画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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旅愁の正体

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旅先のヒナびた土地。宿の蒲団に包まる22時頃、その土地にもいる暴走族のバイクの遠いうなりを、窓の外に聞くことがある。そんな時、夜の影がぐっと黒くなってゆくような悲哀感を感じる。ヒナびた空間に彼らが急激に引き連れてくる、遠い亡霊のような「青年性」が、なぜか旅の心にパンチ力を及ぼすのだ。

空耳のような爆音が過ぎまた静かになってしまうと、わびしさはひとしおである。あの暴風めいた音はどこに消えていくのだろう。夜のどこかを走っているには違いないが、幻の世界に帰っていくようにこちらからは聞こえる。八王子の自宅で聞こえていた甲州街道の暴走族の音よりも、なぜかリリカルで、幽玄である。ああこういうわびしさを「旅愁」というのだな、と思う。



また、峠を越えてゆくトラックのヘッドライトが遠ざかるまで、夜の旅館の窓からしんみりと光を見送ったりすることがある。あのトラックに朝が訪れることがあるのだろうか、訪れやしないのではないか、と想像をめぐらせる。生活感を剥ぎ取られ前進感覚のみが冴え渡った抜き身のドライバーの、魂の行方を追いたくなる。そのドライバーが若者であれ中年であれ初老であれ、そういう真夜中のトラック運転者の孤独にもまた「青年性」を感じるのだ。



青年というものは、他のどの世代の男やましてや女よりも死に近い存在なのだ、などと漠然と思わされる。青年の魂だけがあの世とこの世の境界にいつまでも彷徨しているイメージを思い浮かべ、うっすら怖くなる。青春を続けるうちに人生の幹線道路に二度と乗れなくなった、永遠の山林のロード。そういう勝手な妄想がよく、旅先で起こる。

こういうのはあくまでも自分にとっての「旅愁」だ。旅先の美味しい地のものも楽しい会話を楽しむことももちろんするのだが、それとは全く別に急に襲い来るあの旅愁には、甘いセンチメンタルではなく、一抹の死臭の緊張感がある。その感覚を私はとても、大事にしてもいる。



まがまがしさのない旅愁を、私は、旅愁とは呼ばない。旅愁とは戦慄なのだ。そして漠然とした危機感でもあるのだ。必ずしも旅のたびにそんな旅愁を感じなくてもいい、気楽な旅もしたいから。が、とくに印象に残る旅の記憶を辿るとやはり土地のそこここで、自分をゆさぶる不穏ななにかを敢えて感じとっていた気がする。別世界からだれか知らない青年がでおぼろげに呼んでいるような気がしてくる。「その土地のミステリーゾーンに吸い込まれて消息不明になったような存在」を妄想している時に、その土地で感じる旅愁の度合いが増す。



そもそも旅愁の感覚は、自分で体得したものではなく男の人に教わったような気が昔からしている。最初は父だったかもしれない。逢ったことのない祖父かもしれない。友達、恋人、夫…おそらく誰と特定出来るようなものではない。

地霊との仲立ちをするシャーマンという意味での「巫女」ということばがあるが、私は旅において、心のどこかに必ず「巫男」的な男の存在を必要としている気がする。この巫男が私にとって愛着や憐憫を感じさせる存在とは限らない。旅の同行者でもなくていいし旅先の土地の人でなくてもいい。むしろ寂寥や取り返しのつかないものを感じさせる怖さがなくてはならず、観念の「巫男」でいいのだ。地霊ほど縛られていないし具体的な人の記憶でもない、漠然と浮遊する「青年性」の総体のようなものが、都市の居住空間ではなく「旅」のかなたにふわふわ遊離しているのだ。




海や山より、それに至る道程の谷・峠、崖といったはざまの地形の複雑さのほうが、まがまがしさを感じさせる。車のハンドル操作をコントロールしきれぬ危険。そういう地形の風景の中に、ぽっかり別世界への「黒い孔」があいている....。廃トンネル、廃墟の窓孔。その暗がりに吸い込まれ、視界が黒く塗りつぶされる感じがする。

