画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2018年1月の日記

2018年1月の日記






1月1日


「ひっそりとした、何を研究しているか分からない古い研究所」の建造物を探して回りたい。

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新年で、それなりに簡素に気分が改まっている。しかしそれは、若い頃のように何もかも新鮮にリフレッシュしたような改まりかたではない、と思う。
ひじょうにやるせなさを抱えたままに、有難く年あらたまるのである。静かな泣き笑いのような感覚で幸せを感じるようになっているのだ、だんだんと。
親の身体のこと、自分の身体のことに体する不安。仕事場の愁い。年々ふくれあがる漠然とした挫折感、諦念や自嘲。大人だから様々なことの経験でそれに対処出来るかというと、それどころか、大人になればなるほど「初めての」痛みや疲れに出会い、それをどう判断するのか、迷い惑いまくるのである。そしてそのように骨身にしみることが、逆説的に生の実感になっていくのである。

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1月2日


「初夢なにみた?」と無邪気に訊く夫に、あなたと喧嘩する夢をみた、と伝えたら、少し機嫌を損ねてしまった。そりゃそうだごめん。
関西の地方都市の川面に映る夜景の絵に「何色の絵具を使うか、金か金緑か黄緑かどう色出しするか」というのと「ポイントはボールペンにするか油性ペンにするか」で言い合っていたのである。道端で金や金緑の6匹のカエルが「そーだそーだ、そりゃそうだ」と甲高いムシ声で囃し立てていた。


夫が「世界堂に絵具買いに行こう」と言っている。金の絵具か色鉛筆が欲しいのだという。「金のペンがいいんじゃない」と私は言う……
あれ、似てるな、喧嘩しないようにしよう。

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月がデカい。そういえばスーパームーンだったかもしれない。見ていて電柱にぶつかる。




1月3日


五木寛之の【孤独のすすめ】良さそう。買おう。
老いとは退化ではなく、成熟だからな。成熟のためには矜持が要るし、その矜持は自分の身を持った経験でしか得られない。他人と比べることで過敏に膨らんだりしぼんだりするものでもない。過敏であるがゆえに迎合を選んでしまうよりは、鈍感さを併せ持つ敏感さを維持することの方が難しい。矜持とは、必要な鈍感さを護るということでもあるのではないか。




1月4日


風邪などで床に伏せって、漠然と「ああ、どこかに行きたい…」と布団で思う時、決まって何処かのロープウェイの小さい駅をまず思い浮かべるのだが、あれはどこなのか。いつもだ。



1月5日


調子悪く起床出来るか不安なので、夫にももう一つアラームセットして起こしてもらうよう頼んだ。
無事に起床出来たが、夫はアラームに反応して物凄く切迫した声で「ほら連れて行った方がいいよ!黄色の!」と言いながら私を起こそうとする。「黄色の?」と聞くと「黄色じゃないね」と自ら訂正しながら寝てしまった。何だったろう。



1月6日


夜のバスの最後部座席で「次とまります」のブザーを押し、沈んだ車内のあちこちに浮かび上がるブザーの赤い光を見る。青暗い灯に、赤い水玉がポツポツと点在しているのが美しい。



1月8日


ラジオ深夜便で土居まさる【カレンダー】かかる。渋い良い選曲。ラジオ真夜中の浮遊感に浸る。

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制作の合間、チョコレートを食べながら様々なことをクヨクヨ思い悩んでいると、NHKラジオ昼のいこいから、大場久美子の歌声が流れてくる。
「〽︎ 大人になれば チョコレート食べて いろんなことを考えるものよ」
だって。本当だよ。

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最後の一枚が仕上がり、手元にラス3が揃う。



1月9日

夢。
雪の杉林の斜面にまるできのこのように、黄土色のペンキで塗られた小さい犬小屋が何百も乱立している。

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なんだか綺麗なものが落ちていた。裏に針金のついた布の薔薇だった。拾いはしなかった。



1月10日


今日は冬なのにコントラストの強いふしぎな陽射し。大塚あたりの「サウナ」とか「バッティングセンター」とか「整体学校」などの灯りの消えたネオン文字がガッシーンと鋭い影を落としていて、絵になる。


