画家 齋藤芽生の日記


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プノンペン日記 2017.5.4~9

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プノンペン日記 2017 5/4~9






5月4日

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出張先のカンボジア・プノンペンに到着。着いた途端に激しい雷雨だ。もう雨季と言っていいのだろうか。平均気温、多分34度くらいの真夏。
宿は素晴らしく、洒落ていてプールも付いているが、値段は日本の民宿並み。部屋には知らない南国フルーツとバナナの盛り合わせが、ご自由にどうぞと。バナナをさっそくパクついたが、ガッツポーズするほど美味しい。
雷は物凄く嫌いで、非常にこわい。


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夕暮れ一時間ほどの空き時間に、宿の周りを歩いてみる。一見、行ったことのあるチェンマイやホーチミンを思い出す部分もあるが、もう少し暗さと殺伐感は感じる。もちろん場所によるから小さな印象の一つでしかないけど。
視線が凄いのはどのアジアの国にもあるが、視線の意味が何となく読み取れないような心理的距離感。秒速で何気なく街の風景を写真に収めるが、やはりカメラなどは出しにくい。独りで数十メートル歩くだけで、絡み付くような視線や客引き、ヤジの声が飛ぶ。
地べたにしゃがんでいる若者の一人が高らかに歌を歌っていた。素晴らしい民謡調。また卵売りのリヤカーのおじさんの売り声の節回し、録音機を忘れたのが悔やまれる。



激しいバイクの往来でなかなか渡りにくい帰宅時刻の道路向こう、目に鮮やかな観賞魚屋の灯。金赤色の、金魚か鯉か闘魚かわからないような、踊り回る艶やかな魚。
庶民的な美容院が多い通り。テレビ画面に映し出されているコーヒーに、なんか笑ってしまった。


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夜、国際交流基金の方にクメール料理の店に連れて行って頂く。辛くないタイ料理、甘いベトナム料理、生姜風味…説明つかないが、複雑で楽しめる美味しさ。
宿に帰ると、先ほど商店で買ったチキン煎餅にアリンコの長い行列が訪れていた。



5月5日




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旅先の土地の記憶は、色彩で記憶する。その色彩のメモのように写真を撮るのだが、1日目のプノンペンの記録写真は、白黒にしてみたほうが感情にマッチした。

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王立芸術大学との打ち合わせと挨拶。この今回のメインの仕事は、同行のGA専攻のY先生、そして何よりグローバルサポートセンターの物凄くガッツのある助教のIさんの素晴らしい通訳により、無事終わる。この二人はそれぞれアートマネジメントや社会学を学んできた方々。映像・音楽・パフォーミングアーツに精通しているので私があまり接したことの無い話題が飛び交う。物凄く勉強になる。
王立芸術大学は、南国の花の香りが漂う少し廃園チックな庭、とんがり屋根の赤い建築群。校内中にたむろしている学生はとても元気そうだが、来客に対しハローともいわないし、無頓着で眼も合わせようとしないところが、結構好きだ、と思った。



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打ち合わせ後もまた濃厚な一日。
遺跡のような、廃坑の産業遺産のようなこの煤けた色の建物。裏はこうだが、表には生活感が溢れはみ出している。


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このカンボジアにおいてレジデンス、スクール、外部プロジェクトなど現代美術の実験的な活動を行うSA SA BASSACが拠点を置く有名なホワイトビルディングに行く。
ホワイトビルディングはかつて1960年代はモダンな白い集合住宅建築であり、文化人等が住んでいたという。その後1970年代のポルポト大虐殺の際にこの都市の中で残った、数少ない歴史的な建物だそうだ。
今は見るからに低所得層の人々の住む住宅であるが、この建物が実験的なアートの場にもなっている。一時期は麻薬と売春の巣窟でもあり、今もその片鱗は感じるが、舞踏家や職人などの特殊技能を持つ人々が住む場所でもあるようだ。
しかしながら老朽化を理由に立ち退きが進められ、その買収資金を無名の日本企業が出しているとかいないとか。
とにかく今日はSASAのレジデンスの最後のアーティストの展示のオープニングだと言うので、見に行ってみた。と言ってもホワイトキューブのギャラリーがこの住宅にあるわけではない。人々の生活する居住空間の一室で展示されていた。