旅先のトンネルに感じる怖さ。黒い孔が思い出させるものはなんなんだろう。突き詰めていって、放心した青年の黒い目玉をふと思い出す。古い友か知人か、だれともない青年達の仕草や目つきが、何となく思い出される。なにかを真剣に話し込み、頭の後ろで腕を組みながらじっと空や天井を見上げながら考え事をしている。旅の果ての砂の上、安宿の畳の上。考えれば考えるほど思考が抽象的な死のほうに向かっていくときの、穴のように真黒な青年特有の眼。空虚に飲まれている眼。考えてもしょうがない夢想と停滞にボカッとはまっている眼。



むかし大学時代の男友達の部屋で、本棚に一冊の地味な冊子をを見つけて手に取った。それは彼の所属している山岳部発行の、数十年前の遭難レポートだった。一行のひとりが滑落した時間から救助に辿り着くまでの過程が時系列に沿って箇条書きしてある。遭難した男子学生の身体の反応が克明に記されているのが妙に心につきささった。瀕死の遭難者の描写に「ラッセル音あり」という言葉が気にかかかったので友達に聞くと、「ぜいぜい言う音や」と簡潔に答えた。その答えと、淡々と短いレポートに籠っている死の影がなぜか物凄くて、衝撃を感じながら冊子をしまった。友はまた言った。「その人の遭難地点に煙草一本ずつ火をつけて線香みたいにたてるのが慣わしや。一級上の◯◯さんが夜の山のテントで寝取ったとき、顔の逆光になって見えん登山者に火のついた煙草を口にくわえさせられたことがある、ていうてたな。その死んだ先輩やろな」

多分そのことは自分の妄想の一つの引き金になっている。山岳、山林、青年、死、そのイメージが多様な亜種となって自分の旅愁を刺激するようになった。




青春を過ぎていく男が若い希望の上にしだいに蓋をしてゆくときの、観念的な死。いまでは旅愁のなかの死臭とは実際の死ではなく、そういう観念的な死の匂いのほうに近いかもしれない。男はいつまでもやんちゃなガキだとよく言ったって、いつしか青年期は確実にその男のものではなくなる。男だけの遊び、男だけの旅には、私には何か、開き直った明るい「とむらい」の匂いさえする気がする。

廃棄された「青年期」が吹き溜まる場所がどこかの時空にある。神隠しの男がまだ歳をとらずさまよう山林がある。青春の苦い思いが澱のようにとどこおって一大別世界を形成している奈落がある。…..そんな別世界から旅愁の寂しい風は吹いてきて、私の頬を撫でる。

こういう妄想世界は私の作品にもにじみ出ているとは思う。昨年は巫女的なテーマで作品を作っていこうとしたが、難しかった。かつて書いた小説(それが博士論文でもあった)の筋は行方不明の弟を捜す姉という粗筋だったが、それを思い出すと、姿を見せてくれない男の聖性を仮定するほうが、いろんな想像が働くようだ。



男がなにかと訣別していく青年期の岐路が集結し、あの世の広がりのように存在する。終わることも交わることもない分岐がひたすら続く世界を、永遠に迷う旅人がどこかにいる。いつか自分がそちら側へ迷い込むかもしれない。いやいや女の自分はこちら側の世界に踏みとどまっても、見知った男をそちら側へふと迷い込ませてしまうかもしれない。危ない、と感じて気を引き締める。旅というのは、そういう分岐点へのあやうい恐怖と、山岳の薄氷を歩かされる一抹の危機感のようなものと、常にともにあるようだ。





by meo-flowerless | 2017-03-18 18:39 |

【張込み】 野村芳太郎



【張込み】(野村芳太郎監督 '58)DVDをまた観る。好きな映画ばかり何度も観る。松本清張の簡潔な傑作短編を映画化したのだ。


刑事二人。同じ日課を繰り返すだけの凡庸な主婦を、ただひたすら張り込むだけのシーンが、大半を占める。刑事の心理がリアルに伝わってくるのは、実際に殺人課の刑事に徹底取材した結果らしい。
ストイックなテーマも音楽もフィルムノワール風に行くのかと思いきや、印象は全くちがう、ぎらぎらとしたドキュメンタリータッチだ。黒ではなく真夏の光、灼熱の照り返しの白だ。何よりもそこのところが自分は好きだ。地方の街角のかつての佇まいが、埃っぽさとともに絵巻のように流れてゆく。この風景の絵巻をじっと眺めているだけでも、傑作だと思わされる。また、商店街に流れる割れたスピーカー音の【港町十三番地】やサーカスの呼び込み、祭囃子、山の発破の破裂音など、音の要素が、全編を流れる淡々とした哀切さのクサビになっている。


