画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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他生への郷愁

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「他生への郷愁」とでも言えばいいのか。
たまに、自分の過去の記憶外のなにかが、感覚として押し寄せることがある。
私のとも言い切れず、でも誰か別の人のものとも言えない。記憶とすら呼べないような、夜風に撫でられるときの寒気のようなもの。未知の領域でも既知の領域でもない知覚たちが、灰汁のように浮上する。



前世というほど過去のことではない。が、必ずしも現在だとも言わない。
自分と同時代を生きていたことのある人が、遠いどこかで感じていたであろう、あるいは今感じている、人生の震えのようなものが、ふと傍受されて、皮膚をゾワッとよぎる気がする。
気がする、だけかもしれないけど。



【ふたりのベロニカ】という映画がある。
ポーランドとフランスの二人の「ベロニカ」は、顔も能力も癖も同一人物のような人間だが、互いの生を知ることもなく、全く別の人生を違う土地で生きている。
が、片方のベロニカはうっすらと、もう一人の存在の死に重ねて自分の生がある、ということを知覚することがある。
あの映画のような「無性に懐かしいが、知りはしない」存在が、私と同じ「私」という生を、どこかのパラレルワールドで生きているのかも、と思ったりする。




日本にいる時にそういう感覚がするときは、どうせ忘れていた自分の過去がフラッシュバックしているのだとか、親の話から想像した過去に感覚ジャックされているのだとか、なにかのテレビドラマが自分の記憶に重なったのだ、と考える。
けれど、海外の町にいるふとした瞬間に、強烈な「縁」の感覚と、その縁の喪失感のようなものにおそわれるとき、その既視感の出所について、つい不思議になってしまう。



ドイツのケルン近郊の小さな町に行った時に、何気ない新緑の風景にふと、幼児の遊ぶワークルームのような場所の匂いや光の記憶がどっと襲ってきた。それは日本の幼稚園の感じとはかなり違う記憶だった。
あと、行ったことないのに小さい頃から、「ロンドンの文具屋か本屋のようなところでインスタントレタリングを選んでいる」という未知の経験が自分のもののように蘇ることがある。そのとき、なにかの鐘の音とともに蘇る気もする。
ほかに、アメリカでも東南アジアでも、町の郊外の高速道路が殺伐とした風景を呈しているような場所に行ったときは、たいてい胸を突くような、何かの記憶が蘇りそうになる。が、映像として思い出せはしない。そういう理由で、まだ旅の始まっていない、或いは終わった時点の、郊外の空港と町を結ぶ経路のどうでもいい殺風景なんかに限って、旅行の一番鮮烈な印象として刻み込まれることが、たまにある。




匂いや光に感じる既視感は、時間や場所などに対する感覚のトリップだ。
が、人の存在に対してさらに「他生遠くへ」いちばん自分を飛ばしてくれるものは、雑音混じりの音楽だ。
通りすがりにある感じの歌声を聴いたとき、ある感じの和音を聞いたとき、エコー感のある時など、いくつかの条件でふとその、未知と既知の狭間のパラレルワールドに、急にシンクロするような気がする。




数年前、ベトナム・ホーチミンで、1950-70年代くらいの女性のくらい歌謡曲ばかりかけている料理屋に入った。
ベトナム歌謡はメロディラインに特徴がある。東南アジアのポップスの曲調は少しずつ違えども結構似ているのだが、ベトナム歌謡のあの何とも言えないラソレ↓と下がっていく音階を聞くと、なぜか記憶の底深くにふと手を触れられたような気分になる。
それを店で聞いた時も急激に、胸が掻きむしられるような気持になった。日本の演歌に対する既知の郷愁とは何かが違う。日本に帰ってきてから、いろいろ探して、声質や歌などからKhanh Lyという女性歌手の1960年代頃の昔の曲が、一番その時聴いたのに近かった。



昨夜からまたKhanh Lyを聴いている。
どこかの知らない、西洋圏のリトルアジア的な渇いた小さな異国の町の空気感、どこかの誰かの死んだ夜の寂しさ、一抹の不吉な腐臭、不遇の感覚が、押しよせている。
この、他生に遠く呼ばれる感覚。一体、ほかの誰の人生に対して胸が詰まるんだろうか? と、気になる。



その他生に対する感覚は、殺伐とした郷愁である。と同時に、とても親しみのある旅愁でもある。
たとえば海外に渡航して、夜に宿のベッドの上でひとりその国のラジオ歌謡をぼんやり聴いていたり、青い深夜テレビを見つめている時間の、孤独が極まれば極まるほど、ああ私は独りではない、と思うことがある。(一人旅をしたことがあるわけではないし、ホームシック的な郷愁のことを言っているのではない)
そういう時想いを馳せるのは家族や友でもない。世界のどこかにいる、未だ顔を見ぬある存在の気配である。



うまく言えないけれど、たぶん目には見えない「因果」や「運命」は、自我などというしろものと契約を取り交わしているわけではないのだ。名前や肩書きにおいての我執的生きざまの果てに、運命などというものがあるのでは決して「ない」、と思う。
そして運命というものは、けっして大袈裟な結末や事件として自分の目の前に降り掛かるだけのものでもない、とも思う。淡々と自分の知らないところで平行する世界を実は持っている、それを普段は知覚することが出来ない、そんな、「手は届かないが確実に備わっている縁や運命」というのがある気がするのだ。



ふと、自分が「どこの何者でもなくなっている」ような時。旅先で疲れてひとり、自我をはぎ取られている時間。国籍も名前も記憶もどうでも良くなった瞬間。そういう時に限って、なにかの密度が、世界ごとどっとこの存在に流れ込む。
危ういジャック感覚の中にだけ、運命との出会いはある気がする。
# by meo-flowerless | 2016-06-04 02:44 |

2016年6月の日記

2016年6月の日記

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# by meo-flowerless | 2016-06-03 15:49 | 日記

夜行列車の中島みゆき

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昨年、夫と四国まで夜行列車の旅をした。二十二時に東京駅を出発し、早朝に香川の坂出に着く列車だった。その列車の便が無くなってしまうというので人気があり、駅員に発券のタイミングを頑張ってもらって幸運にも切符が取れたのだった。
何度も東海道本線で通っている景色を深夜に目撃するのは初めて、それだけで心が躍った。
いよいよ発車し、こじんまりした個室の寝台に腰掛けて眺めると、景色が一連の黒い絵巻のように感じられた。



夜が好きだ。一日の出来事の終焉と同時に、記憶と気配の世界が立ち上がる。この時間があるだけで、自分はもう一つの別の人生を持っているような気になる。
闇によって化けた風景は素晴らしい。夜のほうが、その土地の地霊が語りかけてくれる気がする。
谷間に落としたウェディングケーキみたいな熱海の灯。静岡の青暗い茶畑の影。瞬間的な踏切音の余韻。あらゆる夜についての図鑑を、ひもとくようだ。
やがて、どことも分からない単調な田園の闇に列車は突入した。平坦な暗さの中、時折列車と並走するトラックのライトや、線路から斜めに延びる農道の青白さに、感情のどこかがぐっと掴まれる。



田の中にポツンとある農家を目が捕らえる。
階段の窓だけが開いていて、暖かい灯が点っている。家の匂いまで伝わってきそうだ。
階段には何らかの色紙か絵が、申し訳程度に飾ってあるだろう。かつて小さい兄弟が遊びで穴を開けた壁にベニヤ板が貼ってあるかもしれない。銀ラメの混じった砂壁の仏間。部屋の冷たい御座の匂い。母親が階下から「◯◯、電話」と呼ぶ声。
旅先で出会う家の灯は、みな何故か遠い親戚の家のように思える。その家族の佇まいを、既に知っているような気にさせられる。



窓枠に突っ伏して、いろいろなことを考える。
夜はなぜこんなに、様々なことを蘇らせるのだろう。自分の記憶だけでは収まらないほど、深い見知らぬ過去が私の中で溢れる。死ぬ前には脳裏に走馬灯のように過去の場面が流れる、と言うけれど、本当は人は、生きながら何度も記憶の走馬灯に襲われるのじゃないか。



例えば夜風に、横断歩道の鳩の音に、踏切を過ぎ去る電車に、止めどもなく情景が次々と蘇る。あまりに過去が流れるので、もうじきポックリ死ぬんじゃないかと不安になっても、今まで無事に死なずに来れた。
失恋にせよ卒業にせよ、あらゆる別れは小さな死なのだ、とも思う。はっきりした訣別の儀式などなければないほど、喪失の度合いは深い。あれはもう遠い彼方に去った、いつのまにか帰れなくなったと思うたび、「喪」の感覚が止めどもなく走馬灯を流し始める。



受信状態が悪く波音のような列車ラジオの向こうに、女の声の無性に懐かしい歌が聞こえていた。聴き取れないくらいの音声が、遠い土地にいて手の届かない人のように、寂しく優雅だ。
また旅愁の走馬灯が押し寄せる。知床の薄青い霧の民宿。小さい頃に訪れた高原。サーチライトの見える川のほとり。海の宿の赤いカーペット。初めて乗ったフェリー。宮沢賢治を読んだ夏の夜の蒲団.....



聞こえているのは中島みゆきの【歌姫】だった。地味な歌で印象になかったが、切れ切れのサビで分かる。
どこか古き良き日本映画音楽のような曲調だ。白黒の記録映画に残り続ける汚れのない海を思う。彼女は歌詞だけではなく、メロディでも旅愁を表現出来る。遠いラジオと中島みゆきの曲調は合う。特に情景喚起力のあるのが、彼女の故郷の北海道を感じさせる歌だ。原野や農場のイメージではなく、北の海の道という文字通りの、はるかな海原のほうを思い出す。




自分が青春時代にした友との車旅が北海道だった、というのが大きい。
私が歌謡曲十五巻テープを自分で編集し、三台の車でそれを分け合ってかけまくった。そのテープにも中島みゆきは入っていたし、カーラジオから中島みゆきの特別DJ番組が流れていた。土地柄、サハリンかどこかのロシア語の放送が混線して混じってきた。
札幌、小樽、帯広、中標津、別海、襟裳、釧路......何百キロの道のりは、歳のいった男の先輩たちの運転に任せ、ガキの同級生どもと私は、無責任に眠りこけたり景色を見たりしていた。
運転する男達の横顔にはじめて、大人というものの骨格を見た気がした。
知床の夜、あの流転感を感じたい一心で私は、その後も旅をして、人に出会っているのだという気さえする。以後の数知れない旅のディティールは、いつもその北海道旅行の原型の中に収納されていく。収納された記憶の箱を開梱するように、中島みゆきの歌は日本中の見返られない「普通の風景」をひもといてゆく。



松任谷由実のメロディは都会をさすらう逡巡で、中島みゆきのメロディは日本を流転する移動距離だ。自分の中の、東京郊外の逡巡風景から日本各地の流転風景への移行は、聴く曲が松任谷由実から中島みゆきへ移行したのに重なる。熱烈なファンのような聴きかたはしないがそれらの歌は、常に心のどこかにある、
僻地にひとり赴任する男の孤独とそこで男がみる女の亡霊の両方を兼ね備えたように、中島みゆきの歌は両性具有的だ。怨念的であり女神的でもあるそのイメージを総じて考えると、中島みゆきはつまり「地霊」的なのだ、と感じる。その在り方は自分の永遠の憧れでもあるかもしれない。



