画家 齋藤芽生の日記


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2018年3月の日記

2018年3月の日記



3月6日


カンボジアでワークショップと交換授業のために出張し、帰国した。材料や容器をメンバー全員で手持ちで持ち込み、かなり工程の詰まった実習を二つも行うハードな内容だったが、手応えがあるものになった。しかし自分は全ての当事者のはざまの真空でただフワフワと出来事の橋渡しをしているだけで、自分自身の確固たる存在理由の無さにボーゼンとする瞬間も度々あった。
いや、うだるような暑さのせいかもしれない。赤い砂埃の夏だったから。


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遺跡、子供達、熱気、色彩、喧騒…それ以外の様々な複雑なことが絡まり合う模様に、目が回るように夢を見て、すっかり「言葉」を忘れて帰って来た。「私」を忘れた、と言ってもいい。手記が全く描けなかった。写真もいつもより撮れずに過ぎた。それでも自分の今後のために徐々に思い出して書こうとは思う。



東南アジア諸国に行くのは四度目。数年前に訪れたタイのチェンマイについては今でも客観的に旅記を書き起こせそうだが、2016年のベトナムと今回のカンボジアについてはなかなか思いが余って言葉に書けないのは何故か。心も言葉も人生も身ぐるみ脱ぎ捨てて、見知らぬ極彩色の芋虫になってただただ土地を這ってきた。そんな感じがする。
今までの人生が湯水のように蒸発して霧散する場所だ。自分の故郷でもなく母なるものを感じるのでは無いが、また絶対に舞い戻るだろう、という土地がある。カンボジアはそういう地の一つである。


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帰国した日本はひたすら灰色の冷凍室のなかにあるようだ。静かな無音のなか、医療器具のように街灯が点々と冷たく続く。東京には一抹の生気もないと思った。本当にここでこのまま生きて行くのだとは到底思えない。数年前まではあった、この冷たさを敢えて作品に描写する気も、最早今更無いな、と感じた。
どこにいても自分の存在理由を感じることは出来ないのだが、せめてもっと感性が動揺し打ちのめされるような土地に動いていきたいたい、と切に思う。


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仕事の言語、公人の公務としての説明的な言葉が脳内に沈殿してからでないと、あの土地から自分が本当に得た何かをとらえることは出来ないだろう。
Small Art Schoolの笠原知子先生も、今度はプライベートでいらっしゃいと言った。そう。そういうことなのだ。行ったメンバー一人一人にとってもそうなのではないか。皆で力を合わせ充実した仕事になったのも確かなのだが。
言葉を忘れていくかわりに、絵が何百枚でも一度に描けそうなほど、イメージが浮かぶ。カンボジアに一年くらいひたすら黙々と制作のために滞在したら、どれだけの絵が描けるだろう、と想像した。


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夜のマーケットの灯下に滝のように下がり、虹の配列のように並べられていた布たちの色彩が、瞼の裏に焼き付いて離れない。古来から無数の色の名前がある日本とは違い、カンボジアには色の名前は少ないと聞いたが、このめくるめく色彩感覚の自由さにいちいち名前などいらないだろう。何故その色とその色を隣り合わせるのか。何故その色同士を掛け合わせて玉虫の光沢の織物にするのか。
赤く光る経糸に萌黄色と躑躅色の横糸。真珠のような薄オレンジとガスの炎のような青。白銀と若葉色と青銀と紫蘇のような紫。カナリヤ色かと思いきや薄桃色にも見える縞。消費者の色の好みのマーケティングやら流行色協会などあったら絶対に生まれ得ない斬新な色彩が、無造作に市場に投げ売られていた。
私がカンボジア人に聞いて調べてみたいのは何よりもこの玉虫織の偏光色の感覚なのだが、言葉で言えるものでもないだろう。色を重ね合わせるようなやり方で子供達や学生達に絵を描いてもらったら、またすごいものが出てきそうである。


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遺跡群の壮大なレリーフに言葉を喪うだけでなく、柱の細かいところにまで狂気のような密度で穿たれた模様。よく見ると植物の中に神仏のような形が踊っているのが浮き上がる。
舞踊を見るとアンコールワットの世界観がそのまま玉虫色や金銀の立体で立ち上がってくるようだ。かつてあの建造物を作った人々は石のむこうに玉虫色を重ね合わせていたんだろうか。


