画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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資生堂の赤

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授業で学生を天王州の「建築倉庫」に連れて行ったあと、隣の「PIGMENT」に寄った。
日本画画材を主に陳列販売している美しい店で、ピグメントではなくピグモンと読むらしい。壁面全てを日本画の岩絵具、洋画の顔料の瓶が虹のように覆い尽くしているのが圧巻である。ここまで綺麗だとかえって買う気も起きない。和紙、箔、膠なども揃っているが、海外観光客が「waoo amazing!」というための品揃えという感覚。



しかし例えば、玉虫色の粉体がここまで揃っている場所はあまり無いかもしれない。黒なのに緑に光るとか、金なのに紫色に光るとか。値段を見ると一両(15g)2000円前後。「高っ」と呟いているとすかさず優しいお兄さんが来て教えてくれる。「粉自体の比重が軽いので、量からすると結構かさはありますよ」ので買いそうになったが、肝心の自分の絵に使うイメージがわかないので、踏みとどまる。



赤の顔料のエリアに目をやる。その中でも特に目を引く美しい紅色、瓶の表記を見ると「天然コチニール」だ。お値段、15g7000円。特殊なサボテンに付着するカイガラムシの体を砕いて採る。要は虫の体液なのだが、この上なく美しい紅色だ。
お兄さんが、カイガラムシ本体の入った大瓶を見せてくれる。イタリアの顔料メーカーだけあって、オリーブオイルの容器のようだ。粉々の虫はまるで赤くはなく、粒胡椒のようだった。つぶすとたちまち紅色になるのだという。面白くてまたも買いそうになったが、やはり踏みとどまる。
「苺味のお菓子とか、皆さんの口紅にも入ってるんですよ。このカイガラムシは」とお兄さんが言う。

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彼は続けて、バーミリオンの大瓶とオーカーの大瓶を比べて持たせてくれる。バーミリオンの大瓶のほうが、恐ろしく重い。粉の比重が重いのだ。バーミリオンは硫化水銀であり金属だからだ。ほんの少しの粉末で恐ろしく高価で猛毒なのが、朱なのである。他には「ドラゴンの血」という植物の樹脂の赤もあった。これは日本ではあまりなじみないのではないか。ヘナのような色である。
自分が絵具研究するなら、多くの人がやっているんだろうが、やはり絶対赤を研究するぞと思った。
あまりに種類が多く美しすぎて、気分的にかえって何も買えず、シュンとして「PIGMENT」を出た。「青貝箔」という、瑠璃色に赤い虹のような点が浮かんだ美しいメタリックな箔だけでも買っておけばよかった、と思った。


しかしそこで引き下がるような経済観念の持主ではないのだ。画材に関しては比較的要らないものは買わない主義なのに、嗜好品の散財は別だ。
皆と別れてからハッと気付くとひとり、「銀座の資生堂」の店内に立っていた。赤い顔料など見たから、赤い口紅が欲しくなっているのである。目当ては、夏に発売されてから少しずつ集めている【rouge rouge】という口紅のラインだ。



【rouge rouge】は16色で発売され、全てが赤色のバリエーション、パッケージもスタイリッシュな赤黒で統一されている、資生堂久々の入魂の商品だ。
実は自分が資生堂の口紅を買うのは、20年ぶりくらいだ。資生堂インウイ(確か?)のアバンギャルドな細身の口紅に憧れ、買った。あの頃の資生堂のイメージにはまだ、山口小夜子のエキゾチックさが残っていた。しかし大人になるにつれ、メイク用品はもっと外資系の色のはっきりした色のものに変えた。日本のメーカーのものが保守的で地味なベージュやピンクしか売らなくなったからだ。
母が着物をリメイクして服を作りその色が鮮やかなので、私が鮮やかな赤い口紅をつけていないと母は文句を言う。男はそうは言わず、全く逆だ。何でもっと柔らかい色のを付けないのとか、たまにはピンクをつけたら、食われそう、などとよく言われた。両極の意見だ。女の唇の色とは一体なんのバロメーターなのか。



今回の赤バリエーションの口紅は、非常に資生堂らしいアーティスティックな試みで、嬉しい。
つけてみると、色も質も素晴らしいのだ。apple toffeeとかruby copperとか、bloodstoneとか、名前に合った、ただの真赤ではない様々な緋色、紅色、茜色、が並ぶ。正直16色の中には桃色や茶色もあるのだが、それを「すべて赤色です」と言い切る所が資生堂だ。
赤、は資生堂の精神性を象徴するカラー。それはピンクとかベージュなどオフィスでの実戦色とは全く違う、抽象的な美学の色だ。彼らがその16色について言っているのは、きっと色としての赤色のことではない。昔から女の指が知っている「紅を差す」という行為に伴った「あか」のイメージを言っているのだ、と感じる。