あの時北海道に一緒に行った人々は、旅景の守り神のような感じでもあり、うらぶれた歌謡曲の音源のようでもあり、懐かしい親戚のイメージの集約のようだった。よく歌い、旅をし、それがなければこの今の私はない。自分にとってのある種の決定的な切なさの原型、私の走馬灯をまわす存在なのだろう。
列車ラジオの遠い雑音の混線感覚が、あの旅行のカーラジオのロシア語や、薄暗い北国の空を蘇らせた。【歌姫】が終わるか終わらないかのあたりで、私は列車の寝台に横たわりながらうつらうつらしていた。
# by meo-flowerless | 2016-05-27 22:22 |

東大寺のXJAPAN

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五月。毛穴から自然の霊気が行き来するような気分だ。素晴らしい季節。
そして古美研の季節だ。
古美研とは、勤めている大学の、伝統ある古美術研修旅行のことである。奈良、京都の寺社を巡る二週間の研修。在学中に一度しかいけないところが自分は教員となったので、三年に一度引率をする。油画科の行く時期が、四、五月の一番いい時期。
今年は自分の引率ではない。けれど季節柄、思い出している。



京都もいいが、奈良の包容力のほうにひかれる。特に東大寺は何遍でも行きたい。
先生のくせに毎回たしなめられるが、太い柱の木を頻りに手で撫でてしまう。
季節のせいなのか歴史のせいなのか、風景の全てに「呼吸感」があるように感じる。自分が日頃の生活で深呼吸を忘れ、息を詰めて暮らしているのに気付かされる。
肺が目覚め、器官が震えるような呼吸。光に満ちた晴の日でも、肌寒く濡れる雨の日でも、奈良でならそれが出来ると思ってしまう。



研修中、暗くなってから学生達と一緒に、二月堂の高楼に上がったりする。
そこからの奈良の灯をぼんやり見下ろしながら、他では味わえない感傷に浸る。
時間に対する感傷ではあるのだが、「人の経てきた時間」に対する感傷でも、風景のに対する感傷でもない。「ものの経てきた時間」に対する感傷だ。



奈良の寺社の黒ずんだ色。時を経ても、派手であったであろう当初の色に塗り返さない。
その黒ずみを選んできた奈良人の感性は、情感よりは霊感に近かったのではないかと思う。人の魂以上の「ものの霊魂」をそこに感じない限り、そういう選択はなかったんじゃないか。
現在の修復や色の塗りかえしが悪いとは全く思わない。かつて意味を込めて建造され彩色された建造物や装飾物を、歴史を超えて経験出来るから。でも、奈良の寺院の持つ古色の雰囲気は、また別の次元の感覚の話だ。
あの黒ずみの奥底から、建築や仏が...と言うより、その材質が「息をしている」のが聞こえる気がする。そんな感覚をもって、人々はあれを新しい顔料で塗り籠め「息を詰めさせる」ことをしなかったのだろう。
そう、勝手に想像する。



古美研にいくたび、美術に携わりながらも美術などという言葉は、近現代人の思惑にまみれすぎているのかもな、と思う。今の美術という言葉にどこかつきまとう、何かを理解しようとか学習しようとする集中力は、深呼吸を生むのではなく、逆に「息を詰めさせる」。緊張しながら鍵を解かなくてはいけない、神経的試練のようなものだ。
本当は、奈良の寺社や仏を体験することを、古美術体験などと言うのは抵抗がある。
というか、そもそも、そうではないだろう。あれらの全ては、そこに立つ者が「息を吹き返す」感覚のための環境装置であって、それ以外の要素は不必要なのかもしれない。



夜の春日大社にも、思い入れがある。
春日大社に夜入っていいのかどうか、は知らない。でも学生と探検していて、迷い込んだ。
遠近も分からず手探りでもがく森の暗闇の中、砂利の白さだけが夜の波の航路みたいにぼやっと泡立っていた。あれほどの暗闇は、他にあまり経験していない。
糞の臭気とかすかな音で、木陰に鹿たちが潜んでいるのが分かる。獣の潜む気配とはこういうものか。圧倒的な量の夜気が人間の身の丈を教えてくれる。



歩き尽くしてどこかの広い野原に出た時、学生たちとガキのように野原を走った。興奮の余り、誰かが小川の水に嵌まった。
何故か、泣きたいような気分になっていた。
解放感というのは、哀しみと背中合わせのときがある。日頃どうして、こういう五感の開放を自分に許していないんだろう、という、長い嘆息のような解放感。



解放感の哀しみは、学生時代に若草山でも体験した。
寺社見学の行程が早く終わり、数人で夕暮の若草山に上った。芝というか草原の丘だ。
西日のなかに赤く沈む奈良の街が、何となくせわしない。
「なんかライブがあるらしいよ、東大寺で」「え?東大寺で?」「XJAPANが来てるらしいよ」
などの会話をして、芝に寝転ぶ。
桃色とも水色ともいえない、夕暮の空が流れて行く。
そうやって草の上に寝転ぶことなど、まだ若い大学生でいてさえ、どんどん忘れていく。自分の存在が何か空気に剥き出しになっていることが本当に久しぶりのように感じ、なんともいえない胸の痛みを覚えた。このなんでもない時間、どうでもいい会話、どこともいえない(いや奈良だけど)旅の空。



その時、空一杯にジャバーンというようなギターのこだまが炸裂した。花火大会が始まった最初の一発のような華やぎ。びっくりして、みな草の上から跳ね起きた。
半信半疑だったライブは本当だった。古都の空の幕が開けていくような感じがした。歓声の気配が下方でしている。
なんともミスマッチで不思議な状況。寺の梵鐘がゴーンという静寂の夕景に、金属のお椀をガランガランと落っことしたみたいな音響が重なる。
流れ出した曲が何の曲か私は知らなかったが、高音の声は彼らのもののようだった。様々な山や建物の斜面にこだまして音が揺れていた。



XJAPANと奈良は意外にも、絶妙の相性だ。
遠いビブラートが、何か遥かなものの呼吸を呼び覚ます。宗教的な叫びのようでもある。
音があちらこちらに呼応するせいか、つい数分前よりも下界の街を見下ろす自分の視野が広がり、いっきに風景が全方位パノラマ化する。
普通に考えれば「こんな宗教都市で野外に音が漏れまくるライブなんてけしからん」なのだが、そんな考えを洗ってゆくようなじわじわした余韻の情動が、胸に込み上げてくる。フシギだ。
奈良の包容力が、音韻を風景に取り入れてくれるのだ。もし京都だったら、やっぱりけしからん気にさせられたかもしれない。東儀秀樹とかなら合うのかもしれないが。
皆も何故か笑いながら、「何か妙に感動するな」「寺も粋なことやるな」などと呟いていた。



青く光る東大寺のあたりを見やりながら、こういう奇妙な経験の情動はきっと絶対忘れないのだ、と予感した。
客としての対峙ではなく、行きずりの、バックヤードからの無責任な立ち会い。そうだ、経験というのは「わざわざしにいく」ことだけではない。「図らずも、その場に立ち会う」のも経験だ。
そういう経験は、積み重なるというより、体に浸透して身体そのものになっていくのだろう。
経験を呼吸する器官は自由に開放されている。奈良とXJAPANという奇妙な融合が、不意に私にそう気付かせた。
同時に、再び草に寝転びながら、このような感覚の「自由」を、私という存在はいつまで忘れずに保てるのか、不思議な哀しみを感じていた。


五月......そんなことを思い出した。
# by meo-flowerless | 2016-05-22 23:34 |

「はいあかむらさき」と「おイモ色」

絵を描きながら、「アクリル絵具」箱に手を突っ込んで色を探していると、見慣れない、くすんだ赤紫色のチューブが出てきた。普段あまり使用しない某社の絵具だ。
気まぐれに買って忘れていたとしか思えない永久ベンチ入り感に、思わず色名を覗き込む。
【キャパット・モーチャム・バイオレット】。
なんだそれ。
他の色は見慣れたパーマネント◯◯とかブリリアント◯◯、あるいは原材料名の色名が多いのに、この色名は、意味が分からない。



検索してみたらcaput motuumとは、西洋の色材のなかでも酸化鉄系の赤紫の顔料のことで、元の意味は錬金術に使われる原材料の蒸留滓のことらしい。検索画像に謎めいた錬金術のサインが出てきたので、最初は何かと思った。
いつも使うターナーアクリルガッシュに、「オーバージーン」という素晴らしい深赤紫がある。ターナー社はとてもいい色合いをだしているのだが、この美しく便利でもある色に自分は何故か余り手が伸びず、買い忘れも多い。
それは名前のせいなのだと思う。意味が分からないから、つい存在を忘れてしまうのだ。一度、フランス語でオーベルジーヌという単語を聞いて、関連があるかな、と思ったきり意味を調べてもいなかった。今調べたら「ナス」らしい。
おそらくキャパット・モーチャム・バイオレットも、自分にとってはなかなか使いづらい色に当たるだろう。



色名もさることながらくすんだ灰赤紫は、よく使う色なのに、画材として用意されるとどうも手が伸びない。その名も「はいあかむらさき」という色が、子供の教材のぺんてるクレパスにあった。なんともいえない絵具の濁り水のような色だった。分かりやすい鮮やかな色の中その色だけ複雑きわまりなく、子供心に「この色の意味は....?」と思っていた。



今のサクラクレパスには「うすだいだい」という色がある。もと「はだいろ」だ。
肌の色は多様であるという現代の解釈に沿って色名が改められたそうだ。肌色、というのは今後、死語になるかもしれない。
けれど「うす・だいだい」の、新・松戸とか武蔵・浦和とか東・所沢みたいなゴチャゴチャした武蔵野線感が、印象を薄くさせてしまっている。
サクラは、肌色を排した怨念であるかのように、「まつざきしげるいろ」という、個人の肌色(もちろん茶色)を思いっきり差別化したキャンペーン色を打ち出していているのが凄い。



ぺんてるの「はいあかむらさき」の浮遊感のほうが、そういう肌色を巡る分かりやすい物語よりも、私には謎だ。36色セットのほかの「はいみどり」や「さけいろ」などと同列ならば分かるが、「はいあかむらさき」は、もっと少ない基本色セットにも、スタメンで入れられていた記憶がある。
この濁った紫系の色は、もしかすると、多くの色彩関係者にとって「手が届かないかゆいところ」にある色で、「外すにも外せない、かといって王道として愛を告げることが出来ない、愛人」のような厄介者なのではないだろうか。



自分も、この灰赤紫系統の色が、好きなのか嫌いなのかわからない。持っている服には多いのも確かだ。そのくせあまり着ない。母によく服を縫ってもらうが、母も無意識に、小豆色とかくすんだ赤紫の服を作ってしまう時期があった。



随分前、親友夫妻の赤ん坊が生まれたので、他の友とお祝いに駆けつけた。その時私は、上も下も赤紫の服を着ていた。上下同系色で揃えるのは私の悪い癖である。
私があやすと何故か赤ん坊が泣き出してしまうのを、横から友人のY君が、
「あー、かわいそうに。赤紫のおばちゃんこわいなー。おイモのおばけこわいよなー」
と言いながらあやすと、ぴたりと泣き止んだ。