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制作は終わっても、展示までの作業の方が神経を使うかもしれない。今回は額装に自分でカラーマットを所望した結果、窓の切口の白地を、マットカラーと同色の絵具で慎重に平筆で2mm幅だけ塗っていく、という、外科手術のような作業が待っていた。
紙質はラシャなど独特の白っぽさがあり、アクリル絵具で同色まで混色するのは簡単ではない。
はみ出しても汚しても、手脂つけても色が違っても、ムラになってもいけない…
息を止め続けるような仕事にグッタリする。カラーマットてはたして功を奏すかもわからない。まあ奏すということにしよう。

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1月11日


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宛字辞典に載せたい案件。デニーズのデザート。



1月12日

さすがの疲れで階段を踏み外し派手にコケる。学生に見られていなくてよかった。

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帰宅し泥のように眠り、ふと目覚めると夫がDVDで山田洋次【家族】観ている。
1970年万博当時の日本景を寝ぼけ眼で私も眺める。東京での場面は上野動物園、東照宮、精養軒らしき建物。この五年後二歳の私がその空間に確かに出没し…それ以降四十年の歳月を経て今も自分は毎日そこに居るのか…と時空感覚狂う。
映画の設定では貧しい家族とはいえ、このような日本縦断の漂流があの時代にはあったのか、と一瞬、現実感がなかったが、伯母の漂流を思い起こして、ああ、と時代の深層に浸る。考えてみれば、父母も決して豊かではない新婚生活のなかで私を守ってきたのだな、とも思う。
東北から北海道に流れていく列車の夜景の場面に、ふと涙が浮かぶ。
あともう少しで制作も一段落がつく。もう少くし今年は父母の元で過ごしたい。



1月14日


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今日の作業、棚板。【小箱町】それぞれの色に合わせて塗装。

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熱かな…冷たいバナナ食べたい…


1月15日


鮭色、というのは本当に綺麗な色調だと思うんだけど、シャケのイメージを免れなくて損だな。言い換えてもサーモンピンクだし。



1月16日


真夜中のラジオからフランソワーズ・アルディの【もう森へなんか行かない】聴こえる。しみじみと良い。思えば一昨年【密愛村Ⅳ】の蝉時雨の少女の絵は、この歌からイメージが拡がっていった。


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展示作業。
額のカラーマットも、派手な棚板も、楽しげに調和してくれた。ここまでシリーズ総体感ある展示は2006年【徒花図鑑】以来かな、と勝手に思う。
立体の家の小さな電球はこの画廊だとかなり華やかに光る。基本照明を暗めにしようとしたがあまりにクリスマスなので、それはやめ。内容がのんきで気楽だが、今までと少し毛色の違う展示になったので気に入っている。



1月18日

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忙しさのあまり洗濯を貯めていて、この寒い夜に限ってクツ下が無い。震えて泣きそうな気持で引出しの全てをさらったら駅の売店でいつか買ったコイツが出てきて、たいへんに愛おしく思った。




1月19日

個展オープニング。多忙の中みなさん駆けつけてくださり、ひたすら感謝の念。

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今回の絵は「齋藤芽生」が描いた、というより、「あたし」が描いた絵である。
いつもより楽しげでアッケラカンとしているように見えるが、描いている精神状態はそういうものではなかった。
学生時代に怒りと孤独とヒネクレのなかで毎日誰のためにでもなく続けていた、【百花一言絶句】に帰りたい心理だったような。
だから意外ととっつきにくい絵なのかもしれない。人々の反応を見て思った。
それでいい。今回はこれが必要だった。



小さな犬小屋のなかで鼻ジワを寄せてウー…と言っている犬のような心理で描いていたかもしれない。
何に対しての鼻ジワ・ウーなのかは定かではないが、とにかく「だれか他人の脈絡」の奴隷にはなりたくない、という一貫した念に尽きた。この一年あまり。




