画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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【春雷】  ふきのとう

     突然の雷が 酔心地 春の宵に
     このままじゃ夜明けまで 野ざらし ずぶぬれ
     春の雷に 白い花が散り
     桜花吹雪 風に消えてゆく



今宵は雷が鳴っていた。春雷である。
春雷に必ず思い出す男友達がいる。大学時代の仲間。
一番近いようで一番遠い、という感覚が残る限り、一対一の「親友」とは呼ばせてはもらえないだろう。
彼は誰に対してもそう、誰からも愛されて、誰をも振り回して、誰からも遠かった。
夏の雷には思い出さない。カラオケで【春雷】を歌ったか、一緒に春の雨に降られでもしたか、それすらも思い出せないが、春雷と言えば彼であり、彼と言えば青春だった。


常に近くにいながら、決して恋人同士などにはならなかった。
飲んで管をまく典型的な泣き上戸で、たまに私も手厳しいことを言って泣かせたりした。
常日頃その酒、パチンコ、煙草、銭湯、雑魚寝の姿を間近に見て、今でも克明にデッサン出来るくらい、浮腫んだ朝の顔も、ごわごわした髪の感じも、服のよれよれした皺も、覚えている。
夜の雨に濡れて飲みの席に転がり込んでくる時の、湿った身体の匂いも覚えている。
そのお腹を枕に何度も眠り、向こうも飲んだくれた末にこっちの膝枕で泣寝入りをし、しかしついに何事も起こらなかった。それはそれで運命だったのだろう。


大学一年の春の夜、彼が自分に投げかけた言葉が今も、青春の始まりの号砲みたいに響き続ける。
夜の墓地や暗い海を無軌道に走る仲間たちの車の中で、どこまで行くのかいつ帰るのか、苛立ちを口にした私に向かい、
「身をまかせなよ、この時に」
と彼はふりむいてきつく言ったのだ。


常識的な時間や空間に拘っていた視界が開けて、星の海に繰り出したような気がした。
あの言葉から、夜の本当の長さを知らされた気もする。人と人の近さの不可解、も同時に。
友達の教えた夜の長さは、朝になりゆく空の色調を、人と向き合うまでの曖昧な距離を、言えない言葉が落ちていく深淵を、風にかき消された未遂の出来事を、たくさんはらんでいた。


面倒くさい彼のような男、面倒くさい私のような女、他の仲間もそれぞれに癖があり面倒くさかったが、共通してどこかのんびりと浮遊していられた。時代がそうだったのだろう。
あの私達の身勝手な時空に、無くてよかったと思う今の時代の言葉、例えば「リア充」「中二病」「ボケと突っ込み」。
もしそんな揶揄的な一言でもあったなら一度に霧散してしまうくらい脆弱な私達は、ほんとうにくだらない夜のかけひきを飽きもせず、緻密にしていたと、思いだす。


e0066861_2292835.png『人生・春・横断』 ふきのとう 1979
by meo-flowerless | 2016-03-29 00:20 |

卒業修了式

昨日は大学と大学院の卒業式。宮田学長の卒業式での最後のパフォーマンスを見る。

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by meo-flowerless | 2016-03-26 12:05 | 日記

一橋大学

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他校の学食を食べたくなるお昼がたまにある。今日もそんな日だった。
立川に出る用事があったのでそれならばどうせ、と国立まで足を伸ばす。
国立の大学通りは思い出の道だ。小学校六年間この通りにある私立小に通った。
大学通りは桜が咲き始めていた。むかし珍しい青いスミレが咲いていた苔むしたモルタルの長屋は、バーミヤンに変わっていた。


大学通りの「大学」とは、一橋大学のことだ。
今も三十数年前と変わらぬ門の佇まい。変わったのかもしれないが、同じような文字、同じような色の学生の立て看板がある。大学祭前後には[◯◯ at 兼松講堂]などと書かれたライブの告知の大きな手書き看板がいくつも並んでいた。松任谷由実、大貫妙子なんて名をそのタテカンで知った気がする。


一橋大学の校舎の素晴らしさは、全てが煉瓦で出来ていることだ。古びているようでもあり新しい外国のアパートメントのような趣もある。
首を曲げなくては天が見えないほど背のひょろ長い松が煉瓦の隙間に伸びている。