小さい頃。遊び友達が「手の甲に顔をうつ伏せて目を閉じたまま、その手の指でトントンと地面を叩くと、瞼の裏に物凄い模様が広がる」というような内容のことを唐突に言った。石垣に顔を伏せてやって見た。黄緑のような赤のようなサイケデリックな模様がじわじわと無限に…見えるような見えないような。恐らくは圧迫した毛細血管を目の裏で見ていたのだろうが、あれが私にとっての、身体に付随した唯一のサイケデリック体験であった。
カンボジアの装飾や色彩を見たときにあの瞼の裏の模様の増植感と何かがビタっと一致し、何故か肌がざわざわとした。




3月14日

カンボジアで見た、印象深い色彩の「色見本」作ろう。
一週間後にはラオスに行くのでラオスでもそれやろう。楽しくなってきた。


各国、各文化でよく使われるそれぞれの色彩の色相。古来の自然染料の色などが関係していることも確かなのだが、それよりもっと近代的な化学染料の好み、工業製品や広告デザインに頻出する色の好みについて、調べたいのである。


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シェムリアップのマーケットに山ほど積んである土産スカーフや布類は、だいたい同じようなものであり、カンボジア製よりタイやベトナムの化繊製品が多いようだった。東南アジアも四度目くらいになると、あまりそういう土産には手が伸びなくなる。


しかし、今回の旅では、迷路のようなナイトマーケットの小さな五叉路(確か)あたりに一軒だけ、他とは違う鮮やかなストライプの様々なローシルクの布を滝のように提げている店があった。決して本格的高級品ではないが、5ドルくらいのバラマキ土産ではなく、陳腐ではない良い色が多かった。
あの店の布のストライプの配色をなぜ写真に撮るか、メモくらいしておかなかったのか、と帰ってきて毎日後悔しているのだ。画家でもあまり考えつかないような、渋さと淡さと派手さが相まった3ー4色の配色。


夕食の帰りの僅かな自由時間、その店に巡り合ったのだった。4本くらい安い首巻きを買ったが、慌てていて何故か無地のを買ってしまった。助手や学生の手前、それ以上の数をバカ買いするのも恥ずかしく、4本でも「せんせー買い過ぎ」と笑われた。感覚的には10本以上は欲しいものがあった。
しかし皆もあとからその店が心に残ったようである。最終日に皆で再訪してみたが、
昼間なので店は閉まっていて残念だった。移動後の町、プノンペンのロシアンマーケットにも、あのような品揃えはなかった。
帰国後、2日にいっぺんくらいその店が夢のどこかに登場する。

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思い起こせば、海外を旅するはるか以前のむかしから、よく夢の中にたくさんの鮮やかな布を提げた知らない問屋街のような場所が登場していた。日暮里繊維街ともユザワヤ蒲田店とも違う、色彩の洪水。初めは韓国の市場にその再現を見たように思ったが、その後、ベトナムのマーケットでさらにイメージが近くなり、カンボジアのあの店でとうとう「夢のあの店を訪ね当てた」感はあった。そういうときに限って、呆然として何も出来ないんだ。絶対また訪ね当てるぞ。




3月15日

世間に発信するメッセージ性、あるいはアジテーションこそ表現の本質と考えるタイプは、それが他者に受け入れられれば気持よく前進もするが、自分の期待するような反応が得られないときは否定された気分を感じてしまい、停滞する。ということはあるだろうな。
まあしかし「表現」=メッセージ、「表現」=アジテーション、などと安直に言えるとは限らないのだ、当然ながら。逆に「自己・表現」などといういっけん自発的な言葉にも、内省を裏返して無理やり外部に曝すことを強要するような、モヤモヤした罠が、あると言えばある。
いずれにせよ「表現」という言葉が到達目的になってしまい、ましてや何らかの「パワーで物事のカタをつけるものだ」と考えるかぎり、表現することには無理と義務感が付きまとうだろう。



一直線の果ての「表現のゴール」を措定して、自ら雁字搦めになることなんかない。
とりあえずまずはどんな些細な感覚や経験でも、じぶんの足下・手元から、記憶し記録することを積み重ねていくのだ。その堆積を、誰に見せなくてもいいし、誰に恥じることもない。結局、堆積されたストックの置場が、いずれ自然に、自分の器や道を押し広げさせていくのではないだろうか。



