画家 齋藤芽生の日記


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2018年12月の日記

2018年12月の日記



12月1日

夕映えのなか、特急かいじに乗って郊外まで帰る。西の空が一番美しい季節だ。
車窓越しの景色は、水中みたいだ。夜だと「マグロなどの回遊魚系の暗い水族館」という感覚だが、夕暮には色とりどりの「珊瑚のアクアリウム」の水槽ようだ。特に新宿駅を出たあたりの景色の配色。
高円寺の高架を走るあたりで一気に、西の空の膨大な広がりの中を電車は走り始める。水中に潜るもやもやした感覚から、別天地の大気のなかへたどり着くようだ。


竜宮城やアトランティスは、水中の窒息しそうな渦をイニシエーションのように通過したあと突然、空気の吸える見知らぬ別天地に流れ着く。昔からそういう別世界譚の「水中だったはずなのに、急に息を吸えるようになる感覚」が面白いなあ、と思っていた。
それは人間の悩みの構造を模したようにも思える。息苦しい不安チューブの混迷のなかを流されたあと、広いところにふと遁れ出て、息を吸えるようになる。澄み切った、人のいない、懐かしいような見たことないような境地にたどり着く。


西の空の広がりにスカッとしつつ、こんな妄想を飽きもせず出来るから、時々500円の特急料金を払って、特急かいじやあずさで帰るのである。


:::


列車がいよいよ立川も過ぎたあたり、さらに「見知らぬ別天地の荒野に繰り出す」感じが増す。多摩川を渡るときのハードボイルドな旅愁は、小学校電車通学の頃から、ずっと変わらない。


私は「荒野」という言葉が好きでよく自分の表現行為に使うけれど、私にとっての「荒野」とはこの中央線多摩川鉄橋から見下ろす、ススキの茫漠とした河原のことなのだと思う。小さい頃から敏感なたちで様々な悩みがあったが、その悩みがいつもすっと消えて胸が空くのが、電車通学の途中のこの河原だった。


川の上の空は天球感があり、いつにも増して夕焼のオレンジが鮮やかだ。
その果てにくっきりと主役めいた、富士山のシルエットが鎮座している。
今日は、山稜の角度の延長線上ピシーッと、幾何学的な影が山頂から天に伸びて、空がオレンジと紫の二色に二分されている。思わずアアッと声を上げてしまった。
太陽がちょうど、山をそういう影絵に見せる位置に重なったのか。珍しい景色だ。
次に八王子で富士山が見えたとき、もうその空を二分する影は無かった。



12月4日


油画科同級生の小野環君の招きで、尾道市立大学にて講義をする。自作のスライドレクチャー、院生たちと交流、作品講評という二日間。
大林宣彦ブームを幼少時に通過した世代なので尾道という土地には憧れが常にあった。今回は坂の町並みを見たり晴れた海を見たりするような観光の時間はなかったが、とにかく同級生との再会が鮮烈だった。



オノタマ君は歳も一緒だし、取手校舎で同アトリエを使っていた。学生時はあまり深く話したことはなかったのだが、その頃からの飄々としてオープンで聰明な印象は全く変わらず、寧ろさらに知識や経験の幅が広がって生き生きしていた。
とにかく、今回はたくさんの話に花を咲かせることが出来た。ジェネレーションについての話、アジアの話、ローカルと美術についての話、幻想建築の話、今の政治のシビアな話、地域の習俗や文化の話、影響受けた赤瀬川原平、考現学的なことの数々、松本零士と銀河鉄道999、ヴェンダースの映画やロードムービー、学生時代のある種の小さな旅文化……色々。



自分が大野一雄の舞踏を学生時代に間近で見た経験について最近ひとり思いめぐらせることがよくあったのだが、オノタマも最近上京時に大野一雄についての展示を観たらしく、偶然だか話が弾む。
また最近、山田洋次の割と昔の映画【家族】を観てそこに映っている70年代の日本景の生々しさに色々思うところがあったが、オノタマもちょうどたまたま同映画に生々しいロードムービーとしての同様の感銘を受けたときだったようだ。
派手ではないが緻密に普遍を見つめる目、ジワジワと人間性をあぶり出す態度…そういうものを地道に発掘し直そう、継承しようという共通意思が、各地のあらゆるところで同時発生し繋がっていっているのだろう、と、久しぶりに同世代と話題を共有しながら、実感できた。