そういえば。
資生堂が放映中止した、インテグレートラインのテレビCM。「25歳過ぎたらもう女の子じゃない」「頑張る顔を見せているうちはプロじゃない」という台詞がセクハラだと物議をかもしたらしい。
オトナになったら普通とも言えるようなことを言って炎上するなんていやだな、と思い、youtubeで観てみた。
が、たしかになんとなくヤナ感じのCMだった。放映中止は極端だと思いつつも。
今をときめく若い女優を使っているのに、ストーリーや台詞が自分世代くらいの古さに満ちていて、つい赤面した。仕事にも恋にもフルスロットルな美人「女子」の群れが、ちょっとラグジュアルなソウルメイト限定女子会でグラスを傾けながら、あたしたちもう女子じゃない、などと宣言しているこっぱずかしさ。信用ならねえ。独りで内心呟く台詞ならまだしも。



「女子」という言葉が抹殺し続けるものは「青年」なんだろうな、という持論がある。青年に対応する女の呼称は確かにない。少女でもないし女でもない。しかしそれが無くてこそ、女が女たる由縁、のような気が自分にはしているので、「女子」などという自称は例え「女の子」などと言い換えた所で、私は好かない。
かつて「勝ち組、負け組」という言葉が流行った時、イヤな感じがした。その言葉が追いやった見えない何かがある気がした。社会から追いやられたというより、ひと一人の心の中で自ら消していったもの。極端な解釈だが、「女子、女のコ」と女が自称するときに発しているメッセージはそれに似ていて「勝者でなければ」「大多数の徒党の組に入らなければ」という同性間での圧迫と牽制だ、と感じてしまう。



資生堂は、もっと尖ったデザインのアーティスティックな広告でいけばいいのに、と思う。抽象的な美学を保持して欲しい。
だって、化粧とはほんとうは、女の行為の中でも自己完結した、特別に抽象的なものなのではないか。
その化粧の広告に、「職場」の「男」の「上司」の視線というリアルが入ってきた途端、化粧という行為の無機質な美は、いっきに消滅してしまう気がする。リアルな理由のメイクアップは、どんなにキラキラしたところで「生活感の延長」なのだ。プチ贅沢な女子会も然りだ。



社会での中でパワフル女子として充実感を誇示していくための化粧や食事だけでなく、「たった一本の取って置きの使わない赤い口紅」と「毎晩の孤独な茶漬け」という孤独なエレガンスも、この広い空の下に無数にひっそりとある。
ひとりの女とひとつの鏡の間の、孤独の時空。そういうものに私はロマンを感じてしまう。いろんな女がいろんな理由で口紅を手に取ってみたくなる、憧れと言う余地。それを資生堂はイメージとして請け負って欲しい。紅をさす行為にはどことなくいつまでも恥じらいが含まれている。その恥じらいもまた、具体的な生活感から来る理由あるものではなく、抽象的なものだ、
少女であろうが婆であろうが、社会で打たれていようが家を守っていようが、女は女。ということを表現出来る精神が資生堂にはあると思っている。勝手ながら。


顔料の話から随分飛んでしまった。紅を差すという行為を含めた赤の研究をしていこうかな。
by meo-flowerless | 2016-10-15 10:13

【鬼の詩】 村野鐵太郎

【鬼の詩】('75村野鐵太郎)藤本義一原作。たまたま途中から観た。
映画として面白いのかはわからないが、ATGらしい簡素さとおどろおどろしさが相まって、鬼気迫る忘れ難いものがあった。明治末の噺家・桂馬喬の零落の生涯と芸道を描いた話。馬喬とは二代目・桂米喬をモデルにしているらしい。


仲間からの追放。報われない門付芸の流浪。偏執狂的なまでの先輩芸の真似。エキセントリックな遍歴を経て馬喬は、たった一人の理解者である妻を亡くしたあとには、亡霊のような姿に身をやつし際物めいた見世物芸で蘇る。
師匠や仲間が「それは芸の本道ではない」と警告するのをよそに、サディスティックな観客の玩具として自ら弄ばれるように芸をおとしめていく彼の末路には、天然痘で滅茶苦茶になったその顔を自虐的に利用した「究極の芸」があった。


実際の噺家・四代目桂福団次が演じているが、うつろで何をも観ていないような金壺眼が、役柄に嵌まっていた。暗闇の中でひとり必死に芸をあみ出してみても常に正道から焦点がずれてしまう、どこかが偏った人物像。けれど、ものを作る私のような人間にとっては、芸道の追求と表現への執念との違いに気付かされた。