自信とは、外観にまとうものではなく身体に内包されるものだ、と自分では感じる。言葉の生まれるまえにまず、無言でみなぎる感覚というか。
沢山のイメージの宝を隠した「胎内めぐり」のような洞窟。抜け道や出口を気まぐれに掘っていく巨大な地下通路。そんなものをまずは自分の中に作りたいと、学生の時には思っていた。有名な何者かになるとか、話題を集めるとか、注目を浴びて世に出るとかいうことへの欲求より先んじて発動する、単純な好奇心や知識欲や放浪欲が、楽しかったものだ。青春期とは、裏で好き勝手に楽しむ「隠れ家」「隠れ蓑」のような時期と思っていた。
今の若い子のあるタイプは、特にネット世界拡散用の自己イメージ・体面・自尊心のようなものを維持することに、かなり若い時点でもう疲れてしまっているのだろう。自分が措定している「世間」の範囲の狭さやうたかたさがわかり始めた時に初めて、本当に解放されるのかもしれない。



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高尾駅からバスに乗って、梅の名所へ。
高尾の駅前自体が鄙びた観光地のおもむきアリなんだが、バス停の名も「小名路」「蛇滝口」「日影」「小仏」と、とてもローカル。
山里の細いカーブを声掛けあいつつ、慎重にバス同士がすれ違う。色とりどりの連凧のように一列になって歩いて行くのは、中高年のハイキング客。



下車した停留所の脇にある、古い家に遺されている木札。胡粉らしき塗料の跡に味わいを感じる。脇には、透明な井戸水の流れ続ける手洗い小屋。

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甘い匂いが漂う山村である。梅の匂いには、酒の酩酊感と同じようなものを感じる。
だが、山を貫通しながら聳え立つ高速道路のジャンクションの巨大さが、非現実的過ぎて、うららかな花景色よりもそちらに目が行ってしまう。私の幼少時にはなかった無機質さである。

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戦時中、隧道に米軍機が浸入しつつ列車を殲滅爆撃した場所の跡地らしい、と夫が言う。立て札にも【慰霊碑⇒】、とある。
中央本線の線路に向かって伸びる、やけに懐かしげな雑草の坂。カラスが1匹ちょんちょんとそこを上ってゆくだけ、あとはなんの雑音も、ものの動きもない。
背後には山並と同じ高さの道路高架。道の斜面に引っかかるように枝を伸ばす低地の家の梅を、カラスがクンクン嗅いでいるようだ。カラスについていくと、中央本線の小さく侘しい踏切にたどり着く。向う岸遠く、ポツンとした祠と、もと防空壕跡らしき山の穴が見えた。


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一箇所に梅林が拡がっているように記憶していたが、実際は小規模の梅林が点在しているのだった。道すがらそれなりに梅花を楽しんではいるが、どこか広い場所で座ったり足を休められるような場所がなく、なんとなく歩きつつ折り返すことにした。
静かな老人養護施設、リハビリ施設もまた点在しており、その人生の終末感覚とともに梅を見るような気になり、しんみりした。白い施設、青白いカーテンの向こうに、無数の意識の沈殿のようなものを感じた。


散策客もほとんどが中高年である。老人施設の終末感とは裏腹に、何故あんなに体力があるのだろうと思うくらい皆元気である。グループ内のおしゃべりでひっきりなしに仲の良さも意地悪さも速攻で発動し続ける彼らの不思議な浮遊感を、遠くからぼんやり眺めている。若かろうが、老いていようが、集団のあるところすなわち小さな社会であり、結局社会とはせわしなく神経を使わせるものだ、と身にしみる。
梅の枝のそこかしこに散策客のグループの俳句の短冊が描けてあったり、手描きの絵馬などが掛かっていたりする。心打たれる朴訥な深みと歯の浮くようなお説教のビミョーな波打ち際が、こういう短冊などのなかにはある。


帰りは渓流沿いの杉木立の山道を延々と歩き、歩き過ぎたため、帰宅後いつものように発熱した。




3月16日

寂しさを寂しさのままにさせてはくれない、放置された荒野を荒野のままで残したりはしない、空間恐怖症のように何もかも埋め尽くしていく時代。
風景を埋め尽くすだけではなく、人の言葉も、音の余韻も、色の残像も、決して余情などを残さないように、皆が喋りまくり「意見」で埋め尽くすのだ。




