画家 齋藤芽生の日記


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よいこのクリスマス

よいこのクリスマス_e0066861_133822100.jpg


ロシアの農村にうち捨てられた団地群や、北朝鮮の平壌の風景がテレビに映ると、幼い頃住んでいた団地を思い出し、感慨を覚える。




白い単純な長方形高層住宅が林立する、冬枯れの殺風景。
東京外れの丘陵地を切り崩して出来た、かなり街と隔離された団地群だった。
中央線が終点の高尾に近づき緩行する頃、南の空に、艦船か要塞のように点々と浮かぶ建築群がそれだ。
引越してからは殆ど訪れていない。

1975年の入居。賃貸の、普通よりは少し凝った建物のある公団住宅。
分譲マンションの流行前夜だったか…初めはそれなりに高級感あると思っていたが入居して数年で、もう他の街の住民に「ああ。ダンチの人ね」などと軽く蔑むように言われた、と親が言っていた。
七歳の誕生日、私立小学校に通っていた私が都心の友達を家に呼ぶと、その中の一人が私の親に向かって「ここ、賃貸?分譲?」と訊いた。

それでも、なかなか新しくて、建物のデザインが少しづつ違う綺麗な団地ではあった。裕福ではないが割とハイソで教育熱心な若い核家族が多く入居していたらしい。

もうその後は団地とは関係ないところに住んでいたのだが、90年代初頭東西の冷戦構造が崩れ、「社会主義」というものが世界的に失墜。旧ソビエトや東欧の町の風景を映像で目にする機会が多くなった。それらはたいてい、煤煙に腐れきった工業団地とか、甘い汁を吸った党員の住んでいた高層住宅とか、チェルノブイリ汚染で立ち入れなくなった廃住宅であるとか、「負の遺産」として画面に映し出された。
大学生になり1990年代のドイツを旅し、東ベルリンでそれらの社会主義遺産を目の当たりにした。殆ど古い建物を壊し去り赤土の広大な土地が広がる中に、キッチュな地球儀型電波塔や無機質な団地群、厚紙で出来た旧式の車、妙に労働者的なモニュメントなどが残っていた。西ベルリン市街とのギャップは無惨なまでだったが、私は「東」の赤茶けて時代がかった物々しさに惹かれた。
抑圧と無機質と、土着と素朴が絶妙に入り交じった、現代の「気まずい」風景。
しかしそういう風景に、この身体がどうしようもなく郷愁を感じてしまうことに、次第に気付いた。

あの団地に住んでいた大人達は、時代のせいかどちらかと言えば左翼的匂いをさせていた人が多かった気がする。
親がそれぞれ60年70年安保を学生時代に経験しているというのもあり、私の家庭も妙にインテリと革新の空気に浸かっているというのか、排他的ハイソ・若いコミュニスト夫婦的な、まわりとの違和感があった。私は子供心にむずがゆい思いがしていたのだが、いまとなってはあの親の気負いが懐かしい。
壁一面の本棚には古い英字の百科事典や洋書があって、その一寸ズレた感覚の挿絵や説明図が目に焼き付いている。そういえば当時嫌いだった渋い黄色のカーペットや家具やカーテンも、いま70年代のヴィンテージインテリア雑誌などに載っていてもおかしくないほど、実は西欧モダンで洒落ていたと思う。

「ソ連」という不気味な大国名と、お気に入りレコード『よいこのクリスマス』の中の「トロイカ」の歌が、同じ大地の出来事であるとは当時知らなかった。
でも、寝物語に母が読んでくれる絵本や文学の中の世界はみんな「トロイカ」の雪国なのだ、と漠然とイメージしていた。
「白く冷たい団地の質感」と「夜見る夢の童話の冬」が妙に入り交じった夢想の世界で、私はぼんやりと来る日も生きていた気がする。思い返すと団地の記憶は冬枯れの光景しかない。それが旧共産圏の風景とまるでそっくりシンクロするのだ。