安定した芸人にとって、また固定した観客にとってだけいえば、芸道には本道と邪道、上品と下品の境界線が確かにあるだろう。しかし人間にとっての芸、と考えた時にそこに生まれ出るのは、熟練や洗練に凝縮される芸だけではないはずだ。
芸、とはその人生に応じたものなのではないか。零落したならしたなりの、瀕死ならば瀕死なりの、奢りには奢りの中の、極度に偏っていても、そこにしかあらわれないような芸の求道と達成があるのではないか。
この場合の、芸、とは、巧さや個性というような問題ではないのだ。その人生からしか絞り出せない、なにかへの拘泥とでもいおうか。その言葉なき拘泥を通過することなしには、自分のすること全てが自分自身の中で尊厳を保てないような。
拘泥と執念。芸ということにおいて、自分の惹かれるのはそういうことだ。たおやかに生と折り合いを保ちながら円熟していくことよりも、反骨精神で鮮やかに暴力的な花を咲かせるよりも、だ。


芸。美。それらの言葉の解釈は、歴史を通じて華麗に変貌もするし、何度も再生産もされる。けれど独りの人間の「執念」は、その人間の身体と命と人生に付随した一度きりのものである。ときには世間の批評を拒みながら痛々しく放置される、見たくもない傷でもある。
万華鏡のようにあれこれと世界に解釈され続ける芸や美の話よりも、独りの人間の執念にショックを受ける時のほうが、私には衝撃度が強い。作品のことを考えるにつけても、まずは自分の執念のありかを探ることが一番先なように思う。


零落を反映する無様でエグい演目を絞り出すしかなかった馬喬の表現に尊厳を感じたのは、自分自身のそういう所に理由があるんだろう。馬喬の捨身の執念を、悲愴な露悪趣味や痛々しい見世物などと片付けることは出来なかった。
表現がどこでオリジナリティに辿り着くかなど予測出来ない。予測出来るものはオリジナルではないだろう。ただ、なにかしらの執念に対する自嘲や自虐を経てそれを突破したとき、不意に出会うような気は確かにする。
原作はまた違う含蓄がある気がする。読みたい。
by meo-flowerless | 2016-10-11 21:37 | 映画

個展【密愛村】 -秋の有隣荘特別公開-

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2009年から描き続けているシリーズ【密愛村】が、収蔵先の大原美術館・有隣荘の特別公開に合わせて展示。【密愛村】Ⅰ、Ⅱ、Ⅳが一堂に会する機会は作者にとっても初めて。
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歌舞伎の心中もの「道行」や、歌謡曲の悲恋に思いをはせながら、架空の男女の一夜の夢の逃避行を物語る世界です。絵に合わせたドレスと詩のインスタレーションは、母の全面的な協力を得て作られました。また日本家屋での展示空間は私にとっても戸惑いと新鮮さが入り混じる経験となり、思わぬ立体作品が生まれる結果に。紙で出来たちいさなドライブインやモーテルは、脳裏に広がる密愛村の精巧なマケットのような気持で作りました。
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山陰や瀬戸内にお出かけの方は是非お立ち寄り下さい。大原家別邸であった、日本家屋自体が素敵な空間です。

平成二十八年 秋の有隣荘特別公開 齋藤芽生
会期:10月7日(金)〜23日(日)
会場:大原美術館 有隣荘(旧大原家別邸)
入場料:大人 1000円 (学生500円)
住所:岡山県倉敷市中央1-1-15
お問合せ:086-422-0005 (大原美術館)
by meo-flowerless | 2016-10-05 17:08 | 告知

山の音

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トンガリ屋根のドライブイン。前の記事にも、それを目撃する時の、独特の心踊りのことを書いた。その時は書いても上手い言葉は見つからなかった。
幼少時から、幹線道路沿いにトンガリ屋根の飲食店を見かけるたび、なんだか無性に胸苦しいような腹苦しいような切迫感に襲われる。それが山深いロードサイドの廃墟だったりするほど、切なさは緊張感を増す。


かつて誰かがその山に分け入ったが、今は安否不明、消息不明である…というような、「山」のもたらす不安さ。山小屋風のトンガリドライブインへの違和感は、それを思いださせることが決め手なようだ。