1月20日

個展初日を迎えたら、或いは大学の授業期間を終えたら一段落つくはずで、大抵気分爽快で目覚めるのだが、そのどちらも果たせた今朝目覚めてみても、心身の疲れが全くとれない。積年のなにかの疲れであり、もうずっとなのだ。本当に本当に私は、休みたいのだけど。

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ブラームスのティンパニーがかっこいい、とラジオで耳にした夫が言っている。調べたら【交響曲第一番】。自分は交響曲が苦手でほぼ聴かなかったのだが、聴いてみたら滅茶滅茶かっこいい。勝手に八甲田山のような重厚映画のタイトルバックが浮かんだりもした。
ブラームスは【ハンガリー舞曲】連弾ピアノバージョンを学生時代にずっと聴いていた。バイオリンを習っていた昔からジプシー音楽が好きだったので、その要素のあるブラームスの曲はちゃんといつか聴きたい、と思ったまま果たせていなかった。「弦楽○重奏」のどれかに痺れた記憶があるが何重奏だったか思い出せない。しかし弦楽の方ではなくピアノ入りの【ピアノ四重奏第一番 第四楽章】と突き止めた。そして【ピアノ五重奏 へ短調】もとても素晴らしいと知った。私は交響曲より圧倒的に室内楽が好きなのだが、室内にも関わらずやけに激しい曲に、さらに惹かれる。


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youtubeでその【ピアノ四重奏第一番】の、1・2・3楽章を飛ばして第4楽章のジプシー風ロンドだけを何度も聴き比べてみる。変拍子の情熱的な難曲。アルゲリッチ、クレーメル、アイザック・スターンなど、クラシックに無知な私でも知っている錚々たる巨匠の演奏があったが、この曲は巨匠の腕の見せ合いになる前に、とにかく全員の息が合い神がかったグルーブ感がなければ、全く面白くないのだろうと感じた。確かに楽器ごとに火花散るような難曲だが、少しでも個々の演奏がエゴイスティックに聞こえ始めると、この曲の音楽としての楽しさは半減しそうだ。


室内楽は指揮者がなくて誰が曲を引っ張るのか…演奏の映像を色々見比べられる時代はそれを見ることができて非常に楽しい。
弦楽器陣の演奏の激しさで観て興奮したのはクリスティアン・テツラフらのもの、ピアノの楽しさで際立っているのはミハイル・ルディがピアノでグァルネリ弦楽団とやっているものだった。ピアノはペダル踏みながら壮麗に弾くより、一音一音素朴に強く早く叩いているような弾きかたのほうがこの曲には合っている。ピアノ四重奏曲だからピアノが面白く前に出てきてこそ、だ。ヴァイオリニストに他が合わせているような演奏ではあまり良さが発揮されないように聴こえた。
結局ピアニスト、ミハイル・ルディにはまった一日だった。理想の弾き方。ペダルでガンガン反響させず、しかし指の重さで力強く叩くような。ジャズ的な感じ。



1月21日

ふと仮眠の合間に夢を見る。怖い顔の老いた巫女が、私を指して恐ろしげにお告げをするので、寝ぼけ眼でおきながらイヤだなぁと思う。しかしお告げの内容が「赤いもの、白いもの、チロいものに人生を左右されよう」というもので、チロいものという説得力のなさに、やはり夢のお告げなど忘れることにする。

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展覧会開始や、息詰まるような緊張する仕事などが立て続けにあって、今日やっと一区切り。明日からが私にとっての正月三が日のような気分。休むぞ!



1月22日


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雪中散歩。地元は只今積雪十三センチ程。


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きょう入手した音楽は、フォーレの【ピアノ四重奏】【ピアノ五重奏】各二つずつが納められたもの(ジャン・ユボー盤)や、【ピアノ三重奏】フォーレだけではなくドビュッシーとラヴェルのがはいっている盤。
この辺はほとんど聴いたことがなく、フォーレは【夢のあとに】くらいしか知らなかった。そういう無知の半生をうんと後悔するほど、フォーレの三、四、五重奏曲はどれもこれも素晴らしかった。とくにふたつのクインテットは、今日のような雪の日のためにあるとしか思えない、静かな烈しさと深みを持った曲だった。涙腺が崩壊しどおしである。


