画家 齋藤芽生の日記


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小諸赤い旅1

小諸赤い旅1_e0066861_13532944.jpg


迫り来る冬枯れの一歩手前。西から金色鋭角の斜陽。
小諸を訪れるにふさわしい、何のせわしさも面倒くささも無い日。
軽井沢で開催の自分の展覧会へ立ち寄るのが目的なのだが、どうせなら「旅」にしたかった。




新しい軽井沢のトレンドであるアウトレットショップに立ちこめる「都会の主婦の匂い・バカ犬付き」を、徹底的に避けたい。
それもあって、宿泊先を小諸駅前の安ホテルにした。
味気のない長野新幹線から路程を外れ、野生の林檎の芯をえぐるように甘酸っぱい長野貫通旅行をするのだ。たった一泊の滞在だが。

小諸市は長野新幹線のルートから完全に外れた。大きな幹線交通路や金のかかるハコモノを最優先させる日本という国の残酷さのあおりをもろに受けた土地といえるだろう。しかし、実は小諸市自ら「新幹線の停車駅」の立場を拒否し、放棄したとも聞いた。真偽は知らない。気骨と不運が両方合わさって招いた当然のような寂れっぷりと王道からの外れっぷりに、行く前からもう惚れた。
「小諸なる古城のほとり」と格調高く歌われた地の住人には、何か売り渡せぬ「魂」があるのに違いないと勝手に想像する。

駅前のSホテルは格安。予約の電話を入れると、ビジネスホテルにはそぐわない人懐かしそうな声の男性が深く「お待ちしております」。休日でもシングルでもツインでもいつだって空いているのが声で伝わってくる哀愁。ホテル内ではお食事は出来ませんがそれでもよろしいですか、と申し訳なさそうに言う。「駅の付近に二、三件、食べるところがあるにはあるんですが、何せ…」と口を濁す。駅前の様子がどんなであるかもうそれで浮かんでくる。

物好きな友は、中央本線-小海線を使う六時間行程の同行に喜んで同意した。長野新幹線を使えば三時間で行けるところだが。
中央本線はボックスシートの青白列車。東京ど真中を走る中央線の兄弟とは思えぬほど鄙びている。冬季はドアも手動になる。いつも乗るたび「この世の全てから忘れられても一向に気にしない電車」だ、と思う。
山梨県は廃業したモーテル/ドライブイン王国と聞いた。そんな放置感漂う道路を遙か崖下の渓谷とともに見つつ、電車は山の上を行く。山肌には穿たれたままの防空壕の穴。時々覗く人工骨のような、高速道路の高い橋梁。山々にその赤い塗装が毒々しく映える。

車窓を流れるのは、枯れた空気に輝くのどかな「抜け殻」感。
古い絵葉書写真に写り込んでいるような沈黙密度の中を、淡々と進む電車。人っ子一人いない似たような山里の無人駅が黙って続き、停車中に聞こえるのは、虫の「ビー・・・」という羽音くらいだ。
乗客は私達と他に二、三人。近くの席の女性が蜜柑を食べている。その匂いが家の炬燵にいるような感覚を思い出させ、ボックスシートに足を投げ出しうつらうつらする。

日野春という何もない駅で十分間の停車。ホームに出て褪せた青の四連ベンチに横たわり、雲が渦巻くのを見上げる。息を吸うと雲まで吸い込みそうな近距離感。山の雨雲の若い切端だ。東京の空がどれだけ人から遠いか、改めて気付く。
しばらくゴロリンとしていると「お客さん発車しますよ」と言う声に促され、列車に戻る。赤いコート来てベンチに寝転がる女もさすがに珍しいだろうが、あくまで淡々とした車掌の声。人の声というよりは電車そのものの声のようだ。

キャロンメリヤス肌着。大東熟年クラブ。ヤクルト体操。文具店食堂・峡北堂。青少年に大人が示す道しるべ。
枯れた桃色の林檎、葡萄、桃、の果樹畑の中にぽつぽつと見えてくるローカル文字の数々。
赤い南天か何かがやけに風景の中目立つ。自分の服も鞄も財布も、合わせたわけではないが皆赤い。全て赤いと少し狂人のようだ。頭の中も燃える赤い秋。
農家の庭の植木がどれも積み上げた林檎のように刈られているところに、土地の妙な規則性を感じる。二時間強で小淵沢に到着。小海線に乗り換える。