3月17日

久しぶりに内田百閒を読む。百閒の文体は本当に簡潔なのに滋味があるというか、上手いを通り越して実に旨い。ずっと読み続けるだけで自分の駄文のセンスさえ少し腕が上がって来るように思える。随筆を一つ二つ読むだけではそうならないかもしれないが。
扇動的ではなく、感情の結論を強要するところなく、媚もなく、メッセージも無いところがいい。然し余情は残る。現代の特にネットに氾濫する「影響力」の亡霊に取り憑かれたかのような言語とは、真逆の言葉。食べて味わえるかのような、風味ある日本語。


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百閒の特徴として自分が面白いのは、彼が長期間「教師」の職に就いていたところだ。
しかも士官学校など軍関係のディシプリン感との、百閒との絶妙な距離感が面白いのである。百閒自身が威儀とテキトーを併せ持っている、その勝手さが良い。
師匠の漱石が死んだ朝。看病の当番を中座して朝から士官学校の入校式にでなければならなかった百閒が、正装の山高帽とフロックコートで教室にはいり、直立不動で前を向いたまま微動だにしない生徒たちの真ん前で教壇につまづいて派手にひっくり返った時の話など特に好きだ。こけても笑いもしてくれない生徒の足元にコロコロ転がった山高帽を拾いにいったバツの悪さ、子供のように泣きたい気分のくだりなど、何度読んでも笑う。教員のほろ苦さというものは教員職でなければわからないところがあるのかもしれない。


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奔放な旅の激動性とは無縁の文章だ。アジアの極彩色のカオスに夢中ないま、百閒などを読むと、枯淡の実世界に目がさめるような気持になる。
百閒の旅記は特徴的だ。まず大抵、汽車や船を降りた先の観光などの場面を描かない。なんなら乗物を降りない。ドラマ性はなく、鉄道オタクがひたすら客車の車種を語るような調子で、列車の切符を取るまでの些細な経緯や、朝出て来る時の機嫌のゆれなどの繰り言を言っているだけである。しかしなぜかそういう繰り言がが美味しい駅弁のように、読んで愉しめる。まあ好みでない人には何にも愉しかないだろうが…
極彩色の旅情のカオスに身を委ねる部分と、淡々とした日常のマイペースを崩さない部分と、自分はどちらも併せ持ちたい、と思う。


旅記は特に感極まってしまい、感情説明に多くをさいてしまいがちだ。あとで読んでみるとなにか読む人に共感を強要させるようなツマラなさに流れ、我ながらいやになることがある。感情など容易に書かないことが肝要と思う。見たものを順に淡々と描写するストイックな文体の方が不思議と臨場感をはらむものである。



3月19日

ラジオ深夜便で江戸川乱歩【人間椅子】の朗読をやっていた。真夜中の心を射抜く素晴らしさ。むかし活字で読んだ時よりも、ずっと響いてくる。手紙で切々と訴えかける構成だからだろうが、凄まじく名文の独白である。
耽美的なイメージで聴くのではなく、シンプルな剥き出しの心に聞く方がいい。乱歩の倒錯は趣味的なものに収まらず、人間の霊と肉のどうしようもない尊厳に触れてくる。初めて【芋虫】を読んだ時になぜかぼろぼろ泣けてしょうがなかったことを思い出した。


3月21日

夜が明けたらラオスに向かって出発。例のごとく旅の前の眠れなさ。

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眠れないと感覚が何処か狂うのか、嫌いなはずの焼きイモが無性に食べたい。


3月22日


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夜ビエンチャン着。夜景を見た限りでは、猥雑さのあまりない、しっとりした田舎の観光街という感じ。町の落ちつきかたはタイのチェンマイ並みか。
メコン川の対岸はもうタイなのである。国境を、強烈に…感じるような感じないような夜の河。


今回は時間にも余裕があり、少しの手記は残せるか。
それともまたじわじわと暑さに体力奪われて、余力がなくなるか。


東南アジアは数えて四国目になる。
ラオスも良さそうではあるが、どうしてか着くなり「カンボジアに戻りたい」と思っていた不思議な自分がここに居る。祖国でもなく二度しか行ったことないのだが。