彼の幅の広さにまず驚くし、最近他人と話がなかなか弾まない自分がこんなに会話で意思疎通出来た、ということにも我ながら驚いた。数年分の気鬱がいっぺんに晴れるくらい、思う存分に自分のしたい話をしたな。二日の滞在にも関わらず相当にスピリットが快復した。この機会に、心から感謝だ。
まだ自分も生き生きと出来るはずだし、しなくては、と、みなぎる何かを感じた。



12月5日

出張やら講評やら流石に疲れが溜まり、記憶の奥底に忘れ果てていた「exhausted」なんという英単語を何十年ぶりかに思い出した。
夜やっと家に帰り着くと、諸事情によりお風呂もシャワーも使えない。一瞬絶望したが、ふと思い立ち、タオル下着を袋に詰め、夜のバスに乗り込む。
一番近い銭湯と言ったって、高尾山まで行かなくてはいけない。でも、行くのだ。


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ガラガラに空いた電車に風呂道具だけ抱え、山麓の駅に着く。スーパー銭湯は駅に隣接している。銭湯もこの時間は流石にすいている。
山のふもとの張り詰めた冷気を吸いながら、露天の炭酸風呂に浮かぶ。炭酸風呂の疲労回復効果はなにか凄いような気がする。ふらりと散歩のように観光に来れるような場所に住んでいるな、とつくづく思う。


炭酸泉には憧れがある。人工のものではない温泉に入りたい。10歳のとき大分の炭酸泉の長湯に、殆どの親戚は行ったが、私と従兄弟のにいちゃんだけ行かなかった夕方のことを、いつまでも覚えている。今頃皆は三ツ矢サイダーに浸かっているのだろうか….と妙な空想しながら、カワハギを混ぜたトランプでいつまでも終わらないババ抜きをした夕暮。別になんてことはない夕暮だったが、大分久住のあの時空間から私の随筆的視点が生まれたと思っている。


マッサージ椅子に身を任せながら、テレビで水道民営化可決のニュースを見る。
水がふんだんにあり、いつでも湯治に行け、水辺で遊び、釣りに興じる…そういう日本人には当然の風景も、いつしかあれよという間に消滅するかもしれない。水資源のついでのように、山の緑も残雪も伏流水も誰かの所有になり、精神的な拠り所まで踏みしだかれて行くかもしれない。そんなことを黙って考える。
また風呂道具をプラプラと下げ、完全に無人の上り電車にふらりと乗って帰った。



12月8日

休日。昼間は裏の小さな山にのぼり、とにかく歩き回ってカサコソ落葉を踏みまくる。
木の葉というのは緑の若葉でも枯葉でも、生物の精気を養うために在ってくれる気がする。柔らかい踏み心地と甘い匂いに、体の芯から豊かな何かがじわりと復活するのを感じる。
落葉は命終ったものなのに、生物の遺骸のような臭気を放たないな…と考えていたが、いや、落葉とは遺骸ではないのだ、と考え直す。
「木はまだ生きてるんだよね。だから葉っぱは落ちてはいても、それは死骸になって落ちてるんじゃない。生きているから甘い匂いがすんだよ」
とブツブツ呟いていると、夫が「?」と不可解そうな顔で振り返った。


:::


夜、横浜へ。もと油画科にいた大学院生から誘われ、伊勢佐木町、野毛を歩く。
大好きな黒澤明の映画【天国と地獄】で三船敏郎と山崎努が接触する夜の繁華街はここだったのではないか。
昭和の匂いとポンチさに満ちた夜の街だが、どことなく肌理がゆるくエキゾチックな感じがするのは、やはり横浜だからか。
フラミンゴカラーとヒヤシンスブルーの混じり合ったネオンの放射光が空を染める。自分のジャンパーもデニム地に蛍光桃黄の線が走ってネオンのようだし、二人の女子学生も仮面ライダーのように派手である。
途中の韓国惣菜屋でイチゴヨーグルト風味のグミを買う。韓国惣菜らしいぎこちないデザインのパッケージに惹かれる。