グラウンドで陸上部がトレーニングしているのが見える学食で、カレーとポテトコロッケを食べる。
一橋大学は昔から「質実剛健」という感じがする。というかオトナっぽい。
自分が小学生の頃のお兄さんたちは、80年代でも長髪にサンダルという、昔の学生感覚をにおわせていた。決して美大のようなルーズな派手さ(イメージ)ではなく、何気に英語の小説くらいはポッケに入れていそうな知的雰囲気があった(イメージ)。


文学部志望だった頃に都心の大学に見学に行ったが、自分が小さい頃に抱いていた「大学」と何かが違い、規模がでかすぎるわなんかチャラいわで憧れがさめ、英・国・社の勉強に身が入らなくなっていくと同時に、美術志望に傾いていった覚えがある。
そのとき比べていた「大学」らしい「大学」は、幼い頃通った道の「一橋大学」だった。


「深い緑があり、建物が奥ゆかしく、アンツーカーのグランドで部活動をしている人がいて、学食で勉強している人がいて、学園祭はDEEPで、ユーミンまで来て、そんな学問空間が賑やかな町中にある」というイメージを全て裏切る、芸大の「取手校地」の一期生になった。体育の時間はグランド(草原)の草むしりだった。学食からは、赤いミニスカートからパンツ出してダンボールを敷き、崖を芝滑りしている同級生が見えた。


今日は食堂の窓際で、ひとりでゆったり勉強をしている渋いおにいさんがいた。横顔が美しい。
おにいさん、と思ったのだが、考えてみれば仮に院生にしたって、私より十以上は年下なんだな、と思い複雑だった。自分は何も成長していない。
by meo-flowerless | 2016-03-23 20:19 |

2016年3月の日記

2016年3月の日記

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by meo-flowerless | 2016-03-23 04:56 | 日記

2016年3月の夢

2016年3月の夢

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by meo-flowerless | 2016-03-23 04:54 |

保健室ホテル

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昨日、茨城県で催されるアートプロジェクトの話し合いをしながら、ちょうど去年の今頃このプロジェクトの下見で茨城北部を訪れた時のことを思い出していた。


昨年三月。マイクロバスに揺られ大学の先生方と一緒に、日立鉱山跡や五浦の海など昼間のうちに十カ所ほどを訪れ、夜になってようやく北茨城市のビジネスホテルに辿り着いた。
夕飯時、どうも先生方の会話がちっとも頭に入ってこない。思えばその時からぐったりしていたのだ。このヒトは無口なのか?と怪訝そうな顔をされつつ、その日は各部屋に引き取って寝た。


胃痛に苛まれ始めたのは、その夜中だった。
付け放しの枕元の灯のなかでパチっと目覚めた。熟睡から突如目を覚ますということは身体がおかしいということだ。胃液の中に溺れているのかというくらいに、おなかが気持が悪い。関節痛がしてきて急激に発熱、吐くこともできず一晩中苦しむ。火のような胸焼けに、逆流性食道炎とはこういうものか、と初めて知る。
苦しみ抜いて一睡も出来ず、朝を迎えた。
同行の事務の方がフロント経由の電話で知り様子を見に来た時には、海老のように腹を丸め、二三歩歩くのが精一杯だった。


心配する先生方に謝り、結局私はそのビジネスホテルに寝付くことになり、皆はマイクロバスで帰路についた。朦朧とした意識でフロントからタクシーを呼んでもらい、一時間弱かかる病院へ一人で行った。
雪が降っているわけでもないのに青白い、関東の平野が延々と続く。体調のせいで視野が青く染まっていたのかもしれない。
よくあるおなかの風邪なので、まあ二、三の薬を呑み、治るまで安静に、と病院で言われた。
灰色ボール紙で造った模型のような病院のロータリーで悪寒に震えていたら、行きに呼んだタクシーの人が遠い駅からまた来た。言葉少なだが事情を察し、心配してくれた。


