画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2018年4月の日記

2018年4月の日記



4月1日

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デザインの全てが仏教的要素に満ちているようなラオス。初めての旅行者である自分にはある種のテーマパークのような面白さがあった。



一方で先日、三浦半島の城ヶ島の岩陰にある祠を久しぶりに訪れた。海外で見る異質な祝祭性とはべつの、日本人としての血にグッとくい込んでくるような何かをその光景に感じた。波に様々な構造物を攫われ続けては、誰かの手でささやかに飾られている、定型のない祠。いまは、岩の割れ目の奥にぽつんと鮮やかな立像が立っている。鳥居の奥なので神像の意味があるのだろうが、普通に仏像のようである。水辺の神様だから弁天様か。
以前来たときにこれがあったか、思い出せない。風土の落とし子のような立像。
海の色といい、枯れた民宿廃墟群の白茶けた色といい…。海外では感じることのない、情けなくも荘厳な、胸掻き立てられる魅力を感じる。その土地に住まないとわからない郷愁的色彩があるのだろう。


少し調べたら、三浦一族の小桜姫を祀った小桜観音と分かった。そう言えばもっと御堂の体をなしていた頃のことを朧に思い出した。

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身体のあまりきかなくなった父を車椅子で連れ出し、裏の川に花見に。父がゆっくり桜を見るのは2年ぶりくらいなのではないか。夫に手伝ってもらい、今年はもう少し連れ出したいが。
父はあまり言葉を発さなかったが、しわがれ声でなにか少し歌った。「いま何歌ったの?」と聞くと「荒城の月」と言った。



4月16日


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研究室ウラ畑に設置した鳥の餌台に、ヒヨドリが来ていた。
すごい食欲。食べっぷりが誰かに似ている…ってまあ私に似ている。オレンジの半切を飽きもせず、なくなるまでずっと食べてる。
でも本当は、春だからもう餌付けしてはいけない季節だ。


4月13日


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魚の影が虹になっていて美しい。




4月14日

日本の古い着物地から始まり、大胆なユーモアで舌を巻くアフリカンプリントのカンガ、モン族のハレーション起こしそうなプリーツスカート、インドやパキスタンのド派手なサルワール用布、カンタ刺繍、インドネシアのざわざわしたバティックなど、さまざまな布地にはまってきた。
ベトナムに行った時には、市場に滝のように垂れ下がる極彩色の花柄アオザイ布を買い付けることを覚えてしまい、カンボジアの玉虫のように色の変わるシルクや、ラオスの華麗な詩集のスカート「シン」が市場に溢れる様を見たときには、もう買う前から人生が破産したようなきもちになった。…まあ金持ちでは無いので山ほど買い占めるなんてことは私には出来ないのだが。悪い癖だが、さらに世界の染織文化の奥深さに目覚めてしまうと、なんだか勝手に、現代のアートシーンへの興味が益々遠のいてしまう。

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インターネットで更に、ウズベキスタンの曲線の呪術的な絣「アトラス」や、モロッコの落書きのように朴訥な織物「アジラル」を知ってしまい、言語を絶する世界にまた足を踏み入れそうである。出典はetsyから。


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旅先のアジアの国々で様々なものを食べても、もう私はあまり腹下しなどしない。いわゆる【旅行者下痢症】というやつ。慣れたのか。
しかし帰国してから、自分でエスニック調味料を買い調理して食べていたら、これでもかというくらい腹を下し、腸の機能が低下してしまった。何がいけないんだろう....
タイカレー、ラオスのラープ、ベトナムの生春巻き、シンガポールラクサ、と全く違う種のものでも、ぜんぶだめ。辛くても、辛くなくても駄目。凄く悲しい。腹の底から悲しい。
そんなときに食べる味噌汁のうまみに、あらためてひれ伏す。五臓六腑に染み渡る塩分。おかげで少し体調が整った。



4月16日

なんの元気もない。どう元気出していいのかもわからない。しかし職業上、元気のなさをそのまま晒すわけにもいかない。
油壺に行った時は束の間なにかを取り戻しかけたから、何が必要なのかはなんとなくわかってはいる。自分にとっての雑音全て消し去りたい。




4月18日


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出張先の奈良で買った、現地発の足袋スニーカー。ハコに何故か「め」と書いてあり捨て難いのだが、要らないなあ…



4月19日


奈良の研修旅行引率。今日は好きな寺ばかりの行程だった。
女人高野と呼ばれた室生寺は、桃色の石楠花の花盛り。高い石段の上から山の端を見下ろすと、初夏らしい風に紛れて微かに、何処からか尺八の音がする。若葉がまぶしくかすこし白昼夢のような感じに襲われる。
古美研はただ見るだけではなく、音の要素も大事だ、と改めて思う。降りてみると音の正体がわかった。山門近くで虚無僧が尺八を吹く音だった。