川に差し掛かると橋の向こうに、弧を描いて要塞のように立つ二階建てのビルがある。古びた長屋形式のビルだが白々と輝くネオンが延々と並び、横に伸ばすだけ伸ばしたアコーディオンのようである。
川の面は裏なので、表に回ると、一間ほどの間口の均一な大きさの飲み屋が延々と弧を描いて続く通りに出る。
ここが、闇市時代からつづく野毛名物の「都橋商店街」ビルなのだった。


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一見のまま飛び込みでスナックに入るのは、ボラれるかもしれないし、 若干勇気が要る。おしゃれなバルには若いレトロ飲み愛好者の若者たちが溢れており、そういうところは入りたくない。渋い飲み屋に入りたい意欲はある…呑んべえでは全くないのに。
なるべく中が見える戸口からのぞきたい。密閉型の店のドアを開けると、私よりもずーっとオトナの、アンタッチャブルな雰囲気の老カップルがジロリと振り返るので凍りつく。そういうお店は店員が婉曲に入店を拒否してくる。



地味な磨りガラスの向こうにふつうの蛍光灯の漏れる、素朴な台湾飲屋に入ることにする。
青い文字の「台湾料理 蓮」。席は5〜6席でどうしようもなく狭いが、時間制カラオケ付き1000円という値段も嬉しい。
とても優しい台湾人のママさんが、プリッツやピーナッツを出してくれる。ひたすら薄いハイボールだけで、カラオケに興じる。気合入った女の声で【ダンシングオールナイト】【サムライ】【順子】などが通りに漏れ聞えるのは、少し異様だったかもしれない。
ママさんは中島みゆきの人気曲【糸】を歌ってくれた。テレサ・テン的な優しい美声で非常にうまかった。スナック文化では、みゆき歌は共通言語である。若者たちも、
一曲でも知っていた方がいい。
非常に親しみやすい、狭いが居心地の良い店だった。


【天国と地獄】の伊勢佐木町や黄金町のイメージを引きずりながら、フラミンゴの羽とイチゴカクテルと米兵と闇市とFRPと背徳の幻臭を嗅ぎ、心に熱帯性の騒めきを飼うように夜をぶらついた。美しく、ざわざわとした気持ちになった。





12月9日


西日の午後3時。多摩モノレールにぼんやり乗って、郊外を遊覧する。
冬の重い雲の隙間から、模造白パールのような光が漏れてくる。モノレールはぞっとするほど高いところを走っていて、遥か下にまるで渓谷めいた道路が走る。
空は冬だが、下界はまだ秋だ。
「甲州街道」とは素晴らしい駅名だと考えていると、夫が「何もないからこんな駅名つけるのか」と呟く。見下ろすと確かに日野の殺風景を凝縮したような特徴のない町だ。
しかしRCサクセションの【甲州街道はもう秋なのさ】のフレーズが浮かび、景色も愁いを帯びて良く見える。


程久保を過ぎると平坦な町は一気に、丘陵の起伏や雑木林の翳りに取って代わる。白い高層型の70年代ぽい団地群や、大型のモニュメントみたいな大学の郊外キャンパスが、建築模型の質感そのままに山に突き刺さる。
山の木も、暗い赤や黄色にスプレーで吹き付けられたようで、模型的だ。西欧製の原色の積み木やシンプルな教育玩具が、建物の間に置かれていたりしても違和感がない、と思った。


落としてこぼした菓子みたいにバーッと住宅が丘陵にぶちまけらている。それにぎらぎらと西日が射し、見たことのない未知の土地に見える。
暗い山林に半分隠されながら建てられたマンションは、モダニズム建築の高級保養施設的な階段型の形をしている。そういう階段型の建築がとても好きだ。この丘陵には多い。


動物園近くの線路の塀のスプレーの落書きが、雑に消してあるが、なぜかその落書きのうち、緑の勾玉のような落書きだけがポツンと残っている。横には何を意味するのか「中」という、一文字だけの標識が掛けられている。