その日から私がいくら憤慨しようと、私=おイモというイメージが気に入った友は、しょっ中私の服を冷やかした。ので、母がサツマイモ色の生地でも弄っていようものなら「待って!おイモ色はやめてよッ」と、先乗りして怒る事態になった。
あの頃の体型ですでにおイモのおばけと言われていたのだから、今の自分がおイモ色を着たらもう、な。
# by meo-flowerless | 2016-05-19 08:35 | 絵と言葉

【Yes It Is】 The Beatles

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中学生から高校生にかけて、帰宅中に延々と続けた、夕暮の街の徘徊。
あの頃の途方に暮れた心情にしみる音楽は、今なら幾らも見つけられると思うが、当時は当時で、この曲こそは、と思うものがあった。
ビートルズの【Yes It Is】である。ビートルズの中でも、地味な曲ではないだろうか。



小さい頃バイオリンを習っていたこともあって音楽の「イロハ」と言えば、詳しくこそないけれどクラシックだった。「チリヌルヲ」の部分は大人になってから集めた歌謡曲。その間の12-16歳くらい、「ニホヘト」にはビートルズがある。洋楽的な目で見れば有り得ない流れかもしれないが、音を広く考えれば、クラシックと歌謡曲の間にビートルズにハマったというのは自分には自然なことだった。



戦後ベビーブーム&全共闘世代の母親の影響が絶大なため、60-70年代の文化や音楽を、母の思い出をなぞるように浚ってきて、今の嗜好がある。小学生まで自分で松田聖子なんかの歌謡曲のレコードを買っていたのが、60年代アメリカンポップスやイタリアンポップスのテープ購入に変わり、その流れがビートルズにいった。自分の青春から脱線して、親の青春を追いかけるようなことをしていたのだ。



ギリギリCDではない時代だったから、良かったのかもしれない。赤い透明の特別LP盤が出ていたので、ひと月に一枚買い足していった。
入口が初期の曲だったこともあって、自分が好きなビートルズは、初期から中期までの曲が多い。ちなみにロック好きが必ず筆頭にあげる『Sgt.Pepper`s....』だけ、持っていない。
今ではビートルズはitunesでもかなりマニアックなスタジオのアウトテイク曲なんかまで売っているが、その頃は丁度、レコードからCDへの移行期で、シングル盤が手に入りにくかった。ので、LPに収録されていない「B面曲」が、割と手の届かない幻の曲だったのだ。
そのなかで一番追い求めたのが、【Yes It Is】という渋いB面曲だった。



ラジオか映画でか、【Yes It Is】をたった一度だけ聴いて忘れられなかったわけは、もうほとんど不協和音に近いくらいの絶妙のハーモニーの移行感だった。色のグラデーションのような音の流れだと思った。脳裏に夕方の空の暮色が押し寄せた。
ビートルズ好きにもいろいろあるだろうが、自分はとにかく、圧倒的に和音とその転調の美しさに魅かれた。



あてもない帰宅前の彷徨の時間にレコード漁りなどもしていたが、その時にも、忘れられぬ幻の【Yes It Is】をしきりに探し求めていた。【涙の乗車券】の裏面だったと思うが、それだけたまたま手に入らなかったのだ。結局、在るはずがないと高をくくっていた近所のぼろぼろのレコード店で見つけるという、青い鳥のような状況で手に入れた。



手に入れたシングル盤に針を落とすときの、雫を一滴落とすような緊張感を覚えている。
プカプカいうたよりないイントロはオルガンかと一瞬思うが、ジョージのギターだった。
無邪気なだけの青年から大人の男になっていくかげりが曲を覆い尽くしていて、蒼ざめた色彩感覚があった。朴訥だけど複雑で、情景が浮かびそうだった。
「赤い色は別れたあの娘の着ていた色だから今夜は着ないで、ブルーになるから」という、残り火みたいな歌詞が、曲の印象を絵画的にさせたのかもしれない。
中途半端な濁ったメロディから、地味に感情のボルテージが上がっていき、しかしまた曖昧な感じで終わる。「殺風景、というものは、本当は物凄く美しいのではないか」と思い始めていた時期で、そのような感情のフィルターで世界をまなざすようになっていた。その殺風景の叙情に似合う曲だった。



その頃【ランブルフィッシュ】という映画をビデオで見た。マット・ディロンとミッキー・ロークが確か兄弟役で組み合わせが魅力的だったのだが、曖昧なさまよえる視界が、印象的な映画だった。
面白いかと言ったら面白くないのだが、緊張ではなく弛緩の方に神経がすり減っていく感覚が忘れられなかった。ずっと白黒だった画面に一度だけ、赤か青かの熱帯魚がカラーで写される。その心象の色が、その頃の自分にぴったりとハマった。
その頃からなのか、たまたまそこから気付いたのか、自分の見る夢の多くは、夕暮の蒼ざめた色彩だ。この三十年、夢は九割九分と言っていいほどどこかを彷徨していて帰る当てがなく、途方に暮れている。
夢に出てくる青い夕暮の視界と【Yes It Is】は、印象として分ち難く繋がっている。



停滞感覚のある不機嫌な曲がすきで、前期ならこの【Yes It Is】、【I`llBe Back 】【No Reply】がしっくりきていた。ビートルズはとにかく長調のような短調のような揺らめくメロディラインが素晴らしい。甘酸っぱいとかほろ苦い、という複雑な味覚のミックス感のようなものがある。
ビートルズの殆どの曲が傑作だが、自分にとってはこの三曲の青春の停滞感のようなものは忘れ難い。三曲それぞれに思い出す、自分がうろついた場所の殺風景がある。今聴いても悶々とひたってしまう。
# by meo-flowerless | 2016-05-11 00:26 |

喫茶マイアミ感

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十五歳から続けていた文章ノートは、便宜上「日記」と言っているが、事実を克明に記すことが大事だったわけではない。
なにを飽きもせず書きためていたのかというと、ひたすらに、「◯◯感」ということの蓄積だ。他人と共有出来そうで出来ない。あるいは自分の中にしかなさそうでいて意外と他人の中にもある。微妙なあの感じ、「◯◯感」。



梶井基次郎の小説を手にしたのも十五歳頃だ。その文章も「◯◯感」の連続で、主人公の台詞にも「ああ、あの感じ」と感覚を反芻するようなつぶやきが出てくる。肺病による死の焦燥がつくらせた、感覚のラッシュだったんだろう。
自分にとっての「ああ、あの感じ」というのを文章に書き止めておこうと思った。感覚を感覚のまま流さないで文章に記録しておくという意志が働き始めたのだ。



最初の頃に書き留めておきたかった「あの感じ」は、美的体験ではなく、快感というより不快感のようなものだった。



体育系の部活をやめて帰宅部になり、なんとなく早帰りの帰路を持て余していた。活発な年頃には、集団の熱のようなものから疎外されるという心の翳りは案外大きい。
ふらふらと駅ビルをウィンドウショッピングして歩いたり、夕闇迫っても郊外の繁華街を制服姿でひとりうろついた。グレさせるような仲間もまわりにいたわけではなく、もともと一人っ子の孤独は根底にあり、「緻密な退屈」を吟味するように味わった。
雑踏の中間色の中をぼんやりと泳いでいる。都会の夕闇は、泳ぐ、という言語感覚が似合う。何もかもが自分にそぐわず、そのくせ何もかもに有無を言わさず慕情したくなる。心のむなしさというものを、妙に楽しむようになった。



思春期の気怠さの延長線上に、普通だったら煙草などを覚えていくのだろうが、煙草のけむりのかわりに私の心に吹きかかったのは、別のものだった。
古い飲食店の裏の、ダクトから流れ出す排気だ。
結露の染みや廃油が糸を引いたどす黒い汚れがこびりついた、繁華街の飲食店のウラ。壊れかかった換気扇がぶーんと駅の事故時のブザーにも似た音程でうなり続ける、モワッとそこだけ蒸し暑い、夏の疲れのたまった、ポリバケツのある、かつて1970年代頃には流行ったがすでにダサいオーラをかもしだしていた飲食店の店ウラ。
そういう場所の、黄ばんだ空気感が気になって、しょうがなくなった。




新宿か立川か八王子か、どこにあったか覚えてもいない。名前を出して申し訳ないが、【マイアミ】というチェーン店の喫茶店があった。むらのある蛍光灯の光を内包したオレンジ色に青い古くさいロゴの文字看板は、非常に場末感を感じさせた。
入口のガラス戸がブラウンカラーで中が見えづらいような水商売的作りの飲食店がかつてはあったが、マイアミもそういう感じだった気がする。自分はルノアールには入れてもマイアミに入る勇気はなかった。
あとで聞くところによると、マイアミは不良のたまり場だったことが多かったようだ。たしかに不良感はぷんぷんしていたけれども、例えるならマイアミのイメージは、リーゼントの鋭角さではなく、広がってしまったパンチパーマの緩さなのだった。



中を知らないし外側は雑居ビルかなにかだから、その匂いが喫茶マイアミの匂いかどうかわからないのだが、マイアミの付近はいつも同じ匂いがするようだった。
洋食に変質した油脂の匂いがほのかに入り混じっているような。焼鳥屋の裏や小料理屋の裏では感じない匂い。トマトソース缶詰のこごった油のオレンジ色とマイアミの看板のオレンジ色は、シンクロする。オレンジ色というよりその排気口から漏れるものは、心の黄ばみのようなものだった。
わざわざそういう店裏を通って生ぬるい排気を浴びては、「ウッ」と不快感を確認するのが、好きになった。



漠然と未来に感じた浮かび上がれなさ。網の目の都会の細かさにもすくい上げられない微塵。形のはっきりした不幸や不遇ではないかもしれないが、自分は低空飛行のうつろな想いを常に保持するんだろう、という感覚があった。
希望や絶望という明確な感情より、浮かびも沈みもしない澱みの水面下5㎝みたいな感覚が、実は人生の大半をずっと占め続けるのではないか、と思った。
そういうやるせない予感のことを、心で【マイアミ感】と呼びようになったのだ。
喫茶マイアミ、ほんとにごめんなさい。でも、あのやるせなさのBGMには、マイアミ裏の換気扇のぶーん音こそがぴったりとふさわしかったのだ。



褪せてしまって白になれない感情。逆ベクトルの枯れた情欲。暮らしのなかのふとした奈落。幸せそうな世の全てのよそよそしさ。
しかし人間のどこかには、誰にも見返られない時間と空間から発する、不思議な情念がある気がするのだ。
夢の成就も終わりもない中途半端な【マイアミ感】は、窶れ(やつれ)という文字のゴチャゴチャした密度にも似て、じつに複雑で微妙なのだ。私は今も常にこころの【マイアミ感】の維持につとめているのかもしれない。
私の絵を評して「この人は一体何が楽しいんだろう」と書いた言葉を、ネット上に見つけて苦笑いしてしまった。その通り、「どうせ」という投げやりな怨念は、自分にとっては何故か、豊かなディティールに満ちている。口には出さなくても心では、幸福にも愛にも芸術にも、必ずこの【どうせマイアミ】感のくさびを打ち込んでしまう。