小諸赤い旅1_e0066861_13535324.jpg


小海線はたった二両ぽっちの車体で日本最高海抜駅を走る、愛らしい電車だ。
登山に向かうのか、老年客がかなりいて、席を全て占領していた。といっても、「鎌倉婆」のように姦しくなく、何故か皆死んだように静かだ。かなり高齢。幻のように流れ始める金と赤の風景絵巻とその老人達の静けさが、こう言っては失礼だが否応なしに「あの世感」を高める。
彼らは途中の駅で殆ど静かに降りて消えた。さようなら。
私と友はそれぞれ別に車両末尾の窓に立ち、時々座り、時々うつらうつらし、好きなように風景に想いを馳せる。小諸は終着駅だ。
思えば、こんな死ぬほど晴れた秋の山を旅するのは生まれて初めてかもしれない。いつも雨か霧だった気がする。
現世の人間の旅するところではない、一度俗塵にまみれてしまったらその身を包んではくれない絶世の紅葉色彩。五色の渓谷も、列車を呑み込んでしまいそうな炎色の鉄道防備林も、あの世の出来事なのかもしれない。
トンネル入る手前にみる一瞬の空。自分は、きっと死ぬ前にこんな一瞬の空だけ見てあっけなく死ぬのではないか、とふと思う。
「フィー」という気の抜けた玩具のような汽笛でふと我に返り、あの世の手前の赤い橋からふらふらと生還する。

枯葉が線路に渦を作りながら列車を追いかけてくる。落葉とはこんなに自由に遊び騒ぐものだったか。
狂おしい、という言葉を思い出す。
晴れて光る白樺の幹の向こうには、妙に黒い山の曇天がある。白樺林のなか、赤珊瑚のように独り勝ちした色の「浦島草」の実。黄色はこんなにも黄色かったか、赤はこんなにも赤かったか。明度彩度の魔法、林の中ウルシ科の葉はくっきりしたマゼンタにも見えるほど、玉虫色を帯びて色づく。
枯葉と土に埋もれ果てた林の踏切。こんな奈落になぜうち捨てられているのか、孤立した別荘。山は雲の影に泣いたり笑ったり。眼下廃墟の、破障子の間の腐った畳にも秋は訪れる。

色の洪水に巻かれ死んだように無口になる。
色の中で、赤がやけに際だっている。こんなに鮮やかな赤を見たことがあったか。
紅葉の赤よりももっと浮き立つような、人の営みの中で選ばれた赤が、より凄みを帯びて見える。
墓に混じって絶妙に立つ、赤ペンキで塗られた石標。線路脇の落葉の海の中穴ぼこのように作られた畑の、造花のような紅色マリゴールド。老人の吐息のような黒赤の残菊。赤い反射標識の欠片をなぜか硝子戸に貼った家。
西日の中の人工赤は「涅槃感」を掻きたてる。

最近の都会ではいくら流行らせようとしてもなかなか赤が流行らない。服も口紅も。時代が血の気を失っているし、肉の赤を咀嚼する力無く、人の肌の生の赤みを懐かしむ心も、今東京にいると自分がどんどん忘れていくのを感じる。東京の特に若い子たちの多くは、小さくて細くて蒼白くて、コンクリートの陽だまりカフェーで飼われる草食小動物みたいだ。
無彩色の暮らしの中、自分が生きている証のように私は赤い服を着て赤い口紅をする。だからいつでも浮いてしまう。

でも今、私の身の回りは遠慮なく赤い。
 
林檎の皮と果肉の蜜を切り裂くような信州の赤金、西日の金赤。
吸い込むだけでどれだけ身体が無彩色の都会に汚染されていたかががわかりそうな、枯葉の甘い空気に抱かれ、細胞の全てが茜色に入れ替わる。
自分の全てが西日に身をゆだねているのを感じる。
何故こんなに赤ばかり目に付くのか、それは秋のせいだけではない気がする。
薄まった自分の血が何か強烈な酸味を求めているのだ。
「小諸」の静かな怒りの、なにか赤いような「念」が自分を呼んでいるような気もする。

大してストーリーはないが、つづく
by meo-flowerless | 2005-11-10 22:11 |