画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2019年1月の日記

2019年1月の日記



1月1日


初夢は元日の朝の夢のことを指すのではない、と知ってはいるが、明け方に見た夢は、ひたすら絵を描く夢だった。右手の面相筆の先から繰り出される色と形をひたすら目が追っている。描くことが嬉しくてしょうがない、という若い時の感覚。細かい花びらのようなものを描いていた。
今年はそうありたいので、書いておく。


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正月花、昨日二軒目の花屋で非常に美しいアイリスを見つけたので、それも活けた。
茎の部分を嗅いだら、天然のイリスパリダの香料のような匂いがちゃんとした。嬉しくて何度も嗅いだ。



1月3日


未明に夜勤から帰宅した夫が、寝床に入らずそのまま部屋に入って、なにかトンカンと工作を始めた。朝5時からである。時々目覚めて首を起こして見てみても、同じ姿勢でずっと木工作業をしている。10時頃こっちがいよいよ起き出して部屋に入ってみると、新しい鳥の餌台を作っていた。実家に集まるメジロのためのみかんハウスである。
作品の使い古しの部品を使っているので、ハウスの内部には夜明けの山の風景写真が展開している。足下は漆のパレットに使っていた板で凸凹している。止まり木には壊れた民芸土産の部品を使っていて「熱海」「なんとかホテル」などの文字が書いてある。
両脇壁には丸い穴が開いていて、背面は透明の塩ビ板、前面はメジロが丁度入れるくらいの柵になっている。ふわふわした藁を入れ、中央止まり木の突起にみかんを刺す。
なんと居心地の良さそうなハウスだろう。



午後、実家の柵に取り付けに行く。
すでに設置してある餌台からはシジュウカラが代わり番こにやってきてはクルミを運んでいく。彼らはその場で食べず、必ず近くの枝に止まって自分のペースで食べる。
メジロは昨日から果敢に旧餌台のみかんをつついているが、新しいハウスの出現に「ヤヤッ」という表情をしている(多分)。
メジロはハウスの左脇の丸穴を、少し伸び上がって覗いてはみたが、警戒してまだ中に入りはしなかった。シジュウカラは自分好みの餌と関係ない果実系のハウスだけれども、一応丸穴からじっと中のみかんを見つめ、「あ、ふうん」とつまらなさそうに去って行った。
明日あたりさっそく、メジロがハウスの中に入り込んでみかんを食べてくれるのではないか、という気がした。
ヒヨドリは自分を排除した大きさの、小さなハウスを見て、滅茶苦茶に不機嫌になるだろう。




1月4日


自分にとっての「言霊」は蛍の光のように闇を縫ってよぎるもの。もしそんな言葉を他に作るのだとしたら例えば「絵霊」は陽炎のように立ち上るもの。「音霊」は蜩の蝉時雨のように現れるもの。




1月8日


正月三が日くらいは開店している店舗の店内音楽も、お目出度そうな「お琴の正月用イージーリスニング」で気分出しているところが多い。
近所のホームセンターもお琴BGMを流して新年気分を出していたが、何か妙に曲調が悲しい。なんの曲だか頭で必死に記憶を辿りよせる。だんだん歌詞が浮かんでくる。
「明日も今日も留守なんて、見え透いた手口使われるほど、嫌われたならしょうがない、笑ってアバヨと気取ってみるさ…」
研ナオコ(or中島みゆき)の【あばよ】のお琴メロディだった。おめでたいのとは程遠い。思わずニヤッとしてしまったが、こういうの好き。


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夫が実家に設置しためじろハウス。
やはり警戒してたまにしか来ないらしいが、来れば中には入るようになったようだ。 「日活ホテル」と書いてある。なぜかは知らない。
そして今日は新たに離れた場所にヒヨドリ台を設置。しかしあまり頻繁には果物など置かないことに。「ひよどり」「甲州街道ドライブイン」と書いてある。