若い時にもっとたくさんのクラシックの曲に出会っていればという後悔もあるが、クラシック沼の深さを恐れ経済的に手を出さなかったのは...まあ仕方ない気もする。
むしろ今聴くからしみいるのかもしれない。

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四年前の、大雪のときの帰宅時。
武蔵小金井駅でドアを開けたままシーンと一時停止したきりの中央線に不安を覚え、自分の判断で降りて、違うルートで帰宅しようとした。結局それが良くない判断で、郊外の自宅まで6時間以上かかってしまった。
覚えているのは、どこにいても茫然とするくらいの情報量のなさである。電車やバスの停車しているところに誰か張り付いて誘導したり次発車の案内をしてくれるわけではもちろんなく、駅員や運転手に質問しても「見通しがわからない」という返事だけ。
ケータイで色々覗き見る冷静な雪ニュースの程度と、自分が目の前にしている吹雪や交通麻痺の状態が全く釣り合わない。


陸の孤島と化していた京王線最寄駅で、坂の下で七台立往生しているらしいバスを待つか、雪中行軍で1.5km吹雪の中を歩いて帰るか迷い、駅前で時間を2時間も潰した。今考えるとあほみたいだが、あの時は本当に遭難感覚すらあった、のを思い出す。
今だったら迷わず中央線で我慢するか、多少の距離は歩いて帰るだろう。
慣れていない弱さ、というより、災害時において一気に情報弱者に「自ら」陥る危うさを知ったのだった。




1月23日


一日中ヘッドフォンでブラームスのいくつかのピアノ弦楽曲を聴きまくっていたら、体力を奪われた。自分で演奏しているわけでもないのに何となく酸欠になり、どっと疲れた。他の音楽を聴くのとは、違う感受性を使って聴いている感じがする。情緒豊かなようでいてものすごく音に構造があって抽象的なのだ。物語の為の音楽ではなく、音楽のための音楽、という感じ。バッハを聴く時はさらにその抽象性に没頭して聴くけれど、そういうとき自分の器官や脳のどんな部分を駆使して受け取っているのだろうか。



1月26日

何かを一回だけ試してみるとか、趣味の触りだけで何かをやる、という人には「構造」は必要ないかもしれない。けれど数回以上何かに携わればその行為の中に構造を求めるように…なるはずなのである。絵画でも音楽でも、言語表現でも。
構築するとはどういうことなのか、または他人の表現や営為にはどんな構築の労苦を通過しているのか、もっと若い時からちゃんと意識して学ぶ姿勢でいればよかった、と最近になって後悔することばかりだ。まあ今からでも学ぶことは出来るけれど。


1月27日

昨夜久しぶりに新宿東南口ビル内の「タワーレコード」に足を運ぶ。クラシックのCDを何か欲しくなり。へたすると10年以上行っていなかったか?
学生時代はアルバイトの帰りに夜2時間ほどここの試聴コーナーに入り浸るのが日課だった。試聴に出ているラインナップが変わらなくても、金が無くて買えなくても、とにかく居た。CDジャケのデザインを見るだけでも面白かったし。


当時は9階の広大なスペースが「クラシック/ジャズ/実験音楽/ワールド」という夢のような売場になっており、ほぼその売場に私は通った。系統だったアタマではないので、通ったところで何一つそれらジャンルに詳しくはならなかったが、夢のようにいろんな音楽を聴いてみたことは確かだ。
今はまず入口6階に「アニメ」7階には「JPOP.、KPOP」となっており、時代の変化を感じた。ジャズはロックの売場と併合。いや、クラシックとワールドの間にあるからよかったのだが。