【マイアミ感】の詩情化されたものが、自分にとっての歌謡曲だ。とくにその後出会ったザ・ピーナッツの【ウナ・セラディ東京】の歌詞が柔らかく奥ゆかしく、【マイアミ感】の曖昧な疎外感を言い当てていることを知った。



街はいつでも後姿の幸せばかり 
ウナ・セラディ東京 あああ
# by meo-flowerless | 2016-05-06 22:25 | 匂いと味

2016年5月の日記

2016年5月の日記

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# by meo-flowerless | 2016-05-01 19:50 | 日記

ある兄弟の宿題帳

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探し物をして開かずの引き出しを開けたら、また、古びた子供の日記帳みたいなのが出てきた。
【夏休の友 尋常六學年】【夏休の練習 第四學年】とある。
先日「ある少年の夏日記」という文章を書いた。どうも私は、昔の子供の筆記したものが好きだ。
持っていても何の役にも立たないし、自分の作品などに使えるわけでもないが、古物の山からつい手にしてしまうのだ。
この二冊をいつ手に入れたのかは全く覚えてもいない。なぜその引き出しに入れたのかも。



中を見ると日記ではなく、夏休みの宿題の総合学習帳のようなものだった。小学六年生と四年生、名字が同じなので兄弟のものにちがいない。
国語、古文、算数、歴史、地理、生物、図画など多岐にわたる問題集で、コンパクトにミックスされている。時々、手品のやり方などのお楽しみページもある。
「皇国」などという言葉が出てくるから戦時中、それもまだ戦争初期のもののようだ。しかし何かを読んだあとの読解問題とは言え、内容が難しい。いまの高校生くらいでも出来ない子はいるのではないか。



六年生のとある一日のページは例えばこんな問題がある。カッコ内は子供が漢字で答えている。
【讀方】第八課 蟲の農工業 の復習
二、次の蟲の仕事は何業に似ているか
(紡績業)葉巻蟲(裁縫業)蜜蜂(建築業)クモ(漁業)(土木技師)ミミズ(農業)
【地理】
二、樺太の最近の水産物の産額を棒グラフに作れ。
鰊 一〇、七二萬圓 鱈 二〇六萬圓  鱒 八九萬圓 鰈 六萬圓



四年生の方はもっと素朴。
【修身】冬までつづけて冷水浴が出来ますか(できます)
 つらいことをがまんしてやりとほすことを何といひますか(忌酎)
忍耐、と書きたかったのだろう。
【手工】色紙で家の紋をきりぬいて、次のあいているところにはつてごらんなさい
など。朝顔の塗り絵もある。もともと辞書や童謡の本などの小さな挿図が好きなのだが、この学習帳の図にはことごとくそそられる。



関ヶ原の東軍西軍の主な武将を書かせ、様々な渦巻の図形が何に見えるか想像させ、はまぐりを図に描かせ、工作で水車を作らせる。かと思うと、「【修身】“反省なき生活は危し”これはどういふ意味か、その意味がわかったら毎晩寝るまへに、静かにその日のことを反省してごらんなさい」とか、「【考へ物】お客さまが来ましたが丁度主人が不在であつたのでそのお客さまは五千三十合といつてかへりました何のことでせう」とかいうのもある。わっかんね。



「次のことばはどんな景色の所かを考へなさい。“両岸相迫りて流いよいよ早く風景とみに改る”」この問題に、少年は「コワイヨウナ、美シイヨウナヨウス」と答えている。
怖いような、美しいような.....いいことを言うなあ。
よく出来た子たちだったのだろう。解答にそれほど間違いもないし破綻もない。
自分の小学生のときの何かが、もしこのように出回ったらどうだろう。四年生まで書かされていた日記は貴重だと自分でも思うが、落書きをしまくった教科書のアホさは、ただただ恥ずかしいだけでしかない。



このまえ手に入れた、同じ戦時中の少年夏休み日記と比べると、あれほどには「遠い煌めき」を感じない。生活の様子が書かれていないからだろう。
一枚だけ別紙で、兄さんのほうの作文が差し挟まれていた。
此の頃は夏であるから山の景色は美しい いつか山へ登つて方方を見ていたいと思つている 今ノ山は薄緑色に山を一面に包んでいる 道などには草が茂って道が無いようになつている 昨日友達と私で山に遊びに行つた だんだん山奥へ行つたら其こいらに山ゆりやそのほかの花も咲いていた そして花などをとつていたら草がゆるがつたから見ると長さ三尺くらひのへびがにげていたのであつた それから後は草の中をあるくにもやのやうになつたから内へかへつてきた
この間の少年の日記のようにやはり他愛ない描写だが、この文章には風景が彷彿とした。
青梅の小学生だったようなので、出身地が近いゆえ昔の多摩の夏木立のなかの子供の姿を勝手に思い浮かべてみた。



そういえば最近、清水宏の映画のすばらしさに嵌まった。特に子供の出てくる映画の瑞々しさは、戦前の物とは思えないくらいだ。これらの少年たちのノートは、清水宏の画面の中の夏とシンクロする。スタジオセットではない、あの日本の山河のほんものの光と影と、子供たちの素の声。
古い映画といいこういう古い物といい人の記憶といい、その時の記録だから瑞々しいのであって、現在の人間がどんなに魅かれても、過去の光を現在に再現したりリメイクやリクリエイトすることは、難しいことだと思う。


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# by meo-flowerless | 2016-05-01 16:30 |

湯殿山麓呪い村の永島瑛子

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私が絵に描く「部屋」は、単なる団地の部屋というより、「孔のような場所」だと思っている。
例えるなら、食虫植物の底に落ちたままそこから出ず朽ちていくかもしれない、無力な生物のおびえのようなものを、そこに描く。



一つの映画のシーンが浮かぶ。
ちゃんと最後まで通して観たわけではなく、テレビ放映で途中から見始めたくらいの記憶だ。



【湯殿山麓呪い村】の永島瑛子。
渋いバイプレイヤーの女優さんだ、と今では知っているが、そのときは何度見ても特徴を捉えられなかった。顔が陰った地味な人相も表情も、状況も、なんだか曖昧でわからない。
うちの小さなテレビのブラウン管の中でそのシーンを見ていたので、ほのかな覗きからくりのような画面だった。記憶は定かではないので間違いかもしれないが、赤暗いような光の「部屋」と、落ちぶれて絶望をポツポツ口にする女が画面にいた。
その女が束の間、男に身体をいじられたかと思うと、何かのはずみで殴られるかタンスに頭をゴンと打つかしてしまい、そのまま動かなくなってしまった。



子供だったので、その場末の「部屋」の頽廃的な雰囲気の意味も、女が零落してその「部屋」で何しているのかということも、よくわからなかった。
一緒に観ていた親に「このヒトだれ」ときくと「さっきでてきた主人公の恋人だったヒト」と言った。
「途中から消えていたあのおねえさんが、こんな暗い穴ぐらにじつははまりこんでいて、助け出されるのかと思ったら、頭打ってあっけなく死んだ。以下沈黙。生涯終わり。 ツーー(脳波)」
の孤絶感にあっけに取られ、子供心に「人生は怖い」と身震いした。



この映画は、他に陰惨なホラー的シーンがかなり出て来るらしいが、一切覚えていない。
焼き付いたのは、あの脇役の永島瑛子の目立たない、あっけない末路だけだ。
温泉地で身体を売っているところをかつての男に再会する、という設定だったようだが、そんなことはまだ子供にはわからなかった。
その男と女がいる「部屋」の、仮寝の宿の感覚、人間の末路の感覚、穴ぐらの感覚、のわびしさだけが焼き付けられた。
その無力な寂寥感は、今でもことあるごとに自分の発想につきまとう。旅先の宿などで蛍光灯のパイロットランプをつけっ放しで寝床に入ったりすると、「赤暗い最期」のイメージがよみがえる。



自分にとって【湯殿山麓呪い村】の永島瑛子は、人はあんなにわびしく死んでしまえるんだ、というタナトス with カタルシスの手本でもある。
壁かタンスに一発だけ頭打って死ぬ割に、なぜかじわじわ腐って溶けるような壊死感覚がある。
映画的というより、リアルだ。無意識に自分の人生の末路に、そういうわびしい死を感じていないとも限らない。そういう生き方がしたいわけではない。けれど生きている限り忘れることのない何か、がそこにある。



幼いころ親がいない隙に、蒲団が積んである四畳半の、ガキながらも妖しい気分になる常夜灯の赤暗い光の下で、近所の男の子にとつぜん腹を数発殴られたことがある。
ショックからか、そのあと独りで吐いて苦しんだ。嗚咽しながら、何故か「許す」感情のカタルシスにも包まれていた。
あとで親が激怒して文句を言いに行き、私にも「あなたも怒りなさい」と苛立ってたが、自分は腰抜けた戦意喪失感で(もういいよ....いいんだよ)と脱力していたのも覚えている。
なんでそうなったのか訊かれても、「部屋」の雰囲気がそうさせた、としか言いようがなかった。



広い親戚の家にも、子供たちだけがうごめく死角のような「部屋」があった。
使われていない客間や蒲団部屋を、わざと常夜灯だけにすると、赤い海底に沈んだようだった。
そういう遊び時間、赤暗い灯のなかで、なにか言いようのない常識外の感情を知っていった。
子供の無邪気な世界でも、ああいう暗がりを通じて一気に、零落した大人の末路に繋がっているような気がする。
子供はその擬似的子宮の暗がりからすぐに這い出し昼間の世界に戻っても、大人がその中に退行する場合はそこで溶解し壊死していくしかない。



娼婦の部屋なり、アジトなり、世に隠された「孔のような部屋」は、子宮的感覚と溶解の危機とをあわせ持つ。食虫植物のウツボカズラのようなものだろうか。
そこでは愛憎や被虐・嗜虐の境界も、溶ける。
あのシーンが強烈なので、【湯殿山麓呪い村】の映画を通しで観ようという気はいまだに起こらない。
# by meo-flowerless | 2016-04-27 00:18 | 映画

マドンナの宝石

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脳天に降り注ぐ夏の陽ざし。
親も子供もまぶしさに眉をしかめ、歯茎まで出して、気怠い表情をしている。
白昼の遊園地、動物園でもいい。白い灼熱から、一気にひんやりとした闇のアトラクションに入る時の立ちくらみは、脳裏が緑色になる感じがした。
アミューズメント施設のギラギラ眩しい圧迫の中で、暗いアトラクションは、数少ない「好きな場所」だった。



プラネタリウム、水族館、夜光虫園、水中バレエ、ジオラマ。
「ひんやりとした闇のアトラクション」には色々あった。
キンとした冷房に、よどんだ意識が回復する。漆黒の地に浮き立つ見世物の色彩に、感覚が覚醒していく。
白昼の一角に区切られたアトラクションの暗がり、その冷たい秘密の宝石箱の感覚、その悲哀は、自分の原風景のひとつだ。そういう場所に流れていた曲の記憶もまた、音の嗜好にいまなお食い込んでくる。