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1月10日

フォーレの弦楽曲を聴くと「翼」という言葉、イメージを思う。
二つの弦楽器がユニゾンで旋律を奏でる感じが、開いた両翼を思わせるのかもしれないし、また旋律の流れが、羽ばたきのあとの気まぐれな滑空を思い出させるから、だとも思った。白い冬空を無言で自由に飛び回る影、が見えるようである。
【舟歌】の揺曳感も(これは冬より夏らしいが)、ゴンドラではなく水上に漂うカモメの体感と思いながら聴いてみたりする。
去年に引き続き、またフォーレばかり聴きたくなる季節が来た。



1月16日

【ムンク展】、東京都美術館で見る。混雑と行列の苛立ちさえ彼方に吹き飛ぶ、凄い絵の数々だった。表面的にどうのこうのと解釈出来ないような凄さ、である。近づいて筆致を見たところで、茫洋とした線のうねりに沈黙してしまうだけだ。
わけのわからない彼方の光を見せられている。どこの誰かわからぬ存在の奥底の吐気が突然自分に乗り移る。身体でも心でもない魂の芯にヌッと手をつっこまれ着火される。
霊と肉が分離も矛盾もせず混然としたカタマリとしてある。それが液体でも気体でも個体でもないものとして描かれている。描かれていることは視覚からはみだし、否応なく、五感の外に確かにある奇妙な知覚でそれらをなぞらされる。


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ムンクの絵の実物は、それまで画集で認識していた色彩とはやはり全く別物だと感じた。印刷では独特の青緑、桃色、プルシアンブルーの発光感は潰れる。実物には燐光のようなオーラが漂う。あの青緑は、夕陽を長く見たあとに目を閉じたときの残像の緑のように思う。
晩年に目の血管が破れた視覚をそのまま描いている絵があって、ぞっとしたのだが、その時だけではなく、ムンクはもっと若い時から、目を開いて何かを眼差して見える視覚以外の、網膜や眼球の反応を感じながら色を選んでいたのだろう、と思った。


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あんな、まるで人魂の軌跡に乗っかってさまよい続けるような視線、そういう視線で表現できることに憧れる。
そんな感覚を持てる時もある。が、大抵自分のまなざしは重く疲れて、水分が土に沁み入るみたいに、地縛霊が土に憑くみたいに、低いところに横たわる。
正確に言えば、文章を書く時にはふらふらと飛翔できるが、絵を描くときには地に沈む…自分のはそんな魂である。



1月18日

女性特有の身体の変化…精神的に急には受け入れがたいところはある。ここで鬱々としてしまえば幾らでも鬱々としてしまいそうだ。以前は普通にみなぎっていた「心身を統合している基本的なパワー」のようなものにいまは強弱のムラがあり過ぎ、それを乗りこなすのにまた別のパワーを使わなくてはいけない。非常に疲れる。


しかしその変化をよく見つめてみて楽しみたい、という気持も出てきた。
歩く速度がゆっくりになったことで得られる知覚。五感以外にまだ別の知覚があるのではないか、と思うようなもやもやとした複合的・共感覚的触手のようなものに気づく。


音楽の好みの変化。緩慢なリズムに耐え、その間に何かを感じるようになってきた。音色という言葉があるが、具体的な音質というより色の移ろいのようなものを感じる音楽を探すようになった。そろそろ能楽に触れてもいい年頃なのかもしれない。
香りの嗜好の変化。香りの距離に重きをおくようになった。花を鼻先に近づけてくんくん嗅ぐような嗅覚体験ではなく、どんな広がりのどこにどんな流れで漂う匂いなのか。花の香りの香水を選ぶことが少なくなってきた。最近は、森や野山や霧を感じさせる北欧発信の香水に今まで感じなかった感動を覚えている。



先日、ムンク展に非常に感覚を揺さぶられたのも、自分の知覚の変化に応じだものだという気もする。昔から好きではあったが、若い頃には感じなかったであろう何かを得たのは確かである。
そんな体験を自分の表現に繋げられるのか、は別だけど、まあ、ゆっくりとやろうと思う。感覚が変わっていくことは、例えそれがパワーダウンであったとしても、質の移ろいにおいては寧ろ興味深いことだ。