病院に行ってやはり少し安心し、さて、と考える。あの過酷な出張からも、自分は開放されたのである。
休もう。休むのだ。人間を休む!
ビジネスホテルは本当に簡易で、新しくもなく広くもなく、かと言って不潔でもない、要は私が一番好きなタイプの、「ほっといてくれる」宿だ。
夫にも電話をして、治癒するまでビジネスホテルで安静にしていることを伝える。迎えにくると言ってくれたが、こちらのほうが東京まで四、五時間かけて帰る体力はないので、当分ホテルに留まることになった。


遠い知らない町でたった一人、病床に埋没する。
胃腸の症状は治まってきたが、高熱の疼痛が酷くなり、寝返りを打つ時もいちいちうなる。タクシーの途中で買ったポカリスエットを一口飲んでは寝、一口飲んでは寝、を繰り返す。
白い天井を見ながら、何だか透明な涙がすうっと流れてしょうがない。不思議な涙だ。ものすごく心細いのだが、不安とも違う、逆に幸福感のある心細さなのだ。
何の音もしない、何の動きもない、何の存在理由もない。ただ白い天井と、白い蒲団と、動かない身体と、気怠い涙の感覚だけがあるこの感じを、どこかで知っている。と考えて、小中高校の「保健室」だ、と思い当たった。


常連でこそなかったものの、保健室にたまに眠りにいっていた生徒だった。心の悩みで、という日もある。その時のあの、水槽の底のような密室感。
白いスクリーン衝立ての向こうから休み時間ごとに聞こえてくる、保険医先生と生徒との会話を聴きながら朦朧とする時間。ずっと何かの装置が、ムーンと気怠げな音波を放つだけの静けさ。消毒液の匂い。具合は悪くても、あの解放感と幸福感はなんだったんだろう。最も得難い上級の孤独、という感じだった。
大学以降にはずっと忘れていた独特な幸福の感覚、それを今、この知らない町の知らないホテルの一室で味わっている。こうやって倒れることによって今、手に入れることが出来たのは、時間でも空間でもない。私だけの「時空」という不可思議なヤツだ、と思った。


ようやく熟睡し目覚めた時には、暗い部屋のテレビがもうテストパターンの虹色画面になっていて、「ぷーん」という発信音波が漂っていた。
それを薄目に見て、ああなんて幸せな孤独なんだろう、とまた変な涙をチョロっと流し、眠りに落ちる。
「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる、だ」と何度も夢の中で、松尾芭蕉の辞世の句を思っていた。


結局私は、そこに三日くらい居た。
ぎすぎす軋む身体で、本当に何もない殺風景な町を歩いて、粥や水などを買ってきて、ホテルのレンジでちんして食べた。
こういうときこそのビジネスホテルである。いいホテルや旅館では、このように病で寝付くことは出来なかったかもしれない。ホテルの人は何も干渉をしてこなかったが、とにかく身体を休めたい私の事情を察し、それとなく助けてくれた。


歩いて初めて、そこが磯原という駅の傍だと知った。
人っ子一人歩いていない、白い埃の中のような町をとぼとぼ行くと、何となく岸が荒んだ感じの川があった。なぜこんなに河川敷が荒れているのか、と考えてようやく、この土地が津波にやられた町なのだ、と思い当たった。


三日目の早朝、大学の仕事に戻るため、私はホテルのフロントの人に礼を言い延滞分の料金を払って、その町を出た。
駅で列車の時刻を見ると、十五分ほど時間がある。病み上がりの身体だが、走って、最後にこの土地の海を見に行こうとした。しかし海は遠かった。歩道橋に上がって、海から来る朝の光を見た。
これまで見た中で一番金色な金色だな、と思った。
病気で寝付いて人にも心配をかけたにもかかわらず、極めて満足の行く一人旅をしたあとのような気持で、列車に揺られて東京に向かった。
by meo-flowerless | 2016-03-22 11:11 |

事情

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顔まで変えてしまった経歴詐称の人への袋叩きが、メディアで繰り広げられているらしい。
「そいつは昔から嘘つきだった」と、今まで出番の無かった知人たちが過去を広める。
その人物の昔の滑稽なあだ名を記事で知ってしまい、かえってやるせなさを感じる。



ふと読んでいた新聞記事の下のほうに、あるドラマの広告が載っていた。
寺島しのぶ主演の、ある女性犯罪者のドキュメンタリードラマだった。
その女性と言えば、顔の整形を繰り返しながら逃亡を続け、時効ぎりぎりで捕まった有名な犯罪者だ。彼女の人生は、【顔】と言う映画にもなっていた。



