画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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個展 【密愛村Ⅳ〜不気味な女】

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The Godess of Weather Disturbance / 不安定な気象の女神 2016 60×60cm 紙、アクリル


齋藤芽生個展  【密愛村Ⅳ〜不気味な女】(リンクあり)
7月13日(土)~8月13日(土)、ギャラリーアートアンリミテッド(東京・乃木坂)にて開催です。
営業時間:13時〜19時
休廊:日曜・祝日・火曜

歌謡曲的な男女の虚構の世界を描いてきた『密愛村』シリーズ。その第四シリーズは、私自身を取り巻く女性性を考えるために描き始めた。
女が社会での何らかの役割を演じるのをやめたとき、姿の見えない世論の総攻撃が何故かそこだけに集中する風潮。女という性が不気味に宙吊りになる、新たなる「魔女狩り」時代の幕開けなのだろうか。いまの私は、それに抵抗しようとする自分の中の感覚の蠢きを描こうとしているのかもしれない。



今秋、大原美術館 有隣荘での個展を控え、「密愛村」と「野火族」を発表します。おぼろげな顔の女たちが登場する妖艶で不思議な絵画世界。ご高覧ください。


【予告】
平成二十八年 秋の有隣荘特別公開
齊藤芽生
会期:10月7日(金)〜23日(日)
会場:大原美術館 有隣荘(旧大原家別邸)
住所:岡山県倉敷市中央1-1-15
お問合せ:086-422-0005 (大原美術館)

by meo-flowerless | 2016-07-26 18:06 | 告知

女の写真

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花園神社は久しぶりである。骨董市をやっている。
中国人のおじさんが番をしている或る露店。
壷や筆などの他に、毛沢東時代の中国人の集合写真、香港辺りのレトロポスター、カー&女の絵が入れ替わるレンチキュラーシート、などが並べてある。
端のほうのダンボールにはどこの露店にもよくある、アルバムの切端や白黒写真の山。兵隊の出征写真や写真館で撮った家族写真などには、触れてはいけない他人の人生の質量を感じる。が結局、いつもその山を、癖のようにぼんやり漁ってしまう。



その山に、ビニール袋に小分けしてある写真の束がいくつかあった。
もしやと中の束を開いてみると、やっぱり。女の局部のドアップの写真が出てきた。思わずデヘッと笑ってしまう。白黒の陰毛写真や、開脚の女の股などの写真も重ねてある。
こういうのを撮っては温泉地などで売って小銭を稼いでいたかもしれない、昔のチンピラのような便利屋のような男を想像した。顔は小沢昭一だ。



その他の普通の家族や観光写真の山の中にも、時折、同様のエロ写真が単独で混じっている。
青いような桃色のような淡さに色褪せた、カラー写真のヌード。白いシーツの上で、顔も体もフツーの女性が、これでもかというくらい開脚してそこを見せている。女のモモには蚊に刺された痕がある。
箸にも棒にも引っかからない素人ポルノグラフィーなのに、なにか妙に魅かれる。エロでも色気でも美でもない、胸がギュッとするような良さがある。
おそらく昭和四十年代くらいの写真だと思うが、多分その頃の商業モデルならばもっと特有の仏頂面をしていたと思う(イメージ)。けれどこの写真の中の女性には、カメラの主にたぶらかされた「その辺の主婦の匂い」がむんむんする。
うまいことのせられおだてられ、ちょっといい気になっている平凡な女の顔は、哀しいほどきれいなことがある。



むかし山林などに捨てられていた雨ざらしビニ本のページに垣間見えるヌード女の顔には、妙なドロンとしたまなざしがあった。
子供の私達は棒でつついて湿ったページをめくった。その中に垣間みる女たちの表情は、当時の自分にとって裸体より衝撃だった。別にスタイルも良くない美人でもない女の、胸に隠し星が乗っかってるような写真に限って、えもいわれぬ暗い恍惚の表情をしていた気がする。いとこの部屋の「平凡パンチ」の女にはない顔だった。



