画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2017年11月の日記

2017年11月の日記






11月4日


夜、街道を遠くバイクが走っていく音を聞くたび、なにか救われるのだ。小さい頃からそうだ。うわ、寂しい…と胸が締め付けられる音なのにも関わらず、冴え冴えと心地よい、生きた孤独感を感じる。遠い街道は表現の原点の一つ。今度の個展のタイトルは【暗虹街道】。暗い作品ではなく色彩は鮮やか。



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近所の子供が去った跡に、赤い秋の実。たまたま同じ色のズボン履いている。






11月6日

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久しぶりに好きな場所へ。東京駅丸の内口から、構内に入る複数の電車を見ながら、二色オムライスを食べる。雨の日には架線と電車の摩擦する緑の火花を見るのが好きだが、今日はあまりバチバチ言わない。美しいのか侘しいのか、楽しいのか悲しいのか、もはやまったく自分でわからないのだが、確実に言えることは、頭が痛いということだ。


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要らないと分かっているのに、丸善「きのこ特集」売場で「世界のきのこ切手」を買ってしまった。トーゴ、カンボジア、サウジ…色んな国のがあったが、私はニカラグアと韓国のを買った。まあきっと集めはしないけど、色彩の参考などにはなるよ…
しかしこの、きのこ切手というジャンルはなんなのだろう。日本にもあったっけ?

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電車からの月が、でかくて赤く見える日である。かわいいが、気持ちも悪く、なんか可哀想でもある。広いところで眺めてやりたい。



11月7日


身体のどこがおかしいのかは分からないが味覚があまり無くなってしまった。せっかくの紅茶も苦くておいしくない。
しかし蜂蜜だけがおいしい。一日二回くらい、瓶を空けて、お箸ですくって舐める。
二十代くらいまで「蜂蜜」は、何となく縁遠い食物だった。なにかこう有機的すぎるというか、虫の蠢きを感じすぎるというか。虫のなかで蜂はかなり苦手である。養蜂業のミステリアスさも相まって、神秘的にふわっと遠くに置いていた。今はそのミステリアスさに勝手に魅かれて舐めている。アンゲロプロスの映画【蜂の旅人】が、更にミステリアスさを増幅させてしまった。



「百花蜜」と言う種類があるが、それは土地や季節ごとに蜂が好きなように集めた、いろいろな草花のミックス蜜のことである。季節によって集める花が違うので、味も微妙にその時々で違うのがお楽しみ...と言うところ。しかし別の国では、蜂蜜に毒草トリカブトの蜜が含まれていて、食べた人が中毒を起こしたとか死んだとか。管理された養蜂家の蜂蜜では、そんなこともないだろうけれど。
イタリアの桜の蜂蜜も美味いが、高山植物蜂蜜というのもおいしい。舌の上で何となく冷たくスーッと吸い込まれる。何の植物の蜜がそうさせるのだろう。果実ジャムではないので、本当に微妙な味の差違でしかないが。


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毒の花の蜜は実際甘くて美味いなんてことはないのだろうが、それぞれの妖艶な名前のせいか、どうもある種の毒花はおいしそうに見える。真夏の桃色の夾竹桃をはじめ朱色の凌霄花(のうぜんかずら)、白く大きく香りのいいダチュラ、黄色の華麗なカロライナジャスミンとその猛毒版のゲルセミウム・エレガンス、美女と言う意味のベラドンナ。ベラドンナは英語でDeadly Nightshadeともいうらしいが、なんと美しい名前なのだろう。
毒草の名前をイメージして名付けた、海外の石鹸や香水をむかし集めたことがある。(もちろん毒草のエキスなどは使っていない)。セルジュ・ルタンスのダチュラ・ノワールなんかが有名だが、私は、アメリカの主婦が手作りして売っていたDeadly Nightshadeと言う名前の紫の石鹸が好きだった。ココアとごまと薔薇とクチナシと土と古い旅館の風呂が合わさったような、複雑な匂いだった。最近おいしいと思う紅茶の香気は、それに似ている。