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隣室からのラジオ深夜便、「ビリー・バンバン」特集が聞こえる。
もう会えないけど 忘れないわ…
という、かつて好きだった曲のフレーズにはっとした。題は知らない。
ビリバンの唄の全てに流れる、緑とも青ともつかない夕靄になにもかも消えていく感覚。喪失なのか未遂なのかわからないままの「……」という無言。良い。
あるいは。川の片岸、をいつも思い浮かべる。橋が近くに無くて渡ることを諦める川の向こう岸をなす術なく茫然と眺めている、片側の孤独感だ。若い頃そんな思いばかり、実際川岸でそんなことばかり、していた気もする。
来生たかおや、80年代の薬師丸ひろ子の歌っていた一部の歌にもそんな感覚がある。



1月19日


程度の差はあれど、共感覚(五感のうちの複数が互いに影響、補完しあいながら知覚される)的なものを持っている人は結構いるのではないか、と思っていた。いや、今でも思っているのだが……最近、改めて共感覚についての研究書や文献を読む途中で何とも言えない疎外感を感じることが多く、各人の知覚の認識のあいだには思ったより深い溝があるのではないか、と思うようになってきた。違う動物を人体実験しているような突き放しを実験者の文章から感じると、ぱたんと本を閉じたくなる。
脳の特徴は一人一人微妙な差異があるはずで、知覚パターンがそんなに二分化できるものではないと思う。ただ、そういう知覚の取り入れ方を自分のシステムとして身につけたのか、つけなかったかの違いはあるとは思うが。


自分の場合、数字とひらがなを色で知覚している感覚は幼い頃から変わらずある。漢字の一部にもそれがあるが、後天的なものかもしれない。後天的なものだったとしても、自分には非常に大事な認知システムで、書き文字と色覚の互換は切っても切り離せない。
匂いと色の共感性は強い。自然臭や生活臭は即物的な色彩しか浮かばないが、調香されたものでは数色の色が複合的に見える匂いが好きであり、その色が不自然に桃色味だけを強調しているなどの媚があると、その匂いを嫌う。好きな色の組み合わせの匂いに拘る。
音→色はあまり密接ではないが、人の声にはよく色を感じる。一部の和音には数色の色の組み合わせを感じる。逆に色→音を聞くのはよくある。
触覚は、手で触るような感覚は伴わないが、空気を伝わる何らかの衝撃波のようなものを特定の色や光に対して意識することがある。夜の灯の色味にはそれぞれ別の発散圧のようなものを感じる。効果音のようなものもついでにある。
味覚は他の知覚に対してもあまり協力しない。


これらは自分の官能や情緒を支えている長年の認知システムなのだが、すべて揺らぎやすくつかみ難いものなので、固定化されたテストなどで何度も正誤を判断する実験など受けたら、逆に考え込んでしまい、参ってしまい、感覚が傷つくような気がする。


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もう少し厳密に言うとすると、上に書いたような文字⇄色の感覚は、内部の電気信号を内的にチカチカ見ているような光の感覚であり、紙にベトッと印刷されたインクの色でもないし、絵具の物質的な固有色でもない。
匂い→色の場合はこれと違い、皮膚の脂量や湿度/温度から浸透してくる肉感的な色味のことだと思う。



1月20日


ついに、というかやっと、ボードレール読む。かつて「自分のようなタイプは絶対に読むべきだろう」と決めつけ、張り切って【悪の華】を買って何度か読もうとはした。
が、そのたび何一つ頭にも心にも入って来ず、堀口大學訳詞の硬さに辟易し、本もどっかに失くしていた。再び最近思い出して挑戦したのだが、男性至上な感覚に胸糞悪くなって、やはり放り投げていた。
しかし夕べ【巴里の憂鬱】の方を手にとってみて、3時間くらいで集中して読み終えた。凄みがわかった。先にこちらを読めばよかった。
どんな時代だったか照応し、後の表現者への影響も復習し、同時代のパリを描いた絵画を想像し、ゾラの【居酒屋】【ナナ】などの濃厚な市街の描写を思い出しながら、一生懸命読んで、やっと入り込んできた。


