画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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カテゴリ:映画( 7 )

【張込み】 野村芳太郎



【張込み】(野村芳太郎監督 '58)DVDをまた観る。好きな映画ばかり何度も観る。松本清張の簡潔な傑作短編を映画化したのだ。


刑事二人。同じ日課を繰り返すだけの凡庸な主婦を、ただひたすら張り込むだけのシーンが、大半を占める。刑事の心理がリアルに伝わってくるのは、実際に殺人課の刑事に徹底取材した結果らしい。
ストイックなテーマも音楽もフィルムノワール風に行くのかと思いきや、印象は全くちがう、ぎらぎらとしたドキュメンタリータッチだ。黒ではなく真夏の光、灼熱の照り返しの白だ。何よりもそこのところが自分は好きだ。地方の街角のかつての佇まいが、埃っぽさとともに絵巻のように流れてゆく。この風景の絵巻をじっと眺めているだけでも、傑作だと思わされる。また、商店街に流れる割れたスピーカー音の【港町十三番地】やサーカスの呼び込み、祭囃子、山の発破の破裂音など、音の要素が、全編を流れる淡々とした哀切さのクサビになっている。


刑事がほんの些細な手掛かりをあてに東京から佐賀まで延々と汽車に揺られていくのだが、車窓や駅の様子が順番に映し出され、その道のりの長さがやけに丁寧に描写される。青い山河、静かな瀬戸内海、車内に溢れかえる乗客、時代の様子が鮮やかに読み取れる。淡々とした描写に見えながらもちゃんと作られているな、と思うのは、距離の表現だ。特別に気の利いたナレーションやカメラワークがあるというのではない。けれど、ひとが何かを思い詰めて費やす流転の距離感と、目の前の生活光景の退屈極まりない固定感との釣り合い(不釣り合い)が、映像表現のなかで取れているのだ。


東京で犯罪を犯し逃亡した病身の青年がはたして、かつての恋人のもと、はるか九州に現れるのか。元恋人の女はもうよその人妻になっている。若い刑事は、勘だけで犯人が現れると信じ、わざわざ遠い九州に足を運ぶ。しかし、張込み先の家の生気もない凡庸な主婦には、犯人が遥かな距離を流れてまで会いに来るような魅力はなにひとつなく、事実何日立っても、犯人が接触しにくる気配はない。
見たて違いかと張込みを諦めた頃に、事態は動く。



主婦役の高峰秀子は、顔は平凡な主婦になり得ても、体つきや全体の姿がやっぱり華やかで、この話の生気のない主婦にはそぐわない感じがする。もっと身近なその辺にいそうな近所の女性などを想像しながら、この女の運命を見ていると、やっと胸に迫ってくるものがある。



男と女がつかの間逃避するのは、やはり「温泉地」なのだ。刑事が湯治場まで激走する野山の光景があまりに美しく切迫感に満ちている。意外なほど無邪気に語らい合う男女を刑事は見つけ、再び物陰から張り込む。ほんの数時間の淡い再開の会話のなかで、女は青春の光を取り戻す。一度生気を喪った人生を置き去り生まれ変わることを決意するのも虚しく、山宿の風呂から上がった時には、刑事だけが彼女を待っている。


「今すぐバスに乗れば夕方の主人の帰還に間に合うはずです」と帰宅を促す刑事の言葉の裏にも、女の人生の全てを察した苦さが滲んでいる。本当にこれ以上残酷な言葉はなかっただろう。別の場合ならば家庭への安らぎのなかに無事帰す言葉であるはずでも。