「何億光年の彼方の光が、今、はるかな時を越えて、私達の地球に届いているのです....」
という感じの悠長な女の声の、室内アトラクションの館内放送が大好きだ。
別宇宙から夏のお中元として送られてきたような遠い声。くぐもりつつも、よく通る響き。
33回転を45回転にしたような甲高さ、それでいて不思議と心を癒してくれる、その名調子。
ナレーションもいいが、背後に流れているBGMが素晴らしかった。世界残酷物語の【モア】みたいなのもあるし、モーグ系電子音のようなのもあるし、ピアノのイージーリスニングの場合もあった。
どんな楽器を使っていても、ああいうナレーションの奥の音楽には、ポポピポポロン...みたいな「乙女の竪琴」感覚があった。宇宙と竜宮城は音楽的には繋がるんだなぁ、という感慨に浸る音楽だった。



私のなかに君臨している室内アトラクション館内的音楽は、【マドンナの宝石】だ。
弦を静かにはじく、「乙女の竪琴」感覚に始まる曲。水族館より、秘宝館むきである。
すばらしく、「女」を感じる曲である。
昔の結婚式場のホールにかかっていた、というイメージもまたあるのは、フルートのせいだと思う。この曲の最初のフルートの入り方が、まるで雅楽だ。聴くたび脳裏に、神主とお嫁が登場する。
実際には、暗い曲だから、宴席ではかからないだろう。



フルートの音には何故か、追い立てられて花を散らされていく女の哀しみと言うか、おねえさんの白い肌に秘められた思い、みたいなものを感じる。
和洋折衷な婚礼。鶴の柄の赤い絨毯。滝のある竹薮付き中庭。カマボコ味に似たフランス料理のオードブル。嫁いでしまう色白のお姉さん。式典の緊張から来る子供の吐気を、ゾワっとなでていくような、バロック弦楽奏と、フルートの震え。
自分があの曲【マドンナの宝石】を聴いて感じるそぞろな気持、肛門に重点を置いたような独特の切なさは、他人にこの音楽を聴いてもらっても共有が不可能な気がする。



ウチにはその昔「クラシック名曲大全集」10枚組レコードが二種類あって、子供の独断的な興味をもとによくかけていた。おきにいりは多摩テック(地元の遊園地)でいつもかかっていた【口笛吹きと犬】だった。
それらのレコードジャケットは、19世紀ヨーロッパの名画がそれぞれ表紙になっていた。なので今でもあるクラシック名曲を聴くと、名画が反射的に思い浮かぶ。
その中に一枚、ルノアールの裸婦と思われる表紙の盤があった。
それに【マドンナの宝石】というタイトルがついていて、アダルトめクラシック名曲10曲くらいが入っていたのだ。



ルノアールの、晩年の焼けたパンみたいな裸婦ではなく、初期のまだ締まりのある女の絵が好きだ。
ウチにあった画集で見て初めて「エロス」というものに気付いた、幼い頃の性典のようなものだ。
暗い緑のなかで煩悶するような少女の胸の辺りの光を見て感じる「ああこりゃ見ちゃいかん、でも見たい」の動揺は、今も変わりない。
ジャケット絵の少女は本当に玉(ぎょく)を磨いたような肌合いをしていたように記憶している。まさにマドンナの宝石だった。
家にあるルノアールの画集には、巻末の白黒の参考図版として【浴女 Femme Baigneuse】というタイトルで、横顔の裸婦のその絵が小さく載っている。しかし、ネットで今検索しても、その絵が絶対出て来ないのが謎だ。もしや後年、ルノアールでないと認定されでもしたのか。



暗いアトラクションの秘め事感、結婚式場のフルート音楽の悲哀、ルノアールの裸婦.....を連想させる要素が合わさって、【マドンナの宝石】に、官能的なものの目覚めのいくらかを知らされた、と思う。
# by meo-flowerless | 2016-04-20 08:03 |

オーロラ

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人は各々にとっての「美しい」感覚を、何歳頃に、どういうことに対して、得るものなんだろう。
美術系だと、美しい物品に囲まれて審美眼を磨いてきたのかと思われることもあるが、実際そういうことではない。
自分の場合は、かえって殺風景のほうに不思議な美を感じるようなことが、結果的に多かったと思う。



文学的気質の親はたぶん「美しい」という言葉を子供にも躊躇せず使っていたはずだし、画集も音楽集もうちに沢山あった。しかし親がそれを特に利用して啓蒙的な審美眼を教え込むようなこともなかった。
なので私は、名画にも絶景にも、逆にどうでもいいことにもアホな事柄にも、ランダムに「美」を感じるパッチワーク的感覚を培った。そのことを、親に感謝している。



物心ついてから、はっきり何かを「美しい」と思った記憶。それは、ある建具屋の看板文字だった。
白い小さな看板に、虹色グラデーションの、フニャッとゆがんだ文字体。
【オ〜ロラ】と書いてある。
美的でも何でもないものに、なぜ惹かれたか。
オーロラ、という虹色の目くるめく現象に付いては、雲の図鑑などで知っていたから、その言葉を重ね合わせた幻を見たのだとも言える。とにかく、バスの中から見えたその、文字形や言葉の意味が混ざりあった総合的な雰囲気に、子供心の何かを掴まれた。



団地へ分岐していく道とは反対の、山林への方の道。遠足にもそうそう行く機会がないであろう、暗い峠の入口の、小さな建具屋。
【オ〜ロラ】。
看板に書かれた小さな字でしかないが、「目に飛び込んでくる」とは、まさにあのことだった。暗い山に萌え立つ若葉の道の中空に、ポカっと魔法のサインが、変幻自在に色を変えながら浮かんでいるように見えた。自分の心にとっては、それこそが小さなオーロラ現象だったのだ。
小学校へ入学しても、バス通学でそこを通るたび、その看板を目で確認することを忘れなかった。高尾山麓を切り崩した殺風景と鬱蒼のなか、そこだけが煌めいている気がした。
が、別の町に引越してしまい、数年間はその看板のことなど忘れてしまっていた。



浪人生の頃ふと、オーロラという言葉が好きだな、と思った。クサカベ絵具のオーロラピンクという色名で思い出したのだろう。
あの店の看板のことも、みるみるうち鮮やかに思い出した。床屋のディスプレイ看板みたいに光りながら回転していたような、誤った記憶さえ浮かんだ。
そこで、かつて故郷だった終点駅の、さらにバス終点の団地まで訪ねてみたのだった。



年月が経っていたので、その店が残っていることすら危うかった。バスの窓から見えるのは一瞬だ。埃っぽい繁みや、暗い山影は変わりない。その場所に近づくと、胸が高鳴った。
【オ〜ロラ】。
まだ、そこにあった!
歪んだ文字。幼い頃に魅かれた感覚が、鮮やかに蘇った。
が、看板は光っても回ってもいなくて、文字色もいまや虹色グラデーションなどではなかった。記憶の誤解に一瞬肩すかしを食らったものの、やはり煤けた景色に浮き立つそれは、自分の中のなにかの反射光のように際立って見えた。



虹色のものは美しい、ということは、父からの吹き込みだろう。
オーロラ現象とか、モルフォ蝶蝶とか、ハンミョウや玉虫だとか、「とにかくこの世のものではないほど美しいんだって」と、父は神妙な顔で、私にその存在を教えていた。「この世のものではない」という形容が、子供の心にはとてもいい化学変化を与えてくれたのだと思う。
虹自体が、団地の暗い雨の中、高尾山や貯水池を背に出現する、いわく言いがたい不気味な現象だった。しかもその頃はなぜか、子供一人か二人のときにばかり、誰も助けに来ない無音の圧迫のようなものの中で見た。
不気味なだけではなく、やはりきれいで、「きれいなものは不気味」というアンビバレントのようなものは、それで覚えたようにも思う。



父も私ももちろん北欧にオーロラを見に行ったことなど無い。実際見たら絶対に感動するだろうが、その感動は【オ〜ロラ】へのものではないだろう。
【オ〜ロラ】に感じたのは、言葉と視覚の間にぼやっとうかぶ「暗示的なときめき」、そういうことに魅かれる自分の傾向の、最初のあらわれだったかもしれない。
建具屋のまわりの繁みや竹やぶは一掃されてしまったが、オーロラの看板は今なお健在だ。
そういえば、一度だけ、別の土地で、白黒の【オ〜ロラ】看板にも出会ったことがある。
# by meo-flowerless | 2016-04-13 23:11 | 絵と言葉

ある少年の夏日記

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今日は授業絡みの遠足で、これから神田神保町へ古書店巡りだ。何か戦利品があればいいな。



去年のことだ。神保町の古地図屋、真中の大きなラックに沢山の古い観光地図やパンフレットの類いが山になっている。作品資料に、と漁っている中から、ふと地図ではないものが出てきた。
茶色に褪せた薄い「夏休日誌」。裏表紙に名前も学年もある。ある少年の日記だ。
多分第二次大戦終戦前後のものと思われる。



骨董市などには、昔の人のスクラップブックや日記が、無造作に商品の山に紛れ込んでいることがある。そんなところに転がっているくらいだから歴史的価値はあるわけではないが、それでも独りの人の人生の記録である。記録物というものは、他の商品の中でそこだけ異様なオーラを発しているように感じられる。
しかしぱらぱらとめくっても、人生の真実を赤裸々に吐露しているような日記や手帳は、ほぼ無い。そういうことを書く人は、ちゃんと処分するのだろう。



古地図屋で、手に取った少年の日記をめくってみた。
たった七日間しか書いていない。誤字も多く、あまり書く気はないようだ。特に、最後の方のおざなりさを見て微笑む。店主に、仕入れの時に紛れ込んだに過ぎないものだからあなたにあげる、と言われた。
というわけで昔の一少年の夏の七日間が、私の手の中に収まった。



孤独になりたい時にすっぽり座席に収まるお茶の水の某喫茶店で、紅茶を飲みながら、消え入りそうな鉛筆文字の七日間を辿ってみた。
すると、ふしぎなくらいきらきらと、夏の情景が目の前に立ち上がってきた。
初日、七月二十一日からは、近所の家に英語と数学を学びにいくことになったらしい。
そのあと帰宅、家の手伝い。午後は海水浴だ。
「今日は丑の日だ。海はにぎやかで、あまり多い人でボートに乗る人で一ぱいである」
遊びすぎたのか、帰宅したら家の人は皆夕食をもう先に食べていたようだ。
海の近くに住み、弟がいる。毎日弟を海に連れていき、泳いでいる、という生活が浮かんでくる。
以後の一週間も、淡々とした記述で刻まれる。


晝食後海へ行く途中にドブに魚がいたので魚をとって田ンボの中に池を作ってかつてをいた
海水浴の後 花キチガイ があばをくった 皆んなが助けに行つたら「もいいよ」と言つて、あかを落として居た

***

今日も英語と数学を教はりに行つて早お晝をたべて弟をつれて海へ行つた 三時頃また泳ごうと思つて行くと栗山君の舎弟が泣いて居た、きいてみると「オボレタ」と云つたので「誰と一緒に来た」ときくと「高等三年の子と来た」と云つた その高等の子にきくと「僕は寝て居た」と云ふ 僕は栗山君の舎弟を家へつれていつた