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暗い居住空間の通路は、アジアのクライム映画の中のような剣呑な雰囲気だ。住民に「入ってくるな」と追い返される、と聞いて腰が引けていたが、踊場にたむろしている奥様方は、最初こそジトッとこちらをを睨んだが、いつまでも迷っている私達のために、付近のドアの中にいる英語の出来るお姉さんに取り次いでくれた。澄んだ目で美しいが、少し脂汗をかいて息切れしているような若干苦しそうな表情をしている女性だった。そのお姉さんも場所は知らない、と言うだけだったが、何か妙に心に残る顔だった。


ようやく見つけた展示室には住宅の子供たちが喜んで集まり、ひっきりなしに悪ふざけをしていた。展示はシンガポールの作家のもので、この建物に関わりある僧侶の僧衣の色のオレンジと写真によるインスタレーション。


ドアから垣間見える人々の暮らし。「カラフルな子供のワークルーム色」の「昭和三十年代の長屋」とでもいう雰囲気。
せわしなく走り回る子供、見守る老人、行き交う商店の男、どこにでも座り込んでたむろする女たち、毛玉のように汚い犬や猫、家族と友と暮らすと言う意味ではみな幸福そうにも思えた。
行きがけにカーテンの中から見かけた主婦らしき女性、地べたにべったり座り込んでウットリと厚化粧をしている周りで子供が走り回っている。異様に美しく顔だけを塗りたくっている。ずいぶん経ってからまたそこを通ると、その女だけがまだ同じ格好で朦朧とした目で同じ場所を化粧していた。


この建物の人々の暮らしを目の当たりにしたことで、プノンペンを訪れる意味はあったように思った。しかし複雑な想いもある。[Art]というものを介して社会を切り取ろうとする意図の断面から土足で他人の暮らしの中に踏み込んでいるだけ、と言う感覚は拭い去れない。一方で、広く[Art]が出来ることのなかにそういう社会的な視線は含まれていて当然、とも思う。[Art]とはなんなのだろうという謎の渦の中に思考が陥る。
アートの側から見ればこの建物は意味の深い「ホワイトビルディング」なのだろうが、普通に暮らす人々の感覚で言えば、興味本位に立ち寄るような区域ではなく、またここの人々の多くも見世物にされるようなことはされたくないと思っているのではないか。


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いくつかの市場へ調査に。
名前の分からない、庶民向けの市場。内部は非常に暗く汚れに汚れていたが、もっとも普通の人々の暮らしの匂いがした。
街の中心にある、巨大で観光人向けのセントラルマーケット。個々は比較的観光客向けに整備されていて商売ズレも若干している。
少し離れたところにある、オルセーマーケット。マーケットの周りの生地問屋街の中にガチョウのような鳥を卸している店があり、鳥たちは死んで積まれているのかと思ったら、微妙に瀕死の蠢きをしていた。

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チープだが極彩色の服の魅力。行き交うおばさんの服の柄が私の欲しいものばかりだ。アロハとも違う南国の大柄な花の模様。写真では再現出来ないエレクトリックなショッキングピンク。カンボジアの服のシルエットは不思議に美しい。民族衣装から小学生の制服に至るまで、肉感的な部分とストンとスリムなところが混在したバランスのいい形が多い。化粧の感じも目張りをキリッと効かせ小麦色の肌に赤い口紅をひいてドキッとするほどつやっぽい女の人を良く見かける。


王宮前。町中で多く走り回るトゥクトゥクの車体、そこで生活しているのかのように動かずどっしり座り込んでいる、真赤な口紅の女性が印象的。占いでもするのかな?赤いトゥクトゥクで自分の前に台を置き、赤い土産人形を恭しく鎮座させている。それと対峙するかのように座っている。

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市場で手に入れた土産はピンクの麦藁帽子6$など。

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夜は影絵芝居を見学に行く。影絵の精緻な細工は凄いが、それよりもそれを動かす人のクメール的動きに眼が釘付けになる。インドネシアなどの保護された影絵文化と違い、カンボジアの影絵はポルポトの文化の壊滅によって完全に途絶えたのだという。辛うじて残された本の僅かな資料から、こんなものだったのではないかと再現する試みをする人々がいて、町外れの劇場で夜な夜な公演をするのだそうだ。
しかし客は私達3人以外に1、2名しかおらず、完全に閑古鳥のようだ。少年や青年がしなやかな動きで大きな切り絵を持って踊り回る。カンボジアの少年少女は姿や瞳の美しい人が多い。彼らの多くは王立美術学校の学生で、アルバイトのようにこの影絵劇団をやっているそうだ。しかし事情に詳しいY先生によると、おそらくこれは本当にもとの形の片鱗も再現出来ていない、推測でこうなってしまったような段階にしかまだ無い、と言うことだった。