本当にそれだけの映画でケレン味もヒネリもなにもないのだが、それが一層悲哀を募らせる。まずは原作がいいんだな。
この映画のなにがいつも胸に突き刺さるのか。遠い親族などの幻影を絡めたりしているからその理由は複雑だけれども。
強いて言葉にするなら、愛のためにかける距離と、人生のためにかける距離とは、決して一致しない…ということ、が突き刺さるのかもしれない。
届かなくなったもの、叶わなくなったこと。そういう物事には皮肉にも夏の光の眩しさが似合う。

by meo-flowerless | 2017-03-17 10:41 | 映画

【十九歳の地図】柳町光男

先日、阿佐ヶ谷の映画館で【十九歳の地図】(柳町光男’79)を観た。夫に誘われたのではあったが、遠い学生時代に何かの本に書いてあって観たいと思っていた映画だ。
解説を読むと、中上健次原作だった。時代は1979年バブル前夜の東京の片隅。新聞配達員の青春の鬱屈、雰囲気は何となく想像出来た。
が、実際に観た密度感は、当初の想像を凌ぐものだった。例えば若松孝二のある意味わかりやすい「芸術のニオイがするまでの暴力性」とはぜんぜん違う。これも緊迫感のあるジャズが時々映像のアクセントになっているが、その音楽も前衛的な緊張感よりはリアルな生命感を感じさせる。
全面が赤い煮こごりの中に沈んだような色彩で撮影されているのが、底辺の沈殿の圧迫度をより密に感じさせる。上空は冷たく醒めていて下辺は澱んで熱い、という感覚が、東京だ。


イヤになるほど緻密な、人生の薄汚さ。
新聞配達の日常に俯瞰する家並の一軒一軒に破壊欲を沸き立たせながら、自分だけの東京地図を繰り広げていく青年が主人公だ。役者なのか素人なのか、ひょっとすると知人なのか自分自身なのか...わからなくなるような朴訥な存在感の男。
今の時代だったら無意味に浮遊感のある殺意などの描写に結びつけられてしまうのかもしれないが、この映画の焦点はそういうものではない。この世の見えなさと貧しさに押しつぶされそうなはずなのに、地面を足で踏みしめ体で確認していく手応えと、妙に自由な疾走感がある。


どうしようもなくだらしない先輩役の蟹江敬三も、真骨頂という感じがする。あれほど薄汚くみえるのに、スミレの花か澄んだ雨のようなロマンも、同時にある男。
また、出てくる女たちには共通の窶れた臭気がある。汚いアパートの一室のむっと籠った、便所と蒲団の汗と化粧のすえたニオイが届いてきそうだ。
蟹江敬三言う所の「かさぶただらけの苦しげなマリア様」、そのほかにも黄ばんで皮脂の枯れた銀歯だらけの、だけど菩薩のような顔をした女がちょこちょこでてくる。どうしようもない底辺の女ばかりである。しかしそれら登場人物の女に背負わせているのは色恋でも肉欲でもなく、けれど不思議と重苦しいだけの人生だけでもない。


マリアが住宅街のススキの空地でダラしない下着から真剣な顔で放尿をしている姿に、なにか自分の人生のどこかで交錯したような気のする誰かの、「私には手の届かない自由」を感じてしまう。
この饐えたニオイの東京の底辺は、父母がすれすれの間近に観ながらも必死で、幼子の私がそれを目撃することの無いように遠ざけてきた東京の姿だ、とも感じた。



柳町光男監督、もっと別のを観てみたいと思い、検索して、あっと声を上げた。学生時代にビデオで観て、どうしても忘れることの出来なかった不可解な映画【さらば愛しき大地】の監督だった。
やはりな....と妙に感慨に耽った。
【十九歳の地図】より、更に救いもなく停滞感のある映画で、関東の農村にはびこる倦怠と麻薬が印象的だった。しかし不思議に澄んだ叙情が余韻として残った。あんな不快な描写の連続を全ての観客がそう感じるわけでは絶対ないだろうが、あの静謐さはわかる人にはわかると思う。
シャブで荒廃した根津仁八の瞳に映る、青田の稲穂に渡る無言の風。台所の片隅のホイホイのゴキブリを無表情な目で見下ろす秋吉久美子。観ているときはうんざりしてもう二度と観ないと思うのに、観終わった途端これは傑作だな、と思ったのは【十九歳の地図】も同じだった。



