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画家 齋藤芽生の日記


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星空を駆ける音-「篠田昌己・西村卓也DUO」


星空を駆ける音-「篠田昌己・西村卓也DUO」_e0066861_14304586.jpg


この初めの何小節かを聴いてもう涙を感じた人がいたら、私は、その人の魂の行方に大いに興味を持つだろう。
これを奏でているうちの一人がもうこの世にはいないことの哀しみなのか、ジャケット写真のやるせない曇天の町が心の琴線に触れるのか。そのどちらでもあるようだが、もっとこの涙は違うところから発生する気がする。
多分、私はその「自由」さに泣いたのだ。




酒場か、古いボウリング場か、パチンコ店か。干からびたトタン、どす黒いまでに古びた「星空」の看板文字。白昼の曇天に浮かぶ昭和末期の黒い星。
ジャケット写真を見た瞬間から、篠田・西村二人の過ごした前橋での生な時間に、まるで今そこにいるかのように引き込まれてゆく。

1987年9月。前橋の百貨店前、客を呼び込むために臨時雇いされた二人の路上の演奏である。地方都市の、変わろうにも変わりようのない錆び付いた時間がそのまま音と一緒に流れ出す。

北関東の金属工業的な重い空。鄙びた百貨店のエスカレーターに黙って絡みつく昭和の澱み。階段の手摺に微妙に差し込む薄日の影。最上階食堂から匂うナポリタンスパゲティの匂い。屈託というものをまだ保っていた白昼の主婦の気怠い視線。疲れた半袖工場員の、電気配線のように浮き出る腕の血管。石油時代の黒い影。小学校帰りの子供の声。
極力ノイズは消してある静かな録音なのに、九月の乾き始めた町の湿度や人々の視線まで、空気で伝わってくる。曇天の重い空気を高らかに軽やかに渡っていく、二度とは帰ってこない翼を持ったサックスの音。寄り添っているのは、一人地上に残されたまま彷徨い続けているようなベースの低い呟き。

サックスの篠田昌己は心臓の持病から、34歳の若さで急死した。彼は自分の命が長くないことを知っていたのだろうか。いつもサックスを吹いたあとは息が切れ、医者のもとに倒れ込んだとどこかに書いてあったから、何かを悟ってはいただろう。
しかしそんな事情すら一切考える必要のないほど豊かな音。これ以上の自由さ、これ以上の細やかな密度はないという音。
寧ろ淡々とサックスに黒い影を与える西村卓也のベースの音の方が、全てのやりきれない運命を知ってしまっているかのようだ。彼の曲である「高崎の夜」、どうしてこんなやるせない、淋しい曲を作れたのか。
「生前の篠田はこの録音テープを気に入っていて何度も繰り返し聞いていた」と書いてある。その後ダビングされたテープだけが本人たちの残っていたという本当にその時一度きりの音が、こうやって時代を経て私のすぐ傍に鮮やかに蘇る不思議さ。

思わず目をそらしたくなるほど、優しい微笑をする人間がいる。一目でその深さがわかってしまい、こちらは逃げ出したくなるような胸騒ぎを感じる。写真と音から想像するにすぎないが、篠田昌己はそういう眩しい微笑を持った人だったのではないかという気がする。
一度聴いてから、しばらくは聴きたくない音だった。余りに遠い優しいところへ心を連れて行かれそうで、二度と戻ってこれぬかもしれないから。

命と引き替えにしか、本当の自由は掴めないのかもしれない。
今の日本のような資本主義経済の安定した国に生まれた私達は、逆に言えば皆、金に囲われた籠の鳥である。

私のような絵描きも、好きな道に生きるように見えながら、やはり一種の牢獄に住んでいるのだと思い知らされることがある。
絵は「商品」である。絵描きにとってそれが自分の人生であり叫びであったとしても、絵という物は社会においては一つの付加価値のついた貨幣なのだ。いずれ絵の運命は絵描きの身からも心からも切り離される。長い時を生き続けた流転の源氏物語絵巻は、近代の財閥家たちの私欲と名誉欲によってバラバラに切り離された。それでも時代は彼らを目利きと呼び名蒐集家と呼ぶ。ゴッホの向日葵は、その価値の善し悪しに関わらず日本の企業に途方もない何十億という値で取り引きされ買われた。

けれど、どんなに絵が商品として売られ、その内容を越えたところで取り引きされようが、それを創った人の魂だけは、商品陳列棚に並べることはできないはずだ。
私のような無名絵描きでも「この魂を見たいと思ってくれる人にだけ絵を見せたい」と思う。
幸福なことに今、この私の思いを守ってくれる人々がまわりにいるから、私は自由に描けるし、書きもするのだ。

が、魂を売ってまで何か別のものを得ようとする作り手も多い。
いちど売り渡してしまった魂など誰も見向きもしないのに、自分では何か特別高尚なものを社会に提供したという幻想を彼らは持ち続ける。
買われることは、飼われると言うことでもあるのだ。籠の鳥は、自ら啼くのではなく、啼かされて歌を歌う。
自ら泣くことすらできぬ哀しみを知る頃には、もう遅いのだ。

新宿の町を庭のように歩き回る人なら、聴いたことがあるかもしれない。
夜、東口新宿通の靴屋の四ツ角あたり、どこからかサックスの練習音が響き渡ることがある。
何年にも渡り、ごくたまにそれを聞いた。
管楽器、雑踏の中あまりに反響して移ろいやすい音で、自分もいつも急いでいたりして定かではではないが、記憶では矢張りサックスの音だったと思う。路上で一曲ずつ丁寧に奏でられるのではなく空の方から聞こえる、やけに練習じみてまとまりのない、それでいながら痛烈に胸を刺す音。
夕飯のあと卓球・射撃などして遊んで帰る頃だったから二十一、二時頃だろう。駅の入口の人並みもその賑わいを止めぬまま、しかし意識だけは、天から聞こえるような音に耳を澄ましているのがわかる。
けれどいつも、それがどこから聞こえるのか突き止められない。
靴屋の看板裏辺りのような、奥のビルの非常階段に潜んでいるような、もっと高い屋上に誰か立っているような。
夜空そのものの音のようでもある。
皆、本当は立ち止まってそれを聴きたい。それなのになぜか何となくそうせず、やはり道を急ぎ普段の変わらぬ雑踏の中に紛れていく。

篠田昌己の音を聴いてすぐにあの音色を思い出した。
彼がその後組んだグループの名前が「コンポステラ(=星空の原っぱ)」だからという理由がなかったとしても、その、誰にも捕まえられず、どこからという音の在処も突き止められず、二度とは帰っては来ないような感じの音は、人の死後も永遠にそこにあり続ける「星空」を思わせる。
肉体から離れた魂はそういうところで遊び続けるのだろうか。
新宿のあの音の正体は、篠田昌己が天から帰ってきてどこか雑居ビルの看板裏に腰掛けて遊んでいた音かもしれない。

ああ、自由でいよう、他のどんな名声とか成功とかそういうものを諦めてでも。
そう心に誓うとき。「自由な魂が、自由に笑い、自由に泣いている音」に、そっと背中を撫でられ、救われる。


星空を駆ける音-「篠田昌己・西村卓也DUO」_e0066861_0303588.jpg

「篠田昌己・西村卓也DUO」off note

ここでも売っている「ウルマ堂」
by meo-flowerless | 2005-10-17 00:35 |