画家 齋藤芽生の日記


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2017年1月の日記

2017年1月の日記



1月1日

大晦日。私の実家で紅白を観て過ごす。歌謡曲衰退のいま、紅白にさしたる興味はないが、画面がパッと【ゆく年来る年】のリアル感に移り変わる瞬間がなんとも好きなので、その瞬間のためにだらだらと紅白を観る。
【ゆく年来る年】に香川の善通寺が映った。遍路を経験した真徳君には懐かしい場所らしい。
その善通寺で除夜の鐘が一つなるたびに、鐘に反応したのか、寺付近にいるらしきのどっかの犬が物凄く情けない哀愁声で遠吠えをする。「ゴーン」「クゥオ〜ン」が真面目なTV画面中で繰り返されている。その声に、かなり笑いを誘われた。


1月2日

紅白のヒドさ、正月番組のつまらなさ…毎年のこととは分かっていても、さらに「現場で誰も判断の責任を負っていない」感があからさまになってきたな。娯楽やイベントに限らず様々な現場でそうなっているのだろう。
あらゆる場面で「内輪受け」「自分だけがわかっている」状態を自らに許しすぎなんだと思う。今の日本人の大半が。
今からすでに、誰の心も掴めない、オリンピックの意味不明演出や現場の混乱なども、容易に想像出来る。
本当にいいものとは何かを吟味しない、過去に学ぶ姿勢を嗤う、そのくせゼロから何かを作っていこうという気概もない、他人のアイデアを無断で借用する、批判を受けるのが嫌で意味のない開き直りをする…
まずそういう安易な浅はかさに気付いて改めないと、クソくだらないものを嘘でも持ち上げるスカスカの文化で、地崩れしていくばかりだろうな。
もともとそういう風潮は死ぬ程嫌だが、自分の中にだってそういう部分が、皆無ではないかもしれない。自分だけでもまず、気持を入れ換えよう。


1月3日

年内に年賀状を作らなかった駄目なウチら。しかし夫の方は、年明けに真面目に年賀状を刷り始めた。それを横目に私かいつまでも寝床でダラダラしていると、呆れながら「じゃ年賀状は俺が作るから、君は俺の旅行先に持っていく音楽集を編集して」と命じられた。待ってましたぜ、コンピ編集!そういう仕事なら正月からでもやりますぜ!
日本海に行って来るから演歌中心でね、と言われた。能登をピンポイントにしたかったが結局、北海道ものも陸奥ものも、演歌じゃないのも含まれてしまった。
久々に聴いて良さを再確認した曲や、新たに発掘した隠れ良曲。張り切りすぎ、眠れなくなってしまった。自分の趣味丸出しなので、どうかな。旅先で夫が聴くかどうかはわからない。自分では快心の出来だ。


【日本海岩場の波】効果音、【さらばシベリア鉄道】【北帰行】小林旭、【地図のない旅】【旅人の唄】根津甚八、【風待ち食堂】鳥羽一郎、【かもめの街】【口笛が聞こえる港町】ちあきなおみ、【海猫】【漁歌】北原ミレイ、【海に抱かれに】吉幾三、【港の彼岸花】【雪の海】浅川マキ、【雪】稲葉喜美子、【街角】カルメン・マキ、【別れの旅】藤圭子、【冬の星座】合唱団、【イヴのブルース】もんたよしのり、【かもめの歌】【心守歌】中島みゆき、【能登半島】【鴎という名の酒場】石川さゆり、【津軽恋女】新沼謙治、【夜明け前】大川栄策、【砂山】森繁久彌、【砂の道】谷村新司、【哀愁波止場】美空ひばり、【海鳥の鳴く日に】クールファイブ、【あなたの港】都はるみ…その他演歌の有名どころ、唱歌、インスト曲なども入れて90曲くらい。


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上に挙げた歌の数々を聴いていて、ほとんどが唸ってしまうほどの歌唱力を持った、日本を背負った歌手なのだが、その中でも、ちあきなおみは別格だと感じる。巧いというのも当たり前なのだが、聴く者を情景の底に沈ませる力、が凄い。俳優のような歌い手だ。
情景・喚起力というより、「情景・憑依力」という言葉を当てはめたくなる。
うまく説明のつかないこの「情景・憑依力」とは、表現の世界に足を突っ込み始めた十代最後の頃から、ずっと私のなかの命題でもある。