ベタついた感情が説明されていないのである。主役である青年たちはまったくたよりなく自分の感情も感覚も理解する以前の存在であり、かといってそれを包容するかのように一見感情に満ちた女たちも結局、浮草のように揺らぐばかりで締まりがない。
この監督の描く女は、あまたの監督の中でも私は一番好きかもしれない。二本しか観ていないが、そう思う。物語にも何にもなりゃしない、アイコンでもダーティヒロインにもなり得ない情けない女、結局一緒にいる男によってなんとなく小ずるく変わっていくうちに、自分も冴えないまま運を落としていくだけの平凡な女。それぞ女だとも思う。



感情では流されまいとしているようでも、感覚は押し崩されながら砂礫のように流れに従っていく。そして水は消えてもその砂礫が残る。私も結局そんなようにに生きてるんじゃないか、と感じる。
苦しみも喜びも仕事も恋も目的も価値基準も、それにその都度確実な言葉を纏わせて生きているけれど、最後は互いに誰も忘れていく感覚の泡沫でしかない。感情などというものは、渇いた土地の上ですぐに蒸発して霧散していく水分でしかない。そのかわり感覚だけが地表に、一抹の残り香としてこびりつくのだ。


表現などというものも、残り香として残るときのみ成功だと言えるんだ。とさえ思う。ほとんどの表現行為が人間の普遍を、あらゆる理屈や物語や文脈で説明することに、終始するなかで。
私自身が最も欲する「救いようもない感情と、それを救う一抹の感覚のエレガンス」を、この監督の情景表現は持っているから、魅かれたのだろう。
by meo-flowerless | 2016-12-16 22:37 | 映画

【昇天峠】ルイス・ブニュエル

ルイス・ブニュエル【昇天峠】をビデオで観る。ヘンっな映画。乗合バスのロードムービーだという部分は清水宏の戦前の傑作【有りがたうさん】を思いださせる。



内容というより【昇天峠】というタイトルに惹かれる。タイトルに掻き立てられる妄想と同じ量の妄想が…質は違ったけど、映画中のその難攻不落の峠道にはあった。



母の瀕死に際しての遺産相続のトラブルを回避するために、青年は急いで乗合バスで山越えをし、公証人に会いに行かなければならない。早くしなければ母は死に、母の財産は全て悪徳の兄たちに占領される。新婚の妻との初夜もお預けのまま、様々な人々の乗り合うバスに、悲壮な気持で青年は乗り込む。



そこまでのシリアスな筋と裏腹に、バスに乗ってから、もう無茶苦茶。気だけ良いが気分屋で支離滅裂な運転手と悪路に翻弄され、まったくバスは目的地を目指してくれない。妊婦は産気づくし、ひとの生き死にや冠婚葬祭にいちいち付き合いながらツアー旅行のように昼夜が経っていく。実直で必死な青年だけがひたすら苛々しているはずだったが…



私は神仏を敬虔に信じているのではなく日和見な人間だと思うが、漠然と思う「神様」にはふたとおりある気がしてならない。厳しさと引き換えにすべての生に加護をくれるおごそかで超越的な神様。一方で「全てのことはそんなにうまくいきゃーしないんだよ!願いなんか叶わないからこそ、脱線や適当さが大事な時もあんだ」と教えてくれる人間の写し鏡のような神様が、いるような気がするのだ。私にだけかしら。



この映画の「気分次第で行路を変える運転手」「ムキになって青年を誘惑する色気爆弾女」の二人物は、観ている時にはいらっとするのに、観終わるとなにか、前述したようにテキトーな味のある「男神」と「女神」とに思えてくるから不思議だ。
女が果物の種をプッと吐きながら冷淡に言い放つ「欲しいものは全て手に入れたわ」というサヨナラの台詞が、あとあとまで気になって考えていた。子どもな青年を男にしてやった満足感、なんてことよりは少し含蓄のある一言。山頂に至るまでの(いろんな意味で)長い苛々する道のりの意味こそを教えてやったんだわ、という感じ。


