画家 齋藤芽生の日記


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夜歩く

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制作の大詰め、気分転換に近所の和食処で夕食。気力を出すためにウナギを食す。
食後、夫が腹ごなしに夜の散歩をしたいと言う。夜歩きが嫌いなはずだが今宵は珍しい。



澄んだ夜である。灯ひとつひとつの存在感が透徹している。
夫は作品の案を巡らせているためか、いろいろなものを探すように丁寧に目を向ける気分らしい。こんなところにこんな店があったか、といちいち立ち止まる。
ここは東京の郊外も郊外、場末中の場末の町。私自身が育った場所であり、愛着もなくはないが、うらぶれすぎていて、何の発見も今さらない。
しかし久しぶりにじっくり歩いてみると、暗い街道に時折光る各店の佇まいに、それぞれの人のドラマが垣間見えるようである。



海外に行って最も旅愁を感じるのは、その都市の「郊外の夜」である。
ベトナム、韓国、台湾、カンボジア、ずっと前に行ったドイツもアメリカも。どこの大都市でも、車や電車で幾つもの町を通り過ぎたころ、やっと旅の恍惚と浮遊感がやってくる。
暗い街角にポツンと灯るスタンドや、どうでも良いような飲食店、何故そんな時間帯にやっているのか解らぬ美容院、地元の人が何もせずたむろしているよくわからないたまり場。そんなわびしい乏しい光であるほど、惹かれるのだ。
この今いるわが故郷も、海外から訪ねて来たとしたら、まさにそんな町だ。
私がたったいま旅人であったなら、都心の観光色から逃れ、心ゆくまでこのわびしい埃と闇と一抹の澄んだ光のなかを浮遊しているといったところだろう。こんな気持で近所の町を歩くことが、あらためて新鮮に思えた。


ワインと珈琲を飲ませる感じのクラシックなカフェの【A】。私の小学生時代からあるそこそこの老舗だ。
店舗の位置が変わって新しくなった店構えは、蔵のように白とマホガニー色で統一されていて、覗き込むと本棚一杯の本かレコードが見え、居心地が良さそうだ。しかし、客がいつもほとんど居ない。自分も入ろうと思うが入ったことがいまだにない。


一つの理由に、中学校時代の【A】の記憶がある。
ある早朝、通学途中に【A】の急店舗の前を通ったとき、シャッターに大きくスプレーの殴り書きがしてあり、面食らったのだった。
そこには「良識派をきどる連中の店」と書いてあったのである。その文言のインパクトはけっこう強烈に心に刺さった。
普通の暴走族のスプレー書きも多い町だが、その文字は明らかにもっとオトナの客、もしかするとそこそこインテリな人間のに描かれたものだと推察出来た。それが薄ら怖かった。いかにもその店に合っているようでもあり、気の毒なような、近寄り難いような。その近寄り難さを壊したくないような気持で、今まで自分もその店に行かずに来た。
今夜も同じように居心地の良さげな灯りの下、質の良さげな材のたくさんのテーブルにも、客の気配はなかった。


バス停付近のゴチャゴチャした、造花の木の実のようにすずなりの小さなスナック長屋。歩道橋の階段の影の通りにくいところに入口があり、年中日も当たらず、どうしようもないくらい場所が悪い。
しかし小学校時代から潰れずに灯りを点している。いや、潰れては新しい店の名前で誰かが入りまた潰れては、を繰り返しているのを、私が記憶していないだけか。二人くらいしか客が入らんのじゃないかと思うくらいだが、ちゃんとどの店舗からも歌声や話し声が幽かに漏れている。小さすぎるし場末すぎる、こんなスナックの時空。非常に興味はあるものの、自分にはまだ何か遠い時空でもある。


幼少期からずっと駅の線路際にあった、平屋の日本家屋にオレンジテントの【O編物学院】。大好きな佇まいだったが、今夜見たら、建物も柿の木も庭も、全てが鉄骨の足場の中に覆われていた。近く壊されるのだろう。
テントに書いてある「ブラザー編み機」の文字。大きな編み機は昔、憧れの機械だった。手芸屋で一二度いじったことがあったようなないような。ジャーッと音がしていた記憶。子供心に「しかしこの機械が流行ることはないだろうな」と何故か思っていた。
毛糸の匂いと鉤針の金属の匂いは、まぎれもなく「昭和」ならではの匂いである。その匂いも大きな編み機も一緒にこの町の記憶から消されて行くのだ。



その通りの数軒先、数ヶ月前に店を構えた小さなカウンター三席しかない角地のラーメン屋【K】の灯り。やけに白々とした蛍光灯の簡素な店で、飾りが一切無い。そして客が入っているのをこれまで見たことが無い。
「ああ、今日も客がいない」と夫がつぶやく。「来ない客のために毎日仕込みをする気分はどんなもんだろう」
暖簾の隙からそっとのぞくと、独りの老爺が突っ立ってカウンターの中で客を待っている。夫はここに来ると、いつも心配そうにそっと外から客をチェックするが、自分ではその客になろうとはしない。
しかし今夜は、「じゃあ、こんど入ってみるかな。応援するか」とボソッと言った。



灯りを煌煌とつけ、いかにも哀愁のあるいじらしいような店舗に限って、いつもそんな風に客がいない。店の外装や内装は何となく不揃いなままにしている。店灯りが暗すぎたり明るすぎたり。中が見えすぎたり見えなさすぎたり。看板の文字体と灯りに書かれた店名の文字体が違ったり。「歌とお酒と手料理&おしゃべりの店」「歌えるスナック&ワインの店」など文言がゴチャゴチャして焦点がぼやけていたり。
そして一年くらいで消え、また同じような「中途半端に手作り感のある」「冷たいような暖かいようなちぐはぐな」別の店灯りに取って代わる。そういう町である。



いまはちょうど、店じまいの前後の時間帯。
店主が一人わびしく暖簾を片付けている。或いはじっとカウンターでテレビを一人見ている。もの静かな老夫婦だけが洋食をすすっている。店の中国人家族とその仲間が灯りを半分消してカウンターで喋っていたりする。そんな一つ一つの物語が見えた。それを今日は、とくに異邦人のような遠い気持で眺める。
駅裏の通り、この町にしては大きめのビルに【国際学院】という文字が見える。新しい外国人向け学校だろう。そういえばここ一二年で東南アジア系の人々をよく見るようになった。年末に郵便局に行ったら外国人の青年たちが故郷に荷物や手紙を送るので込み合っていた、と夫が言った。彼らから見るこの町はどんなふうに見えるのか。



「明日から俺少し夜歩こうかな」と夫がふと言う。運動のためもあるが、夜の空気には新鮮な発見があると思ったのだろう。
「夜歩く、という小説があるね」と私はふと思い出して行った。「誰の」「横溝正史の」
横溝正史ならたぶん幽霊とか夢遊病者の夜歩きのことなのだろうが、読んだことはまだない。しかし良いタイトルだと昔から思っている。「【夜歩く】だけか。良いな。そういうシンプルなタイトル俺好きだ」と夫もつぶやいている。








by meo-flowerless | 2018-01-07 21:56 |