もう中年のこの歳になってやっと、だが、「自分が噛み砕きようのない詩や散文も、歯を立てて噛んで飲んでみる」必要性を感じるようになった。
好みの点では近付き難い詩文であれ、言葉の表面で拒絶してしまうのではなく、その作者にとっての「詩という態度」を追体験しようとすることで、読後の自分の知覚や意識が確実に変化する。この五感からの世界のみかたの体系に変化が起きる。
知覚や認識の刷新がなければ、あとはただ自分の創造性も老いていくだけのように思う。「詩という態度」詩のところに「絵」を当てはめてもいいのだが、自分にとって自他の境界が明確なのは、まず詩に対する感覚だろうと感じる。




1月22日


部屋を大掃除。昔に集めかけて結局聴かずじまいだったいくつかのレコード達も放出しよう、と決心…したはずなのだが、並べてみると、手放すには惜しい気がだんだんしてくる。60-70年代のラテンやジャズ調のイージーリスニング、ギリシャがトルコらへんの70年代歌謡、ロシア北方の合唱、日本縦断SLの記録、バラライカでつづる日本旅情。何で買ったのか全く覚えておらず、誰かから譲り受けたかと考えてみたが、このラインナップを選ぶのは私ぐらいしか周囲にいないので、やはり買ったんだろう。

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掃除中だが、レコードプレーヤーを夫に直してもらい、プラグも新たに買いに行き、レコードを十数年ぶりに聴いてみることにする。
ヨーロッパ70年代のアナログシンセによるライブラリー音楽(業務用音楽やSEやジングル集)は、結構レアで値段も数千円したので、買った時の記憶もはっきりある。
ピョーン、ミョンミョン、ぷわんぷわんという気の抜けたシンセサイザーで奏でられる短い音楽は、しかし今聴くと手作りの丁寧さに満ちた、上品な味わい。掃除を完全に忘れ、つい聴きながら心地よい眠りに落ちた。
結局、手放さないと思う。部屋もそこまで片付かないだろう。



1月22日

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そういえば真昼、すんばらしい色のヒヤシンスを見た。




1月24日


【群衆の中の芸術家 - ボードレールと十九世紀フランス絵画】阿部良雄著、読んでいる。名著。
詩人ボードレールがドラクロワ/クールベ/マネ等への美術批評を世に問いつつつかんでゆく「孤の人間性」のようなもの、を焦点にしている。
社会構造、思想の潮流、階級意識、物質文明が怒濤のように変動する中、一筋縄ではいかぬコンプレックスやパラドックスを巻き込みながら直感的な言葉を繰り出して行くボードレールの人生のドライヴ感に、引きこまれてゆく。ドラクロワの絶妙に冷ややかなダンディぶりの描写によって、逆にボードレールの転がる焼け石…やけくそ意思のような、別種のダンディズムの内実がじわじわとたちあらわれる。


絵を描く人間ならば、20世紀以降や印象派だけではなく、ロマン主義からの流れをガッツリと押さえていなければだめだ、と深く思わされた。当然、絵ヅラ(詩ヅラも)だけの歴史ではなく。
自分が「表現」など無自覚に呼び、当たり前に前提としている立脚点には、別の時代の様々な人間の精神の闘争史があるのだ、と、あらためて胸にきざみこむ。自分がなぜ今になってボードレールに手を伸ばしたのか、ようやくしっくり来始めた。


ドラクロワとの一方通行的な思いの交流を読むにつれ次第に胸が苦しくなり始め、常にテンションのかかった不器用な執念が切なくなり始め、中盤クールベの描いた本を読むボードレールの何気ない仕草の肖像画が図版で載っているのを見、ふと涙ぐんでしまった。
もちろん、泣くようなセンチメンタルな描写はどこにもない、ストイックに彫りこんでいくような、上滑りや齟齬を慎重に避けた文体であるんだが。その抑制が低音で響いてくるのかもしれない。


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日本の「いき」の苦味の部分(背後にある色街の苦界も含め)と、このダンディズムは一見、親和性があるように思う。単なるイナセな格好良さとは違う意味の、「無意味」の密度を生き切る意気地、というか。
ただ「いき」にはのたうちまわる自意識の逡巡は全くない。そこには潔く洗われた諦念のみが無ければいけない。「いき」は何者でもない者のものだが、ボードレールのダンディズムはボードレールに個別に生じてしまったものである。恥じもし同時に誇ることもしたくなる苦闘の聖痕のようなものである。触れてくれと触れるなよのサインを同時に発している洗われようのない個々の傷口のありようが、西洋の近代以降の表現行為だったのかもしれない。