片方は本物の犯罪者だ。上の二人の罪の重さを、同列で語ってはいけない。
とにかく外野の人間には、「過去を書き換えてまで実人生から逃げ続けること」への興味が潜んでいるようだ。罪からの逃避度、逃亡の距離、嘘の飛躍具合、が大きければ大きいほど、映画化したり伝説化したりする。



某野球監督夫人の経歴詐称が話題になって、周囲の芸能人たちが手のひら返したようにバッシングをしたことがある。
雑誌広告の見出しでそのさわぎを見ながら、母がボソと言ったことが忘れられない。
「まわりで罵倒する人間に、きれいごと言ってんじゃないよ、って思う。あの時代はみな色々やって生き抜いてきた世代のはずで、経歴の秘密の一つや二つある人も多い。その裏には抜き差しならない事情もある。人なんて後ろ暗いところも探せばあるのよ。けどその嘘の部分だけ取り出して、鬼の首を取ったみたいに優位に立とうとする人間は、必ずいるね」
母は穏やかに見えても、こういうことに関して苛烈な物言いをする。
たいてい、世間のゴシップの騒ぎ方とは逆の視点だ。



母のその言葉を聞いた頃だったと思うが、私は松本清張に魅かれていた。
断罪以前に被害者と加害者含めた人間たちの「人生を網羅する視点」に興味を持った。



いろんな大人を知って生きてきたからかもしれないが、「あの人の正体は結局何者なんだろう」と不明を感じさせる存在に、魅かれることがある。
人の嘘と謎。演出でもなく詐欺でもない、「やむにやまれぬ」「人には言えぬ」が絡んだ不分明もあるということを、よく考える。
【ゼロの焦点】に出てくる、失踪夫の二重生活など、今実際には想像がつかないが、父母の時代や祖父母の時代のさまざまな人の話を思い出すと、さぞそういうこともあっただろうと思うのだ。



何一つうしろ暗いところの無いきっぱりと清廉な人、それはそれでいい。けれど、うしろ暗くないのが全ての正しさの基準みたいになって、その価値観でしかものを見れない人となると、苦手だ。
人は生きていると、何かしら「立場」というものを手に入れる。手に入れ、それから逃れられなくもなる。
自分が「立場」から逃れられない圧迫を、私達は、無意識に小さな逆襲に変え、どこかで晴らす。
その矛先として格好なのが、「立場」に脆弱な嘘がある人、「立場」をそもそも持てもしない人、なのだろう。



野村芳太郎の【砂の器】の映画はビデオで見るずっと前の幼い頃から、母からイメージを刷り込まれてきた映画だ。
「ピアニストの青年が最後のピアノを弾くその音楽にあわせて、父親とたった二人で日本中をさすらい歩いた記憶の風景がずっと映し出される。暗い日本海の波打ち際とか風に揺れる草原がね」
一度思春期に観たとは思うが、改めて昨日観た。いつのまにか泣きながら観ていた。



日本人が日本の風景を知る映像として、【砂の器】を観るといい、と思った。
この背景に横たわる事情は、一人の人間の思いや屈辱を越えている。
戦後の日本を現すドキュメンタリーで素晴らしいものはあるだろうが、松本清張というフィルター、さらに野村芳太郎が映像詩にしたというフィルター、が「一つの時代のどこかに視点として共有されていた」という点に興味がある。
この風景を見、この親子を見て、「実際観たことの無いものであっても確かに知っている」と言える人はいると思う。しかし、表面上の差別的言論統制と引き換えに、この種の甘い涙に誘われることもかえって許されない。今はそんな時代だ。



人間は、生きていれば何かしら、逃げ隠れしなければならない事情が出来るかもしれないのだ。
何が起こるかわからない。
「逃げ隠れるその先は、もう人間界からはみ出し、亡き骸と成りさがる」
と世論は幻想する。
けれど、逃げる人間、隠れる人間の、その漂流のときにしか見ていない強烈な光景は、確実に存在するのだろう。
by meo-flowerless | 2016-03-18 18:25 | 日記