刑事がほんの些細な手掛かりをあてに東京から佐賀まで延々と汽車に揺られていくのだが、車窓や駅の様子が順番に映し出され、その道のりの長さがやけに丁寧に描写される。青い山河、静かな瀬戸内海、車内に溢れかえる乗客、時代の様子が鮮やかに読み取れる。淡々とした描写に見えながらもちゃんと作られているな、と思うのは、距離の表現だ。特別に気の利いたナレーションやカメラワークがあるというのではない。けれど、ひとが何かを思い詰めて費やす流転の距離感と、目の前の生活光景の退屈極まりない固定感との釣り合い(不釣り合い)が、映像表現のなかで取れているのだ。


東京で犯罪を犯し逃亡した病身の青年がはたして、かつての恋人のもと、はるか九州に現れるのか。元恋人の女はもうよその人妻になっている。若い刑事は、勘だけで犯人が現れると信じ、わざわざ遠い九州に足を運ぶ。しかし、張込み先の家の生気もない凡庸な主婦には、犯人が遥かな距離を流れてまで会いに来るような魅力はなにひとつなく、事実何日立っても、犯人が接触しにくる気配はない。
見たて違いかと張込みを諦めた頃に、事態は動く。



主婦役の高峰秀子は、顔は平凡な主婦になり得ても、体つきや全体の姿がやっぱり華やかで、この話の生気のない主婦にはそぐわない感じがする。もっと身近なその辺にいそうな近所の女性などを想像しながら、この女の運命を見ていると、やっと胸に迫ってくるものがある。



男と女がつかの間逃避するのは、やはり「温泉地」なのだ。刑事が湯治場まで激走する野山の光景があまりに美しく切迫感に満ちている。意外なほど無邪気に語らい合う男女を刑事は見つけ、再び物陰から張り込む。ほんの数時間の淡い再開の会話のなかで、女は青春の光を取り戻す。一度生気を喪った人生を置き去り生まれ変わることを決意するのも虚しく、山宿の風呂から上がった時には、刑事だけが彼女を待っている。


「今すぐバスに乗れば夕方の主人の帰還に間に合うはずです」と帰宅を促す刑事の言葉の裏にも、女の人生の全てを察した苦さが滲んでいる。本当にこれ以上残酷な言葉はなかっただろう。別の場合ならば家庭への安らぎのなかに無事帰す言葉であるはずでも。



本当にそれだけの映画でケレン味もヒネリもなにもないのだが、それが一層悲哀を募らせる。まずは原作がいいんだな。
この映画のなにがいつも胸に突き刺さるのか。遠い親族などの幻影を絡めたりしているからその理由は複雑だけれども。
強いて言葉にするなら、愛のためにかける距離と、人生のためにかける距離とは、決して一致しない…ということ、が突き刺さるのかもしれない。
届かなくなったもの、叶わなくなったこと。そういう物事には皮肉にも夏の光の眩しさが似合う。

by meo-flowerless | 2017-03-17 10:41 | 映画

秩父三峰行

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休日。海か山かどちらかに出かけたいなどと漠然と呟いてはいるが、私はいつも腰が重い。しかし今朝は夫が「秩父に行こう」と起きた途端に私を駆り立て始めた。三峰神社に行く、というのだ。思いつきだろう。こういうことは日常茶飯事だ。

寝ぼけ眼で普段着のまま、駅まで走る夫に分けも分からずついてゆく。あと数秒のところで何とか電車に間に合い、八王子からの八高線、東飯能からの西武秩父線まで乗り継ぎがうまくいった。



秩父には、大学受験の浪人時代に一度行ったことがある。試験前に予備校のクラス全員で、秩父の神社に合格祈願に行ったのだ。三鷹の予備校から何故はるばる秩父まで連れて行かれたのか知らないし、帰りは電車を間違え、夜に高崎のほうに向かって延々と帰路を遠ざかってしまった記憶がある。しかし無事にその年に芸大に合格した。今日再びそこを訪れるなら、やっとお礼参りということだ。