自撮り時代のナルシスティックな現代の女からは、永遠に消えてしまった表情なのではないか。
カメラと目を合わさず伏せているが、とろんとした目。恍惚まではいかない恥じらいの中に一抹のノリと、心身を半分だけ開きかけているツヤのようなもの。自意識から発するのではなく引きずられて出てくる「なまめかしさ」、死語。
決して褒められたものでもないのに妙に感心してしまって「白い蒲団の開脚写真」に真剣に見入っている私に、同じように古写真を漁っていた中国人観光客の女の子が、思い切りドン引いている。
そうだな、私がこの写真を持っていてもしょうがない。



このエロの何が、こんな「純に」胸を打つのか。
単純に、その時空には男と女しかいなかっただろうから、だと思う。それはどんなにうらぶれていても、ある意味の蜜月なのだ。
ジェンダーから性をあぶり出す表現などに立ち会うとき、こっちの意識に絶対に入り込む批評性というか説明的なものを、過剰と感じる。そこに生きざまや社会を読み取らなければいけないときは、尚更だ。表現者本人がその気ではなくとも、表現された場には余計な第三者たちのまなざしが付加される。素人の男が撮った素人の女のド下手写真のドシンプルな蜜月性に、ひっくり返っても叶わない気がしてしまう。



しかしそもそも、この良さを「表現」なんていうものの世界に無理に引っぱってこようとすれば、蜜月性が消えるのはおろか、官能にも情緒にも何かしらの正当な大義名分が必要になり、その本質は泡と消えるだろう。自分自身の表現が超えられないのもそこだ。



そんな写真の中に、ふと、構図も状況も渋いのが一枚あった。
白黒写真、蒲団上の臀部。重ね焼きの失敗なのか、シュミーズの上にもう一枚ベールがかかっているような。畳の上には牛乳瓶....かな?違うかな?。室内の生々しさがいい。
もう一枚別の、それは普通の、男女が婚礼の前に廊下で一緒に歩いている瞬間の写真。
それも絶妙にいいので、その二枚を中国人のおじさんから買った。


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by meo-flowerless | 2016-07-25 01:51 |

別府温泉の海綿手品

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いかにも地獄という言葉を好みそうに思われるが、自分にとっての地獄のイメージを冷静に遡っていくと、温泉に行き着く。
別府鉄輪温泉の「地獄巡り」のせいだ。
いかに地獄のような宿題に終われようと、地獄のような片想いに身を焦がそうと、昔から「はぁ〜地獄だ」と溜息つくたび、脳裏に赤茶色の温泉池がぼこぼこと泡を立てているのが見える。別府血の池地獄である。「もうだめ....死....」くらいにまで疲労が達して見える灰色の不気味な泥世界は、別府坊主地獄である。



思春期に別府を訪れるまでに、私の頭には既に色とりどりの泥地獄のイメージが出来上がっていた。母は大分を点々と移り住んだが、回想する時に一番多いのが別府の話だったからだ。
煉瓦を溶かしたような赤、ミントアイスのような水色。
不思議な温泉池の色たちを事前に正確にイメージ出来ていたのは、母の形容が的確だったのだと思う。おどろおどろしい血の池地獄より、涼やかに青い海地獄が100度の熱さだ、というようなギャップが、「美しいものは怖い」という信念をさらに掻き立てた。



初めて訪れた時には、池そのものよりも、「地獄の釜」的に硫黄汚れした温泉施設の建物や、ホテルからの湯気に圧倒された。工場群が無機質な内臓のように生々しく思えることがあるが、剥き出しの温泉施設の配管やポンプは、別種の黄色な内臓のように感じられた。
くたびれた地獄の動物園の獣たちの倦怠感が、温泉毒にやられる日常を見せつけてくる。濁った水にサンゴ色の嘴の黒鳥が泳いでいたり、巨大な黒い猛禽類が目の前で翼を広げたり、晴天の空が黒いくらいに青かったり、「別府にはコントラストの黒い影がある」というイメージが焼き付いた。