3月25日




結局あまりラオス滞在中に旅記を書かなかった。カンボジアのことを含め帰って見つめ直そう。

数年前チェンマイ-ホーチミンで東南アジア諸国に惹かれ始め、その次にホーチミン市美大の交流サマーキャンプでカンボジア、ラオス、タイの先生と過ごす機会があった。タイのシラパコーン大学の先生たちを呼んで大子町で滞在ワークショップなどもした。然しなにか自分の気持も目的も漠然としていた。
今年度のカンボジアとラオスへの旅でようやく東南アジア各国の関係性や本音、パワーバランスが見えてきた。タイとベトナムに行っただけでは見えてこないことが山ほどあったのだ。他人から聞いた話は政治的・思想的な部分があるので容易に書くべきではない事柄が多いが。


楽しいことの裏側に自分の無力感・無能感がつきまとう。今回は特に孤独である。普段どれだけ他人に助けられているのか思い知る。やはり海外に少し来るだけでも、自分が日本でしがみついていた「自分」は脆くも崩れ去るのだ。まあそれでも結局絵を描くしか取柄がないので、そうやって生活していくんだけど。


最終日。昨夜から今日は完全に単独で行動。何を思って過ごそうか。



3月26日

一昼夜あまり寝ずにビエンチャンから、乗換のきついバンコクのスワンナプーム空港を通過し、成田に朝着く。その足で芸大の卒業式へ。母の縫ってくれた白金と紫の木蓮の図柄の服に、金紫の玉虫織のカンボジアの布を合わせ、一張羅に着替える。
しかし今年の卒業生の多くとは最後まで徹底的に、まったく、打ち解けて話せなかった。ただ、四年間を振り返ると手を動かす子は手を動かしていたので、黙ってそれを見守っていた。まあこういう年もあるのだな、と苦笑するようなところもあった。
死ぬほど疲れながら卒業式に出る一心で強行で帰りはしたが、あまり祝杯を交わす場面もなくポツネンと飲み食いをし、自分にとっては寂しい謝恩会であった。
しかし退任する助手の銀ちゃんが研究室に電子ピアノの贈り物をしてくれ、その思いに胸が熱くなった。


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関わりたい物事に対しての選別を、はっきり措定し直した一ヶ月だったと思う。


カンボジアの子供たちの手からイメージが繰り広げられる時の、あの勢い。出張先の実習で助手の見せた見事な手業ぶり。もちろん、アンコールワットの大小さまざまな圧倒的技巧も。そしてラオスの女性の手から繰り出される微細な織物模様の宇宙も。
手を動かすこと、手を動かす人とかかわりたいこと、がやはり私の決定的なベースであり、そのシンプルな一念を手放してはいけないのだと心に言い聞かせる。


わっさわっさと言論の場は溢れるほど湧いてくるし、そこでの闘争とサバイバルが求められる時代とはわかっている。それぞれの立場と視点を明快にひっ提げて言論の場に出て来なければ文脈を示せない、という作品の観方も在り方も理解はできる。
しかし私個人はやはり、まずはじめに徹底的に手を動かせる人、そのために時間を存分に割こうとする人を信じてしまう。そこは変えられない。手で思考することもまた、言葉を操ることとは違う知性を必要とする。自分はそこを見つめずにはいられない。



3月31日


最近、言葉に疲れてしまっているようだ。特にネットに溢れる言語の質にも量にも呆れてしまっており、すなわちこういう自分の文章にも懐疑的になっている。
「言う」ことよりも「書く」ことのほうは信ずるところあるので、何かのかたちで書き続けるだろうが。「言う」言葉は相当選んでいかなければな、と深く再認識する。ネット言語はやはり「言う」・「言わされる」たぐいの言語だ。ちと距離をおきたい。


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言葉に疲れたときには、なるべくひとりになり歌を口ずさむ。詞の響きも旋律も美しい唱歌がよく口をついてでる。冬景色、浜辺の歌、旅愁。そして早春賦。
【早春賦】は旋律も詞も、人の奥底の泉から何かを汲みあげるような深みを感じる。


春は名のみの風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず


「時に非ずと声も立てず」。この一節の美しい含みに、倣いたいものである。


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学生時代から「なんとなくフラッと訪れる海」といえば三浦半島、特に油壺だ。家から近い訳でもない。泳ぎもサーフィンもバーベキューもしない。ただ目的なく訪れて、何処かの浜で昼寝をする。だいたいシーボニアのレストラン周りの植え込みのあたりか、荒井浜でゴロッと寝転ぶ。

