画家 齋藤芽生の日記


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カスドース

カスドース_e0066861_18324588.jpg


「カスドース」の包みが、うちに届いた。
長崎の平戸の湖月堂からわざわざ取り寄せたお菓子だ。
もう自分の誕生日に関心もなくなると、その日はいつもの日とともにスッと過ぎるのだが、何か特別なものを食べたいという思いはふと生じる。
それは高級な食物でも珍しい食物でもない。「遠い」食物だ。


昔っぽい素朴な包みを開ける。カステラの元祖、というよりは、砂糖のつぼに落っことしてしまった卵焼きのような、手に持ちにくい外観。味も、そうだ。
この「甘いだけ」、の味の描写は、難しい。
塩ではなく砂糖まじりの涙を流しながら疲れ果てて枕に顔を埋めるときのズブズブ感、そんな印象は健在だった。


「カスドース」は、遠いお菓子だ。
今スーパーで買ったポッキーについては何も書くことがなくても、あの長崎平戸の薄暗い店で眠っているようだった原始的なカステラの淡い甘さについては、どうしても留めておきたい、遠い美を感じる。


自分が何かを書く対象は、過去や失われたことに対するものが多い。
過去がただ魅力的だからではなく、私にとって形容の掴みやすい「遠い」ものごとだからだろう。
私は、遠いもののことは、よく記憶する。
景色でも人間でも遠くから、美しい、手に入らぬと思ったことは、刺しこまれるようなような痛覚とともに残り続ける。
痛覚を、私は書き残したいと思う。
日常に大事なことは多くあるが、妄想の助走距離があまりない、慕情の射程距離が短い、それら「近い」ことは、言葉にはしづらい。


十年前、子供向けの「カステラ」についての絵本の挿画を頼まれた。
私は編集者のFさんと長崎の文章家Aさんに連れられ、長崎の平戸まで十時間くらいかけて、日本におけるカステラの歴史について取材に行った。
平戸はかつて長く異国との交易に賑わった土地だが、東京が首都となった今では西の果てのようにも感じられてしまうところである。
その東京からの道中はとにかくもう、遠かった。感覚では、ヨーロッパなどより遠かったくらいだ。


二人の初老の紳士とともに黙々と、今は寂れたさいはての貿易港を歩いた。
松浦屋敷を見、丘の上のキリシタンの礼拝堂も見た。礼拝堂の中は今は滅多にはいる人もないようで、古い小学校のような優しい匂いがした。簡素だが美しい緑のステンドグラスの十字架から光が漏れていた。博識のAさんがさまざまな歴史の解説を、静かにし続けた。


古い商店街の暗くて簡素な洋菓子屋でAさんが、
「これは珍しいから絶対に食べて。ここにしかない、これが本家のカスドース」と言った。
「カステラじゃなくて、カスドースですか?」
「そう。日本でいうカステラになる前の過渡期にあった原型みたいなお菓子。平戸のこれだけが、今手に入る本物のカスドースなんだ」
こんな薄暗い菓子屋が本家か....と思いながら、そのお菓子を買った。


それは、あわあわとしたタマゴの味を良く感じる、黄色の砂糖まみれのカステラの滓のような菓子だった。その単純で素っ気ない甘さの感想に、一瞬悩んだ。まずいのではない。
なんとも美味しい。ただ、「遠い」美味しさなのだ。言葉の形容から遠く遠く離れた味なのだ。
「わかる?これがそもそものポルトガルのパン・デ・ローや、江戸時代に作られていた素朴な釜のカステラに近いものなんです」


弾圧の前のつかの間の時代、長崎に流れてきてキリスト教を布教したポルトガルの宣教師たちが、自ら焼いて、信者の子供たちに配ったかもしれない食物。
カスドースは平戸藩主の御用お菓子として甘く洗練されたものだが、この甘い感覚というのは、もっと素朴なタマゴ菓子であった中世の頃の庶民も、もしかしたらこっそり経験した感覚のはずだ。
手に入り難い砂糖やタマゴの食物を、はじめは遠巻きに見守りながらやがて口に頬簿って、怖くて眩しい海の果ての西洋に思いを馳せたであろう、戦国時代の人々を思う。
私と同じように身体を持ち、丘に登り、海風を吸い、その菓子を口に含んでしばらく黙った....
そう、同じ人間なのだな。
「時間の距離」ということを、今までにない感覚で感じさせられた。
今ある語彙にも経験的背景にも、この甘さを形容するにふさわしいものが見つからなかった。


遠い記憶ばかりを変に捕まえるこの頭が今も覚えているその旅は、長崎から平戸までの沈黙のバスの距離、佐世保やハウステンボスの寂れた道路の凹凸、金色の残光に溶けていたキリシタンの生月島の島影、
宿の水仙の花の香が暖房で気化して眠れなくなり、外に出て崖上から海の夜明けを一人で見ていたこと、そしてあのカスドースの形容しがたい遠い甘さ.....そんなものたちだ。


船着場で見えない貿易船を幻視するかのように海を眺めていた、AさんとFさんもまた、「遠い」ことへはせる想像力、の話をしていたような記憶がある。
その後幾度か年賀状などやり取りしたが、いいかげんな私はまた音信を怠っていて、お二方がどうしているか知らない。
by meo-flowerless | 2016-03-08 14:06 | 匂いと味