***

近所の子供にたのまれて◯◯まで弟をつれてボールを買に行つた ボールを買って帰る途中「カクテルをかつてくれ」と云つて動かなくなつたのでついに二円とられてしまつた ◯◯から帰って二人で海へしじみをとりに行つた しじみは五合くらいあつた



他愛ないなと思いながらも、花キチガイとは何だろうとか、栗山君の舎弟は結局なぜ泣いていてその後のようすは大丈夫だったのかとか、兄に比べて弟はやんちゃでしたたかだったのかもしれないとか、毎日の少年たちのつるみぶりと、埃に渇いた田舎の夏の道が浮かぶ気がしてくる。
それが私自身の幼時の夏に重なることなのか、映画の中の昭和の夏に重なることなのか、日本人の血で知っているのかもわからないのだが、匂いや空気や温度まで身体に感じるようなのは、なぜだろう。



言葉の情景喚起力は不思議だ。文章力のある小説の名手や絢爛たる言葉をあやつる詩人だからといって、あらゆる情景をうまく立ち上がらせることが出来るか、と言ったらそういうことではない。
読み手の側の経験と結びつくことで、通電のように、情景は「通じる」ものなのなのかもしれない。
淡く宙吊りになったような日記中の一文は、事実の説明というよりむしろ、詩のイメージの含みに満ちている。
そんなことを勝手に考えてほんの一部を、詩情のかけらとして引用させてもらった。



この持主の名前は少し変わった名前だった。所属している学校も、ある専門的な分野の学校らしかった。
そっとネットで検索してみたら、一、二件だけ、本人だろうと思われる手がかりがあった。
その後この少年は専門分野の大学に進み、海が美しいであろう地元の県で、その分野の会社の主になっているらしかった。御存命ならだいぶ老人だろう。
ネットはまた別の意味で、ひとの静かな人生と人生を交錯させる、通電感覚を持つことがある。
# by meo-flowerless | 2016-04-09 10:52 |

入学式のヴァイオリン

音楽学部の澤和樹先生が新しく学長になった。ヴァイオリニストである。
美術と音楽とがあるウチの大学では、実に37年ぶりの音楽学部からの学長選出だ。
長らく続いた宮田先生の書道のパフォーマンスで藝大のセレモニーも注目されるようになってきていたが、今日、新学長のもとで気持も新たにどのような入学式になるのだろう、と楽しみだった。



卒業式に比べ入学式は厳粛で、講堂中の新入生の緊張が空気を引き締めている。新学長も緊張の面持ちに見えた。
「新入生、起立。礼」のあと、学長みずから「着席ください」と言う。ここで学長のお言葉である。さあ何を話されるのか。私が一瞬、目を自分の爪かなんかに逸らしたその瞬間だった。
静かにヴァイオリンの音が流れ始めた。



澤先生が壇の前まで出てきて、言葉を何も発しないまま黙って、たった一人舞台の真中でヴァイオリンを弾き始めたのだ。
しかも、バッハの無伴奏をだ。
何回も器楽演奏を聴いている会場だが、これほどの静けさに包まれたのを見たことがない気がした。すぐ目の前で、幻のような月がゆっくり空に昇っていくのを、皆がじっと見守っているような目をしている。
柔らかいが吸い付くように、息の長い弓使いが、ずーっと後を引く。はじめの「なるほど....さすが音楽学部」というパフォーマンスへの感動は、すぐに「音楽」そのものへの集中に変わっていった。



演奏が終わった後、澤先生は、誰もが知っている大バッハだからこそ選んだこと、この「アダージオ」が、単なるテンポがゆっくりと言う意味だけではなく「くつろぐ」という意味を含んでいること、時代の速度と自分自身の速度のこと、宇宙の広がりのことなどを簡潔な口調で話された。



ああ、音楽だ。と改めて感慨を深くした。
特に今までの、言葉による激励やメッセージを当たり前に待つようになっていたこの頭を溶解しながら、音楽は、水のように無言で体に染入ってきた。
また、なんていい曲をこの一番最初の場に選ぶのだろう、とも思った。
バッハの曲は、奏でる人によっていかようにも解釈し表現出来る音楽だし、また無伴奏となると、孤立無援の時空に浮かびながら音を選び出していかなくてはならない。
心細い裸の状態で入ってきた新入生に、自らも研ぎすまされた裸の演奏で対峙するため、まさにそのための音楽にきこえる。



自分の小学生レベルのバイオリン経験を持ち出すのは阿呆というものだが、それでも、舞台の上でひとりで奏でることの孤絶感だけなら、ほんの少しは体で知っているように思う。
異様な注視、ダウンライトの光、客席の奈落、奏でることへの自問自答、その払拭。そして音楽への没入。客席から映像ショーのようにコンサートを見る気持では想像出来ない、絶対的に孤独な身体経験だ。
今日の音楽とそれを奏でたひとは、芸術とは突き詰めれば孤独な身体経験なのだ、という原点を思い出させてくれた。そして、この大学が芸術大学だ、ということも改めて。
いい入学式だった。
# by meo-flowerless | 2016-04-05 22:51 |

サマーランドの乱反響

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いろんな音にいろんな感情を催すたちだが、「なぜか気が遠くなる」たぐいの音がある。
体がオロオロし、自我がズレるようなめまいを感じる。軽い離人感、というのか。
その音は、巨大な温室や室内プールみたいな「屋根付きの施設の反響音」だ。
常磐ハワイアンセンター(ハワイアンズ)に行き大音響のスティールギターのハワイアンがベンベンと乱反射のように響き渡っていたら、気が遠くなることだろう。



屋根付き熱帯施設、東京で言えば「東京サマーランド」だ。
近くにあるのに、最も遠い南国という感じがする。一度しか行ったことがない。
そもそも子供の割にアミューズメント施設がそれほど好きではなかった。(多摩テックは好き)
人酔いというのがあるが、そういう感覚で「初めての音」酔いや「初めての光」酔いをした。
回転する乗物もだめ。目くるめく混沌に意識がついていかず不安になるのが、私のほとんどの遊園地体験だ。



サマーランドには、幼いとき、ある家族に連れられて行った。
爛々と光る目や服装のせいか、熱帯鳥みたいな印象の女の子がいた。女の子のお父さんは目がサルトル的にぎょろっとしていて、焦点のない威圧感を感じた。家族全員が南国趣味のように見えた。家の中は緑色のものが多く「置物のカオス」のよう。ただのインテリアのはずだが一面鬱蒼とした熱帯雨林の印象しかない。九官鳥も飼っていたんではないか。
あるお昼には、エスニックまぜごはんのようなものをいただいた。一口食べて「よくわからない味だ」と混乱した。今ならばそういう味は好みだと思う。けれどそのときの私は、その家族の南国趣味に、慣れないカオスに接するときの落ちつかなさを感じた。



サマーランドのプール。
半透明な屋根が鉄骨を覆う、巨大温室のなかのイミテーション南国。
生い繁る椰子や棕櫚やモンステラは、本物の植物のはずなのにビニール質の印象。逆光シルエットのハリボテバイキング船に、暗いコロニアル風のあずまや。農業用ネットのような材質のハンモックが、あちこちにだらしなく垂れ下がっている。エメラルド色やターコイズ色のペンキで塗られたプールサイドの地面は硬い材質で、粗い人工芝のような箇所もあり、どこでコケても結構な怪我をする「痛さ」がある。
そこに、大音響のハワイアン音楽が流れていた。
屋根の全てにこだまして、全方位からブレるような反響が耳に帰ってくる。自分の位置がわからなくなる音だった。



プールの人工浅瀬で既に、私は疲れを感じていた。その後、昼食となった。
長い食卓を挟んで人工芝の上に座った。そこにいたほとんどの友達家族が、アロハを着ていた。
食卓の上にはでかい葉っぱに包まれた異国まぜごはんや、パイナップルをくりぬいた中のよくわからないサラダや、甘いケチャップのかかった脂っこいハムカツや、ポリネシアン串焼きのようなものが、これでもかと運ばれてくる。半透明の屋根から漏れる白い光、プールからの増幅した水音、鳴り響くハワイアンの反響。
混沌........
目が回りかけている時に、熱帯鳥一家のお父さんが、私の顔をのぞきこむようにして、異国まぜごはんを薦めてきた。それがそのときの、最後の記憶である。
多分私は「めがまわる」と言ってそこに寝かせてもらったのだろう。記憶の内部では、ほとんど意識を喪っていた。これでもかと押し寄せる異国風味が、小さい私には身に余る情報量だったのだろう。



いやなくせに何度でも聞いたり嗅いだりしたい、「くせになる五感の感覚」というのがある。
いまだに屋根付きの遊興施設に行くと、ゾワゾワする。ボウリング場に響き渡る音、健康ランドでお揃いのアロハ着ている人々の笑い声、などを聞いていると、放心してしまう。
「乱反射」という言葉に対して「乱反響」という言葉があるなら、ああいう場所の音はそれだ。
乱反射の感覚、乱反響の感覚はダイレクトな体感を伴って記憶と接続される。これがもしトラウマだったらフラッシュバックを引き起こす音なのだろうが、そこはかとない記憶にも、そういう鮮やかな接続は起こる。



娯楽のなかに詰め込みすぎた熱帯風情というのは、あの70年代独特のものかもしれない。そういう流行に魅かれつつも辟易した幼児体験のある人もいるのではないか。
流行グッズは資料館に残っても、流行から引き起こされる感覚反応のようなものは、何一つ後世の遺産なんかに残らない。個に閉じ込められたまま明滅する「感覚の記憶」は、同じ光を知りつつどの星の光も孤立して離れている、宇宙のようなものだ。



今は甘いパイナップルライスも、アロハも、ゾッとしながらたしなむ。エキゾチカのような南国探検的音楽を聴き、スティルギターが反響しまくっている屋内イベント会場などで「ウオオオオ」と頭皮を掻きむしりながら、サマーランドで倒れた記憶をゾワゾワ思い出して楽しむ。
でもそれ、なんなんだろう。
# by meo-flowerless | 2016-04-04 12:11 |

2016年4月の日記

2016年4月の日記

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# by meo-flowerless | 2016-04-03 15:47 | 日記

時空とエアポケット

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このごろ、文章に「時空」という言葉を多用してしまう。
一過性の口癖ではない。ある感覚を現すにはこの言葉しかない、という妥当感があり、これからも使っていく言葉だと思う。
五月の講義でも、自分なりの「時空」感覚について話そうかと考えている。



歳をとるにつれ、自分の関わる時間と空間に、権利や義務が付随することが多くなる。
社会に組み込まれれば当たり前のことなのだが、時間的空間的な自由を何とか切り詰め工夫しなければ得られないのと同時に、心の内面的な自由までそうなっていくような気がしている。
ものをつくる仕事をしている以上、「心の自由」を切り詰めることは本当に嫌だが、ものを作るのを「仕事」と思う時点で、もう自由ではないのかもしれない。