室生寺に売られているお香は、女性的なおしろいのような匂いで、他寺とは趣が違う。御堂に漂っているわけではないが、前回の引率時買って帰った。心折れて癒されたい時だけに家で焚くのだ。


国宝・金堂のなかの像は、一目で惹かれてしまう魅力的な姿。が、自分はそれにも増して、光背に消え残る細密な装飾描画に眼が釘付けである。
見ている間は「これほどまで飽きない色がどこにあろうか」と感じているが、あとで思い返そうとしても、装飾のディティールまで思い出すことが出来ない。平面的な図柄の魅力だけでなく、剥がれ落ちたり抉れたりした凹凸に色が乗っており、空間が積層して半立体になっているような、複雑な次元に迷い込んだような感覚がある。
日頃自分が絵画で親しんでいる色彩が、まだまだどれほど単純で言葉で決めつけられた世界にあるのか、とも思う。
川の太鼓橋の欄干。水面から、もう夏の陽炎が立ち上る錯覚がする。


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河原の磨崖仏の大野寺。妖艶な十一面観世音にみとれつつ奈良の都をはるか下界に見渡す山上の聖林寺…
山のカーブを延々とバスで巡り、最後に辿り着くのが円成寺。どんなお寺だっけ?と、来るたびに名前だけでは思い出せないのに、御堂に入って内部の四本柱を見て「ああっ!このお寺だ」と感じ入る寺だ。剥落してはいるが極彩色の痕跡が残る柱の絵画。聖衆来迎二十五菩薩の舞う姿が描かれているのだ。


室生寺の仏様の光背も素晴らしいが、こちらの柱はさらに、柱の丸みの上に舞姿が浮き出すようなイリュージョンを感じる。古色の残り方も、全身の細胞がざわめくほど魅力的な色だ。特に青暗さが残る部分。ラピスラズリか。
写真に留められないので、来るたび記憶のなかに刻もうとしていたが、今回は絵葉書を買った。写真ではなかなか色はそこまで再現されないが、代わりに、像一人一人の表情の豊かさに驚く。


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4月20日

法隆寺、法輪寺などを拝観。慈光院では庭を拝観しながら抹茶と落雁を頂く。
来るたびごとに感じ入るポイントが違うのだが、今回はやけに仏像のもとの色彩の痕跡や光背の色彩が目に入ってくる。恥ずかしながら大学生で見学したときは殆ど一色の煤けた色にしか見えていなかった。
二月にカンボジアでアンコール・ワットなどを見た経験に呼応しているのかもしれない。カンボジア遺跡のあの徹底的な石の浮彫宇宙と、日本の仏や木造建築に染み込んだ絵画的仏教世界の色彩と。記憶を引っぱり出して色々な空間を頭で比べながら楽しむ。


以前の旅で各寺の御香を集めたが、今回は持っていないものを買い求めた。法隆寺の「伽羅」と、慈光院の「霊鳳」。施設の部屋で焚くことはできないが、箱を置いておくだけで体がすうっと澄むような香りだ。

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4月22日

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天からの一滴の雫のような休日。引率の中日、学生はそれぞれの自由研修へ。私は独りの時間を堪能する。
猿沢池ほとりの蕎麦屋の、古い佇まいが良い。
そよかぜ、さざなみという言葉が空虚な記号じゃなくリアルな光景としてある。池の水が澄んでいるわけではないが。
連日の夏日和に、商店街で半袖の服を買った。水の波紋がテーマ。暑いんだもの。


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バスから降りてトボトボ辿り着いた般若寺は、人もまばら。
素朴な板で適当に(すみません)作られた入口を入ると広がる光景の、家庭菜園感かつ桃源郷感に、はじめぽかんとしてしまったが、なぜかあとから涙ぐんでしまった。
なぜだか無性に懐かしい。いじらしい。
やっと自分の素に戻れた気になる。


山吹が咲き乱れていた。二人ほど庭を撮っている人はいるが、御堂で手を合わせる者は私しかしかいない。花の寺ということで、「秋桜」「山吹」「紫陽花」の銘の御香があると何処かで読んで来たのだが、もうそれらは売られていなかった。日本の陰影とはまた別の、スコーンと青空に突き抜けた郷愁を感じるお寺だった。


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普通のローカルな古商店街などが好きなので、キンギョ名産の町「大和郡山」に下車してみる。が、例のごとく「普通のローカル商店街は日曜はどこもシャッター閉めている」ことを忘れていた。それとも元々シャッター通りなのかな。
和食屋で弁当定食を食べるが、教員会議の時の弁当を思い出す味で急にげんなりする。いま世界で一番忘れたいあの時空…忘れよう。
店内には山口百恵「秋桜」のシンセサイザー琴BGMが宇宙的なエコーで鳴り響いている。さっきの通称コスモス寺「般若寺」の佇まいを思い出し切なくなる。
閉まったスーパーのシャッター前にキンギョ改札の水槽がポツネンとありキンギョが泳いでいた。それを写真に収めただけで、町歩きはやめて長谷寺に向かうことにする。



