画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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湖畔展望純愛ホテル


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いつも、遠くから望んでいるだけの建物。
そういう建物の得体の知れない影に向かって、下調べもせずに、何となくふらふらと近付いてみたい......
渇いた秋の陽射し射す今日は、そんな気分のする休日だった。



相模湖は高尾山とともに、自宅から一番近い観光地だ。高尾山が中高年で賑わうのに比べ、完全なる「斜陽」のレトロリゾートである。
以前から、相模湖畔遠くに見えている、崖にポツンと日光を受けて立つ巨大な建物が気になっていた。
この初夏に母と遊覧船に乗ってかなり近付き、それがピンク色の外壁のラブホテルだということを知った。
今日は水上ではなく陸路でそこに近付いてみよう、と歩きはじめた。
薄々知っている噂によればその建物はもう廃墟なのだが、そこへの道順も建物の情報も、今日は敢えて事前に調べない。



この地域の風景は、湖畔を底とすると、そこから一段上の道の集落、二段上の道の集落、三段上は甲州街道の宿場町、四段上は中央本線の線路、そこから遥か上に中央高速の恐ろしく足長の橋脚、そして山稜、というように段階的になっている。夢の景色のように、複雑な高低差がある。
家々は湖面を見下ろすように作られていて、各家の思い思いの畑地に果実やススキが揺れ、一面に西日を受けている。
終末的な静けさである。
一輪だけ咲いた冬の薔薇、一つだけ残った柑橘の実、そこだけ白い一群れの白菊、突然赤い気まぐれな紅葉。けだるい金色の空気の中に、そういう唐突な色彩が、不審火のように閃いてみえる。

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土蔵もあちこちにあるようなローカルな家並を歩いていたが、ふと、白いモダンな邸宅の廃墟を見かける。
鋭角の宇宙船じみた、二階部分に比重のある、60年代旧共産圏のようなモダンさだ。石の張りかたや、玄関の化粧板の模様などが、あの時代のデザインの暖かみを感じさせる。
【東京少年少女合唱団】、と書かれた小さな札が外壁に掲げてあった。
裏手の日だまりにはテーブルとパイプ椅子が残されている。合唱団の関係者がそこで憩っていたのだろう。誰かが遺した雨傘が幾つも、破れた壁の隙間からのぞいている。
二階の部屋からは、いつも子供の合唱の声が聞こえていただろう。風が葉を揺らす音しかない空間に、籠ったピアノ伴奏の空耳も聞こえそうな気がした。


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細い石段や、橇のワダチのような草むらの私道を、何回上り下りしたか。
進めども、全て人の家にいきつくばかり。どこも、桃源郷のマヨイガめいた気のする門前だ。
山並や高速の橋桁の死角になり、ホテルの形はいっこうに見えて来ない。相模湖駅を出てからひたすら、何となく勘で方向を見定めて歩いているだけだ。
しかしやっと、畑地のススキの向こうに、桃色の建物が遠く見えてきた。
残念ながらどの私道もこの辺で行き止まりのようで、もうこの先、人家の間をたどってそこまで辿り着けそうにない。
しょうがなく道を変え、交通量の多く殺伐とした甲州街道を辿ることにする。



山のカーヴは完全に車のためのサーキット状態で、歩道は作られていない。そんなところをとぼとぼと歩く歩行客がいると、車の人間がびっくりしてハンドル操作を誤りそうな道だ。山と中央高速の影になって、陰惨な感じもする。
とうとう、歩きであのホテルまで到達することは、諦めた。
急激にスピードも落とさずにカーヴを曲がって来る車の、どれかに轢かれることしか思い浮かばなかったのだ。


三十分ほど歩き、湖畔の船着場に引き返した。
何年も同じことを叫んでいるであろう、おじさんの呼び込みだけが賑やかだ。
クジラ丸やスワン、怪獣型の脚こぎ舟など、湖面の面々は案外レパートリーがある。免許がなくともハンドルで運転出来る「簡易モーターボート」を借り、夫に運転してもらうことにした。
目指すは、はるか西日のなかに屹立する、ピンクのホテルだ。湖面からは、本当に良くあのホテルが見えるのだ。