今ふと、旅の宿の天井をみつめて寝転がりながら思っている。あれを目撃して感じるのは切なさではなく「心細さ」なんだ、と。切なさにはもっと人間臭い感情が絡む。侘しさや悲哀感と言ってしまうとより精神的になる。侘しさや切なさのもっと前段階に「心細さ」がある。それは半分は感情、半分は説明つかないような身体感覚のふるえだ。自分の全ての世界観には、その「心細さ」の体感こそが何より大切な基準のなのだ、とどんどん思えてくる。
トンガリ屋根のドライブインに感じる心細さは、そこに駐車して休憩、飲食などしてしまえば、違うものに変わる。車で通り過ぎる一瞬の、亡霊的な建物の幻影に、ビクッとする感覚でなくてはいけない。



昨日マルヒの鴻池さんも言っていた。あの型の屋根の流行は、60-70年代の山ブームや歌声喫茶の名残りではないか、と。そういえば、それは子供時代の私にも分かっていた。名残であり、もう既に廃れきった古い型だろうくらいの認識はあった。
ある時期に調子に乗って作られすぎた流行りのものは、それが過ぎた時代には、陰翳の黒さが倍増される。特にああいうロッジやアルペンタイプの建物には、華やかなりし頃の歌声喫茶の「空耳」が虚しくエコーするように感じられる。「空耳」の感覚も、自分の何かを常に遠くで支配する重要な感覚であり、「心細さ」と連動している。



父はよく、幼い私に歌を教えてくれた。ある夜道で「これは登山で死んだ友達に歌う歌だよ」と言いながら【雪山讃歌】を歌いだした。たまたまその日の夜空が曇っていて、黒地に白々と光る雲が空いっぱいに不気味に浮かんでいるのに気づき、何か「死」というものの非常の感じが急に父の歌声の背後に迫って来たように感じた。そのとき覚えた「死」はダイレクトな喪失の悲しみより、「消息不明」の心細さのことだった。




小学校三年の時に初めて学級で旅行に行く行事があった。いま夫が働くのに使っている御岳山の宿坊、そこにかつての私は林間学校宿泊に行ったのだ。
一人の級友が水疱瘡でひどく発熱し、下山することになった。ただでさえ初めてのお泊りで若干殺気立つほどはしゃいでいる子供たちは、その真夜中の下山、という非常事態にものすごく興奮した。私には、彼女がそのまま夜のどこかに忽然と消息を絶つように思えてならなかった。



御岳ロープウェイは18時最終だから、真夜中の下山は記憶違いのはずだ。が、皆で窓の向こうの山の闇をみながら、赤ランプをつけたロープウェイのひっそりとした消息に思いを馳せたことは覚えている。
山の底の方からなにかビーン…という絶え間ない電子音が響いていて、あれはなんの音だろう、と耳を済ました。遠雷が音もなくチカチカ山間に光るのもあいまって、秘密のモールス信号だとか、幽霊ロープウェイだとか、子供じみた憶測にシビれた。
あの山の遠くからなんとなく響いていたビーンという音が今も本当にするか、夫に確かめればよかったが、夫は工期を終え下山している。



あの耳を済ました夜、子供心に、「空耳に対して耳をすましている」という感覚があったのも覚えている。それはまるで今までないがしろにしていた亡霊の微かな声を聞くような不安な悲愴の感覚だった。
ただ単に音が気になるのではなく、夜のあちこちにあるはずの、自分の想像及ばない他者の営みや、土地の過去や、風化した出来事や、封印された時間、そういうものの重い質量に、改めて思いを馳せた時間だったのだ。そういうことに対峙する自己は無防備でたよりなく、未知の暗い地球の半球に剥き身で放り出されていたのかもしれない。



圧倒的に暗い夜の闇に対峙して、必要以上に騒いで怖がるような人はきらいだし、逆に大丈夫大丈夫を連発して不遜な人もきらいだ。怯えながら分け入ってしまうような人には惹かれる。気配は確かにある。その気配との心細いやりとりが、自分が生きているということの基本的な把握なのだと感じる。



トンガリドライブインに対する心細い怯えと怖いものみたさは、そういう、闇に何かを幻視、幻聴する感覚に近い。子供の遠足の道端にポッカリと渇いた傷口を開けている、棄てられた「大人たちの営み」の痕跡。町中で脈々と続く家族の暮らしとは対局にあるような、気まぐれなレジャー感覚の果てに飽きられたそういうものに限って、なんか生々しい人間の慚愧を感じたのかもしれない。
もはや気配と化したかつての人間の念は、いつしか優しい夜風になる。優しいと言っても人の心細さを逆なでするような奥深い怖さをもった優しさだ。トンガリドライブインから発するオーラには、「何かを言おうとしたまま事切れた優しい表情の死骸のような怖さ」がある。



その感覚を、私はもっとちゃんと描けるようになりたい。
by meo-flowerless | 2016-10-05 01:42 |

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