5月6日

王立芸大の先生に「植物性染料を売っている場所」を伺ったが、少し難しそうな顔をしていた。あるとしたら、と言う意味なんだろうが、ロシアンマーケットの中と、オルセーマーケット周りの漢方食材問屋街を紹介してくださった。
行っては見たが、さすがにマーケット全体の恐ろしい物量と情報量に完全に負け、それらしいものは何も探し出せない。
キラキラしたラメ粉の問屋がずらっと並ぶのは壮観で、これが全て顔料だったらな...と思うが、主に化学塗装にまぜて使う飾りの粉に過ぎず、欲しいが手を出さず。


カンボジアの色彩文化のどこかで「玉虫色」が人々にインプットされたに違いない。桃色なのに緑に光る、とか、赤なのに青く光る、などの偏光色のイメージが、私の勝手なカンボジアのイメージだった。今回来てみて、その印象は外れてはいなかった。山と積まれたカンボジアシルクの色彩は、意外な色の「綾織り」で出来たつややかな玉虫色の宝庫だ。後で書く伝統の舞踊の衣裳も、眼のくらむような偏光色世界だった。
ロシアンマーケットはバランスのいい市場で、観光客にも魅力の物品があるのではないか。奥の方に広がる中古工具の天国のような店々は凄い。世界中から集めた使い古しゴミ寸前の機械工具を分解してここで売っているのではないか。

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ロシアンマーケットでは描画材のリサーチはうまくは行かなかった。つぎはオルセーマーケットの漢方食材街を歩く。
ここに来るまで、朝からずっと同じトゥクトゥクの運転手の青年にツアーのように頼んで走ってもらっている。市場について「一時間後の集合」というと、そこでずっと待っていてくれるのだ。待ち合わせるときほかのトゥクトゥクの運転手の客引きを除けて、にこやかに手を振るその人のもとへ私達は行く。笑顔の爽やかな青年でなので、待っていてくれるとつい胸がキュンとする。
昼御飯に何か美味しいクメール料理を食べたいのだが、というと連れて行ってくれたが、美しい赤い内装の涼しい店で、食べ物はおいしく、しかもそれほど高くなく、ますます青年への信頼度が増した。美味しいのだが自分たちがチョイスしたものはカエルの姿焼きと、赤い蟻と空芯菜をいためたものだった。
味はおいしいのだが、蟻はさすがに蟻そのままのつぶつぶ感にげんなりした。蟻自体は何が美味しいのか、栄養価が高いだけなのか、あまり分からなかった。



漢方食材街にはヒトデやイモリの干したようなものまで売っている。無造作に袋やボウル一杯に漢方薬や漢方茶の原料がごろごろ積まれており、身体に効きそうな匂いがする。私は「蘇芳色」のもとである蘇木(ソボク)を探していて、画像などでも説明したが、この界隈の漢方屋さんは英語でコミュニケーションは取れなかった。


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本日の買物兼リサーチ、だめ押しのオルセーマーケット。
このマーケットはロシアンマーケットやセントラルマーケットと違い、庶民のための一大市場である。中古家電から食物、日用品、衣服、檻に入れられた動物、シめたばかりのニワトリ、葬祭用品、儀式の花まで人間の生活に関わるありとあらゆるものがひしめき合う。マーケット周りはトゥクトゥクと原付バイクの海のようになっていて、歩行者が歩くのは難しい。


このマーケットはアジア市場独特の腐敗臭が凄い。よく見かけるドリアンの匂いは何故かしないが、発酵系の調味料の臭みや実際に腐敗した肉や魚の臭気が入り混じり、片付けや掃除とというものを知らないかのような雑然とした中で、店主たちは二畳ほどの店内に座り込み、時には子供をそばに座らせて、滝のような汗を流しながら商売をしている。
通気の無い屋根付きの建物の熱さはゆであがるようで、私も商品にぽたぽた汗をたらすほどだった。東南アジアの市場の「屋根付き」の特徴は、そこがいいとこでもあるし、有蓋建築の反響音が怖い私にはそこが同時に苦手なところでもある。しかし、物量の魅力と活気と熱気で、その場を離れることが出来ない。


Iさんと三階の階段から見た下界は、不思議な宇宙だった。人やモノや光だけがひしめき合っているのではない。屋根の上を見よ。そこにもまたダンボールなどの資材がそれぞれの置き方で積まれている、複合的な層の厚みを持った風景である。何か夜景を見下ろしたときのような快感があった。