昇天峠じたいが人生の縮図なのは確かだ。そうだとするなら「人生の山とは結局、妄想の嵩にほかならない」とブニュエルは言っているようにも思える。言っているというか、そんな世界観で自然に生きていたのかもしれない。
青年が無事下界におりて戻る家族との世界は、非常に現実的で実直な世界だ。
けれど人生はたぶんその実直を台本通りに読み合わせるようなものではない。人はだれも自分のなかに、昇天峠のように支離滅裂に変幻する妄想の聖山を持っている。その妄想もまたひとつの人生と呼べるのじゃないか。
by meo-flowerless | 2016-12-06 05:35 | 映画

【鬼の詩】 村野鐵太郎

【鬼の詩】('75村野鐵太郎)藤本義一原作。たまたま途中から観た。
映画として面白いのかはわからないが、ATGらしい簡素さとおどろおどろしさが相まって、鬼気迫る忘れ難いものがあった。明治末の噺家・桂馬喬の零落の生涯と芸道を描いた話。馬喬とは二代目・桂米喬をモデルにしているらしい。


仲間からの追放。報われない門付芸の流浪。偏執狂的なまでの先輩芸の真似。エキセントリックな遍歴を経て馬喬は、たった一人の理解者である妻を亡くしたあとには、亡霊のような姿に身をやつし際物めいた見世物芸で蘇る。
師匠や仲間が「それは芸の本道ではない」と警告するのをよそに、サディスティックな観客の玩具として自ら弄ばれるように芸をおとしめていく彼の末路には、天然痘で滅茶苦茶になったその顔を自虐的に利用した「究極の芸」があった。


実際の噺家・四代目桂福団次が演じているが、うつろで何をも観ていないような金壺眼が、役柄に嵌まっていた。暗闇の中でひとり必死に芸をあみ出してみても常に正道から焦点がずれてしまう、どこかが偏った人物像。けれど、ものを作る私のような人間にとっては、芸道の追求と表現への執念との違いに気付かされた。


安定した芸人にとって、また固定した観客にとってだけいえば、芸道には本道と邪道、上品と下品の境界線が確かにあるだろう。しかし人間にとっての芸、と考えた時にそこに生まれ出るのは、熟練や洗練に凝縮される芸だけではないはずだ。
芸、とはその人生に応じたものなのではないか。零落したならしたなりの、瀕死ならば瀕死なりの、奢りには奢りの中の、極度に偏っていても、そこにしかあらわれないような芸の求道と達成があるのではないか。
この場合の、芸、とは、巧さや個性というような問題ではないのだ。その人生からしか絞り出せない、なにかへの拘泥とでもいおうか。その言葉なき拘泥を通過することなしには、自分のすること全てが自分自身の中で尊厳を保てないような。
拘泥と執念。芸ということにおいて、自分の惹かれるのはそういうことだ。たおやかに生と折り合いを保ちながら円熟していくことよりも、反骨精神で鮮やかに暴力的な花を咲かせるよりも、だ。


芸。美。それらの言葉の解釈は、歴史を通じて華麗に変貌もするし、何度も再生産もされる。けれど独りの人間の「執念」は、その人間の身体と命と人生に付随した一度きりのものである。ときには世間の批評を拒みながら痛々しく放置される、見たくもない傷でもある。
万華鏡のようにあれこれと世界に解釈され続ける芸や美の話よりも、独りの人間の執念にショックを受ける時のほうが、私には衝撃度が強い。作品のことを考えるにつけても、まずは自分の執念のありかを探ることが一番先なように思う。