湖水は、溶かした金属のようにとろみがある。山と山の間にも、黄金の夕陽がある。
まがまがしいくらいの美しい景色なのだが、まがまがしさを垂れ流しっぱなしの調整弁ナシのような中途半端さが、ここを過疎のリゾートにさせるのだろう。
船は緩い水の抵抗にあいながら、まっすぐにホテル下を目指す。
逆光になりながら、鴨や川鵜が湖面を走り飛びしている。水の重みを身体の近くに感じると、遊覧船の何倍も、死が近いように感じる。
そのウラ悲しさも良い。


桃色ホテルの妖気は、やはり素晴らしかった。
西日の金霞をひと刷毛塗られ、すうっと空気の向こうにぼやけた姿は、怪物的な巨大さというよりも、妖精感を帯びて見える。
この建物のウラ悲しい素晴らしさの理由のひとつは、その巨軀と色彩のミスマッチだ。
十階建てくらいの威圧的な直方体は、幽閉のための高楼という感じがする。しかし「苺味のウエディングケーキ」のような桃と白のカラーが、その威圧に空虚なトリップ感覚を与えている。
しかもてっぺんのターコイズブルーの大看板には、白文字で【中国料理】と自信を持って書かれている。上に小さく【ローヤル】とも書かれており、そのやさぐれたラブホテル的命名と自信ありげな【中国料理】とが、どうも合致しない。

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湖上から目を凝らすと、最上階に幾つものアーチ窓が並び、ガラス窓が破れているのが見える。
さぞ、巨大で優雅な「展望式中華レストラン」だったと思われる。
近辺の他のラブホテルのインスタントな享楽感とは一線を画す、生真面目に観光を提供している重さを感じる。
廃墟ホラーの怖さというよりも、童話の怖さとメロドラマの怖さと三面記事の事件の怖さを、ひっくるめて一手に担っているような建物である。



私がこういう建造物にジリジリと焦がれ憧れるのは、実生活でラブホテルが好きだからでも、廃墟マニアかだらでも、じつはない。
確かに自分は【密愛村】などの絵に、こういう地方の山林の歓楽施設を描く。しかしそれは、そういう状況での享楽が自分の人生に根深く繋がっているからではない。
むしろ、その逆である。
とくに、ラブホテルの「車のスピード+性の享楽」という要素は、自分の人生とずっとまじわらない、ねじれの位置にあるような要素だった。
ラブホテルが現実のものとして現前する時には、自分は亡霊のような、関係のない存在である。逆に、自分が生身の現実である時には、ラブホテルは役目を終えた廃墟でしかない。
そういう関係なのである。
どちらかがあの世のものであるような、一択しか無いような怖さがある。魅力的でも、何か致命的な不相性を感じるのだ。



小さい頃、家に車が無かったからかもしれない。まずは、車に対する屈折した憧れと倍の恐怖感がある。
それと、周りに親戚や知人などのお兄さんやお姉さんの若いカップルを見かけたことが無かったこともあるだろう。昔から、道ゆくレジャーの車中にカップルを見かけてでさえ、毒の実を食べたような吐気を感じるのである。他人の性に対するちょっとコントロールしかねる羨望とショック反応のようなもの。空腹時のげろのような、情けない吐気。その吐気が嫌いなのではないが。
仮にローヤル中国料理のラブホテルがいま経営していたところで、やはり私自身が面白半分に入ることは無かったのではないか。
孤立した抜け殻であり、森の中遠く見るしかないからこそ、あの建物が急に、自分の世界のものとして入り込んでくるのだ。嫌悪感混じりの羨望も、誰のものでもなくなり過ぎ去った価値になってから、しみじみとした親近感を帯びてくる。