けれど、時間空間を併せ「時空」という言葉を使ってみると、何だかすーっと誰にも邪魔されない宇宙に吸い込まれるというか、透明人間になって好きなだけ好きな中空を浮かんでいるような、いい心地になってくる。
特殊相対性理論なんていうものは私の愚かな頭に理解出来るはずもないから、イメージの「時空」でいい。
「自由」という言葉を「自在」に置き替えてみると身体が楽になる感覚がある。自由にはそれなりに自力の飛翔の労力を感じるが、自在にはテレポーテーションの神出鬼没性を感じる。「時空」には、自由より自在が似合うかもしれない。




「時空」という言葉はSF的で、それを動的に「超える」という言い方の時に使われることが多い。
自分にとってのイメージの「時空」には、「嵌まる」という言葉を使いたい。
中空にポカッと、自分にしか見えないカンガルーのポケットみたいに浮かんでいる、じっと潜伏可能な「ふところ」なのだ。
この時の、「中空」という言葉の感覚も大事で、それは決して「空中」ではない。
時空、中空どちらにも出てくる「空」は、私には天ほど高いところにある空をさすのではなく、斜め上に顔をふと上げたときの空気中の空白......ややこしいな、「うわの空」の「空」とでもいっておこう。



同じような感覚で使う言葉に、「エアポケット」がある。
「エアポケット」に関しては時間的なというよりも、空間的に他から切り離された独立した空白、という感覚で使っている。




中学生の夏の終わり、最寄りの駅の反対改札側の町を母とゆっくり散歩していた。
ある程度道を知っているはずなのに、まだ知らない風景や抜け道がある。迷路に迷い込んだ気分だった。入り組んだ住宅街を抜け、視界が広がったと思ったら、驚いた。
突然ひまわり畑が広がっていた。
ひまわりは夕風にかすかに揺れ、うつむいていた。偶然自分は黄色いひまわり柄のワンピースを着ているのだった。ワンピースがこの風景を引き寄せたのか、と思った。
近所にこんな花畑があることに何故か長年気付かなかった。ここだけ夢のように時が収縮している気がした。




母も同じように、狐につままれた気分がしているようだった。そのとき母が言ったのだ。
「エアポケットね」
ひまわり畑の向こうには平屋一戸建住宅の敷地が広がっていて、そこに辿り着くのも初めてだった。帰宅して地図で調べると国鉄職員宿舎だった。
数年経ってふと思い出して行ってみたときは全てが無くなり、痕跡のない更地になっていた。
やがてマンションが建って、記憶も薄れていった。
けれどあれ以来、歩きながら途中でふと夢うつつの「エアポケット」に紛れ込む場所を、いつも探している。




「時空」も「エアポケット」も、ノスタルジーを感じさせる常套句だともいえる。
それらの言葉の口当たりの良さはどうでもいい。あの「ふところ」感覚が私には大事なのだ。
自分自身からも迷子になっているような、抜け穴入口のメビウスの輪っか状に気を取られ延々とねじれの上で輪廻的徒歩をしているような。
行ってるのか帰ってるのかわからない感覚が、私を解放してくれる。




この世界の誰からも忘れられるなんてことは、本能的に寂しい。
けれど、どうか束の間思い出さないでいてくれ、と意味もなく思っていることも、また本能的にある。
夕食を作るのに忙しい母親が、頭の片隅で子供が帰宅しないのを認識しつつ、それほど気にもしていない。そんな黄昏のひととき、まだ帰りたくない子供の、迷子や神隠しとまでは行かずとも「今だけは風船のひもが、ふと切れている」というような遊離感覚を、いまだに心で大事にしている。
自力で帰る力のある限りは。
# by meo-flowerless | 2016-04-01 03:32 |

【春雷】  ふきのとう

     突然の雷が 酔心地 春の宵に
     このままじゃ夜明けまで 野ざらし ずぶぬれ
     春の雷に 白い花が散り
     桜花吹雪 風に消えてゆく



今宵は雷が鳴っていた。春雷である。
春雷に必ず思い出す男友達がいる。大学時代の仲間。
一番近いようで一番遠い、という感覚が残る限り、一対一の「親友」とは呼ばせてはもらえないだろう。
彼は誰に対してもそう、誰からも愛されて、誰をも振り回して、誰からも遠かった。
夏の雷には思い出さない。カラオケで【春雷】を歌ったか、一緒に春の雨に降られでもしたか、それすらも思い出せないが、春雷と言えば彼であり、彼と言えば青春だった。


常に近くにいながら、決して恋人同士などにはならなかった。
飲んで管をまく典型的な泣き上戸で、たまに私も手厳しいことを言って泣かせたりした。
常日頃その酒、パチンコ、煙草、銭湯、雑魚寝の姿を間近に見て、今でも克明にデッサン出来るくらい、浮腫んだ朝の顔も、ごわごわした髪の感じも、服のよれよれした皺も、覚えている。
夜の雨に濡れて飲みの席に転がり込んでくる時の、湿った身体の匂いも覚えている。
そのお腹を枕に何度も眠り、向こうも飲んだくれた末にこっちの膝枕で泣寝入りをし、しかしついに何事も起こらなかった。それはそれで運命だったのだろう。


大学一年の春の夜、彼が自分に投げかけた言葉が今も、青春の始まりの号砲みたいに響き続ける。
夜の墓地や暗い海を無軌道に走る仲間たちの車の中で、どこまで行くのかいつ帰るのか、苛立ちを口にした私に向かい、
「身をまかせなよ、この時に」
と彼はふりむいてきつく言ったのだ。


常識的な時間や空間に拘っていた視界が開けて、星の海に繰り出したような気がした。
あの言葉から、夜の本当の長さを知らされた気もする。人と人の近さの不可解、も同時に。
友達の教えた夜の長さは、朝になりゆく空の色調を、人と向き合うまでの曖昧な距離を、言えない言葉が落ちていく深淵を、風にかき消された未遂の出来事を、たくさんはらんでいた。


面倒くさい彼のような男、面倒くさい私のような女、他の仲間もそれぞれに癖があり面倒くさかったが、共通してどこかのんびりと浮遊していられた。時代がそうだったのだろう。
あの私達の身勝手な時空に、無くてよかったと思う今の時代の言葉、例えば「リア充」「中二病」「ボケと突っ込み」。
もしそんな揶揄的な一言でもあったなら一度に霧散してしまうくらい脆弱な私達は、ほんとうにくだらない夜のかけひきを飽きもせず、緻密にしていたと、思いだす。


e0066861_2292835.png『人生・春・横断』 ふきのとう 1979
# by meo-flowerless | 2016-03-29 00:20 |

卒業修了式

昨日は大学と大学院の卒業式。宮田学長の卒業式での最後のパフォーマンスを見る。

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# by meo-flowerless | 2016-03-26 12:05 | 日記

一橋大学

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他校の学食を食べたくなるお昼がたまにある。今日もそんな日だった。
立川に出る用事があったのでそれならばどうせ、と国立まで足を伸ばす。
国立の大学通りは思い出の道だ。小学校六年間この通りにある私立小に通った。
大学通りは桜が咲き始めていた。むかし珍しい青いスミレが咲いていた苔むしたモルタルの長屋は、バーミヤンに変わっていた。


大学通りの「大学」とは、一橋大学のことだ。
今も三十数年前と変わらぬ門の佇まい。変わったのかもしれないが、同じような文字、同じような色の学生の立て看板がある。大学祭前後には[◯◯ at 兼松講堂]などと書かれたライブの告知の大きな手書き看板がいくつも並んでいた。松任谷由実、大貫妙子なんて名をそのタテカンで知った気がする。


一橋大学の校舎の素晴らしさは、全てが煉瓦で出来ていることだ。古びているようでもあり新しい外国のアパートメントのような趣もある。
首を曲げなくては天が見えないほど背のひょろ長い松が煉瓦の隙間に伸びている。


グラウンドで陸上部がトレーニングしているのが見える学食で、カレーとポテトコロッケを食べる。
一橋大学は昔から「質実剛健」という感じがする。というかオトナっぽい。
自分が小学生の頃のお兄さんたちは、80年代でも長髪にサンダルという、昔の学生感覚をにおわせていた。決して美大のようなルーズな派手さ(イメージ)ではなく、何気に英語の小説くらいはポッケに入れていそうな知的雰囲気があった(イメージ)。


文学部志望だった頃に都心の大学に見学に行ったが、自分が小さい頃に抱いていた「大学」と何かが違い、規模がでかすぎるわなんかチャラいわで憧れがさめ、英・国・社の勉強に身が入らなくなっていくと同時に、美術志望に傾いていった覚えがある。
そのとき比べていた「大学」らしい「大学」は、幼い頃通った道の「一橋大学」だった。


「深い緑があり、建物が奥ゆかしく、アンツーカーのグランドで部活動をしている人がいて、学食で勉強している人がいて、学園祭はDEEPで、ユーミンまで来て、そんな学問空間が賑やかな町中にある」というイメージを全て裏切る、芸大の「取手校地」の一期生になった。体育の時間はグランド(草原)の草むしりだった。学食からは、赤いミニスカートからパンツ出してダンボールを敷き、崖を芝滑りしている同級生が見えた。


今日は食堂の窓際で、ひとりでゆったり勉強をしている渋いおにいさんがいた。横顔が美しい。
おにいさん、と思ったのだが、考えてみれば仮に院生にしたって、私より十以上は年下なんだな、と思い複雑だった。自分は何も成長していない。
# by meo-flowerless | 2016-03-23 20:19 |

2016年3月の日記

2016年3月の日記

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# by meo-flowerless | 2016-03-23 04:56 | 日記

2016年3月の夢

2016年3月の夢

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# by meo-flowerless | 2016-03-23 04:54 |

保健室ホテル

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昨日、茨城県で催されるアートプロジェクトの話し合いをしながら、ちょうど去年の今頃このプロジェクトの下見で茨城北部を訪れた時のことを思い出していた。


昨年三月。マイクロバスに揺られ大学の先生方と一緒に、日立鉱山跡や五浦の海など昼間のうちに十カ所ほどを訪れ、夜になってようやく北茨城市のビジネスホテルに辿り着いた。
夕飯時、どうも先生方の会話がちっとも頭に入ってこない。思えばその時からぐったりしていたのだ。このヒトは無口なのか?と怪訝そうな顔をされつつ、その日は各部屋に引き取って寝た。


胃痛に苛まれ始めたのは、その夜中だった。
付け放しの枕元の灯のなかでパチっと目覚めた。熟睡から突如目を覚ますということは身体がおかしいということだ。胃液の中に溺れているのかというくらいに、おなかが気持が悪い。関節痛がしてきて急激に発熱、吐くこともできず一晩中苦しむ。火のような胸焼けに、逆流性食道炎とはこういうものか、と初めて知る。
苦しみ抜いて一睡も出来ず、朝を迎えた。
同行の事務の方がフロント経由の電話で知り様子を見に来た時には、海老のように腹を丸め、二三歩歩くのが精一杯だった。


心配する先生方に謝り、結局私はそのビジネスホテルに寝付くことになり、皆はマイクロバスで帰路についた。朦朧とした意識でフロントからタクシーを呼んでもらい、一時間弱かかる病院へ一人で行った。
雪が降っているわけでもないのに青白い、関東の平野が延々と続く。体調のせいで視野が青く染まっていたのかもしれない。
よくあるおなかの風邪なので、まあ二、三の薬を呑み、治るまで安静に、と病院で言われた。
灰色ボール紙で造った模型のような病院のロータリーで悪寒に震えていたら、行きに呼んだタクシーの人が遠い駅からまた来た。言葉少なだが事情を察し、心配してくれた。