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詩の言葉は詩人に「射られて」対象に「刺さる」、瞬発的な到達力と衝撃を持つもの(のはず)である。そのパワーをかつて詩人が芸術批評に用いたことは、なにも不自然ではない。本や紙に印字された品としての詩というより、詩をする行為いうのがそもそもそのまま批評的行為と等しかったのではないか、と思う。
今の世で、「詩」の行為ごと、「安価で陳腐なポエムという品」のようにだけ認識され鼻で笑われているのを見かけると、なにか人間の可能性の絶望的な狭量化を感じ、暗い気持ちになってしまう。




1月26日


今ならばひょっとして、と思い立ち、いつか読んで漠然としか分らなかった小林秀雄の【表現について】をまた読む。今度は、みぞおち深く刺し込まれるように、言葉が入り込んできた。一語一句読みたいと思った。
またしても、最近読んだ一連の本をを若い時に読んでいれば、という思いはよぎったが、若い時どころかつい数年前読んでも果たして分かったかどうか。各人の人生にはやはりそれぞれの段階が、節目が、積み重ねが有るということなんだろう。


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「国際ロマンス詐欺」という最近出回っている言葉、思わずニヤリとしてしまう。そんなこと言うのはいけないんだろうが、なんというか…いい語感ではある。斜体で赤文字のフォント(ロープウェイの車体にかいてありそうな古臭い)が浮かぶ。絵の案まで浮かんできてしまった。



1月27日


昔のノートを見ていたら15年くらい前【徒花図鑑】の制作ノート出てくる。絵柄のデッサンは殆ど無く、文字で原案が書かれている。
そのなかに、花の色のアイディアを出した頁があった。謂わば文字による私のパレットだ。他人には意味不明だろうが、自分ではこれを今読んでもすぐ「ああ、その色か」と一色一色、絵具で色が作れる。もちろんべた塗りでは補えず描写で光感や染み感を足さないと駄目な色もあるけれど。
ノートの文字そのままじゃ流石に作品にならないとはいえ、拵えて整えた詩形より、自分にとってはこういう殴り書きこそが真実のイメージなんだが。



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実家の木に夫が取り付けた巣箱。今年のシジュウカラのために、去年遺された巣の名残は捨てた方がよいのだそうで、夫が掃除する。
出てきた巣を見て、その精巧な作りに驚く。全て鳥が嘴と足でこしらえたものなのだ。
下には柔らかい葉でかなり厚いクッションを作り、雛の居場所は、どこかの犬の毛や綿毛や衣服の毛玉など拾っては詰めて、美しい円形のベッドにしている。
シジュウカラは非常に賢く器用な鳥だと知っているが、この造形の丁寧さにはさらに感心した。私が安眠する巣も作って欲しいくらいだ。


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1月28日


中国美術学院のL先生と夕食を同席する機会があった。中国画の偉い方で、日本画科のアトリエで授業をしに来たのだ。
夕食会は、日本画の先生の配慮で、敢えて堅苦しい席ではなかった。谷中の古民家の土間に縁台を並べただけのような嘗ての日本庶民的空間で間近に接するL先生の話は、偉い人とは言え全くコワくなく、人間的な深い含蓄を感じられた。



「西欧の人は、中国にも日本に対しても【神秘主義的な】という印象を抱くようだね」という話をしていた。たぶん、私たちの日常では実際そこまで神秘は意識されていないが、という前提だ。
ここ数日自分もそんなことを考えながら本を選んで読んでいたりしたので、改めて、そうか、と思った。
「(そういう意味での神秘とも言える)一体感とか気配、気、のような感覚に日常でも無意識に依存しながら生きているのに、学生に教えるとにきだけは西欧的な文脈の理屈を当たり前のように前提で語る、という油画科での自分に非常に矛盾を感じるときがあります」
というようなことを私は言った。勿論どちらかに寄って価値観を固めるべきだと思っているわけではない。西欧の美術や音楽、文化にどっぷりと浸り憧れても来た。
が、自分自身を考えるとき、西欧文化史や思想史を実感持って踏まえながら文脈の上にあることを意識したり位置づけたりというのは何かに無理があり、ましてや「ワールドワイド>ドメスティックという自己卑下を基軸に何かの前提が厳然としてあるような感覚は、耐えられなくなっている。


