至らないのである。
技術的身体と人生経験との細胞の重厚な隙間を通過して、フッとでた一つの「独り言」のような歌。これは、望んで作れるようなものではないように思う。



彼女の人生や短歌技術を詮索しても私にはわからないだろう。それより、これからときおり彼女の歌集と自分の経験がシンクロするようなことがあるたび、書き留めていきたいと思う。



表現とは本来、何かしら「習得的なもの以外」の体験が血肉化されたところから、ある日にじみ出てくるのだ。だとしたら、血肉にしていくとはどういうことなのか、という課題に、今更ながら実感を持って突きあたるのである。(安永蕗子のイメージは血肉化するというより骨格化という感じだが)



ちなみに、最近小林秀雄をよく読んでいて、この「血肉」とか「血球」と言うようなことばにあたることがあり、ますます「体験のその先、表現のその前の、空白の密度」について考えるようになった。




:::



オードリー若林。
テレビで見る彼のことよりも、おもにラジオの語りを通して触れる彼についてである。
あの人の自我感覚のようなものは(そんなものがあるとしたら)、なんだか知らないが妙に体に憑依してくる。いつのまにか若林として「そうだ、オレはこうなんだよなぁ」という自意識を感覚している気にさせられるのである。



例えば深夜ラジオなどでも、必ずしも語っている内容が常時面白いわけではない。大体は自分の日頃の逡巡の語りの合間に急に相方の春日を弄りながら、だらだらと更けていく夜である。
しかしそのだらだらしているように思える時間のなかに、何かポイントで歯応えのある説得力があり、結果気づくと、若林の自我はいつのまにか強い憑依を持ちかけてくる。何故なのだろう。



彼の語りを聞いているととにかく、自己の「意識の分岐点」をしっかりと確実に踏んでいく、という感じがする。しつこいくらいに。
話術に関わる人だから話の起承転結を踏まえるのは朝飯前かもしれないが、「承」「転」のあたりで人知れぬ勢いをもってズズズッと他者を主観のなかに引き入れてしまう才能を感じる。もちろん聴き手との相性によるとも思うが。



自意識とはこういうもんなんだよ、という刷り込みを何度もさせられている。とも言えるのだが、次第に人の持つ自意識の物哀しさや愛おしさに触れる、というか、自分自身の自意識の姿を見せられてふと笑ってしまう、ような感覚があるのかもしれない。
自意識の情けなさ、苦しさ、みっともなさ、そしてかけがえのなさ、を彼は知りぬいて、言葉を鍛えているように感じる。
常に他者意識を中心と考えそれに適応して生きているタイプの人には、馴染みにくい語りかもしれない。



今度いつか、彼の文章の世界にも触れてみたいと、思う人だ。



:::



自意識が張り詰めていったところで、なんらかのきっかけ......言葉でも出来事でも風景でもいい、他者に立ち会う瞬間にその自意識が不意に緩むとき。
自身の孤独を責めようとしてしまう自意識が、ふとその孤独を「赦す」とき。
そういう「赦す」瞬間を表現しているなにかは、私にとって憑依性があるのではないか、と思う。


:::


洗脳する言葉と憑依する言葉は違う、ということを肝に銘じること。


by meo-flowerless | 2019-03-02 12:31 | 絵と言葉