ガラス戸越しにゆっくりと見下ろしながら移動する風景。その速度感から、なんとなく気球に乗っている気がする。
視線だけで彷徨う無音の世界なのだが、雑木林がぜいぜいと喘いでいる音が、自分の肺の奥に幻聴で響いてくるような気がする。
白い高層団地群はかなり年季が入って入るはずなのに、古びない無機質さと簡潔さ、モダンさを保っている。社会主義国、テクノクラート、秘密都市、空中交通…過ぎ去った未来感が、かえって美しくみえてしまうのは、自分の幼少期の故郷へのノスタルジーでしかないんだろうか。


多摩センターの駅近くの高度はぞくぞくするほど素晴らしく、山岳感すらあったが、降りてみると駅前の空虚なメルヘンチックさに2度身ぶるいする。サンリオピューロランドの町なのである。
京王堀之内駅まで出る。先程モノレールから見下ろした模型的下界の魅力など微塵も感じない、人間味の薄いありふれた幹線道路をあるき、熱帯魚屋に向かった。
夫は仕事のために金魚の写真を撮っていたが、私は退屈しのぎに冬のバラを眺めて歩いた。今年は冬のバラが特に美しい。暖冬だからか。東南アジアの化繊のような不思議な蛍光サーモン色をしていた。
用事はそれだけだったが、随分旅をして、夢うつつの境を彷徨い、朦朧と自分の世界の中に没入していくことが出来た。




12月16日

【香水 ある人殺しの物語】パトリック・ジュースキント著の原作を映画化した【パフューム】をかつて観た。非常に良く出来た映画だった。
18世紀フランスの暗い町並。ある若い天才的調香師が、究極の天然香料を追い求めて次々と行動を起こす。つまりは…美しい処女の肌から匂いたつ「フェロモン」を集めて、次々と通りすがりの少女を殺してゆくのだ。ホラーやスプラッタ映画ではない婉曲な血生臭さが、えも謂れぬ芳香のイメージと重ね合わせされ、独特の陰鬱さがあった。
天然のムスク香料とは、麝香鹿や麝香猫の腹部の香嚢から採ったフェロモン香料のことだ。今は採取が禁止され手に入らないが、かつては香水に使われていた。それを人間で応用しよう、という恐ろしい発想なのだ。しかし、想像する人は容易に想像することかもしれない。とくに香り好きな人は。
あの映画は、じつにシュールな終末的光景で終わった。「地球上の人類がみな媚薬の香りに溺れたら、こうなる」という、頽廃的なエログロシーン。


映画を観ている間じゅう、この究極のヒトフェロモン香水がもし本当にあったらどんな香りなのか、と鼻想像を巡らせていた。別に自分は調香師ではないので、想像も限られているが、自分がこれは官能的だと思ったことのある香水のイメージをかき集め、ある匂いのイメージを思い描いた。基本は様々なムスクの香料を思い出した。


最近流行りの無機的でアーティスティックなニッチフレグランスにちょっと反感を感じていたのだが、偏見も良くないので、時間のあるときに店頭で試香して確かめている。
やはり高額すぎる価格と調香が見合ってないな、と思う香水が多々ある中で、フランスの田舎の村でひっそりと職人たちの手作りで作られているという「MAD et LEN」には魅力を感じた。


この「MAD et LEN」の香水の一つに特に興味を持った。試香グラスでは気づかなかったが、人肌に乗せるとモワッとヤバい匂い、焦げた砂糖と熟れた果実の香りと、動物的な香り玉がはじける。
この匂いを嗅いで、ハッと久しぶりに上記の映画【パフューム】を思い出したのだった。私が当時思い描いていた、「殺気のあるヒトフェロモン」の香り…なんとなくだが、こういう匂いではなかったか…!
そう思うと余計に、顔を近づけたり遠ざけたりしてくんくん嗅がずにいられない。


その気になる香水の名をメモしようと見ると、【Das Parfum】ダスパルファムという名だった。
後で調べて驚いたのだが、【Das Parfum - Die Gechichte eins Morders】とはあの映画の原作小説の原題だったのだ。
やっぱり…と納得したような、怖いような。
人にとっての人フェロモン、ヒトムスクのイメージって、実は潜在的に共通して存在するのかもしれない。