一通り観光を終え、親が疲れて宿で眠ってしまうと、私はぶらぶら土産物漁りに出た。
暇そうなおじさんたちが店番をしている店。ただでさえ古びた温泉世界から、逆レンズで昭和初期を覗いたような色合いが、レジの後ろ辺りにぶちまけられている。見世物小屋の楽屋裏というのはこんなだろう。
蛍光色のエビやカニの玩具をひたひたと水につけている水槽、金魚鉢などがレジまわりにゴチャッと置いてあった気がする。安花火の染料が雨で沁みた色、褪せた水中花、そんな色の空間。



濃い青空の記憶からすると、季節は決して秋冬ではなかったはずだ。
けれど派手な花柄の「ドテラ」を着た男の人がいた。
劇場幕のようなカーテンの向こうの畳には、ストーブの赤い灯があったイメージさえある。ドテラ男はカンカン帽をかぶっていた。古物屋の主人によくいる感じの「シレッとした根暗な丸顔」だったように思う。



私の視線を感じたドテラ男は新聞から二、三度顔をあげて私を見て、三度目でおもむろに話しかけてきた。「手品見せてあげるよ」
唐突だったが、既に先方のいでたちが唐突にふさわしいので、驚きもせず私はうなずいて男の前に立った。散らかった机のどこかから男はポヨッと赤い柔らかいものを手の中につかみあげ、レジの混沌の中のどれかの水槽の水に、一瞬それを浸した。
「手品というよりも、まずこの海綿がチョット珍しいんだよね。大分でしか手に入らない」
「海綿.....」
「こう水につけるのがポイント。海綿だからね」
言いながらドテラ男は手の中で濡れた赤い海綿を揉んでいる。



「城下ガレイはもう食べた?」「いえまだ」「是非食べなさいよ」のような覚束ない会話の間も、ずっと男は海綿を揉んでいる。
「別府湾のね。非常に特殊なところに、この海綿がとれるところがある」
と少し遠い目をして男が言う想像の先にぼんやり別府の海を想像しかけたときだ。男の手から、さっきの塊の子どものような小さな赤い丸い海綿の玉が、ころころ、次々とこぼれだしてきた。
「あっ!!!」



もう一度見せてください。とせがむと男は「何度でも。だって特殊な海綿なんだもん、自由自在」と言いながらまた揉み、手の中ではまた一つの赤い丸い塊に変わっている。
「ええ、どうして?手品ですよねこれ、どういう仕掛けなの」
「仕掛けも何も、そういう海綿なんだって」
揉んではぱっと手を開き、揉んではまた開きを繰り返し、その度に赤い海綿は分離したり親玉に戻ったりする。「海綿」という言葉が私の想像力を狂わせた。暗紅色の海綿が豊後水道に漂っている様を、夢のように思い浮かべた。その海綿だけが、手品、とか仕掛、とかいう言葉から勝ち抜いて、頭に残る。
そして何より一番の魔術的なせりふを、とうとう男は私に言ったのだ。
「こんなの、珍しくもなんでもねえよ。その棚に売ってるよ、いくらでも。800円」



【SPONGE MAGIC】とか何とか商品名が描かれた安っぽい箱を、宿の部屋で私は開けていた。
両親が、何か言いたそうだが言わない、と言う顔でちらっと見ている。
箱から出てきたのは、赤いスポンジの球(大1ケ、小9ケくらい)と赤いスポンジの鳩だった。
自分が思い描いていた豊後水道の海綿と随分違うな、と、いやな予感がした。
説明書の通りに、私はスポンジを弄った。
「スポンジボール小を小さく折り畳んで、スポンジボール大の穴の中に押し入れます」
穴ってなんだよ、と思い手にとると、スポンジボール大は真中がぱっくり空いた袋状になっていた。それに、あれ?水に浸したりしなくてもいいのか。もみもみして、揉んでいるうちに大ボールの穴から、畳んだ小ボールを揉み出します。以上、終わり。




.......そうだよな、魔法の海綿なんかじゃないよな、と独り言を言っている私に、母は「今気付いたの?」と冷静に言い、父は、「ばかだねぇ」とあくびまじりに言った。やけになってその旅行中スポンジ手品をマスターしようとしたが、難しくて出来なかった。