零落を反映する無様でエグい演目を絞り出すしかなかった馬喬の表現に尊厳を感じたのは、自分自身のそういう所に理由があるんだろう。馬喬の捨身の執念を、悲愴な露悪趣味や痛々しい見世物などと片付けることは出来なかった。
表現がどこでオリジナリティに辿り着くかなど予測出来ない。予測出来るものはオリジナルではないだろう。ただ、なにかしらの執念に対する自嘲や自虐を経てそれを突破したとき、不意に出会うような気は確かにする。
原作はまた違う含蓄がある気がする。読みたい。
by meo-flowerless | 2016-10-11 21:37 | 映画

【天国と地獄】  黒澤明

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私は全く映画通ではない。が、とにかく好きな映画だけをDVDで何遍も何遍も観る癖がある。
東西新旧問わないが、しかるべき時にしかるべき音楽が流れる、というのが好きな映画の共通点かもしれない。
【天国と地獄】(1963)は黒澤明の大傑作中でも、数多くはないクールな現代劇だ。
原作は、エド・マクベイン【キングの身代金】という推理小説、子供の取り違え誘拐を巡る大人たちの心理劇、という内容。この映画が切っ掛けで、誘拐事件が多発する社会現象になったともいう。



靴会社の常務に三船敏郎、貧しい医大生に若き山崎努、刑事に仲代達矢、という配役。
ギラギラした駆引きを想像するが、前半のモダンな邸宅での室内心理劇のせいか、全体の印象がひんやりクールな感じがする。特に仲代達矢が、他の映画に比べ、抑えた存在感で非常に格好いい。
黒沢好きなら別だが、まだ観たことのない他人にこの映画をお勧めしても、前半のシンプルなセット撮影の演劇のような流れで、退屈してやめてしまう人もいるかもしれない。
逆に映画好きは、前半の緊張感ばかり評価するみたいだ。



後半、カメラが高台の下の貧しい町に紛れ、犯人が暗示されるところから、画面、音楽ともに、目くるめく展開を始める。圧巻の流れをバッチリと支えているのは、その時々その場所に流れ来る、音のキマリ具合だ。
ドブ川のほとりの貧しいアパート、ラジオから流れるシューベルトの【鱒】。緊迫した場面での特急こだまの列車音。酒匂川のシーンで印象的に流れる、テーマ曲の高らかなトランペット。捜査会議での、一人一人の捜査員の冗長なまでな報告。
伊勢佐木町の夜の多国籍ビヤホールで流れる南国的ジャズ。黄金町の麻薬窟で中毒者がトタンを引っ掻く感覚。推理の決定打となる、湘南電車の軋み。
そして、高台の別荘でラジオからの美しい【オー・ソレ・ミオ】。
多くのシーンに、絶好な音楽があり、絶妙な環境音を通過する。何度も観ても「来た!」と毎回、思う。音にこだわりのある映画監督の映画にはPVみたいでイラッとするものもなくはないが、さすがに黒澤明の映画の音楽にはいつも興奮させられる。



犯人はひじょうに冷酷無比で、なににも溺れない。
彼のいるシーンでの、楽園を思わせるクラシック音楽は、どこか「麻薬的」なロマンチシズムの増幅を感じさせる。その楽園は、転落と紙一重の楽園だ。映画タイトルがぴったり来る。
この映画は音楽が違っただけで、犯罪心理の描写が無理なものになっただろう、と思われる。
彼とともに流れるミスマッチな甘ったるい音楽がいちばん、彼の動機のニヒリズムを感覚的にあらわしている。「他人の幸福の音」、「世間の勝ち組の奴らのバックグラウンドミュージック」を、彼は聴いている。



被害者や刑事たちの背後にはテーマのファンファーレ以外に、ほとんど現場の緊迫した音しか聞こえない。それに比べ、犯人の背後には「音楽の絵巻」のようなものがずっとある。憎しみが美に転じた音だ。刑事たちは、最後の緊迫した伊勢佐木町あたりから、その「音楽の絵巻」に飛び込んで合流する。
高台の小さな家の庭に揺れる夜の花。何よりも好きなシーンだ。
月明かりなのか、やけに明るい深夜の海が幻想的だ。変にトロピカルな植物が静かに揺れる中で【オーソレミオ】が流れる。撹乱のためにラジオの音楽をつけたであろう捜査側からの、犯人への皮肉なはなむけにも思える。