11月8日
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23区だけ被せられたような黒雲。帰る家のあたりは夕焼。



11月11日

思春期の頃、父からも母からも、なにかの会話の流れで「アポロン的、ディオニュソス的という二つの極があるんだよ」とフッと言われたことがある。たまにこの言葉を思い出し、悩みの靄(もや)がふと晴れることがある。
この二項対立で世界の全てを分別できるわけではない。この複雑な世界を単純に読み解ける言葉では、今はないだろう。にも関わらずいまだにこの言葉を思い出すと、様々なことを整理できる。政治的に使われるいろんな対立言語より、遥かに含みと深さをもって人間の本性そのものを把握しているからだ。
あの頃、自分の性質がアポロン型かディオニュソス型か、などと当てはめようとしたが、自分なりにどちらの要素も両極強くあることで納得した。そのあたりの納得から、今の作品の連続性や描きかた、世界観が出てきたとも言える。二つに分別されている内のどちらかと当てはめたりするより、ひとが昔から「人間の志向の両極」に絶妙な言葉を与えてきた、という事実に、みょうに納得し救われてきたことを、ふと思い出した。


ひとには、暗く靄靄したなにかに明快な形を与えたい本能があるのだろう。言語の形であれ、科学的証明であれ芸術であれ。人間とは靄と形のあいだを揺れ動き惑い続ける存在なのだろう。
この揺れ動きは、生きている限り止められるようなもんじゃない。正か誤か...勝ちか負けか...を観念で決めつけてどちらかに寄ったところで、ひとの本能はなおも、靄と形のいずれにも着岸できずに波のように揺れつづけるのを続けるだろう。しかしその揺らぎの距離が「無自覚」に縮まったときは、なにか人間の本能にとっての本当の危機なのかも。


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大人になった今でも、海辺に行くと無意識に砂で山を固め、穴をほじくり、水路みたいにしたり、段々風景に見立てて何かを「形作る」遊びを無意識に手がしている。そうかと思うとドシャッとそれを崩してみたり、泥状にこねくり回して形ないものにしてしまったりもする。形の構築をその手でつかみたい欲望、感覚のすべてをカオスのなかに溶かしたい欲望は、いずれも自分のなかに同居し、自然な葛藤も生んでいた。子供が砂遊びをする時に自然に身につけることだったのでは。
汚いという理由で砂場も土も子供から奪い取ってしまい、機械の端末で世の中にまず出会わせることの恐ろしさ.....予め用意された不特定多数の理想的アイコンの数々、予め抗いようのない情報の混濁や破壊イメージの氾濫。そういうものが一気に無数の選択肢としてだけ、子供の前に晒されるとしたら。大人サイドの独断の危険性をもう少し私達は感じたほうがいいだろう。

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自分は「悲劇」についてもっと勉強すべきだった。悲しい出来事や悲しみという心理についてというより悲劇という形式についてだ。そこを踏まえたら多少でも作品は動いて行くかもな。

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最近みょうに頻繁にアーノルド・ローベルの童話【ふくろうくん】を思いだす。あの愛すべき孤独。夜空の月がついてくるような気がしてきてついには半狂乱に不安がったり、二階の自分と一階の自分とで会話しようと走り回ったり、悲しいことを無理やり思い出し涙で茶を沸かしたりする…あのしょうもない孤独。子供の頃読んだときは正直、「こわ…寂しいやつ」と引いたところもあった。しかしボディブロウのように自分の人生に効いてくる、あれは大人のための童話なのかもしれない。
私にとっての絶対的な悲哀の表現との出会いだった。他にもいくつかあるが。