ただ情景描写を説明するだけ、それらしい雰囲気を纏わせるだけでは、駄目だ。
人が忘れていた底辺の記憶に思いがけず結びつき、ふと戦慄さえ覚えさせる。記憶の底に押しやった情景を不意に連れて来れる「魔力」。記事のほうに根津甚八が好きだと書いたが、役者の中でそういう存在感があるから、好きだったのだと思う。
死んでしまった幾千億の他者たちが生前に見て居たであろう光景を、ぼんやりといま見つめているようなまなざし。親族の誰かの声音のようで居ながらも、そんな人は記憶から抹殺されていて思い出せない、そんな声。自我とは別に、うつろな沈黙の時空を持っている人。
演技力以外のなにか、歌唱力以外のなにか、造形力以外のなにか、なのだ。あるひとには、ある。人生経験値の反映だけとも言えない、生まれつきのなにか、のような気もする。


情景が人に憑依するのか、人が情景に憑依するのか。どちらでもある。
人には見えぬ魑魅魍魎や心霊を見る霊感の強い人がいるように、「ただの風景」に対し人間の情念を不意に通電させてしまう役割。そんな人間もいるのだ。
情念とは何か。例えばそれは、「ひとりの人間が口に出さずにいることの、かたまりのようなもの」にすぎないのかもしれない。
過去の幾千億の人々、その捨去られた思いのかたまりが底にこごったような別世界を、ふと現実の世界に重ね見てしまう。そういうときはじめて、ただの光景が、「情景」になっていくのだろう。



1月4日

頭痛がするほどの酷い肩こりのために、ひさしぶりにヴェレダのアルニカオイルを買ってきた。
風呂上がり、筋肉や関節が疲労した所に塗り籠むと、いつのまにか痛みや緊張や寒さがなくなって、脱力している。これが植物エキスだけの効果だとすると、何だか空恐ろしいような植物である。
アルニカは、歴史ある薬草なのだ。さすが世界のアスリートが使用しているだけある。これはもう、筋弛緩剤なのではないか。

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能登半島の夫から電話。「最はての海を見る」旅の様子を語る。
私の作った歌謡コンピを聴きながら運転していたらしい。誰のかわからないが気に入った歌と、いうのは稲葉喜美子の「雪」だと思う。
宿には、白黒の同じ模様の猫が二匹居るらしい。いまは一回の炬燵で丸まっているよ、と言っていた。夜の波音が聞こえてくるその宿に、客は夫ひとりだそうだ。


1月9日

「観光の亡霊」という感覚。

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例えば、山の鬱蒼としたところに、離れた場所の観光ホテルの宣伝看板が、ポツンと不意に屹立しているのを見る。その文字板が外されて骨組みになったやつなどもある。そういうものを見るとき、自分にとって何にも増して純な感傷に襲われる。神々しいとさえ思う。


流行っているもの、沸き立っている話題、同時代にウケているものなどには、大抵私は勝手に、触れるまえから疲れてしまう。その裏にある人間の野次馬心や同調や嫉妬などの思惑が邪魔して楽しめない。それよりも、人が捨て去った価値のなかに純度を感じてしまう。
なかでも、モノとして廃棄も充分にされず風化も出来ず遺されている、半分自然化したような人工物に対峙する瞬間は、なぜか人間同士よりも感情移入が出来るように感じる。


1月10日

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ハンコ屋の店先にある印鑑のスタンドが、よく見ると珍苗字ばかりのスタンドだった。
道祖土、雑喉、属…どう読むのだろう。

