画家 齋藤芽生の日記


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# by meo-flowerless | 2024-03-04 01:47 | 日記

変奏曲の魔力、からの解放



最近になって、ヴィキングル・オラフソンのゴルドベルク変奏曲を聴いた。
その独特な素晴らしさに、長い年月自分の根底にずっとあり続けた鬱々としたやるせなさが、晴れていくように感じ
られる。
自分の絵にとって、その鬱々としたやるせなさは、まだ必要なものなのかもしれない。けれどやはりこの年齢、様々なものを捨てて生まれ変わっていいはずなのだ、とも思う。
それが確信に変わるような、音楽からの啓示だった。



40歳のヴィキングル・オラフソンは「アイスランドのグールド」などと呼称付けられてもいるようだが、結構違うのではないか。
全てから奔走するようなグールドの魂の凝集感と逆で、ものすごく近い距離とものすごく遠い場所を同時に持っている、距離のある表現のように聞こえる。(音の強弱ではない)
独特の音色や楽器の理解と曲解釈、本人の顔立ちや指の形と世界観が合致していて、私などは見たことのないタイプの一つの完成形だ、と聞き惚れ、見惚れる。




20代の大学院生時代を、空気の張り詰めた北関東の取手校地で過ごした。
アトリエでは級友たちがそれぞれ自前で持っているグレン・グールドをあちこち出かけながら制作していて、もちろんその中随一の名盤のゴルドベルクも、どのアトリエに茶飲み話に行ってもよくかかっていた。
自分にとっても、若い時のグールドのゴルドベルク録音盤は、青春の象徴の一つだったと今は思う。



遥か前にブログに「変奏曲の魔力」という記事を書いたことがあったが、そこに書いたように、グールドの生き急ぐような切迫と、機械的反復性から微妙に生まれるバリエーションの、なんとも言えないアンドロイドの情愛のような悲しさは、自分の絵画に対する姿勢に絶対に影響を与えた。
あれがなければ、確信的にあの頃シリーズ連作を手がけなかったし、自身が今でも最も愛する『地霊に宿られた花輪』連作も生み出せなかったと思う。



いつかくる破滅に無邪気にたった一人で向かっていくようなグールドの変奏曲は、私の悲哀の時計も早めるような、早鐘の動悸に駆られすぎるようなものでもあった。
一方でこのヴィキングル・オラフソンのゴルドベルクは、あの「変奏曲の悲しみ」から解放させる何かを持っているのだ。
一曲一曲の美しさ、一手一フレーズごとに違う歌心、一音一音の解釈の自由さ。
曲を一人の背に背負ってなだれ込んでいくような勢いではなく、まるで多くの人物による温かいアンサンブルを聴いているような響きあいがある。
演者の自我よりも尊重され、愛されているであろう一音一音が、誇らしげで楽しそうである。
絵で例えるなら、クレーの絵を見るときの感じだろうか。
絵への姿勢に統率が取れ連続性はあるが、一枚一枚に飛翔性と自由を孕んでいる。


この新鮮な感激が、別にすぐ自分の絵に反映されるわけではないだろう。
が、何かもう一人で孤独を抱えてなだれ込んで聞かなくてもいい、そんなに悲観的に急いで考える必要などない、何かもっと響くものに耳を澄ましながら色を置き形を考えよう、という気持ちになれた。



:::


グールドのバッハの魔力の話の方に戻すと、最近また見つけた中に、グールドとハイメ・ラレード(ヴァイオリン)とレナード・ローズ(チェロ)による「バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集」があり、深く喜んだ。胸がぐっと痛むような、自分にとって懐かしい曲だ。
中学生から高校生の頃図書館で借りてきたテープで初めて聴いた曲で、それは本当にチェンバロの奏者が弾いていたのだが、特にその一曲目ソナタ第一番第一楽章の魔力に虜になった時期があった。
もの問いたげな半音の多いチェンバロのコード進行に、途中からスーッとヴァイオリンが横笛のような長い音で入ってくる。横笛といえばなんともいえない寂寥と妖気を感じさせるものだ。他の曲が起承転結的に収まるフレーズが多いのに比べ、第一番第一楽章は、なんとなく心の決着もつかず首を傾げたまま、最後に説得させられる割り切れなさがある。
10代のうちにダビングしたテープもなくしてしまい、その曲のこと自体、何十年も忘れがちだった。


この録音で、グールドはピアノで弾いている。チェンバロだとヨーロッパ的湿気と暗さがあるのだが、ピアノで弾くと若干ジャズのようなドライな面白さになる。
金紗の織物のような繊細さではない、朴訥な極太の糸を隙間離してゆったり織ったような良さ。
全体的には端正でで明るいソナタの数々だが、一曲目の第一楽章だけ、聴くといまだに、あの若い夕暮時に少し狂気がかっていた時の自分に戻りそうで、怖くなる。



:::



幼年時に9年ほどヴァイオリンを習っていて、ピアノもほんの短期間習得した。
小規模教室のヴァイオリン発表会などで親しむのはほとんどヴァイオリンとピアノの組み合わせのみで、他のオーケストラルな楽器などは身近ではなかった。そのためか、ヴァイオリンの動物的な歌心とピアノの機械的な構築性の組み合わせ、というのが自分の音の原体験であり、性格にも影響した。
ヴァイオリンならばロマ系のエレジーなどの情念、ピアノならば鍵盤の特性のよくわかるバッハ曲の録音(元々チェンバロの音楽だったが)という、熱さ冷たさの対比、複雑さと明快さの対比などが、心の二元論的基準としてずっとあった。



久々にピアノ曲やシンプルなバイオリン+ピアノ曲を聞くと、ものすごく自分に不可欠な、大事なことを憶い出させられる。
年々他人のために複雑な責務を負う仕事の人生に振り回され、なんだかもはや自分が自分でないようないい加減な老け方にこのまま意気消沈していくのかなどと思うこともあるが、本来の自分にとってのシンプルな真髄、美学、憧れる境地がどんなものだったか、絶対に忘れてはならないのだ。
複雑かつ明快、が相入れ矛盾しない状態。注釈も言い訳もない境地で、生活と創作に向かいたいものだ、とつくづく思った。

# by meo-flowerless | 2024-02-28 22:09 |

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# by meo-flowerless | 2024-02-03 14:46

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# by meo-flowerless | 2024-01-13 15:12 | 日記

珠洲 2017


2023年元旦。能登半島に壊滅的な地震が発生。
前年の大地震で切りがついたわけではなかった。さらに千年に一度と言われるクラスの大災害が起こってしまった。
昨秋に訪れたばかりの珠洲市の被害も甚大とみられる。何一つまだ見通せなどしない。土地の人々にとっての被災の年月は今まさに始まろうとしている。




あの夏、6年前に初めて珠洲を訪れた記憶に対する喪失感が、重くのしかかる。
たかが短い滞在者に過ぎなかったろうと言われても、そんなことは関係ない。私にとってはただの旅行ではない、人生に濃い色彩と陰影を落とした土地だった。
人生を半分に分けて「半生」というならば、あの夏あたりを境に、それまでの半生が一旦過ぎ去ったのである。2年後の2019年には自分の父が死に、大きな回顧展を経験し、コロナで世界が変わってしまったのだが、私の大きな節目は2019年ではなく、それ以前に珠洲を訪れた2017年だった気がしてならない。


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# by meo-flowerless | 2024-01-13 15:11 |