笑わずにはいられない【ふくろうくん】の悲しみは、それでいながら読む者に「人間の孤独に対して絶対に嘲笑をしない」という深い自覚を目覚めさせる。
優れた悲劇の機能、時には喜劇の機能もまた、そこにこそあるんじゃないか。
いくら「かわいそうなひとをばかにしてはいけません」と啓蒙しても「孤独な人には寄添い助けましょう」と教え諭しても、そんな言葉だけで刻み込まれるのは臭いものに蓋をするだけの禁忌感くらいでしかない。
自分がそれを笑ってしまったことになぜか泣けて泣けてしょうがない、孤独とは本来そうやってみずからのうちに備わっていることを自覚するものである。


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この間「世界のきのこ切手」フェアをやっていた丸善の売場で次には「世界の昆虫キーホルダー」が売り出されていたのをハっと思い出し昨日は出かけた。絵のなかに玉虫を描こうとしていたのでタイムリー。たくさん買ってしまった。なんでこんなに綺麗なんだろ。


11月13日

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萬國圖案大辞典。世界中の装飾事例がぎっしり載った、大判の図鑑全七冊。参考にする以前に頁を開くだけで圧倒され、ぼんやり眺めているうちに、そもそもどんな図案を探していたんだかすっかり忘れてしまう。一冊だけ骨董市でなんと100円で投売りしていたのを買ったのが、集め初めだった。本当は100円という内容ではあり得ない。名著だ。あれ、なにを探そうとしてたんだっけ?



11月18日

地元の秋祭りはそこそこ年季の入った祭りだ。毎年夫と縁日を冷やかしに行くが、幼少の頃の華やかな賑わいとは程遠く、いまは哀愁のローカル中途半端感だけが漂う。昔はなかなかお洒落な古着のコートなどをフリマで漁っていたんだが。
タコスをぱくつきながら、道行く「よさこい」「ソーラン」「エイサー」などの市民舞踏行列を眺める。皆さん手づくりの衣装で晴れの化粧を施している。なかなか綺麗な少女もいる。しかしなんとも複雑な気持で眺めてしまう。なんだろうなこの…「クラシックカーの卓上カレンダーの隣に和柄のペン立てが置いてある」感。
個人的好みでいうと、かったるいリズムかもしれないがヨサコイ節ならヨサコイ節、ソーラン節ならソーラン節の元歌がじつは結局一番洗練されているとしか感じられず、あまり歌謡曲風にアレンジしたものは魅力がよくわからない。

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野球場には子供ダンスの舞台。こちらはやたらうまいセクシー小学ヒップホップ系。これもまたしげしげ眺めいりたいような、なんとなく目を逸らしたいような。
グラウンド真中には線路が敷いてあり、こどもを三人くらい乗せたミニSLとミニ新幹線を地元のおじさまが駆動させている。いつどこで出会っても、こういう仮設遊園のミニSLの哀愁は、なんとも言いがたい。小さい頃から屋上遊園のあの乗物に、微妙な間の悪さを感じていたことを思い出した。周りで見守って待っている大人の目と合ってまた目を逸らしたり、カメラに向け作り笑いしたり、なかなか一周終わらず不安げに身体を縮めてちょこんと乗ってる子供の気持。



川岸にもなんだか中途半端なテントが無数に立ち並んでいる。福祉関係、ガスや電気の装置紹介、健康啓発、各大学のサークル活動。どのブースに居る人もどことなく確信なくポヤッと店番しているような。拉致問題を紹介する深刻なブースの人と目が合ったら、何故か「ウクレレ25分講習致します。いかがですか」と言われた。


いつも気になっていた絵本の中のようなイビツな木造小屋の家の前で、木の玩具を露店で売っているおじさんがいた。素朴な木のジープやダンプにえのぐが塗ってある。イイ加減さがあって可愛い。カラーリングが中々いいなと手に取ると、一個100円と気づく。4台買い求める。タイのチェンマイで買った空き缶の車を思い出した。「ここの家のご主人ですか?」と真徳が尋ねると「いやここの主人の仲間、おれは」と言っていた。どういう仲間なのか。精巧な木工芸細工趣味の繋がりではないだろう。なんであの小屋もこの車たちも、こんなに良い具合に「適当」なんだか。そこが気に入ったけど。