20年近く経って今度は夫と、また別府を訪れた。
硫黄の匂い、温泉卵の湯気のもうもうと立つ中、だみ声の投げやりな調子で、地獄池を解説している拡声器の男がいた。
顔は定かではなかったが、そのカンカン帽姿を見て、瞬間的にあのドテラ男だ、と思った。
だとしたら、相変わらず投げやりながらも、前見たときよりも真剣に仕事をしていた。



九州育ちの母も自分の幼時体験の中にただの一度も地震の記憶はないと言う。
久住高原、別府、博多.....親族がいたり母の縁故の土地だったりするだけではなく、熊本では市立美術館での展示や作品収蔵など、自分にとっても縁が深い九州。
思い出の中にあるというよりも、九州と四国は、いずれ移り住みたいと思うくらい好きな土地である。
被災のことも今後のことも、心配でならない。
by meo-flowerless | 2016-07-23 12:36 |

個展 【密愛村Ⅳ〜不気味な女】

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齋藤芽生個展  【密愛村Ⅳ〜不気味な女】(リンクあり)
7月13日(土)~8月13日(土)、ギャラリーアートアンリミテッド(東京・乃木坂)にて開催です。
営業時間:13時〜19時
休廊:日曜・祝日・火曜

【不気味な女】

不気味な女がいる。遠くにひとりでいる。自由に彷徨っている。
こちらの出方を待っているように見える。誘いかけているようにも見える。精霊かなにかなのかもしれない。まがまがしくて、あれに近づきたくはない。きっと、夕陽に闇に乱反射に向かって人の存在をひもといてしまう。狂おしく光る海や深い夜への扉を、開いたりしてしまう。
あれは封印されている女だ。なにかの引導を渡す女だ。霊媒をする女だ。岐路や境界に立つ女だ。眩しさと暗さの、いずれもの元凶。あの女に選ばれても恐いし、選ばれなくても恐い。人からもっと遠く存在する限りはあの女も、ひとつの聖域であり続けるのだろうけれど。


今回の「不気味な女」のシリーズのいくつかには、精霊か地霊のような女が出てくる。【密愛村】のシリーズで隣に寄り添っていた男は姿を消した。【野火賊】で不穏な同盟を結んでいた集団からは放逐されひとりになった。ここにいるのは、そんな解き放たれてぼんやりした女、存在がむだになってしまった少女たちなどだ。いかにも不気味な有様などはしていないが、私は彼女らにまがまがしさを込めて描いている。これからの続編には、もっと自由でうわの空な少女、ひとりで秘事に没頭する狂女、わけもなく孤高な女、そんな者たちが登場するだろう。


ひとり遊びを好み、憧れの何たるかを知らぬまま憧れ、夢想の世界に遊ぶような女は、少女であろうが成人であろうが、世間からたしなめられる。制裁を加えられる。ある種の天然に生きるような女は、きっとなんらかの魔女狩りに遭う宿命にある。古今東西、かわりなく。


魔女狩りを恐れる女たちは今や、自分の社会的価値や役割をうまく纏うようになるばかりだ。しかも、世間からの押しつけでもなく自ら選び取ったかのように纏ってみせる。
世間を渡り歩く女性の生きざまなどを描きたくはない。私なりに節度を持って社会生活していたりするのだけれど辛い。ジェンダーとして語られる女にも興味がない。美少女の市場価値にも興味はない。
立派に役割のある女など、まがまがしくもなんともない。まがまがしさと懐かしさの混在する所にしか私にとっての美はなく、その美にずっとふけっていたい。本当は。


遠い女。神出鬼没の女。孤独な夢に遊ぶ女。自然に近い女。常識から放逐された女。社会を知らない女。
いまの世間からは何となく浮いてしまい沈んでしまう、他者にとって凶と出るか吉と出るか全く読めぬ存在、不穏で扱いにくい不気味な人影が、私には慕わしく懐かしい。



 【懐かしい女】

小川未明の【牛女】は、私にとって忘れられぬ童話の一つだ。
村人から多少の嘲笑を含め【牛女】と呼ばれる、言葉を語れないが気は優しい、力持ちの大女がいた。彼女は村人のぶんまで力仕事を買って出つつ、共同体にささやかな居場所を作った。
彼女はたった一人の息子を残し病死する。しかし冬になると遠くの山に積もる雪の形が、女の面影になって毎年現れる。彼女は、息子や村を見守る、いわば地霊になったのだ。
 