夫が三峰神社を訪ねたいのは、昨年まで奥多摩の御嶽神社で修復の仕事をしていたことも関係しているだろう。御嶽神社も三峰神社も同じように、「狗=狼」を祀る武蔵国ならではの信仰系に属するのだ。彼自身が犬っぽいし、ひとより犬と心が妙に通じるからかもしれない。



梅花の盛りの村落をぐるりと見下ろしながらカーブする電車に揺られていると、「桃源郷」ということばがまだ廃れてはいない気がしてくる。やがてそんなのどかに深い渓谷や田畑の風景に、鉱山めいた採掘場の光景が入り混じるようになり、虎刈り頭のように段々に切り崩され鋭角になった武甲山が、目前に見え始める。桃源郷感は薄れ、山陰の色も濃くなり、もっとなにか見知らぬ悲哀のなかに歩を進めてゆくような感覚になってくる。



西武秩父駅について、三峰神社行きのバスに並ぶと「急行75分」と書いてある。えっ、一時間以上もバスに乗るほど遠いのか?前に神社に行った時には、そんなに遠くバスに揺られていった記憶がない。とすると私が十八歳のときに参った秩父の神社は、三峰神社ではなく別の神社だったのだ。なんと私は、失敬と言うか無頓着だったんだろう...



古い街道、昔の宿場の名残の道、麓のカーブ、ダムの大橋、そして急峻な山の細道をうねりながら揺られる一時間強の時間は、非常にきつい。景色を観たいが、目を開けばすぐにでも酔いそうな振動と回転。

今まで幾つもの深山の渓谷を旅したことがあるが、ここまで深い谷を見たことがない。たまに薄目を開けて車窓の外を覗き込んでは、背筋を震わせる。

天から地までのダイナミックな奈落がずっと続いているが、遥か下の水面はもう、視界から切れて見えはしない。自然の幽玄とは違う。工業の手が入っている雰囲気からか、ダム地特有の裏側感覚からか、「人の俗世のはて」を感じる山景だ。

家を出てから電車三本を乗り継ぐまでは、まだ何となくぼんやりと寝ぼけ眼の散歩気分だったが、突然我にかえる。なぜこんな地獄のように深い渓谷の崖を、自分はいま、心細くバスに揺られているのか...



一眠りふた眠りして、ようやくバスが三峰神社入り口に到着。二匹の狗が見守る鳥居前の食堂で、手打ちそばを食す。周りの客は、名物わらじカツを食べていた。

やはり以前に合格祈願に来たのは、こんなに遠いこの神社ではなかった、と確信した。それはおそらく駅の案内板にあった「秩父神社」だったのだろう。記憶がどこかで入れ替わったのだ。まあ三峰神社に代わりのお礼参りをしよう。



すこし歩くと、見晴らしのお宮があった。柱に一部分雪の結晶のような彫り物と白い塗装のある美しいあずまやのようなものである。そこからの山の眺めは、美しいというよりは凄絶だった。絶は絶景の絶でもあるが、断絶や孤絶の絶でもある。なにか言葉を失ってしまうような身震いを感じる。高所恐怖症でもあるのだが。

ずっと考えているのはひたすら、何故こんな急峻な山の奥のまた奥の奥に神社を開く気になった人がいたのか、ということだ。



本殿や山門の装飾は大ぶりで堂々としており、鮮やかだった。夫は特にずっとこういう類いの着彩の仕事を習っていたので、興味津々という感じだった。特に白く彩られた手水場の装飾彫刻は見事で、生物のように存在が浮き出してきそうだった。

参拝をすませたあとは、渋い土産販売所に売っている、黒い帆布地の腕に白い狼が刺繍された男物のジャンパーを、夫に買ってあげた。

停留所で待っていたバスが満席だったので「立ったままさっきの長い過酷な道を帰るのか」と肩を落としていると、なんと同じ時間発の、二台目のバスを出してくれた。二台目のバスには私たちとあと二人しか乗らず、すいていた。


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三峰神社は「関東随一のパワースポット」として話題の場所だ。しかし私は俗にいう「パワースポット」という感覚が今ひとつ分かっていない。私が感じるこの場所の心細さや孤絶感と、みながいう霊気やパワーが、果たして同じ感覚なのかどうか。三峰神社に感じたのも、その山並に感じたのも、包容力のある霊力では決してなかった。むしろ拒絶のような。