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熱の籠もる市場内にはオープンな理容・美容スペースもある。女のたむろする美容院は、独特の雰囲気である。
外ではおばさんが何やら不衛生な場所で炊き出しをしている。鍋の中にぐつぐつ揺れる「塩辛発酵パパイヤ内臓クリームナンプラー鍋」(イメージ)のようなドロドロのものに、若干恐怖を感じる。
この背後にはずっと鳩やうさぎなどペットの檻が並んでいたが、その端にはニワトリが集められ、今まさにおじさん達に「クエーッ」と鳴きながらシメラレて、次々積まれているところだった。

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オルセー周りは大体中華系のエリアなのだろう。東アジア的な古びた庶民街を歩く。台湾にいるような気にもなる。
外に開け放された四畳半くらいのスペースで人々がそれぞれの昼の憩いをしている。昼寝も食事も丸見えである。
暗いスペースのなか、二、三のベッドに横たわり点滴を打っている人がいる。雰囲気はコインランドリーとか船着場の待合室くらい簡易でぼろいのだが、一応病院と名のつくものらしかった。

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夜は観劇。伝統芸能のアプサラダンスや農村の舞踊の公演を国立博物館で催しているのを見学。芝居舞台のような作りの座席には西洋人がビッシリ座っている。昨日の影絵となんと言う違いか。見たら実際こちらは全てが行き届いてちゃんとしていた。CLAという団体が、虐殺後のカンボジアで舞踊芸能の技術取得者の生き残りを探しに探して、その継承に努力しているのだ。
アプサラダンスは女がゆっくりとしなる指で、優しい顔の人形仕掛けのように笑顔で踊る、とてもとても美しい舞踊だ。踊り手たちの娘の妖艶にも、青年の優美にも、どちらにも眼が釘付け状態だ。「神々しいが官能的」という東南アジアの二つの特徴がちょうど中頃でミックスしているのが、カンボジアなのかもしれない。


女の美しさの、ある意味での極地を感じる。舞踊は観ることが出来て良かった。謎の微笑み、衣裳の玉虫色、ピンクのスポットライトで妖しく光る黄青や赤金や虫のようなビリジアン、人魚の鱗のような煌めき、切れのいい軟体動物のような踊り、心をすっかり奪われた。衣裳の色彩と木琴系のポコポコ神秘的な音楽とがマッチしている。
農民の踊りの一つには、カマキリの面を頭につけた幼稚園のお遊戯のようなものもあった。

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ふらりと入った中華人街の文房具・教科書店で、まるでジンのように薄い冊子のコミックを見つける。なにか民話とか説話の教訓を子供の教材にしたものなのだろうか。紙質の薄さとズレた印刷、人々の表情や文字のわけ分からなさにしびれる。一冊25円くらい?

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見る角度によって色の変わる紅色系の生地を入手。フェイクなキンキラキンの更紗。日本でいうとお守りとか雛人形のおようなゴワゴワした錦糸の織生地。日本ではとうてい見かけないような補色の組み合わせのレース生地の数々。


5月7日


今日はIさんとともに、メコン川を越えたところにあるコダック島、通称シルクアイランドへ渡る計画である。
プノンペンからほど近く行ける田舎の村であり、カンボジア絹絣を作る人々の住む村でもある。
絹絣の機織りの現場をリサーチし、少しでもカンボジアの染織や色材についての知識が得られたら面白い。
昨日から世話になっているトゥクトゥクの青年に、今日も一日走ってもらうことにしている。的確な観光案内を出来る彼の、運転手としてのセンスにほれこんだのだ。


トゥクトゥクは風を切って、都市の殺気立った道を走り抜け、郊外の幹線道路をトラックに紛れて爆走する。覆いの無いタイプのトゥクトゥクなので乗客の私達も屋根以外は露天である。こんなに心の弾む乗り物は他にあるだろうか。カンボジアの記憶は、トゥクトゥクのスリリングな疾走感とともに残るだろう。クラクションと排気と振動のカオスに身をまかせる。
郊外はどこの国でも私の興味を引く。もちろん都市のごみごみした裏道や臭い市場も魅力的だが、全世界共通かも知れない郊外幹線道路の殺伐感と気の抜けた荒野には、普通の人々の等身大の退屈な時間が横たわっている。別に何も見どころも無いのに、なにか真実を見ているような気がするのだ。