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11月21日

身体ごとデカいボロ雑巾か使用済み湿布になったようにヘタっている毎日。それでも「今日から合宿!今日から缶詰め!」という二十年来の魔法の言葉を唱えると、不思議とボロ雑巾がむくむくと起きだすんだよな。別に一人で制作するだけだから合宿じゃないんだけど。




11月23日

同世代女性の静かな茶飲み友達が欲しい…という最近の願いを反映してか、夢を見た。三越やら高島屋やらがある夕暮の知らない都会の町で、何人かの高校級友に行き合う。そんなに仲良くもない人々だが私と待ち合わせしていたつもりらしい。心当たりがないまま町を歩くとどんどん微妙な昔の知人女性、忘れていた親族女子、卒業した女子学生、小学校時代にいたような気がする女子などが集まってくる。皆別に私と会いたかったわけでもないが「招集がかかったし」と言いながらそれぞれのグループでベチャベチャ喋っている。私はそれらを連れて三越階上の宴会場で100人ほどの「大女子会」を開かなくてはいけないようだ…という、それはそれでありがた迷惑のような地獄のような夢。


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職場の遅まきながらのダイバーシティ推進の関係で、女子学生達との座談会が開かれそうである。大事なことだから「やります」と請け負ったがやけに今までにない緊張とモヤモヤを感じてもいる。自分は女性の孤独と一対一で向き合うことに力を注ぎたいが、社会の中での性差問題を女性集団として考えたり立ち向かったりすることは、恐らく苦手だろうと思う。


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昨今の西欧のセクハラ告発大爆発問題。初めに告発した女優には本当に勇気を感じる。日本で性暴力体験を訴えている女性にもそう思う。
けれど逆に、SNS上の女優や女性達の「#Me too」というタグのブームには正直モヤモヤ感を感じずにはいられない。トランプ政権下の政情とも絡んでいるのでこれがある闘いの表れであることは重々理解するのだが、どうしてもこの「#私も!」の一言に萎えるのも事実だ。そのタグの言葉と付け合わせながら語られる個々の体験談が、その言葉によって随分軽いゴシップ譚のように変容して見えるという危惧はないのか。


仏の大女優カトリーヌ・ドヌーヴがこの流れに対し「個人的な体験を語ることは何も解決にならない。随分品のない騒ぎだ」と言ったとか。本人の正確な言葉は解らないが、とにかく「女優だ…」と妙に納得してしまった。「品のない騒ぎ」というたった一言のキッツい表現力に脱帽する。女性としては世の流れに棹さして物議を醸す発言かもしれないし、カトリーヌ・ドヌーヴ級だから言えるのかもしれないが、この言葉を言葉の表面だけで読んではならないと感じる。様々な含蓄を含んでいると思う。女が真実を語ることそのものを否定しているのではないだろう。「かしましい語りが結局騒音にしかならないこと、そしてしまいには誰にも何も伝わらず終わっていくこと」の危惧を言っているように思う。


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数の論理で雌雄を決するような風潮はどんな社会であれ末期的な症状であり、成熟を放棄しているのだ。しかしそういう数の圧力に対し、同じように数で応戦しようとする限り崩壊は終わらない。「いいね!」の数は人間の本質まで動かせるもんなんだろうか。成熟を放棄した社会にこそ個人の成熟で抗う、少しくらい今の私たちはそう思えないのだろうか。


11月24日

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朝、やっと夏からの7枚了。もう年齢的に体力の維持が大変。どうすればいいのか?