病院に行ってやはり少し安心し、さて、と考える。あの過酷な出張からも、自分は開放されたのである。
休もう。休むのだ。人間を休む!
ビジネスホテルは本当に簡易で、新しくもなく広くもなく、かと言って不潔でもない、要は私が一番好きなタイプの、「ほっといてくれる」宿だ。
夫にも電話をして、治癒するまでビジネスホテルで安静にしていることを伝える。迎えにくると言ってくれたが、こちらのほうが東京まで四、五時間かけて帰る体力はないので、当分ホテルに留まることになった。


遠い知らない町でたった一人、病床に埋没する。
胃腸の症状は治まってきたが、高熱の疼痛が酷くなり、寝返りを打つ時もいちいちうなる。タクシーの途中で買ったポカリスエットを一口飲んでは寝、一口飲んでは寝、を繰り返す。
白い天井を見ながら、何だか透明な涙がすうっと流れてしょうがない。不思議な涙だ。ものすごく心細いのだが、不安とも違う、逆に幸福感のある心細さなのだ。
何の音もしない、何の動きもない、何の存在理由もない。ただ白い天井と、白い蒲団と、動かない身体と、気怠い涙の感覚だけがあるこの感じを、どこかで知っている。と考えて、小中高校の「保健室」だ、と思い当たった。


常連でこそなかったものの、保健室にたまに眠りにいっていた生徒だった。心の悩みで、という日もある。その時のあの、水槽の底のような密室感。
白いスクリーン衝立ての向こうから休み時間ごとに聞こえてくる、保険医先生と生徒との会話を聴きながら朦朧とする時間。ずっと何かの装置が、ムーンと気怠げな音波を放つだけの静けさ。消毒液の匂い。具合は悪くても、あの解放感と幸福感はなんだったんだろう。最も得難い上級の孤独、という感じだった。
大学以降にはずっと忘れていた独特な幸福の感覚、それを今、この知らない町の知らないホテルの一室で味わっている。こうやって倒れることによって今、手に入れることが出来たのは、時間でも空間でもない。私だけの「時空」という不可思議なヤツだ、と思った。


ようやく熟睡し目覚めた時には、暗い部屋のテレビがもうテストパターンの虹色画面になっていて、「ぷーん」という発信音波が漂っていた。
それを薄目に見て、ああなんて幸せな孤独なんだろう、とまた変な涙をチョロっと流し、眠りに落ちる。
「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる、だ」と何度も夢の中で、松尾芭蕉の辞世の句を思っていた。


結局私は、そこに三日くらい居た。
ぎすぎす軋む身体で、本当に何もない殺風景な町を歩いて、粥や水などを買ってきて、ホテルのレンジでちんして食べた。
こういうときこそのビジネスホテルである。いいホテルや旅館では、このように病で寝付くことは出来なかったかもしれない。ホテルの人は何も干渉をしてこなかったが、とにかく身体を休めたい私の事情を察し、それとなく助けてくれた。


歩いて初めて、そこが磯原という駅の傍だと知った。
人っ子一人歩いていない、白い埃の中のような町をとぼとぼ行くと、何となく岸が荒んだ感じの川があった。なぜこんなに河川敷が荒れているのか、と考えてようやく、この土地が津波にやられた町なのだ、と思い当たった。


三日目の早朝、大学の仕事に戻るため、私はホテルのフロントの人に礼を言い延滞分の料金を払って、その町を出た。
駅で列車の時刻を見ると、十五分ほど時間がある。病み上がりの身体だが、走って、最後にこの土地の海を見に行こうとした。しかし海は遠かった。歩道橋に上がって、海から来る朝の光を見た。
これまで見た中で一番金色な金色だな、と思った。
病気で寝付いて人にも心配をかけたにもかかわらず、極めて満足の行く一人旅をしたあとのような気持で、列車に揺られて東京に向かった。
# by meo-flowerless | 2016-03-22 11:11 |

事情

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顔まで変えてしまった経歴詐称の人への袋叩きが、メディアで繰り広げられているらしい。
「そいつは昔から嘘つきだった」と、今まで出番の無かった知人たちが過去を広める。
その人物の昔の滑稽なあだ名を記事で知ってしまい、かえってやるせなさを感じる。



ふと読んでいた新聞記事の下のほうに、あるドラマの広告が載っていた。
寺島しのぶ主演の、ある女性犯罪者のドキュメンタリードラマだった。
その女性と言えば、顔の整形を繰り返しながら逃亡を続け、時効ぎりぎりで捕まった有名な犯罪者だ。彼女の人生は、【顔】と言う映画にもなっていた。



片方は本物の犯罪者だ。上の二人の罪の重さを、同列で語ってはいけない。
とにかく外野の人間には、「過去を書き換えてまで実人生から逃げ続けること」への興味が潜んでいるようだ。罪からの逃避度、逃亡の距離、嘘の飛躍具合、が大きければ大きいほど、映画化したり伝説化したりする。



某野球監督夫人の経歴詐称が話題になって、周囲の芸能人たちが手のひら返したようにバッシングをしたことがある。
雑誌広告の見出しでそのさわぎを見ながら、母がボソと言ったことが忘れられない。
「まわりで罵倒する人間に、きれいごと言ってんじゃないよ、って思う。あの時代はみな色々やって生き抜いてきた世代のはずで、経歴の秘密の一つや二つある人も多い。その裏には抜き差しならない事情もある。人なんて後ろ暗いところも探せばあるのよ。けどその嘘の部分だけ取り出して、鬼の首を取ったみたいに優位に立とうとする人間は、必ずいるね」
母は穏やかに見えても、こういうことに関して苛烈な物言いをする。
たいてい、世間のゴシップの騒ぎ方とは逆の視点だ。



母のその言葉を聞いた頃だったと思うが、私は松本清張に魅かれていた。
断罪以前に被害者と加害者含めた人間たちの「人生を網羅する視点」に興味を持った。



いろんな大人を知って生きてきたからかもしれないが、「あの人の正体は結局何者なんだろう」と不明を感じさせる存在に、魅かれることがある。
人の嘘と謎。演出でもなく詐欺でもない、「やむにやまれぬ」「人には言えぬ」が絡んだ不分明もあるということを、よく考える。
【ゼロの焦点】に出てくる、失踪夫の二重生活など、今実際には想像がつかないが、父母の時代や祖父母の時代のさまざまな人の話を思い出すと、さぞそういうこともあっただろうと思うのだ。



何一つうしろ暗いところの無いきっぱりと清廉な人、それはそれでいい。けれど、うしろ暗くないのが全ての正しさの基準みたいになって、その価値観でしかものを見れない人となると、苦手だ。
人は生きていると、何かしら「立場」というものを手に入れる。手に入れ、それから逃れられなくもなる。
自分が「立場」から逃れられない圧迫を、私達は、無意識に小さな逆襲に変え、どこかで晴らす。
その矛先として格好なのが、「立場」に脆弱な嘘がある人、「立場」をそもそも持てもしない人、なのだろう。



野村芳太郎の【砂の器】の映画はビデオで見るずっと前の幼い頃から、母からイメージを刷り込まれてきた映画だ。
「ピアニストの青年が最後のピアノを弾くその音楽にあわせて、父親とたった二人で日本中をさすらい歩いた記憶の風景がずっと映し出される。暗い日本海の波打ち際とか風に揺れる草原がね」
一度思春期に観たとは思うが、改めて昨日観た。いつのまにか泣きながら観ていた。



日本人が日本の風景を知る映像として、【砂の器】を観るといい、と思った。
この背景に横たわる事情は、一人の人間の思いや屈辱を越えている。
戦後の日本を現すドキュメンタリーで素晴らしいものはあるだろうが、松本清張というフィルター、さらに野村芳太郎が映像詩にしたというフィルター、が「一つの時代のどこかに視点として共有されていた」という点に興味がある。
この風景を見、この親子を見て、「実際観たことの無いものであっても確かに知っている」と言える人はいると思う。しかし、表面上の差別的言論統制と引き換えに、この種の甘い涙に誘われることもかえって許されない。今はそんな時代だ。



人間は、生きていれば何かしら、逃げ隠れしなければならない事情が出来るかもしれないのだ。
何が起こるかわからない。
「逃げ隠れるその先は、もう人間界からはみ出し、亡き骸と成りさがる」
と世論は幻想する。
けれど、逃げる人間、隠れる人間の、その漂流のときにしか見ていない強烈な光景は、確実に存在するのだろう。
# by meo-flowerless | 2016-03-18 18:25 | 日記

カカシ山

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東京の端の市、そのまた奥地、というようなところに十年前は住んでいた。
薄暗い山を切り開いた丘陵地の団地。建築群をカードみたいに差し込んだような風景がずっと続く。
牧歌的な地元農家暮らしもごくたまに見受けられるが、土地を団地向けの大型スーパーや駐車場に明け渡す家も多い。
殺伐さにさらに山林が陰影を加えている、それが八王子だ。


そんな風景の中、幾年も前の散歩の途中に、とてもインパクトのある山の畑を見つけた。
狭い斜面を無理矢理段々にしたような畑のそこここに、ハロウィーンの後始末のようなカカシが点在していた。


「うわー、手作りなんだろうな」....って、カカシは大体持ち主の手作りだが。
創意に満ちた人形たちに茫然としていると、畑の上のほうの小屋にいたおじさんに「良かったらゆっくりしていけ」と呼ばれた。
小屋でお茶をご馳走になりながら、世間話をしたりしてぼんやりした。
しかし何を話したか全く覚えていない。
烏骨鶏やニワトリが小屋で大騒ぎしていたせいで、その音の記憶しかない。
おじさんはその並びの小屋にベンチと座布団を置き、変わりゆく団地の丘陵を眺めて暮らしているのだった。  
畑の背後は山になっていて、おじさんとともに山を歩いた記憶がある。タケノコの夥しさに手を焼いていた。


日本のいろいろなところを旅するが、時折通りすがりのカカシのなまなましさやズレた創意工夫に心奪われることがある。
これが「カカシコンテスト」とか「時事ネタを織り込んだカカシ作品」とかになってしまったら、もうだめだ。
純粋に烏や雀を除ける道具でもなく、カカシの造形性を芸術性と言い切ってしまうのでもない、その間がいい。
人がお化け屋敷を必要としダッチワイフを必要とする....のとおなじところのハリボテへの情愛に魅かれる。


ずっとここを再訪したかったが、隣町に引越してから、行っていなかった。
さすがに畑もカカシも取り払われたかな、と十年の月日を経て、冷たい雨のそぼ降る中、今日訪れてみた。
カカシはひとまとめになっていたが、まだあった。
そして、雨のせいなのか、記憶よりずっとホラー感覚が色濃かった。おじさんはいなかった。烏骨鶏はまだ騒いでいた。
山の入口のカカシはもはや、道ゆく人を怖がらせるためとしか思えなかった。


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# by meo-flowerless | 2016-03-14 17:45 |