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二、三十分ほどで船着き場についた。渡し船には車やトゥクトゥクも乗ってゆける。川はどうしても利根川のように見える。
船内でころころ太った可愛い女性が、片言の英語でやけに笑顔で親しく語りかけてくる。とにかくフレンドリーすぎて怪しい。
「どこから来たの?日本?知り合いに日本人がいるわよ。あたしの家はむこうの村なのよ。きょう?歯医者に行った帰りなんだ!」なんかあるな、とは思ったが適当に応対する。接岸した後もバイクで私達のトゥクトゥクに並走しながら、
「待ってよ、あたしんちを見ていきなよ!うちにおいでったら!絹織りを見学しにいくのならあたしここで待ってるからさ!」と叫んでバイクを商店の前に止めた。

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ついた向こう側は、プノンペン市内とは別世界のひたすらの田舎の村。草原の中にでかい白い牛が悠々と暮らしている。走りながら青年が「あれはtaroを育ててるんだよ」と言う。「知ってる、タロイモ」と答えてみる。サトウキビや何かも育てているのだろうか。「さっきの人の家にいくのかい」と聴いてくるのでIさんが「というか、あれ誰?」と聞き返すと青年はフッと少し笑って「さあ....知らんけど」と呟いた。


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カンボジアの絹絣は非常に美しい。タイシルクなどのイメージにかすんでいるのかもしれないが、品質も世界に誇れるくらいなのだそうだ。この村は女性たちがひとり一つ自分の機を持ち、織物が出来ることが女としての必須条件なのだそうだ。機織りには一切男は手を出してはならず、そのかわり川で魚を捕って働く。じじつ、来る途中の農家の庭先で織物をしている女の人を何人も見かけた。たくさんの機で実演している場所を見学しにいき、様々な説明を受けた。しかし染織技術については何の情報も無く。これはシェムリアップのほうが情報が手に入りそうだ。
売店で正規の値段で売られているらしい絹織物は、あまりの複雑さと美しさによだれが出るほど欲しかったが、私の財布事情では買えなかった。


実演場所を出ると、さっきのころころした女性が門まで来て待っていた。
「待ってたのよ、あたしんちあそこよ」トゥクトゥクを引き止め絡み付くように言って来る。
「いや、他に行きたいところがあるんで」とお茶を濁すと、
「あのね!あたしはあなたたちにウチにあるスカーフを売りたいのよ!」と本音を言った。
やっぱりな。そりゃ買えるなら買うかもしれないさ。無い袖は振れないので一応、ごめんね、と言って別れた。青年はまた少し微笑みながら、彼女のそばを発車した。

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「どこにいく?」と青年が訊くので、どこか適当に周遊しながら安いお昼も食べられるところは無いか、と言うと、「わかった。8Kmくらい村を走ったところの岸に、皆が観光に来る場所がある。そこではなにか食べられる場所もある。それでいい?」と言う。信頼出来るのでイエスと従う。
村の道を走るのは、恐ろしい振動だけれども、最高の体験だ。埃の立つ道にヤギの群れが走っている。全裸の子供が佇む。路上で結婚式を催すらしく、白いテント赤いカーペットの招待客用の通路をそのままトゥクトゥクで走ったりする。

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やがて再び川の見える広い広い場所に来て、アッと声を上げた。河川生活者のコロニーのような狭いワラ屋根の簡素な小屋が、川にビッシリ幾十も軒を広げている。
青年はそれがどんな場所なのかとくに説明せず、行っておいで、待ってるから、と促す。
よく考えると、先ほどの道途中でだれかに一ドルを支払ってからここに入って来た。あれは生活してる小屋と言うよりは、リゾートのなにかじゃないか、とIさんが言う。
まるで海のような砂浜を歩いて近づいていく。途中の小屋には生活者の荷物が溢れ帰っていたが、水辺のそれは空いているところも多く、のんびりデートしていたり水浴をしている、地元の人々が見受けられる。日本で言う、川床と海の家が合わさったような簡易な建築。海外の人ではなく町や村の人のレジャーの場所なのだった。

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私達も一つの小屋に上がってみる。ほどなく女の子がひとりゴザを持って来てくれる。そこにぼんやり寝転んだ。
水に腰まで浸かりながらフルーツや卵を行商する人々、昼飯の仕出しを請け負う仲介の人々などが忙しくレジャー客の小屋の周りを行き交っていた。英語が通じない女の子が筆談で「15$」とだけ書いて、なにか食べるジェスチャーをする。現地相場からするとやたら高いのだが、これも経験だと思って金を支払う。
待てども運ばれて来ない飯に「高かったですね」「高いね...これで何も運ばれて来なかったら更にね」「逆に今15$ってふっかけてしまった分の、それなりのゴチソウ用意してるような気がします」とIさんが予測する。