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荒井浜は原生林の道を抜けて出る静かな海水浴場だ。木々の隙間から断崖下のエメラルドの入江が本当に油の壺なかの液体のようにひっそりと見下ろせる。北原白秋が【しんと とろりと】と歌った場所でもある。油画科の私にとっては油の壺というとどうも油彩の筆洗のガソリン臭を一瞬思いださせる。その想像の匂いとこの海の静かな青色から、いつも引火した青い炎を連想させるような場所。


荒井浜ではいつよりか、新しい海の家が、コロニアルリゾート風の傘やチェアを置き始めた。きょうはでかい猫チグラのような籠で昼寝をした。原生林からの鶯のホーホケキョにハワイアン風スカのギターBGMが絡みつく、なんとも長閑で侘しい情緒。


もう一つお気に入りだった浜(横堀?)は、かつては鬱蒼とした森の急坂を下って行く場所だったが、今は拓けた坂道に変わっていた。かつては二軒、海の家があったと記憶している。一階廃墟の瓦礫のなかにポツンとアイロン台が置いてあるだけだった家屋は、あとかたもなく消えていた。噂にによると焼失した、とも。
初めて訪れた10代のときには、ポツポツと海水浴客がいて、鈴を鳴らすアイスクリーム売りの老爺がいて、どこからか手回しオルガンの哀愁メロディと若い人々の笑い声が空耳のように響いていた。その雰囲気が忘れられず、あとでここを、学生時代な自筆の小説【剥落園名所巡り】の舞台に設定した。
剥落、という言葉を思いついたもとになった白壁の「油壺観光ホテル」も今は無い。

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城ヶ島の港にある、映画好き絵描きのコーヒー店も健在だった。いや、店がやっているかどうかはわからない。しかしご主人が手描きして窓や外壁にベタベタ貼っている映画スタアのポートレート絵画は、3年前に来たときとラインナップが全部変わっていたようだった。窓際の一席で水彩道具広げていまだに旺盛に描いているのだろう。しかし不思議とご主人の顔や人となりの記憶は皆無である。
確か前はミック・ジャガーやキム・ヨナは無かった。私の好きな「ジョーズの大きく開けた口から必死で男が逃げてる図 × アイスコーヒー」の手描きポスターは無くなっていた。


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18歳の夏に父母と訪れた油壺。油壺に青い炎のイメージを思い起こすそもそもの訳をふと思い出した。横堀海岸上あたりに当時あった大きな暗い食堂で、サザエのつぼ焼きを食べた時だ。サザエを焼く炎が、色のないくらい薄青だったのだ。その炎に、蜂がじーっと身を寄せようと一つところを飛び続けているのを、私もジトーッと観察していた。窓の外には蜜柑か何か、柑橘系の木々が黒々と盛夏の葉を茂らせていて、古びたテラスの柵は深緑の細いアール・デコ調だった。



柑橘の木々の影から、大勢の大学生らしき若い声がワッと笑うのが聞こえた。また物悲しい手回しオルガンのメロディも漂って来た。そんな楽しげなバカンスの音に、浪人中の身の上の自分はギューっと胸痛めたのだった。
その切なさのなか、キャンプの一コマらしい笑い声やオルガンの音のする下の方に降りてみようと、食堂脇の急坂を下って横堀海岸に出たのだ。しかし若い人々などおらず、静かな家族連れとアイスクリーム売りの老爺が鈴を鳴らしているだけだった。


大学三年の夏に友とふたたび訪れたときには、サザエの火の食堂は、無数の椅子の積み上げられ、ビールポスターの姉さんが剥がれてお辞儀している、青暗く素晴らしい廃墟になっていた。ヤクルトの廃冷蔵庫のなかになぜか君子蘭の花が咲いていた記憶。この時の廃墟の鮮烈さが、今の私の絵の世界の土台になっているのだった。
その後もう一度くらいはその廃墟を見にいっただろうか。しかし、2000年になる頃には確実に壊されなくなったと思う。


油壺の幻影をいつも隠れ家のように、究極の地点のように胸に抱き続け、いつか作品にしようと思い続け、形にならないままもう30年近く経ちつつあることに、今更張り裂けそうな遣る瀬無さを感じた。




by meo-flowerless | 2018-03-06 01:01 | 日記