季節のせいかもしれないが、山の性格が読めない感覚があり、数度訪れることでもなければ行った気のしないようなところだ、と思った。崖下に垣間見える道筋を目でたどっても、この険しい斜面のどこからどこまでの領域を人が理解し往来しているのか、想像がつかない。想像つかないところにこそ、獣道のようにルートがありそうである。三峰講を組んだ参拝客たちの賑やかな道よりも、旅僧や闇の商業人やサンカ等の人々の行き来した秘密の道のイメージのほうが、映像として頭に浮かんでくる。



帰路は、もう少し余裕を持って車窓の風景を眺めた。なにかずっと、重苦しさというか、自分のものでもないような悲哀がぐさりと刺さったままのような気持がしていた。冬枯れの青白い風景だからなのか。渓谷の奈落が地獄のように深すぎるからなのか。死を連想させるような凍り付いた巨大なダムが怖かったからか。



秩父湖の暗い水上に細糸で刺繍したようにかすかな、長い吊り橋が見え、またゾワッとする。岸壁に貼付くようにして残る「バラック製フジツボ」のような旅荘群。日常生活のスケール感や色彩感をふと狂わせる、モノトーンな石灰採石場。ふしぎに青白い、巨大な氷柱の滝。「大血川ドライブイン」と子供の字のような素朴さで描かれた、食堂の屋根....

三峰神社にはなかなか再訪しないだろう、という気がしても、この界隈の殺伐とした山河の風景には、怖くてわびしいながらも惹かれるものがあり、また来そうな気がした。



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by meo-flowerless | 2017-03-05 23:49 |

深夜のポール・モーリア


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NHKラジオ深夜便、こんやの午前2時代のロマンチックコンサートは「ポール・モーリア」特集だ。ヒーコラヒーコラしたストリングス、急ぎぎみのリズム、人工的なベースライン。それが、なんだか妙に良い。記憶の触手が夜空にざわざわ揺らめくような懐かしさがある。


ポール・モーリア音楽など普段から好んで流しはしない。どこにでもかかっているからだ。人通りが朝も夕暮れも同じくらい閑散としている、商店街のスピーカーからスカスカと聴こえていたり。水族館のイルカショーで、曲にのせてイルカが輪を飛び越えていたり。三級ホテルの一階によくある、喫茶レストラン(おかっぱのベテランウェイトレスが一人暇そうに突っ立っている)にかかっていたり。



時代感のせいもあるが、水中花のような音楽だと思う。ただ造花だというだけではなく、安硝子のひんやりした水に漬けてあるはかなさが、とても似合う。【オリーブの首飾り】などはもうマジックショーの記憶にまみれ過ぎていて、音楽として耳に入ってこないのだが、改めて聞くと名曲だ。



学生時代の研修旅行先で、深夜に皆で那須の施設を抜け出し、夜歩きをした。本来なら門限を守らせる役目の助手のK野さんが一番はしゃいで先導していた。そして星空に響くような声で「なんかほら!ポール・モーリア【恋はみずいろ】って感じの夜じゃんね!」と言った。その感じが理解出来たのはそのとき私だけだったな。ふと思い出した。



学生気分のまだ抜けない新任助手の、過ぎ去った学生という身分への微妙な思いというのがあったのではないか。教員になって助手を見ながら、初めてそんな彼らの揺らぎを垣間見ることがある。それがポール・モーリアとなんで結びつくのかはわからないけど。K野さんが言ったのは、青春の夜の淡さみたいなことだったんじゃないか。



自分の人生のテーマ曲には、じつは歌謡曲でもクラシックでもなく、風景のどこか遠くから漂ってくるペナペナに薄いイージーリスニングの方がいい。そんな感覚は今もつねにある。イージーリスニングのBGMとセットの「薔薇やスワンが似合う愛」には、全くズレたところにある自分自身の孤独な愛がかえって浮き彫りになる。そういうのがいい。

「なんとなくよかった時代、へのうっすらした喪失感」がボディブローみたいに効いてくる…そんな夜にはポール・モーリアはピッタリなのだ。



by meo-flowerless | 2017-03-03 02:50 |

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by meo-flowerless | 2017-03-02 01:34 | 日記