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かなり長い時間が経ってさすがに騙されたかと思い始めていた頃、女の子の母らしきおばさんからやっと、鳥の丸焼きとレバー空芯菜いためとたっぷりの白米が運ばれて来た。二人の女に、四人分くらいの飯とデカい鳥の丸焼き.....Iさんの予測が当たり、ゴチソウだ。疑心暗鬼な気持でいたが、本当に美味しかった。鳥の丸焼きはあっという間に平らげた。
泣きそうな顔の老犬がずっと私達のそばで待っていたので、骨をあげた。
Iさんといろいろの話をする。私のような内にこもった絵描きなぞ到底出会ったことの無かったバイタリティーに溢れた若い人。彼女と来れたことが何よりの収穫かもしれない。



帰り、船着き場から陸に上がる急坂で、トゥクトゥクの青年が操縦しきれず、車体だけが坂を転がり落ちて来たので悲鳴が上がった。私達は車を降りていて、他の人にも青年にも怪我は無かったのが幸いだったが、完全に横倒しになってしまったトゥクトゥクを付近にいた男たちと私達で起こした。
助けてくれた男たちに、お礼の言葉ではなくリエル札をくしゃっと渡していた。男たちも当然のように受け取っていた。その後バイクは調子が悪そうだったが、何度か止めて調子を見ながら、なんとか街のホテルまで辿り着けた。彼に怪我が無くて本当に良かった。
淡いようなシュールな体験だった。映画の中に迷い込んだような時間。カンボジアの都市部では見られない、農村の人々の現実の暮らしを目撃出来たのがよかった。コダック島、この場所はいつか学生たちを連れて来る、と心に決め、Iさんも同意してくれた。


:::


夕方、いよいよ「虐殺博物館」トゥール・スレンへ見学に行く。
1975年ポル・ポト派クメール・ルージュが行った大虐殺のうち、秘密裏に行われていた大量の拷問殺人が実際に行われていた場所、元は学校だったところだ。
当時のまま残されていて外から見るだけでも陰鬱な建物の色に身が竦むようだったが、入ってすぐに全域から漂う死の雰囲気に、もう始めからエネルギーを奪い取られる。


収容された二万人がここで秘密裏に、拷問の末にジリジリと虐殺された。カンボジア全域に同じような秘密収容所があったと言うが、ここが総本部だった。
元は教室だった一つ一つの部屋に、各一つずつ置かれた鉄製の簡素のベッドと拘束具は、夥しい血こそ拭き取られているものの、当時のままである。排水溝の穴から外壁に洗った血を垂れ流し、建物全体が血を流していたようだったと言う。部屋で最後に発見された拷問遺体の写真が、壁に賭けてある。
それらは尋問室。看守らの言う通りにでっち上げの尋問を復唱させられ、調書を書かされ、正しく言えなければ拷問を繰り返し、調書が終われば廃棄されるようにその拷問のまま死に至らしめられた。そういう現場だ。


二万人のうち数人しか生存者はいない。そのうちの独りが絵描きであり、ポルポトの肖像画を描くために延命をさせられ、最後に逃げることが出来た。そしてクメール・ルージュが去った後、沈黙を破り、拷問の日々を鮮明に絵に描き起こした。自分がそういう立場になったら、と考えながらおそらく幾千もの人の血のしみ込んだ床を歩く。神経がすり減らないほうがおかしい。


拷問具、たくさんの人骨、強制労働や移動の記録写真とともに、全室に延々と続く惨殺された人々の顔写真の列が、何よりも圧倒的に迫ってくる。
誰かにいわれの無い密告をされ、ある日突然、暴力的に目隠しと縄をかけられ裸にされ誇りを奪い取ってから連れて来られ、そこがどこなのかも分からぬまま番号札を掛けられて顔の記録写真を撮られたときの、被害者の顔、その眼。


多くのことを考えたが、今すぐに言葉にできることは少ない。
今接しているカンボジアの人たちが何を考えて生きているのかはとうてい想像することができない。しかしずっと考えてしまう。
遺体の写真などが直接怖いだけではなく、とにかくそこに行けば分かるが、その場所が訴えかけてくるものの重さと生々しさは確実に心身を打撃してきて、宿に帰って寝込んだ。しかし、世界中の人が訪れるべき場所だ、と心底思った。
昼間の淡い水彩画のような美しい遠足体験とうって変わり、カンボジアの人々の中に染み付くこの国の現実の重い枷のすがたを垣間みた。ベトナムでも戦争博物館によって歴史の重さを否応無しに目の当たりにしたが、またそれとは違う衝撃で茫然とさせられた。ただ一つ、この博物館がカンボジア人自らと言うよりもポルポトを制圧したベトナムの思惑で始められたらしいと言うことで、カンボジア人自身がこの博物館をどう考えどう問題にしているかは、分からなかった。