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実際に現実世界で好感度のあるムスクは、もっと爽やかで工業的なホワイトムスクなのだろう。例えるなら洗いたてのシーツ、さらさらしたカルピスウォーター。しかしこれはこれで画一的でつまらないところもある。
自分の好みで言えば、もう少し扱いづらい動物系の匂いが面白い。


持っている香水の中で大切に使っているのは、Mona di Orio の【Nuit Noire】。黒い夜、という意味かな。ジャスミンの動物的なインドール臭にウッと顔を背けそうになる。ボールペンのインクと動物園を合わせた感じ。しかし時間が経つと肌の奥深くにお香が染み渡るような、よく眠れそうなパウダリーの、良い匂いになる。



Perfumrie Generaleの【L'oiseau de Nuit】。これは夜の鳥、という意味だろう。名前に惹かれて取り寄せて、香りでさらに情景が広がった。孤独だが甘い夜、という不思議なイメージだ。自分の持っている香水の名前は夜の…がつくことが多い。
ムスクというよりレザーなのかフルーツなのかバニラなのか、少ししょっぱく甘い餡パイ的な香。低いところにただよう獣臭である。



一番「ケモノ」的なのはセルジュ・ルタンスの【ムスク・クビライカーン】で、もうこれは強い動物園臭そのものだ。しかし本当に優しい芳香でもある。香水の「水」の部分を全く忘れたかのようなパウダリーさである。
しかし三つとも、難易度が高いので、あまり身につける機会がない。


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重心の低いムスクやレザーやアンバー香に対して、真っ直ぐに根から花芯まで立ち上るような香気にも憧れる。
何と言ってもイリス香。アイリス系の香りである。アイリスの香水についてはいつか文章に書いていたな。イリス香、天然も人工もあるが、肌の上で「化ける」余地のあるジャンルだと思う。


Heeley【Iris de Nuit】(夜のアヤメ)は最愛の香りの一つだが、まだ文章に書き残してないのでいつか書いておきたい。なんだか涙の出るようなスッとした匂い。イチジク的な果実感も少しある。母性的な男、という不思議な感じの匂いだ。薄紫色の水が無機的なボトルに美しく詰まっている。
この香りはオスカー・ワイルドの【ドリアン・グレイの肖像】のイメージを想定して作られたそうだ。自分へは読んでいないのだが…。
Heeleyは新しめのメゾンだが、素晴らしい香りを作ると思う。静けさ、知性、品格、デザイン性を兼ね備えている。ミーハーさは一切なく、しかしあざとい古臭さも一切無い。


最近のもので気に入ったイリス香はdiptyqueの【Fleur de Peau】、肌の花、という意味らしい。その名の通り肌を包む霧のような、発散するとも内包されるともつかない香りだ。植物の動物的部分というか。自分に似合うかは分からないしまだ掴みきれていないが、この香りは傑作のような気がする。




12月17日

東京駅から八王子まで。長距離ほどいかぬ中距離を、特急あずさに乗って帰ることが多い。来年からは自由席が廃止されて全席指定、八王子までの料金も100円高くなる。
それでも私は特急券をとって、乗って帰るだろう。夜景の絵巻を見ながら帰ることは飽きない。


この特急の車窓からの風景で、何度、すさんだ心が蘇ったことだろう。
特に今くらいの初冬、空気の澄んだ季節。まだ人々が仕事や夕飯の支度に忙しい夕方でも、めっきり外は暗くなり、建物の二階や三階の部屋の内部が煌々とした明かりであらわになっている。そんななかを、列車はすり抜けていく。
ぼんやりと音楽を聴いたりしている時ほど、自分の目は驚くほどの動体視力を発揮する。
人間の風景はこういう距離から見るのが、そして通りすがりが一番いい。淡く遠いものたちこそ、瞬時の隙間から、本質的なものをバシッと直球で投げかけてくる。