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古本屋で一冊300円だったシリーズ【日本人物語】。内容は、現代版なら例えばコンビニに売ってる600円くらいの「本当はコワい日本の秘境」みたいなムック本に近く、興味本位にザックリしすぎていて、専門的ではなさそう。しかし【漂泊の世界】という巻も揃えたい。(追記:読み始めたが、さすがにムック本などよりは、視野も深く文章もよい)
いつの時代も人間が、陰の部分や裏道の禍々しさに奇妙なロマンを抱くのは、変わらないことなのだろう。見出しだけで妄想がむくむくと膨らむ。そう、妄想が膨らめばいいのだ、私には。
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大学時代に読んだ本は殆ど、歴史の裏舞台の著述や、民俗学の本ばかりだった。系統立てて読んだわけではない。民俗学者の主張の喰い違いなどに興味を持ち始めると、自分の惹かれた原初的な部分が何処かに行ってしまいそうだ。とにかく感覚で惹かれるままにあれこれと読んだ。とうとう西洋の哲学や美学など読むべき本をろくに読まずに青年期を過ぎてしまった。しかし民俗学分野の本は何度読んでも良い気になる。柳田、宮本常一は勿論、宮田登、沖浦和光、網野善彦、赤松啓介、ふとした時にかばんに入れて持ち歩きたくなるのはそういう本だ。
だんながその方面は現代の著者まで読んでいるので、ウチの六つの本棚には民俗学方面の本が非常に増えている。自分もまたちゃんと読んで行きたい。


歴史の表舞台に現れないことの学問は、知る機会がなければ一生知ろうともしないだろう。
それは人々が忘れ葬りたかったことの屑や破片であり、美しき日本を語るのに必要な部分ではないかもしれない。けれどこのような日陰の庶民の歴史を知らずして、どうやって自分の等身大の真実に辿り着くのか、と私は思ってしまう。皆が貴族や武士の末裔でもあるまいし。


学術的な検証面ではどう評価されているかは知らないが、五木寛之の【隠された日本】(「サンカの民と被差別の世界」「隠れ念仏と隠し念仏」「宗教都市と前衛都市」「一向一揆共和国 まほろばの闇」等)のシリーズは、読物として読みやすく、印象深かった記憶がある。本離れした学生などでも、へえ、そんな歴史もあったのかもしれないと想像を巡らせるきっかけにはなるだろう。
事実があったか無かったかなどという論点、誰が正しいか正しくないかでつばぜり合いすることがそもそも、歴史への想像力欠如なのだと思う。大事なのは、思いも及ばない世界がかつてあったかもしれないという想像の飛躍性と弾力性だろう。中でも歴史の負の側面とされることの、リアルな情景の想像をどれだけ我が身に引き受けられるかが、少なくとも自分にとって忘れてはいけないことだ。

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古本屋帰りに歩いた住宅街やマンションの間に、置き去られたような数軒の飲み屋街があった。一帯に人の気配のない、時の停まった感じ。抜けようと思ってもコの字に迂回する道のつくり。なにか、夢のなかのようだった。そこが赤線の名残だと後で知った。ついでに自分が大学3年頃のその町の駅南口の俯瞰写真をネットに見つけ、その闇市感の残滓に驚いた。かつては基地の歓楽街の、そのまた裏側のような場所。
もとの光景を全く知らなければ、古い町並の写真もそれほどの感傷を呼びおこさない。しかし記憶に確かにあったはずの光景が今の光景に塗り潰されていることに気付く時、情が動く。
猥雑なあの駅前には用事もなく、あまり歩いたこともなかったが、何らかの風景の強い原型ではあるらしく、今でも形をかえて夢に出てくる。


中央線が新宿駅に着く時に見下ろせた、新宿東南口の駅前闇市跡のことも思い出し、調べてみた。
丸く小さな空間を囲むように立ち並ぶ、間口2間くらいのバラックたち。いつも看板に西日があたっていたイメージ。とっくの昔になくなったようにも、かなり自分が大きくなるまで残っていたようにも、どちらにも思える。物憂い気持で見ていた記憶からすると、思春期まではあったんだろう。
高架から見下ろし想像するだけの、複雑に階段などで繋がれた地形の記憶が、現在のよく知った駅前写真と比較されているのを見て、初めて位置の辻褄があってしまった。夕日の夢のなかに浮かんでいた複雑な盆景みたいなのが、ペシャンと萎んでしまった。
ションベン横丁やゴールデン街が消え去る想像の残念さとは、おそらくちがう痛みだ、これは。


1月13日

「クラーナハ展」/国立西洋美術館。会期残り三日、かけこみで観る。
観てよかったほんとに。ただ技術や歴史性に感動させられるだけの作品群ではない。「画家もモデルも、全くどーいうヒトだったんだろう....」と妄想をかき立てられる展覧会は、観て後悔しない。
澁澤龍彦も確か書いていたような気がするんだけど、全作品を覆い尽くす、極上のSM感.....一体なんなんだろう。引き締まった貧乳、白肌の裸に、鎖の首飾りジャラジャラ。
「嫣然」などという、今や死語の妖艶な表現を使いたくなる、女の顔。うすい赤い唇の下の青さ。切れ込みの深い目の透明さ。モナリザとはたぶん違う種の、謎の微笑だ。