クラシック売場でいきなり凄く惹かれるチェロの曲がかかっていたが、着いてすぐ店内オススメ音楽をすぐ買うのも詰まらんと思い、自分で好きなようにあれこれ物色していたが、「しっかしなんと引き込まれる曲だろう」と調べたらやはりブラームスだった。自分の琴線に確実に響く何かがあるんだろう。
高音部の旋律だけで出来ているのではなく低音部がちゃんと聞こえてきて補完しあって曲が進んで行く、あるいは和音の移行が楽しめる、あとは重心が低いのが好きなのだろう。多くの人間を震わせてきた音楽なので自分もその一人に過ぎないが、嫌いな人は大嫌いだろうな、とも思う。
クラシックに詳しくはないが、とにかく他ジャンルであろうが自分の好みははっきりしているとは思う。ブラームスはそのチェロソナタの盤、合唱曲、ピアノ五重奏を連弾でやったもの、ドヴォルザークは弦楽四重奏集、あとラフマニノフ/フランクのチェロソナタが入っているやつを買った。


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しかしオーケストラは昔から苦手である。なにか管楽器の塊がファーという音と、弦楽器の塊がシキシキシキというのの組み合わせに、どうしても居心地の悪さを感じる。
宇宙艦隊の進軍に居合わせてしまったか、白人の大企業の広大なオフィスに投げ込まれてしまったような不安がまずあって、音楽に没頭出来たことがあまりない。





1月28日


人前での話や執筆の時に、明確に言葉の構成を考えてから臨んだりするわけではないが、例えば「起承転結」型か「序破急」型かで言えば、「序破急」ほうの流れでものごとを展開するのが好きだと思う。起承転結は喜劇的、序破急は悲劇的と感じているからか。悲劇的というのは沈痛な惨劇のことを必ずしも指しているわけではないんだが。
起承転結と序破急の違いは単に四段構成か三段構成の違いかではない、最後が「結」で終わるか「急」で終わるかの質の違いの方が自分には重要だ。序破急の急の方が、崩壊や狂乱や霧散まで含む幅がある。
また音楽を聴いていてもその嗜好が自分のなかで強化される。起承転結型の曲は「起→承→転→結」と順を追っていくしかないが、序破急型の曲は「序破序破序破序破序破…急」のような逡巡も許されるように感じる。




1月31日

色んな音楽かけてよ、と夫に言われラフマニノフやらショスタコーヴィッチなどを流してみても、ここ数日の私は「…ねえブラームスに変えていいかな」と切り替えてしまう。しまいにはイヤホンの中の「空想ブラームス音マクラ」を抱き枕にガシッとしがみついて寝る…そして長々そこから目覚めない…というくらい中毒している。
こんな状態をかつても体験したぞ?と思い返し、アストル・ピアソラに嵌った時を思い出した。
そもそもタンゴ自体が好きではあったが、ピアソラへのハマりかたはもっとクラシック音楽的な構造の厚みへの嗜好だった。特に1970年代に一時期結成したという九重奏団コンフント9の盤、【バルダリート】をしつこく聴いていた。あの「不穏ながらも怒涛の包容力」のようなものを、ブラームスの室内楽に感じてるんだろう。
演奏者によってある程度違う演奏でも、作られた音楽の骨格は変わらないだろうと思う。ブラームスはメロディが安定せず、部分的にドカドカゴロゴロ激しいし、眠れるような音楽とも思えないのだが、安心して眠れる。体内で起きている内臓の様々な音に、合っているんだろう。


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普段よく聴いている昭和の歌謡曲や演歌も、クラシックに浸る時期は、何故か身に響いて来ない。音にハマるのは、麻薬中毒にも似たことなのかもしれないな。歌謡曲は音にハマるというより、背後の情景を喚起して、そこに詩のような文学性を感じつつ愛しているのだろう。
ただ、最近何故か、「バタヤンこと田端義夫が【かえり船】を唄う場面」が脳裏によく浮かぶ。日本の歌謡曲でそれだけ無性に聴きたいのは何故だろう…普段田端義夫を聴いているわけではなかったのに。ブラームスと田端義夫の相関が私のなかにあるのだろうか…少し謎である。カレーとらっきょうのような関係なのか。


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とにかく「技術がどれだけ蔑ろにされているか」ということに烈しい怒りが燃え盛っている。









by meo-flowerless | 2018-01-01 08:18 | 日記