カカシ山

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東京の端の市、そのまた奥地、というようなところに十年前は住んでいた。
薄暗い山を切り開いた丘陵地の団地。建築群をカードみたいに差し込んだような風景がずっと続く。
牧歌的な地元農家暮らしもごくたまに見受けられるが、土地を団地向けの大型スーパーや駐車場に明け渡す家も多い。
殺伐さにさらに山林が陰影を加えている、それが八王子だ。


そんな風景の中、幾年も前の散歩の途中に、とてもインパクトのある山の畑を見つけた。
狭い斜面を無理矢理段々にしたような畑のそこここに、ハロウィーンの後始末のようなカカシが点在していた。


「うわー、手作りなんだろうな」....って、カカシは大体持ち主の手作りだが。
創意に満ちた人形たちに茫然としていると、畑の上のほうの小屋にいたおじさんに「良かったらゆっくりしていけ」と呼ばれた。
小屋でお茶をご馳走になりながら、世間話をしたりしてぼんやりした。
しかし何を話したか全く覚えていない。
烏骨鶏やニワトリが小屋で大騒ぎしていたせいで、その音の記憶しかない。
おじさんはその並びの小屋にベンチと座布団を置き、変わりゆく団地の丘陵を眺めて暮らしているのだった。  
畑の背後は山になっていて、おじさんとともに山を歩いた記憶がある。タケノコの夥しさに手を焼いていた。


日本のいろいろなところを旅するが、時折通りすがりのカカシのなまなましさやズレた創意工夫に心奪われることがある。
これが「カカシコンテスト」とか「時事ネタを織り込んだカカシ作品」とかになってしまったら、もうだめだ。
純粋に烏や雀を除ける道具でもなく、カカシの造形性を芸術性と言い切ってしまうのでもない、その間がいい。
人がお化け屋敷を必要としダッチワイフを必要とする....のとおなじところのハリボテへの情愛に魅かれる。


ずっとここを再訪したかったが、隣町に引越してから、行っていなかった。
さすがに畑もカカシも取り払われたかな、と十年の月日を経て、冷たい雨のそぼ降る中、今日訪れてみた。
カカシはひとまとめになっていたが、まだあった。
そして、雨のせいなのか、記憶よりずっとホラー感覚が色濃かった。おじさんはいなかった。烏骨鶏はまだ騒いでいた。
山の入口のカカシはもはや、道ゆく人を怖がらせるためとしか思えなかった。


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by meo-flowerless | 2016-03-14 17:45 |

子守唄とパラソル帽

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綺麗な声の子守唄はどこか怖い。それは心霊談などが広げてきたイメージだろう。
実際にそういう唄を聴いた。別に怖い話ではない。
いまの季節の匂いとともに思い出したから、聴いたのは春のことだったんだろう。



大学時代。
アパートの台所で夕飯を作っていて、ふとガスの火や水を止めた無音の一瞬だ。
どこからともなく、女の子守唄が聞こえてくる。
しばらく聞いていても、どこから聞こえているのかはっきりしない。壁の中からのようでも、天井の上からのようでもある。
そこはかとなく寒気がしたのは、心霊的な怖さではない。むしろ時代感がずれた怖さのほうだった。



恐る恐る小窓を開けてみると、夕闇の表通りに、どうもネンネコ姿の女がいるようだ。
暗くてよく見えないが、確かに人はいる。
住宅に隣接した畑のところで、おぶった子供を揺すって歌っているような気配だ。
鼻歌とも笛の音とも違う、細いゆらゆらした声。
単なる鼻歌ではないと直感したのは、語りかけるような歌い方のせいか。
今どきの若い母親があんなネンネコを着て子守唄なんか歌うか、といぶかったが、祖母が孫をあやしているのかもしれなかった。それならば年の割に声が美しい。
短調の、暗い子守唄だった。何かの春の花の匂いとともにそれを覚えている。



その子守唄を、その後も数回聴いた。
偶然だろうが、なぜか私の台所の小窓のすぐ傍で歌っていたときがあり、その時はさすがに気分的に窓から覗けなかった。
通学の通りすがり、そのネンネコらしき姿が普通に近所の人との話の輪にいたような気もした。大体アパート住まいの学生の私はそんなにしげしげと近所の人の顔を確認することもなかった。
どこの誰かは確定しないまま、声の存在だけを知っているのだった。