ルクレツィア、サロメ、ユーディット。それぞれの伝説上の女の立場や性質は違っても、クラナッハの描きたかった「女というものの、あの感じ」は、徹底していたのだろう。描くのが早いと言われていたようだが、絵描きならばわかる人にはわかる「描写の細部にこだわりすぎて全体の均整が段々ズレてくる」問題がクラナッハの絵にはあって、頭蓋骨の中心線と顔とがめちゃくちゃズレていたりするんだけれど、それでこそクラナッハなのだ。たぶん。


女というものの中には、きっとなにか、説明のつかない残虐さがある。
しかしほとんど九割、凡百の女たちの残酷さなんぞは、「トウの立ったババアの粗雑なモラハラ」程度になっていくだけなのだ。気付いているのに、美しい蠱惑としてそれを使えず、時を過ごす。
残り一割の、特別の若さの、特別の顔立ちの、特別の魔力を持った女だけが、真の残虐美を持って許されるのだ。そういう特別な女の顔だけを、クラナッハは描く。


勇者ヘラクレスが恋した女王に雌伏して仕え、取り巻きの女たちにヒゲを引っぱられたり女の格好をさせられて、弄られてなぶられている絵。
デューラーのとは全く趣の違う【メランコリア】。憂鬱を晴らす音楽舞踊部隊の赤ん坊天使たちが、ゴロッゴロと裸体を投げ出してもり立ててくれているのに、まるで「託児所の片隅でクソガキどもから目をそらしフテ腐れている保母さん」のように描かれている、メランコリックな女の絵。


ダヴィンチだのミケランジェロだのは既に伝説上の神格で、生々しい伝記を読んだとしても、人として存在していた実感が湧かない。しかしクラナッハ.....。時を超え、話をしてみたいおじさまである。


1月16日
漁火光柱、という現象と言葉を初めて知った。
ネットのニュースもたまには幻想を運んでくれる。海辺の夜空に色とりどりの光の柱が天地垂直にいくつも浮かんでいる写真。
いつかオーロラを見る日があったとしても泣きはしない気がするが、漁火光柱を見ることがあればきっと泣いてしまうと思う。
空中の氷の結晶が六角形になり、気温や風の条件が整った時、海上の漁火や地上の光が、垂直線になって空に映る、と書いてあった。



1月29日

電車に揺られて見た夢。
藤圭子が自分の研究室の大学院2年生で、修了制作展に出品している。「先生、あたしも講評してください」というので大学美術館に作品を見に行く。巨大なゴム手袋を立体として立たせている。うーん、これかい…と困惑しつつ、まずは「イカみたいだね」と講評した。


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卒業制作展で混み合う大学に毎日仕事で詰めていると、観客のなか色々な知人に行きあう。久々に会う人に最近なんだか「疲れてる?」「具合悪い?」はては「オーラがない」と度々言われる。自覚症状なくともあまり言われると、自分で心配になってくる。知らず知らず病気になっているのか、それともガクッと老けたのか。


一年一度会うか会わないかの、親しいというほどでもない旧知の人で、必ずそれを言う人がいる。「なんだかお疲れみたい、心配」「仕事無理してるんじゃないの?心配…お察します」「頑張りすぎなんじゃない?あまり頑張らないで」の3セットを必ず必ず必ず言う。本当に疲れてる時でも、ぶいぶいに調子に乗ってるときでも、のんきにアメ舐めてるときでも、必ずだ。最初は、ありがたいと思った。家で鏡に顔を映し疲労チェックをした。しかしあまり何度も言われ、しだいにモヤモヤを感じるようになった。
毎日会う人や家族に言われるのと、わけが違う。この人は一体いつの私をデフォルトにして比べてるんだろう?この人は私の何を知っているんだろう?と、疑問に思ってしまうのである。
疲れてないよ別に、と答えると、そう?と疑わしそうな目でまじまじと顔を近づけて見る。こういうことを指摘してくれがちなひとは、一定のタイプがあるような気がする。




by meo-flowerless | 2017-01-17 00:33 | 日記