液体火花のような新宿の灯を過ぎた頃に見えてくる、青白く底光りするような「簿記スクール」「料理学校」「語学学校」などの、専門学校の建物が好きだ。
ワークルームのようなところで人がボードに何か書いていたり、一対一で誰かが深刻そうに面談していたり、何かの器具や容器が整然と、発光する消毒用の棚かなにかに並べられているのが見えたり。消灯した部屋に非常口の表示の緑の光だけ充満していたり。
意思を持って東京で生活している人間の、リアルな青い汗がしんと滲む。


今日はある建物の二階、ビリジアン色のリノリウム床の照り返しのうえに、白い丸テーブルと白い食堂椅子が6組ほど、狭い間隔で並べられている無人ルームが見えた。
無人ルームなんていうルームはないが、そういう風に言ってみると、空き部屋というより、なにか「目に見えないものをじっと培養している」ような生命感を感じる。
どこからか月のように青白い光りが漏れて、胸に残るような空間だった。


:::

学内誌の記事のために「私のこの一冊」を挙げてくれ、という依頼がF先生からあった。しばらくはあれやこれやと浮き立って、若い頃に読んだ色々な本を思い出していたが、この「一冊」と言われるのであれば、北原白秋の詩集は外せない、と思い始めた。 文学への扉をこじ開けたのも、同時に絵画的世界の幕を切って落とさせたのも、白秋の処女詩集【思ひ出】である。
トランプの女王の絵札が描かれた白い函。音韻的には素朴な唱歌のリズムのようでいながら、立ち上がる情景は妖艶で濃厚だ。語りやすいという意味でもこの本が一番いいだろう…と思っていたが、今日は、【思い出】の次に買った白秋の【雪と花火】の方を推したい気分になっている。
上に書いたような東京の風景、専門学校や研究施設の無人の夜にシュールな詩情を感じるようになったのは、むしろ【雪と花火】の影響だ。
どちらにしようか、悩み始める。




12月22日

岡本喜八監督【血と砂】を観て茫然自失状態になってしまった。小さい動画画面で観ていたのだが、楽隊の掻き鳴らすジャズのさなかに、または敵の包囲網と激しい爆撃のど真ん中に放り込まれたように、まるっきり入り込んで観てしまった。
ココロの状態が非常に疲労して悪く最弱になっていた時だったので、夜中に混乱で真っ白になってしまい夫を心配させた。
まあそれはさておき、傑作だと思った。
幼い子供めいた未熟な青年兵の鼓笛隊が突然、日中戦争の戦火の最前線に投げ込まれる。人間臭い三船敏郎の隊長、板前の7年兵佐藤充、遺体を葬ることだけはできる伊藤雄之助、朝鮮からの慰安婦団令子などが、まるでガタガタのジンタのような部隊を護りながら最難関の適地を奪うが…


全体的にシュールで、青年たちも戦時中というより1960年代的な軟弱さで描かれコミカルで笑えるのだが、実際に今の自分が無防備に戦地に立ったたような凄まじいリアルさも同時に感じる。あるいは芸大の学生が突然戦地に投げ込まれることを思ってしまう。兵隊が一人死ぬたび、自分らの生の身体が突然狙撃されてしまったような乾いた衝撃がある。
彼等の奏でる音楽だけはガタガタジンタでは全くなく、すばらしく組織されたど迫力のジャズバンドであり、映画の最初から最後までもう一貫してそのグルーヴ感で最後まで押し切っている。
駐屯する地区の廃墟のような広場で奏でられる「夕焼け小焼け」は、今まで聴いた中で最高の「夕焼け小焼け」だった。


こんな映画を作る大人、こんなことを叫ぶ映画人がいた時代だったのだ。今のご時世には考えられない。


:::


他人の前で言葉を発するのが非常にきついときがあるのだ。
理路整然とはなしたり、他人にわかるように説明したり、会話の最中でも脳裏で文を組み立てたり、それをしようとすると吐気に襲われる。そういうことへの拒絶がかなり自身の中で高まっているのだろう。
家での会話では、寝言のように断片をボツボツ呟くだけにした。私は楽だが、夫は聞き取るのが大変かもしれない。