夜風に消えるか消えないかのそれが伝わって来ると、はっとして私は一切の音を止めた。
五木や島原の子守唄のような、たぶん同じ哀調の歌だった。ああ、となにか言葉にいえない説得力で、その妙な哀調を受け止めている自分がいた。
自分への子守唄ではないのに、自分を呼んで自分に語りかけてくるような気に、ついなった。
赤ん坊は、あんな暗い歌でいつも眠りにつくのだろうか。
私自身は「ねんねんころりよ」という、母の子守唄に育てられた。母はそれを祖母から受け継いだようだ。
他の家庭ではどうなのか。子守唄を歌うか歌わないかは、家伝のようなものかもしれない。



そのネンネコが立っていた畑のあたりには、ごみ捨場があった。
たまに夜遅くその横を通ると、一人の爺さんがそのごみ捨場に一人でいるのを見かけた。そのたび、びっくりして一瞬冷水を浴びたような気持ちになった。
その老人は、ごみの不法な捨て方をしにくる輩を見張って、そこに居るらしかった。一人で怒りまくりながら他人のごみを深夜に整理していた。



雨の深夜。まさかそんな濡れた場所にはいないだろうと思っていたごみ捨場に、また老人がいた。
土砂降りに降られたままパイプ椅子に、人形のように身じろぎもせず腰掛けているのだ。麦わら帽みたいなものをかぶっている。思わず悲鳴がもれそうになった。
それだけではなく、その麦わら帽の頭の中心から、縞縞の「小型のパラソル」が、天に向かってピョコッと伸びているのだ。傘をささずに監視出来るように、自分で帽子に傘を取り付けたのだろう。
滑稽な彼の姿を見てもとても笑うに笑えず、ああ…という気持になった。



今思えば、その畑は変な地場を持ったような、住宅地のエアポケットみたいな場所だった。
私の中では勝手に、子守唄の女とパラソル帽の男は、同じ家族だと思ったりしていた。
子供や老人の声はするが、若い父親や母親の影の不思議とない、通りの一角。
推測に過ぎないが、若い父母は働きに出ていて、子供の小さい間、実家の祖父母(変わり者)に面倒を頼んでいる。やがて子が小学校に上がると同時に、別の場所に住み、祖父母を次第に忘れていく。
大きくなって何かの拍子に誰かの歌声を聞いて、急に子守唄のことを思い出す。
勝手な妄想である。
しかしあのネンネコ姿が若い母親なのだとしたら、それはそれで別の妄想が広がる。



かすかな声を鼻歌ではなく子守唄だと思ったのは、延々と語りかけるようなうわの空な歌い方のせいだ。
揺さぶりすぎてかえって眠れない、祖父母の孫への愛撫にも似た感じ。
赤ん坊が、親からのはっきりした愛情のほかに、うわの空の呪文のような「親族の誰か」の愛の記憶を持って育つ。
近い愛とは違う、おぼろな霊に近いくらいのそんな愛の記憶に限って、あとから胸が痛むような懐かしさを感じる。そんなこともある気がする。
by meo-flowerless | 2016-03-11 21:46 |

カスドース

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「カスドース」の包みが、うちに届いた。
長崎の平戸の湖月堂からわざわざ取り寄せたお菓子だ。
もう自分の誕生日に関心もなくなると、その日はいつもの日とともにスッと過ぎるのだが、何か特別なものを食べたいという思いはふと生じる。
それは高級な食物でも珍しい食物でもない。「遠い」食物だ。


昔っぽい素朴な包みを開ける。カステラの元祖、というよりは、砂糖のつぼに落っことしてしまった卵焼きのような、手に持ちにくい外観。味も、そうだ。
この「甘いだけ」、の味の描写は、難しい。
塩ではなく砂糖まじりの涙を流しながら疲れ果てて枕に顔を埋めるときのズブズブ感、そんな印象は健在だった。


「カスドース」は、遠いお菓子だ。
今スーパーで買ったポッキーについては何も書くことがなくても、あの長崎平戸の薄暗い店で眠っているようだった原始的なカステラの淡い甘さについては、どうしても留めておきたい、遠い美を感じる。