11月25日


明け方、唐突に目が覚めたかと思うと、怒涛のように絵のアイディアが浮かんできて、即座に20は枕元の携帯電話メモに書き留めた。何故か異様に冴えている日がある。
入眠幻覚をかなり見るほうだが、そのぼんやりした幻覚感とは違った。学生時代に旅をしながらも忘れていて意識下に埋もれていた記憶が、スルスルと芋づる式に飛び出してきたのだ。憑き物でも取れたか。

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バスの座席、祖母に連れられた5歳くらいの少女がリカちゃん人形で一人遊びしている。人形の気持になりかわってずっと独り語りをしているのだ。とても澄んだ声の女の子らしい喋り方に、つい耳を傾ける。窓の外を人形は眺めながら「まあ、なんて素晴らしい景色なんでしょう。とても美しいわ」などとウットリしている。子供の中には常に物語が生成されているんだな。「悲しそうだったわ…お母さん、とっても」とメロドラマ調になってきたのでオッと思っていると、「そうよ、髪がからまって固まってうんちみたいになってしまったのよ…」と詠嘆している。子供の物語に一度は訪れるシモ展開だな、とつい笑いそうになる。


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散歩。通りすがりの和菓子屋の「鯛の練り切り」、いじらしい微笑ましさがある。
道の対面の食堂の壁には、はげに剝げた人物画看板にが見えた。なんとなく忘れがたいインパクトで、通り過ぎてからまた引き返して写真を撮る。誰を描いているんだ?とよく見ると文字がある。龍…馬。やはり坂本龍馬を描きたかったのか。福山雅治主演…。なんと大河の福山雅治のつもりなのか。


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川沿いを歩く。秋の枯葉でも初夏の若葉でも、葉の発する匂いは動物の生存本能に関係していると思う。澄んで深い水の上に動かぬ4匹の鴨がいたが、こちらの気配を察してなんとなく斜めに流れに身を任せ動いていった。


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住宅街の合間を川は往くが、高い段差で激しい滝になっているところがある。
付近に「死亡事故発生、危険」と大きな立札が立っていた。危なそうだものな…
ふとその立札に、5人くらいの男のあだ名のような記名が引っ掻かれていることに気づいた。アメリカ風、アジア風、日本のヤンキーにありそうな通名が根性焼きのように刻まれている。なんでこんな死亡事故立札に不謹慎なことをするんだろうと思ったが、ずっと考えているうち、その事故の関係者の名かもしれない、と思えてきて、しんみりした。



11月27日

職場の健康診断の結果、ほぼ一月待たされている。診断の意味がない。自分で行った方が早い。微熱続く。

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夫と昼間ラジオのニュースを聞きながら、さいきん立て続けに日本海沖に漂着する隣国の船、の話になった。実際そばに流れ着いたら怖いだろうな、と夫が頻りに言う。夏に自分も漂着船のイメージの作品を日本海沖に滞在して作っていたのもあって、いろいろ想像が膨らむのだろう。夫が怖がっているのは「中に人が潜んでいるかもしれない」という恐怖だった。私は「中で人が死んでいるかもしれない」という恐怖をまず感じるかもしれない、と思った。
夕方、夫の携帯に、能登でさんざんお世話になった人からメールが届いた。大きな破船の写真。今日は珠洲にも、隣国かららしき漂着船が流れ着いたらしい。写真を見た瞬間、上に書いた怖さをミックスした恐怖となにかそれ以上のプラスαの怖さを感じた。物悲しさというのでは少し甘すぎる、黙りこんでしまうような感覚。
しかもメールを送って来た彼本人が第一に発見したのだと言うので、夫とひとしきり興奮して騒いだ。その人の家の裏に壮大に広がる日本海を思い出す。住み慣れた風景の中にそのようなものを見つけるとき、一体どんな思いがするんだろう。



11月28日

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ぼんやりとアメリカの風景絵葉書をブックマークしているが、グランドキャニオンやウェストコーストなどのフォトジェニックな絵柄を無視して、「あれ?ドライブ中?」というようなものばかりを集めると、少し楽しい。


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先日、きのこ柄の中古切手を買った時に、「まあこれ以上買い集めたりはしないだろうけど」などと日記に書いている。が、嘘だったね。自分でも嘘をついていると思ってたよ。私がはまらないわけはないのだ。世界の風物・世界のデザインの凝集された小宇宙、切手....


