画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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【何も死ぬことはないだろうに】北原ミレイ

雪が降る 雪が降る

涙こおらせ 雪が降る

あとでみんなはこう云うだろう

何も死ぬことはないだろうに



北原ミレイの歌う【何も死ぬことはないだろうに】というタイトルを見るたびに、なにも何も死ぬことはないだろうになんていう歌を作ることはないだろうに…とニヤリとしてしまう。

普通の歌謡曲タイトルに「死」という言葉を平気で使うのは、現代では考えられない感覚かもしれない。しかし6-70年代には割とあった。



歌謡曲に凝り始めたころ。

カセット懐メロコンピレーションに、弘田三枝子【私が死んだら】、カルメン・マキ【私が死んでも】、北原ミレイ【何も死ぬことはないだろうに】を続けて編集して聴いたりした。【死】とはいってももちろんリアルな苦悩は描かれず、さしたる理由も語られず、とにかく恋の相手に(と一緒に)美しい死をほのめかす、どれもそんな歌詞世界である。



最初は冗談のように連続して入れたのだが、全て佳曲で絶唱でもあり、聴きこむうちにその三曲のところで、必ず涙が浮かんでくるほどになった。失恋した時などには聴かない。幸福な状態の時ほど逆説的にしっくりくる三曲だ。その方が悲劇にたっぷり酔えるのである。

「幸福とはしょせん薄氷、いつか無惨にも美しく破れるのだ…」と、なんだかんだ言っても若気の至りで思い込んでいた。



年取った今は、やはり「死ぬほどのことかいな」と心でツッコミながら聴く。しかし何故この不幸志向の感性が存在したのかはいまでこそ心底、理解できる。

男が人生の中でヒーローの幻影と戯れずにいられないのと同じく、女はヒロインの呪縛からどこかで逃れられない。特に「悲劇の」ヒロインでなければ納得できない本能が若いときには働いていた。自分が老いて庇護の対象から次第に外れていくことに、本能的に抗うのだろうか。

同じ死ぬなら劇愛の顛末のはてに死にたい.....愛された者としての烙印を刻んで散りたい....そういうベタな憧れの数々を、今も私は決して、自らに恥じることが出来ない。



「見ていてくれないならもう私、死んじゃうから!」

あの、ヒロイズム的駆け引きの激情。ひょっとすると恋愛がらみというよりは、そもそもは、幼児の「母親との分離体験」の名残なのでは、とも思ったりもする。メメント・モリ(死を思え)の指令は他者から観念で教えられるのではなく、成長過程の分離不安をもって自らの身体で自覚する指令だ。各自がその意味と折り合いを付けながら死を知り死に憧れ、死を諦め死を越えて、やがて死んで行くものなのだろう。




6-70年代頃までは、若く鬱陶しい悲劇の駆け引きを、充分にさせてくれる温床が文化のなかにあったのだ。

しかし21世紀の日本、若年層の間でこれら悲劇のヒロイズムは【中二病】などの一言で揶揄され、嘲笑される。

「自分に酔う」「悲しみに酔う」「感情に溺れる」ということは、ありえないほどダサく、ウザく、恥ずかしいことなのだ。彼らはいやというほどモラトリアムの曖昧な長さに人生を埋めながらもモラトリアムの質的価値のほとんどを否定してしまう。

【中二病】という言葉は特に、大人からの愛ある目線というより、若い人自身の自嘲「ww」「笑」を帯びて定着してしまった厄介さがあるように思う。今の若い人にとって、死への情動やタナトスの発散は、大人の愛や庇護を引きよせる目的より、若い同世代間の牽制のために働くのだろうう。


「自分に酔える」余地の広さ、迷いの道の長さ、逡巡のしつこさが、若さに許された重要な「距離」だったと思う。かつては。その距離は、実際の死への長い遠い距離と等しかったはずだ。

しかし今はもしかすると、砂浜無しのいきなりの海のように、その実際の死への距離が唐突に近いのかもしれない。一歩先には、本当に笑うことも酔うことも出来ない乾いた絶望が、ただ広がっているのかもしれない。



【キラキラ女子】【インスタ映え】という近年の言葉や文化。不幸自慢に対抗して、こちらは幸福自慢や充実自慢の類いか。

とすると【中二病】を毛嫌いする人々が肯定的に使いそうな感じだが、何周か回って結局肯定的な言葉になるのか自嘲的な言葉になるのかを、私は把握できていない。ので、これらの語を私などは使えない。

不遇を覆すきらめきというより「不幸に酔ってはいけない時代の、まやかしでも言い張るべき保守的な幸福の正当性」という....ややこしい構造を感じる。うわべのリッチさや明るさへの陶酔にむしろ、実際の悲劇の底恐ろしさを見るような気がする。



「惜しまれたい」は押し殺されても「褒められたい」は我先にとひしめきあう時代なのである。しかし考えてみれば「惜しむ」とは心で感じる真の情であり、「褒める」というのは単なる言語行為をさすに過ぎない。

惜しまれたい人と褒められたい人、行き道がはっきり別れるかもしれない。


by meo-flowerless | 2017-12-25 23:14 |