高いところにある長谷寺だが、最寄駅からして高いところにある。駅前から谷あいの古い集落を見下ろすときの、素晴らしい景観。
しかし、古めかしい観光アーチをくぐったあとは、延々と家並みの隙間の急な階段や細坂を一度下まで降りていかなければならない。それでまた、長谷寺に着いたらあの名物の階段廊下を、ずっと上がらなければいけないのである。
観光の道としては非合理的だが、まあ参詣の路としては、体に距離の感動が叩き込まれる良いみちすじだ。
門前町の佇まいが素晴らしい。ただ和風の街並なのではなく、本当に生活の積層感のある、素晴らしい意匠の家屋が立ち並ぶ。お寺にあやかっているのか、町中で牡丹の花をかざり、またそれを売っている。



長谷寺は高校の修学旅行、大学生の古美研と二回行って、非常に感動した寺である。高所恐怖症にも関わらず、私は長谷寺とか二月堂とか清水寺などの高いところの寺が大好きだ。しかし、いまの古美研の行程には長谷寺は入れられなくなった。いつから、何故だろうか。
山門のところに差し掛かると、ふと何処か遠くに、男の朗々とした声の和讃が聞こえた。なんとも言えず美しい旋律に思え身が震えたが、その方を見ると同時に歌いやめてしまった。
ふと長谷寺、和讃の連想から、夫の顔が目に浮かんだ。彼はいつか私に長谷寺の話をしたのだったか?
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階段の回廊脇には、深紅や桃色の牡丹が咲き乱れている。ツンとする匂いのどこかに、白檀に似たものを感じる。
はるか山麓を見下ろせる舞台に立ってみたが、なんともいえない憂いを感じた。
相変わらず建築や野山の全てが美しいのだが。これまで二回来た時と全く違う場所だと感じる。
山の藤の色、五色の幕の色、深い古色の迫力ある建造物。全て変わりないはずなのに、印象としては鏡写しの世界に入り込んだように全ての印象が逆向きである。それが我ながら奇妙だった。
様々な寺に行くたび浄化されるような変化が自分の中にあるのだが、その清浄で深く澄み切った心象を、帰京後の生活で全く維持できないのが不思議だ。他のただの土地の風景の記憶はそう忘れないのに、古美研では毎回自分が別人のようなのは何故か、と考える。やがて、自分の様々な時期の別々な憂愁を一気に思い出し、別々な自分数人分のやり切れなさを一手に担ったようで、またもメランコリーに襲われた。


しかし、この今日の長谷寺への彷徨。自分にとってはばしっとストライクがはいったような憂いでもあった。良い憂愁が不足すると悪い憂鬱になるのだ。自分にとって不可欠で大事な憂いがある。大事な憂いを確保できない環境や喧騒には、それが楽しく暖かいものであってさえ、いつしか心が圧迫される。明るく楽しければ生きていけるというタイプの人間ではないのだ。


憂愁。若葉の木下闇、緑の深さ、夕方と夜のきめ細やかさ。鳥のこだま。遠い光の鳥瞰。寂しい駅舎。目的のない独りの彷徨。我が身のたよりなさ。沈黙、沈思、静寂。空耳、記憶の錯綜。自分の中に永遠にあるであろう「青年」性。


本堂で特別公開の、巨大な仏様の足に触れながら、願い事をする。
私の前の夫婦二組とも、並んでいるときは興味なさそうな気楽な観光客だったのが、いざ足に触れながら願い事をし始めると、そうとう信仰篤いひとのように驚くほど長く、おでこを擦り付けるようにしてしつこく一心に祈っていたのが、妙に目に焼き付いた。


夫に長谷寺舞台の眺望写真をメールすると、「俺も前に長谷寺は行った。その時に和讃を聴いた」と返ってきた。やはり、彼の古美研の行程にはまだ長谷寺はあったのだな。そしてやはり和讃の話もたしか私にしてくれたのだ。
帰りの門前には、もう何の声も聞こえなかった。




4月27日

長谷寺の仏様の御足に頭を擦り付けんばかりに祈念していた年輩の方々。
その祈る心が、急に現実の自分の心のことになろうとは。
しかし様々な寺を巡るうちに自然に体感していた感覚がこれからの自分を少しは助けるような気もする。
「とにかく一つ一つ、やっていくしかない。一歩一歩ずつ、生きていくしかない」
という感覚。
しかし今日はさすがに身体の力が抜けてしまっていた。



4月28日

幼い頃の私に戻って母に会っていたい。いまのこんな糞みたいに汚れたおばさんの私ではなくて。母にとってはいつまでも娘は娘だろうけど、それでも私はそう思う。
少なくとも、くどくどとした、いまの職場での悩みの話などはやめたい。


by meo-flowerless | 2018-04-01 10:46 | 日記