ASEAN諸国を訪れる機会が増えて思うことは、普段自分も口にする「文化」などという言葉は、よくよくなにかが身にしみてから重い口を開いて出す言葉なのであり、かんたんにそんな言葉で箔をつけ銘を打って手前勝手な交流の道具にすることほど浅薄なことは無い、ということだ。つくづく自分の考えは島国根性だと思い知らされる。日本に居て日本の伝統や文化を語るのと同じように、他国や他文化圏の人が自らの過去をさかのぼれるとは限らない。それを肝に命じて生きていかない限り自分は、根本的に人間として愚かなままだ、と思った。


5月9日

日本も暑かったと聞いていたが、成田の肌寒さに驚いた。やはり熱帯ではない国の肌触りは違う。何もかもがスッと白いような薄灰色のような日本。
むこうの土地では腹具合いもよく疲れも無かったが、日本に着いた途端に少々お腹Pになり始める。東南アジアを訪ねたときは、いつも帰国してからそうなったように記憶している。


結局三日間ほどずっと走ってもらった、ホテル専属のトゥクトゥク運転手の青年ソー君のことが何度も蘇る。運良く彼に出会ったことが、この旅が充実した理由の一つだろう。
他の運転手に比べ寡黙でキリッとしたこの青年は誰に似ているのか、最初から何とも懐かしい感じがした。他の運転手のように商売を吹っかけたり、値段を喧しく交渉して来たりあまりしなかった。「そこまでいくらですか」とこちらが聞いても、言いづらそうにフッと笑いながらうつむいてしまうところが気に入った。彼が連れて行ってくれた食堂、遠出した島のひそやかな地元民の観光地は、ガイドブックだけ見ている限りは訪れ得なかった場所だったろう。


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おそらくトゥクトゥクに乗るのはいいことばかりではなく、観光客にとっては様々なトラブルと遭遇する切っ掛けになってしまうかもしれないものだが、カンボジアに来て始めにこの国の雰囲気を掴みたいならば住民の足であるこの乗り物に乗らない手はない。本当にこの国の交通事情は恐ろしいが、疾走感の中に風を切りながら剥き出しで身を任せているスリルには、アジア好きは嵌まってしまうだろう。


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初めに王立芸術大学で年輩の先生方と緊張しながら打ち合わせした時のことだ。先生方は皆品の良い人だったが、歓迎されているようないないような、しかしジッとこちらの意図を汲んで観察しているような眼が印象的だった。
自分は型通りのこと、例えば「あまり交流の無い貴校と我が校、カンボジアと日本の情報を交換し交流することは学生にとって刺激になると思います」的なことしか言えなかった。
むこうの人が日本の学校に望むものはなんだろう、と探りながらの対面だったが、「今私達の学校には圧倒的に指導者が足りないのです」と先生方は口々に仰った。学生が自由に日本に留学出来るかと言ったら、経済的に見てそれはかなり今難しいのが現状である。若い学生に遊学的な海外経験をさせることよりも急務なことがたくさんあるのだろう。


提案する交流授業のために幾つかの具体的な質問をしたら、先生方は答えてくださった。
私は「なにかカンボジア独特の描画技法で残っているものはありますか」と質問をしたが、学長は静かに「無いですね」とあっさり答えた。
このやり取りは、後から私の中に何度も蘇った。虐殺博物館を見学してからあらためて、この国に起こった悪夢がどれほどの文化、指導者、資料を根こそぎ壊滅させたのか、ということに想いをはせた。私の質問は彼らにとってはあまりにうかつな愚問だったかもしれない、と自分の無知を恥じもした。まあ、聞いてみなければ分からないことではあるし、そもそもそれ以前に本当に舞踊等に比べ特殊な描画技法があまりないだけかもしれないが、事前にもっと事情を掴んでから発する質問だったかもしれない。