この映画で大事な二曲の詞を知っていると、暗示的にそれが使われているのがわかる。(映画には詞は出てこない)例えば【鱒】は、小さい時に父が口ずさんでいた記憶がある。清き流れに鱒は住みて....と言ったか。ここでは、ドブ川のほとりでそれがかかるのだ。オーソレミオも、歌詞を訳すとこの映画の基調感情を言い表しているらしい。
むかしの人は今より西洋音楽の日本語詞を良く知っているはずで、そういうことが当時の日本人に、自然に内面化されていたようにも思う。



悪組織や酒や女なんかをいっさいはしょって、生真面目な生活から一気に、成れの果ての死臭に突入する。天国と地獄の間に、寄り道は無いのだ。犯罪心理的な面では今一歩理解しづらくても、何か別の犯人の情念が伝わってくる。
この映画のアクセントにもなっているのが麻薬ヘロインだが、そのイメージの持つ穿孔のような死の黒さが無ければ成り立たない雰囲気がある。喧噪中の麻薬受渡しシーンの多国籍ビヤホールのような店舗は、実際にあった店らしい。国籍入り乱れた猥雑な人間の顔たちが全て効いている。そのあとにくる麻薬窟のシーンの演劇めいた廃人たちと対比になっている。



捜査陣のうだるような真昼の汗、殺人者の夏の夜の涼しげな顔。実は、全ての場面がわざと冬に撮られたという。「メインシーンのために電車沿いの民家を一軒取り壊させた」「白黒映画と思いきや実は一瞬カラーである」など、様々な逸話もある。
ストーリー、シーン、演技全てにおいて、様々な人が語り尽くしている有名な作品で、自分には映画評などは書けない。しかしとにかく、泣くような粗筋でもないのに「音楽の決定的なキマリ具合」だけでかっこよくて、ついジンと来る映画である。
by meo-flowerless | 2016-07-10 12:19 | 映画

湯殿山麓呪い村の永島瑛子

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私が絵に描く「部屋」は、単なる団地の部屋というより、「孔のような場所」だと思っている。
例えるなら、食虫植物の底に落ちたままそこから出ず朽ちていくかもしれない、無力な生物のおびえのようなものを、そこに描く。



一つの映画のシーンが浮かぶ。
ちゃんと最後まで通して観たわけではなく、テレビ放映で途中から見始めたくらいの記憶だ。



【湯殿山麓呪い村】の永島瑛子。
渋いバイプレイヤーの女優さんだ、と今では知っているが、そのときは何度見ても特徴を捉えられなかった。顔が陰った地味な人相も表情も、状況も、なんだか曖昧でわからない。
うちの小さなテレビのブラウン管の中でそのシーンを見ていたので、ほのかな覗きからくりのような画面だった。記憶は定かではないので間違いかもしれないが、赤暗いような光の「部屋」と、落ちぶれて絶望をポツポツ口にする女が画面にいた。
その女が束の間、男に身体をいじられたかと思うと、何かのはずみで殴られるかタンスに頭をゴンと打つかしてしまい、そのまま動かなくなってしまった。



子供だったので、その場末の「部屋」の頽廃的な雰囲気の意味も、女が零落してその「部屋」で何しているのかということも、よくわからなかった。
一緒に観ていた親に「このヒトだれ」ときくと「さっきでてきた主人公の恋人だったヒト」と言った。
「途中から消えていたあのおねえさんが、こんな暗い穴ぐらにじつははまりこんでいて、助け出されるのかと思ったら、頭打ってあっけなく死んだ。以下沈黙。生涯終わり。 ツーー(脳波)」
の孤絶感にあっけに取られ、子供心に「人生は怖い」と身震いした。