地霊としてあり続ける在りかた。言葉無き無限の言葉。私のなかの究極の「女」というものの原型は、この【牛女】なのかもしれない、とたまに思う。
小さい頃初めて読んだ時に、号泣した。その涙の感覚は、今もあまりうまく説明出来ない。ただ一つ覚えたのは、「懐かしさ」はつねに「取り返しのつかなさ」とともに存在する、という感覚だ。
一児の母親としての包容力でこの童話を読み解こうとするのは簡単だ。が、そういうふくよかさよりもっと深い寂寥を、私はこの童話に感じる。全ての雌が生殖不能にならない限り、生理としての母性はこの先も減少こそすれ生命体に受け継がれ、語り継がれるだろう。しかし【牛女】に漂う、どうにも行き場の無い喪失感は、そのように自然に還ることの循環性とは、ちがうところから来るように思う。
 

村人の見る錯覚の牛女の面影には、彼女を軽く蔑んでいた自分たちの後悔と憐憫がほのかに入り交じる。それ故に牛女の地霊としてのまなざしは、決して優しいだけのものではない。取り返しのつかなさ、手の届かなさ。忌まわしさ、恥ずかしさ、悔い。そして諦め。残された者たちにそういう人間感情を教える存在は、微笑みながらも手厳しい。
 

「懐かしい」という感情は、アンビバレントを帯びた感情だ。レトロ商店街や懐メロ風ポップスのように甘く価値化された暖かみのことを私は言っているのではない。
私達はあの感情に助けられ励まされることもあるが、激しく切なく心身を削られることも多い。人というものはせわしなく人生を送るうちに、この甘美でもあり過酷でもある「懐かしい」感情に耐えられなくなる時が来る気がする。どこかの時点でそんな複雑な心の揺れを、手放す判断を下す気がする。
 

「懐かしんではいけない懐かしいこと」を不意に思い出してしまう時に、手厳しい寂寥は襲いくる。
人は、自分の愛する懐かしい感情をなぜか同時に恥じ、自分の誇る懐かしいものになぜか自嘲を込め、自分が語りたい懐かしいことになぜか押し黙る。懐かしいことはときに不気味であり、さらに罪悪である。私達は懐かしい対象に、制裁を加える。私の描きたい女の姿は、押し殺され封印された懐かしさの、化身の姿もといえる。
by meo-flowerless | 2016-07-18 02:38 | 告知

【天国と地獄】  黒澤明

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私は全く映画通ではない。が、とにかく好きな映画だけをDVDで何遍も何遍も観る癖がある。
東西新旧問わないが、しかるべき時にしかるべき音楽が流れる、というのが好きな映画の共通点かもしれない。
【天国と地獄】(1963)は黒澤明の大傑作中でも、数多くはないクールな現代劇だ。
原作は、エド・マクベイン【キングの身代金】という推理小説、子供の取り違え誘拐を巡る大人たちの心理劇、という内容。この映画が切っ掛けで、誘拐事件が多発する社会現象になったともいう。



靴会社の常務に三船敏郎、貧しい医大生に若き山崎努、刑事に仲代達矢、という配役。
ギラギラした駆引きを想像するが、前半のモダンな邸宅での室内心理劇のせいか、全体の印象がひんやりクールな感じがする。特に仲代達矢が、他の映画に比べ、抑えた存在感で非常に格好いい。
黒沢好きなら別だが、まだ観たことのない他人にこの映画をお勧めしても、前半のシンプルなセット撮影の演劇のような流れで、退屈してやめてしまう人もいるかもしれない。
逆に映画好きは、前半の緊張感ばかり評価するみたいだ。