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他の国に行くと必ず画材店のほか、紙店、書店をリサーチする。プノンペンにも海外の絵具メーカーが揃う画材店はあるようだった。まあ、そういう輸入中心の画材店は敢えて訪れなかった。
それよりも本屋と紙媒体、紙の文化がなさそうなところが非常に特徴的だと思った。調べたらやはり、本や紙類は重要視されておらず、店舗もあまりないらしかった。モニュメント・ブックスと言う洋書が揃う大手書店を除くと、クメール語で書かれた本の充実した書店はあまりなく、あったとしても雑誌類か、文具店の一部に教科書のような形で置いてあるのが主流らしい。本は贅沢なものだ、という話もある。
私も訪れた市場近くの文具や、あのチープな漫画を手に入れたところも典型的なそれだったろう。あの手軽なジンのような漫画教材があらためていろいろなことを物語っているような気がして、レトロな駄菓子的感覚でそれを微笑ましく見るようなことは出来ないんだ、と思った。
本や紙媒体の資料、「知」にまつわることのすべてを、徹底的に殺戮ともに排除された歴史から考えると、そういうアーカイヴのありかたをもはや盲目的に信頼することが出来ない雰囲気が今も根強いのかもしれない、と推測した。
それだからこそ授業内容に、本と紙についての何かのアイデアを絡ませる案、が一つ浮かんだ。


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もう一つ知りたくなったのは、クメール人と色彩の関係についてである。彼らは意識していないかもしれないし、私の勝手な思い込みに過ぎないかもしれないが、この国の人の色彩感覚にはなにか私の興味を引くところがある。
伝統的に大事にされている色彩の多様性や言い習わしがあるかどうかは全く分からない。絵画より彫刻、モノよりも歌舞が重要なのは見ていてもすぐに掴める特徴だ。とくに絵画の価値の位置づけはかなり低いように見える。ただ、絵画としての色ではなく、絹織物の染織、服飾に見られる配色の絶妙さは、なにか他の国の絹織物の魅力や色の魅力とは違うものを感じるのだ。完全に単なる気のせいかもしれないが、とにかく私には魅力があるのだ。


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緑と赤、紫と黄色、補色同士の光る絹糸を掛け合わせる綾織りの絶妙な色彩は、他の国でも見かけたことはあるけれど、プノンペンの市場や絹織物店で見かけた玉虫色の不思議さは、タイやベトナムの生地にはそれほど感じなかった。そんな美意識を指し示す言語はべつに無いのかもしれない。しかし身体で感じる潜在的な美意識の秘密として、玉虫色感覚はなにかの手がかりにしたいことだと思った。


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出国の日の昼、ホテルのカフェで独りでお茶を飲んでいると、給仕してくれていたホテルのリーナと言う女の子が英語で話しかけて来た。私の英語力ではかなりあやふやな会話だったが、リーナはちゃんと英語を勉強しているらしく、途切れも無くいろいろな自分のことを語り始める。
農村から都会に出て来たこと、近所の人たちは口を揃えて「勉強するなんて愚かだ、大きい工場に努めたほうがいいのに」と後ろ指を指すが両親はそれを許してくれたこと、英語を使うホテル等観光業に数年勤めることで学費免除される制度があること、カンボジアで教育を受けている若者はとにかく英語に関して話せるようにしておくと言うこと....


今後、日本にカンボジアの若者が勉強に来たいと思うのかどうか聞くと「今のままでは難しいでしょうね。経済的に無理よ。韓国への留学は多いわ。韓国政府が援助してくれるしむこうで雇用があるから、この国の学生が行けるようになっているの」とリーナは明快に答えた。
片言で聞いた話からも何となく様々なニュアンスが伝わってくる。彼女自身で話していてもやはりポルポト時代のことに抵触しそうな時には物凄く顔が緊張するのが見て取れる。「私達には最悪の年月があって....そういうこともあって、今こうなのよ」


最後にすこし「色彩」のことが知りたいと思ったので、クメール語ではいろいろな色の名前があるか聞いてみた。例えば日本では青の名前でも色々ある、と言うようなことを説明したが、カンボジアにおけるそういうことはさすがに分からないらしかった。
ひととおりの色の言い方を、彼女はクメール語で教えてくれた。赤、青、黄... 白は「ソー」と言う。トゥクトゥクのソー君は「白」君というのかもしれない、などと一瞬思った。
薄紫のストローを私がこれは?と指すと、「それは難しいわ。二色を足して出来る色だもの」と言ったことに驚いた。紫、と言う言い方をせず、赤と青をまぜたもの、と認識するのか。「でも言うとするなら、サヴァイよ」とも言った。なんだ、一応「紫」と言う言い方はあるのか。しかし、とても彼女の発言は興味深かった。
「じつは地方によって色の呼び方はそれぞれ違うのよ」と最後に彼女は言った。その言葉を聞いて、色に関してのリサーチを絡めた授業や研究が可能かもしれない、とまた新たに一つの案が浮かんだ。

by meo-flowerless | 2017-05-10 09:35 |