よく、私の絵を見て矢鱈に「怖い」「怖い」という人がいる。情念が怖いのか、夜闇感が怖いのか、孤立感が怖いのか。そのときだけは心の中で、怖くも何ともねーだろうが、と突っ張ってみるのだが、じつは、自分自身が一番怖いのである。
ありきたりのホラーや怪談のような怖さなど何も興味は無いが、そういう怖さではない別の怖さに、ずっと昔から、そして今も、自分は怯えているのだと思う。それは、上に書いた他人の性へのショック反応と関係があるし、もっと自分の根源的な対人恐怖感からも来る。
そしてその「怯えの距離」を正確に感じながら手綱を取っている時、にしか、自分はうまく絵が描けていない。
他人を驚かせたり魅了したりするための表現的な怖さではなく、私は私自身のこの怯えと一生やり取りするためだけに足掻いて、描いたり書いたりするのだろう。



モーターボートを切り返して、船着場へ帰る。夫も私も身体が冷えきっている。
極端に睡気に襲われ無口になった夫が「甘酒が呑みたい....」と呟いているので、ひなびた湖畔の店並みの一つに入る。
三匹の、置物のように動かない愛玩犬が椅子の上で出迎える。
いそべ巻きが美味い。地酒で作ったという甘酒はウッとむせるほど濃い。
店奥にエマニュエル籐椅子が置いてあり、時代を感じさせる。何故かそこから奥に続く廊下がスロープになっていて、ダックスフントがその奥を黙ってじっと見ているのが気になった。

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餅を食べつつ、携帯のサイトで、先ほどのホテルを調べてみる気にやっとなる。
「廃墟マニアには垂涎の廃墟だが、警備会社のガードが厳しく、入ることは難しい」という情報は、何となく知っていた。しかし自分は、廃墟探検としてあそこを訪れてみたいわけではなかった。



ラブホテルになる前は、普通の観光ホテルとして経営をはじめた建物だった、という情報を初めて知った。
それであの建物の荘重な造りに、納得がいった。それを知った瞬間に何故だか、いままでの倍の悲哀が押し寄せた。
誰かが誰かの情報を又書きしたものを読んだだけだが、「ラブホテルに経営体制を変えた後でも、夕食はそこの最上階の中国料理レストランで取らなければならず、朝食もそこでするようになっていた」とか。
ご清遊のように品良く景色を楽しみながら、たっぷり性愛も満喫しろ、ということか。
しかし、それが可能な奥深い♨︎温泉地のようにはいかない、中途半端なリゾートの娯楽感に、どのくらい客が身も心もまかせられたか、は、非常に微妙だ。



しかしだ。
そのキチッとした「夕食付き朝食付き」の一夜の火遊びシステムが本当だったとしたら、なんと自分にとっては、魅力的だっただろう。
そこには、普通の軽やかなラブホとも、湿気を帯びすぎた温泉地とも、まったくちがった「うまくはいかない屈折した童話」が感じられるではないか。
単に肉体関係をしに来たはずのに、その前にに食膳がしみじみうまかったり妙にまずくて苛立ったり、景色に気を取られて黙り込んだり.....とにかく、そういう悠長な時間とは、とてもじれったくて奇妙ではないか。
でも、その悠長な馬鹿馬鹿しさは、さっき書いた他人の刹那的な性に感じる「空腹時のげろ感」とは対極にある、「涙で胸が詰まる純愛感」に通じるのだ。
欲情の隙に膨大な風景が入り込んできてしまう、風景を背負いこんでしまってぎごちなくなった男女の光景にしか、自分は惹かれないのだと思う。


客のニーズと一致しない、経営者のどこかにきっとあった気がしてならない「純愛」へのロマンチシズムのようなものに、自分は最大限の、物哀しい敬意のようなものを感じるのだった。


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by meo-flowerless | 2018-11-25 22:32 |