後半、カメラが高台の下の貧しい町に紛れ、犯人が暗示されるところから、画面、音楽ともに、目くるめく展開を始める。圧巻の流れをバッチリと支えているのは、その時々その場所に流れ来る、音のキマリ具合だ。
ドブ川のほとりの貧しいアパート、ラジオから流れるシューベルトの【鱒】。緊迫した場面での特急こだまの列車音。酒匂川のシーンで印象的に流れる、テーマ曲の高らかなトランペット。捜査会議での、一人一人の捜査員の冗長なまでな報告。
伊勢佐木町の夜の多国籍ビヤホールで流れる南国的ジャズ。黄金町の麻薬窟で中毒者がトタンを引っ掻く感覚。推理の決定打となる、湘南電車の軋み。
そして、高台の別荘でラジオからの美しい【オー・ソレ・ミオ】。
多くのシーンに、絶好な音楽があり、絶妙な環境音を通過する。何度も観ても「来た!」と毎回、思う。音にこだわりのある映画監督の映画にはPVみたいでイラッとするものもなくはないが、さすがに黒澤明の映画の音楽にはいつも興奮させられる。



犯人はひじょうに冷酷無比で、なににも溺れない。
彼のいるシーンでの、楽園を思わせるクラシック音楽は、どこか「麻薬的」なロマンチシズムの増幅を感じさせる。その楽園は、転落と紙一重の楽園だ。映画タイトルがぴったり来る。
この映画は音楽が違っただけで、犯罪心理の描写が無理なものになっただろう、と思われる。
彼とともに流れるミスマッチな甘ったるい音楽がいちばん、彼の動機のニヒリズムを感覚的にあらわしている。「他人の幸福の音」、「世間の勝ち組の奴らのバックグラウンドミュージック」を、彼は聴いている。



被害者や刑事たちの背後にはテーマのファンファーレ以外に、ほとんど現場の緊迫した音しか聞こえない。それに比べ、犯人の背後には「音楽の絵巻」のようなものがずっとある。憎しみが美に転じた音だ。刑事たちは、最後の緊迫した伊勢佐木町あたりから、その「音楽の絵巻」に飛び込んで合流する。
高台の小さな家の庭に揺れる夜の花。何よりも好きなシーンだ。
月明かりなのか、やけに明るい深夜の海が幻想的だ。変にトロピカルな植物が静かに揺れる中で【オーソレミオ】が流れる。撹乱のためにラジオの音楽をつけたであろう捜査側からの、犯人への皮肉なはなむけにも思える。



この映画で大事な二曲の詞を知っていると、暗示的にそれが使われているのがわかる。(映画には詞は出てこない)例えば【鱒】は、小さい時に父が口ずさんでいた記憶がある。清き流れに鱒は住みて....と言ったか。ここでは、ドブ川のほとりでそれがかかるのだ。オーソレミオも、歌詞を訳すとこの映画の基調感情を言い表しているらしい。
むかしの人は今より西洋音楽の日本語詞を良く知っているはずで、そういうことが当時の日本人に、自然に内面化されていたようにも思う。



悪組織や酒や女なんかをいっさいはしょって、生真面目な生活から一気に、成れの果ての死臭に突入する。天国と地獄の間に、寄り道は無いのだ。犯罪心理的な面では今一歩理解しづらくても、何か別の犯人の情念が伝わってくる。
この映画のアクセントにもなっているのが麻薬ヘロインだが、そのイメージの持つ穿孔のような死の黒さが無ければ成り立たない雰囲気がある。喧噪中の麻薬受渡しシーンの多国籍ビヤホールのような店舗は、実際にあった店らしい。国籍入り乱れた猥雑な人間の顔たちが全て効いている。そのあとにくる麻薬窟のシーンの演劇めいた廃人たちと対比になっている。



捜査陣のうだるような真昼の汗、殺人者の夏の夜の涼しげな顔。実は、全ての場面がわざと冬に撮られたという。「メインシーンのために電車沿いの民家を一軒取り壊させた」「白黒映画と思いきや実は一瞬カラーである」など、様々な逸話もある。
ストーリー、シーン、演技全てにおいて、様々な人が語り尽くしている有名な作品で、自分には映画評などは書けない。しかしとにかく、泣くような粗筋でもないのに「音楽の決定的なキマリ具合」だけでかっこよくて、ついジンと来る映画である。
by meo-flowerless | 2016-07-10 12:19 | 映画

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by meo-flowerless | 2016-07-02 22:33 | 日記