この映画は、他に陰惨なホラー的シーンがかなり出て来るらしいが、一切覚えていない。
焼き付いたのは、あの脇役の永島瑛子の目立たない、あっけない末路だけだ。
温泉地で身体を売っているところをかつての男に再会する、という設定だったようだが、そんなことはまだ子供にはわからなかった。
その男と女がいる「部屋」の、仮寝の宿の感覚、人間の末路の感覚、穴ぐらの感覚、のわびしさだけが焼き付けられた。
その無力な寂寥感は、今でもことあるごとに自分の発想につきまとう。旅先の宿などで蛍光灯のパイロットランプをつけっ放しで寝床に入ったりすると、「赤暗い最期」のイメージがよみがえる。



自分にとって【湯殿山麓呪い村】の永島瑛子は、人はあんなにわびしく死んでしまえるんだ、というタナトス with カタルシスの手本でもある。
壁かタンスに一発だけ頭打って死ぬ割に、なぜかじわじわ腐って溶けるような壊死感覚がある。
映画的というより、リアルだ。無意識に自分の人生の末路に、そういうわびしい死を感じていないとも限らない。そういう生き方がしたいわけではない。けれど生きている限り忘れることのない何か、がそこにある。



幼いころ親がいない隙に、蒲団が積んである四畳半の、ガキながらも妖しい気分になる常夜灯の赤暗い光の下で、近所の男の子にとつぜん腹を数発殴られたことがある。
ショックからか、そのあと独りで吐いて苦しんだ。嗚咽しながら、何故か「許す」感情のカタルシスにも包まれていた。
あとで親が激怒して文句を言いに行き、私にも「あなたも怒りなさい」と苛立ってたが、自分は腰抜けた戦意喪失感で(もういいよ....いいんだよ)と脱力していたのも覚えている。
なんでそうなったのか訊かれても、「部屋」の雰囲気がそうさせた、としか言いようがなかった。



広い親戚の家にも、子供たちだけがうごめく死角のような「部屋」があった。
使われていない客間や蒲団部屋を、わざと常夜灯だけにすると、赤い海底に沈んだようだった。
そういう遊び時間、赤暗い灯のなかで、なにか言いようのない常識外の感情を知っていった。
子供の無邪気な世界でも、ああいう暗がりを通じて一気に、零落した大人の末路に繋がっているような気がする。
子供はその擬似的子宮の暗がりからすぐに這い出し昼間の世界に戻っても、大人がその中に退行する場合はそこで溶解し壊死していくしかない。



娼婦の部屋なり、アジトなり、世に隠された「孔のような部屋」は、子宮的感覚と溶解の危機とをあわせ持つ。食虫植物のウツボカズラのようなものだろうか。
そこでは愛憎や被虐・嗜虐の境界も、溶ける。
あのシーンが強烈なので、【湯殿山麓呪い村】の映画を通しで観ようという気はいまだに起こらない。
by meo-flowerless | 2016-04-27 00:18 | 映画

ヒッチハイカー

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明日やあさってのことが目に浮かぶ 
平原や砂漠を走り抜ける自分が
悪夢のように一人きりで
そして彼を見るの 
迂回路で 踏切で 信号で停まるのを待ってる


あの世とこの世の狭間には、「その世」があるのではないかと漠然と感じている。
身の上に不思議体験が起こったことは今までないが、生と死の他にもっと別の時空があるのじゃないか、という感覚はまえから自然に持っていた。
超常現象や心霊現象と言って騒ぐのは嫌いだが、確実にこれだけはどこかにある気がする。
第三の道への分岐点、奇妙な時空への迂回路。


いまはまっているのは、隔週でアシェットから刊行されている『ミステリー・ゾーン』DVDコレクションだ。
明け方にその中に収録されている「ヒッチハイカー」という話を観て、何か自分の中に漠然とあった感覚にチューニングがぴったり合ってしまって、眠れなくなった。

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by meo-flowerless | 2013-11-01 18:02 | 映画