特に各国、「花」の切手に秀逸なものが多い。というより私個人の好みを直撃する。
普段あまり想像を巡らせることのない国や島、スリナムとかブルンジとかマラウィとかモントセラトなどのことを、花の小さな一片の図を通してあらためて想像してみる楽しみ。
花切手に特に強い国、というのがある気がする。メキシコなどは興味があったのだが、ネット上の切手屋にもあまりメキシコ花の図柄を見かけない。一方キューバはステキな70sデザインのものを幾つも幾つも見かける。たまたま私が検索力がないだけだろうか?
人々がその土地の花に託す思いは、その土地の女性の理想的な在りようと重なるところがあるのでは、とふと思いつく。日本の繊細な花切手を見ると特にそう思うが、最近の日本の花切手はちょっと線が細くて色が退屈である。


私がいまのアクリル画をはじめたのは、自分の理想の【花図鑑】を制作したのが最初だ。このイメージの原点は、小さい頃近所の菓子屋のレジの一番高いところで埃かぶっていた「花の図柄の包みのチョコレート」の記憶であった。もう憧れて憧れて、その包みが欲しくてたまらなかった。結局誰か知人からそのチョコレートを贈られて家で手にしたはずなのだが、なぜかあんなに欲していた包み紙を大事にとっておいたことの記憶がない。記憶が全くないことにいまだに悔し泣きしそうになる。その悔しさを晴らす場所は広大な切手宇宙、底なしの切手沼しかないのかもしれない。世界の花切手は、あの日見た花チョコレートの包み紙にあまりにも似ている。
はまったらやばい。震え上がりながらも浮き浮きしつつ、海を越えて切手たちが届くのを心待ちにする。


11月29日

日本のネット切手屋で頼んでいた「中古花切手お楽しみ袋」がやってきた。何百枚も入っていて中を見ることが出来ないのでそんなに期待していなかったが…予想と裏腹に袋を開けてすぐに口をパカっとあけて感動の放心状態。き、き、.....綺麗!
実際に手にして見ると、それぞれの紙質、一枚一枚の儚い重量、小さな画面に凝縮された必死の印刷感に、いとおしさが溢れてくる。
花の切手ばかり入った袋なので、とくに「花意識の高い国々」があるように思えてくる。虫やキノコの切手は、また違う国が特意としているのだろう。カンボジア、タンザニア、ルーマニアあたりは、英国ガーデン愛とは全く違う、花色や花形そのものへの執着を感じる。


切手の大きさと徹底した鮮やかなテンションで圧倒的なのは、ギニア共和国の花シリーズ。インク色を制限したキッチュさがありながら実に堂々としている。長辺5センチくらいのサイズで贅沢。(上)
また同じアフリカのギニアビサウの花切手、マダガスカルの花切手(蘭)も、素朴ながら丁寧に描かれた渾身の植物絵画であり、なまじ上手な西洋ボタニカルアートなどの及ばぬ魅力を感じる。(下)
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デザインが秀逸なのは1970~80年代を中心としたキューバ(上)とニカラグア(下)。
まるでその頃のモダン建築系雑誌か、南米プログレロックのジャケみたいなロゴがカッコいい。洋物のジャポニカ学習帳みたいな教材感覚も少しあって良い。
好みの問題かもしれないが、このころのデザインはちょっとしたことでも本当に濃密で、ストイック&贅沢だと思う。


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12月1日

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研究室では夜からの忘年会のためのイタリアン料理の仕込みが進んでいる。私は食べる係。おいしそうなもの発見。



by meo-flowerless | 2017-11-03 23:54 | 日記