自分が何かを書く対象は、過去や失われたことに対するものが多い。
過去がただ魅力的だからではなく、私にとって形容の掴みやすい「遠い」ものごとだからだろう。
私は、遠いもののことは、よく記憶する。
景色でも人間でも遠くから、美しい、手に入らぬと思ったことは、刺しこまれるようなような痛覚とともに残り続ける。
痛覚を、私は書き残したいと思う。
日常に大事なことは多くあるが、妄想の助走距離があまりない、慕情の射程距離が短い、それら「近い」ことは、言葉にはしづらい。


十年前、子供向けの「カステラ」についての絵本の挿画を頼まれた。
私は編集者のFさんと長崎の文章家Aさんに連れられ、長崎の平戸まで十時間くらいかけて、日本におけるカステラの歴史について取材に行った。
平戸はかつて長く異国との交易に賑わった土地だが、東京が首都となった今では西の果てのようにも感じられてしまうところである。
その東京からの道中はとにかくもう、遠かった。感覚では、ヨーロッパなどより遠かったくらいだ。


二人の初老の紳士とともに黙々と、今は寂れたさいはての貿易港を歩いた。
松浦屋敷を見、丘の上のキリシタンの礼拝堂も見た。礼拝堂の中は今は滅多にはいる人もないようで、古い小学校のような優しい匂いがした。簡素だが美しい緑のステンドグラスの十字架から光が漏れていた。博識のAさんがさまざまな歴史の解説を、静かにし続けた。


古い商店街の暗くて簡素な洋菓子屋でAさんが、
「これは珍しいから絶対に食べて。ここにしかない、これが本家のカスドース」と言った。
「カステラじゃなくて、カスドースですか?」
「そう。日本でいうカステラになる前の過渡期にあった原型みたいなお菓子。平戸のこれだけが、今手に入る本物のカスドースなんだ」
こんな薄暗い菓子屋が本家か....と思いながら、そのお菓子を買った。


それは、あわあわとしたタマゴの味を良く感じる、黄色の砂糖まみれのカステラの滓のような菓子だった。その単純で素っ気ない甘さの感想に、一瞬悩んだ。まずいのではない。
なんとも美味しい。ただ、「遠い」美味しさなのだ。言葉の形容から遠く遠く離れた味なのだ。
「わかる?これがそもそものポルトガルのパン・デ・ローや、江戸時代に作られていた素朴な釜のカステラに近いものなんです」


弾圧の前のつかの間の時代、長崎に流れてきてキリスト教を布教したポルトガルの宣教師たちが、自ら焼いて、信者の子供たちに配ったかもしれない食物。
カスドースは平戸藩主の御用お菓子として甘く洗練されたものだが、この甘い感覚というのは、もっと素朴なタマゴ菓子であった中世の頃の庶民も、もしかしたらこっそり経験した感覚のはずだ。
手に入り難い砂糖やタマゴの食物を、はじめは遠巻きに見守りながらやがて口に頬簿って、怖くて眩しい海の果ての西洋に思いを馳せたであろう、戦国時代の人々を思う。
私と同じように身体を持ち、丘に登り、海風を吸い、その菓子を口に含んでしばらく黙った....
そう、同じ人間なのだな。
「時間の距離」ということを、今までにない感覚で感じさせられた。
今ある語彙にも経験的背景にも、この甘さを形容するにふさわしいものが見つからなかった。


遠い記憶ばかりを変に捕まえるこの頭が今も覚えているその旅は、長崎から平戸までの沈黙のバスの距離、佐世保やハウステンボスの寂れた道路の凹凸、金色の残光に溶けていたキリシタンの生月島の島影、
宿の水仙の花の香が暖房で気化して眠れなくなり、外に出て崖上から海の夜明けを一人で見ていたこと、そしてあのカスドースの形容しがたい遠い甘さ.....そんなものたちだ。


船着場で見えない貿易船を幻視するかのように海を眺めていた、AさんとFさんもまた、「遠い」ことへはせる想像力、の話をしていたような記憶がある。
その後幾度か年賀状などやり取りしたが、いいかげんな私はまた音信を怠っていて、お二方がどうしているか知らない。
by meo-flowerless | 2016-03-08 14:06 | 匂いと味