クリスマスにはツリーに綿やモールや星を飾り、鶏肉を食べ、ケーキの蝋燭を吹き消し、家族三人で少し寂しいクラッカーを打ったりもした。社会との確実な隔絶感を子供心に敏感に感じながらも、狭い団地の閉ざされた部屋の中には、暖かい幸せと理想と西洋風の夢想が詰まっていた。親が手作りした人形の家(父手製母手製それぞれある)そのままの暮らし。息苦しくもあり、切なくもある、幸福の味。

このクリスマス向けレコードを私は年がら年中聴いていた気がする。季節外れなことを許す親ではなかったはずだが、このLPの中の「トロイカ」の哀調は、もう身体の随まで染みこんでいるから、やはりしょっちゅう聴いていたのだろう。
おかげで暗い心の大人になってしまった。

キングレコード『よいこのクリスマス』、歌っているのは、「ひばり児童少年合唱団」や、「東京少年合唱隊」。有名なクリスマス曲の他に賛美歌や「マルセリーノの歌」なども入っている。殆ど全て児童が歌っている。
おそらくはこれを買ってもらった70年代中期よりはもっと古い、60年代後半くらいの録音なのではないかと思う。勝手な予測だが。極めて古くさい音なのである。小津安二郎映画の音楽のような、いまから考えると信じられぬほどスローな時代の幸福さを思わせる。録音は妙にコントラバスの深い音が効いていてクリアーだ。静かな楽団と、ベルや鉄琴の音。媚びも添加物もなにもないシンプルさ。子供の声が、いまではちょっと耳にすることが出来ぬ質の美声。ウイーン少年合唱団的でもなく、北朝鮮の舞踊団などとも違う。「かつてしつけの良かった日本の素朴な子供に、徹底的に丁寧に歌の心を教えるとこうなる」と言った感の声。音のことを文章で書くのは難しい。

70年代後半、私の幼時には既に「山口さんちのつとむ君」とか、子供がガキ声でそのまま歌うようなものがはやっていたし、NHK「みんなのうた」の合唱もやたらに子供臭を強調していて、このレコードの人工的なまでに統制の取れた合唱とはほど遠いものだった。「チビッ子」と言う胡散臭い言葉がその頃よく使われていてそのうちにそれが「キッズ」とかになっていくのだが、それとともに次第に、まっとうに童謡的で静かな「こども」の声が消えていったのではないか。

この中の「トロイカ」。初めて聴いたのは四歳とか五歳だったはずだ。
しかしこの曲はその後の私の音楽的嗜好を確実に決定づける曲になった。雪の暗い原野の悲哀マイナーコード、大陸の空でグラデーションする「ロシア民謡-朝鮮半島演歌-日本海的短調歌謡曲」の音波。
通っていたバイオリン教室でも、発表会の曲選びの時には「マイナーコードの曲」を、言葉少なに念力込めて志願した(小さい頃は無口だった)。

こういうレコードというのはまかり間違ってもCD再発などないし、レコードとしても同じものを探すのが困難だろう。だからここの読者に「聴いてみて」と言うわけにはいかないのだが。
聴いていると泣きたくなるような、素朴な美声で男の子が歌っている。
過去というのは確実に戻っては来ないし、時代というのは確実に変わっていくのだ、という、苦さとも断絶感とも着かぬ複雑な郷愁を感じる歌声だ。
今、こういう歌を大人が子供に教えることなんかないのだろう。まあ私の幼時でもあまりそういう親はいなかったもしれないが、歌声喫茶流行時を知る父母は一通りのロシア民謡は歌えて、教えてくれた。ともしび、カチューシャ、ポーリュシュカ・ポーレ。黒い瞳。
あの歌達の悲哀は絶対に私の何かの根幹になっていると思う。

雪の白樺並木 夕陽が映える
走れトロイカほがらかに 鈴の音高く


死ぬときはお墓に一緒に入れて欲しい、とまで思う唯一無二の「私の一枚」だ。
by meo-flowerless | 2005-12-21 01:34 |