先生は様々なことを見解として答えていた。通訳の方が感覚的にとらえて伝える言葉の中で、こんなことは印象に残った。
「まあでも、その矛盾に引き裂かれながら雌雄をつけたり正誤を実証しなければならないというのは、そもそも近代以降の西欧特有の在り方。逆に矛盾を併せ呑んで、陰と陽のどちらをも含んで生きる在り方が東洋の根底にはあるじゃないか」
先生のゆったりして自由な佇まいを見ながらそういう言葉を聞くと、頭での理解だけではなく身体にその言葉が浸透するような気持がした。


帰路の電車で全く別の些事や悩みに苛々し考え込んでいたが、さっきのL先生の言葉とふと思い出すと、身体と頭の筋肉の強弱のバランスがフワッと戻ってくるような気がした。


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午後、家の裏の丘に上る。雑木林がそのまま盛り上がっている静かな緑地で、人の気配も普段からあまりない。木々の合間から、白く冷たい東京郊外の住宅地と青い山稜が全方位に見渡せる。
風の強い日である。
遠い団地群は白と黒の横縞模様にザっと広がり、見えない風が真横に吹き付ける動力と一致して、視覚的に風に加速度をかけているかのように見える。
巨大な樹木の上の方で時々何か衝突音がして、そこから枯葉の残骸が激しく舞い落ちてくる。鳥でもなく、何の物体も見えないのに、不思議だ。たぶん枝が折れたのが別の枝に激しくぶつかっているのだろう。
風の音を聞く。身の回りは熊笹に風が渡るまるで水飛沫のような音、遥か上空は何が何を突いて出るのかわからないくらいの重苦しい轟音が渦巻いている。直接身肌を掻き毟るような台風とも木枯らしとも違う、圧倒的だがとても遠い、届かない音だ。風の音はこんな音だったか、としばらく恍惚と身を任せる。




1月30日


一昨日、通勤電車の中で小林秀雄の【Xへの手紙】を読んでいると涙の塊が襲ってきた。自分でも吃驚して本を閉じ目も閉じて、そのまま座席で眠った。
明日通勤電車でまた【Xへの手紙】を最初から読み直そうと思うが、やはりまた涙に襲われるだろうと思う。しばらく何度読み直してもそうなのではないかと思う。
昔から特別深い愛読者というわけでもないのだが、しかし昔からはっきりしているのは「小林秀雄を嫌いな人」、というのを、私は嫌いだと思う。手前のイデオロギーにかこつけてその名を持ち出す人やもう過去の批評家だと笑う人や色々いるかと思うが、たぶんそういう人を嫌いである。


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言葉に触れて不意に泣きたくなる、ということが最近増えている。
ある学生が卒業制作作品の映像で、ほんの数行の【遠野物語】の一節を字幕で引用していた。背後にはただその辺の郊外の草木が揺れている映像があった。
笛の名人が夜の山道を笛を吹きつつ歩いていると、谷底から面白いぞーと声がした、という話の一節だったか、私の好きな段落の一つだったように思う。学生は特に意味を込めてそれを選んだわけではないと言った。
しかしそのなにげない草木の揺れに黙々と重なる字幕で読む、柳田国男の文体の魔力というか霊力のようなものに、改めて鳥肌が立つような涙を感じた。


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上手く言えないがこんな自分にも言葉に対する独特の信仰のようなものがあり ー 信念でも信条でもなく ー ひれ伏すのでもなく熱狂するのでもなく、ただ強い糸のようなものでピンと言葉の霊力と繋がっていたいのである。実際の神格や教義や権威とはかなり違うものへの信仰だと思う。畏怖だと言い換えてもいいか。
その畏怖感覚が揺らいでいる今なので、研ぎ澄まされた湖面のような文体や匕首突きつけられる緊張感のある言葉に触れると、原点に戻るのかなんなのか、泣けてくるのかもしれない。


















by meo-flowerless | 2019-01-04 01:44 | 日記