けれど、きょう、意外なことから気持ちが楽になれることに気づいた。
どうやら、独り言をボソボソ呟くと、気が楽になるのである。
バスの車窓から読み取れる町の看板の文言を、とにかくひたすら口のなかで発声してみた。「洗車オーケー…」「〇〇不動産 …」「クリスマス…オーナメントあります」
何故かわからないが、何気ない店名や広告の文句でも、なんだか無性に美しいリズムと美をもった詩句に思える。黙読ではなく、口ずさむのである。
カラオケの音量の口ずさみかたとこれとは、別だ。うわごとのように、かすれ声で、呟くのだ。それが虫の羽の擦れのかそけき音のようで、心地よい。


他人が私のそんな様子に気づいたら、完全に変に見えたろう。いや実際に、変ではある。しかし、自分にとって、大切な何かがこの独り言の発語感覚と結びつくような気がした。よいことを発見した。



12月24日


腹痛を紛らわせるために深夜、本を一冊枕元に置いておいた。いつ買ったかもわからない、おそらく私ではなく夫が買った古本である。西条八十【詩の味わい方】。
熱でぼんやり読んでいるのだが、いまの私にとって一番必要な何かがある本だった。
当時の西洋詩や日本詩を紹介しながら、自分の日常生活の詩的体験を随筆のように綴る。
避暑に来た海辺の土地で、預かっている子供が遊びに行っている間、自分は裏山に本を持って上り、涼みながら読書をする。そこでは蜩(ひぐらし)が、かなかな、と鳴いている。いつ聞いても追憶を連れてくるこの鳴き声から、少年時のある感傷体験に時空が移る。ふと我に返ったとき、生まれて初めて蜩の虫の体を木の上に見る。この虫はなくたびにじりじりじり、と後退りする。
齢三十を越え人の寂寥を解する頃になって初めてこの虫の正体を明らかに見ることができた、と書いている。

ただそれだけの短文が、この上なく美しい。さすが西条八十である。
詩は意味を追いすぎてもいけなく、絵に描きすぎてもいけなく、歌のリズムのように音韻ばかり気にしすぎてもいけない…詩の身体に直接、手を触れては台無しなのである。詩とは態度そのもの、詩への「距離」じたいが詩になるのだ、と、このひとの文に触れて、感じた。

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ふと見ると、この本の持ち主なのか、文章が書き付けてあった。1926年…「いいでせう」などと、むかしの娘らしい文体だ。恋文のような甘さがあるが、「お前」と呼びかけて「私を慰めて」と言っているのは、この本に言っているのかもしれない。
1世紀近くのち、娘時代をとうにすぎたべつの女が、いま、慰められています。

:

真夏の海に続く、砂埃舞い立つむかしの一本道。白い着流しの青年が子供を二、三連れて歩いていく。そんな場面を写した黒白写真、深い青であろう夏空はほとんど真黒なほど暗く写真に焼き付けられている。丈高い夏草の道はやがて松林にとってかわる。松風、潮騒、保養所、日傘。窓を開け放したなんとか楼という料亭の二階、遠い半島の山影、知らぬ家族の法事の乾いた笑い、慎ましい喪服の黒。釣り船の影、軋むほどの蝉の声が眠りのなかで鈴の音のように静まっていく時間。
そんな場面…本の中でもいい、映画でも、いつかたまたま手に入れた昭和初期の子供の日記でも、かつての日本の夏の埃っぽい幻影に触れると、自分の感受性も何故か息を吹き返す。その時代に生きていたわけではないのだが。



12月30日


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夫の郷里の県に居る。お義母さんが取ってくれたホテルの部屋からは、高速のインターチェンジの複雑なカーブが見える。
この夜景が非常に気に入った。自分の青春時代の「夜、郊外、車」を凝縮したような懐かしさを感じる。似たようなシチュエーションの宿の窓は見てきたが、ここの風景はなにかダイレクトに情緒を打ってくる。
他の場所では硬い甲虫のように見える夜のトラックたちが、この窓からは色とりどりの蛾のように見える。フワッと飛んで居るように。道路が近いからそう見えるのか。
ふと、どこからかジュディ・オングの【魅せられて】の割れた大音響が走って来る。女のスプレー画を描いたような極彩色のトラックがその音を流しているのを思い浮かべながら寝床にくるまっている。車の姿を確認はしなかった。





by meo-flowerless | 2018-12-02 10:00 | 日記