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カテゴリ:旅( 91 )

他生への郷愁

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「他生への郷愁」とでも言えばいいのか。
たまに、自分の過去の記憶外のなにかが、感覚として押し寄せることがある。
私のとも言い切れず、でも誰か別の人のものとも言えない。記憶とすら呼べないような、夜風に撫でられるときの寒気のようなもの。未知の領域でも既知の領域でもない知覚たちが、灰汁のように浮上する。



前世というほど過去のことではない。が、必ずしも現在だとも言わない。
自分と同時代を生きていたことのある人が、遠いどこかで感じていたであろう、あるいは今感じている、人生の震えのようなものが、ふと傍受されて、皮膚をゾワッとよぎる気がする。
気がする、だけかもしれないけど。



【ふたりのベロニカ】という映画がある。
ポーランドとフランスの二人の「ベロニカ」は、顔も能力も癖も同一人物のような人間だが、互いの生を知ることもなく、全く別の人生を違う土地で生きている。
が、片方のベロニカはうっすらと、もう一人の存在の死に重ねて自分の生がある、ということを知覚することがある。
あの映画のような「無性に懐かしいが、知りはしない」存在が、私と同じ「私」という生を、どこかのパラレルワールドで生きているのかも、と思ったりする。




日本にいる時にそういう感覚がするときは、どうせ忘れていた自分の過去がフラッシュバックしているのだとか、親の話から想像した過去に感覚ジャックされているのだとか、なにかのテレビドラマが自分の記憶に重なったのだ、と考える。
けれど、海外の町にいるふとした瞬間に、強烈な「縁」の感覚と、その縁の喪失感のようなものにおそわれるとき、その既視感の出所について、つい不思議になってしまう。



ドイツのケルン近郊の小さな町に行った時に、何気ない新緑の風景にふと、幼児の遊ぶワークルームのような場所の匂いや光の記憶がどっと襲ってきた。それは日本の幼稚園の感じとはかなり違う記憶だった。
あと、行ったことないのに小さい頃から、「ロンドンの文具屋か本屋のようなところでインスタントレタリングを選んでいる」という未知の経験が自分のもののように蘇ることがある。そのとき、なにかの鐘の音とともに蘇る気もする。
ほかに、アメリカでも東南アジアでも、町の郊外の高速道路が殺伐とした風景を呈しているような場所に行ったときは、たいてい胸を突くような、何かの記憶が蘇りそうになる。が、映像として思い出せはしない。そういう理由で、まだ旅の始まっていない、或いは終わった時点の、郊外の空港と町を結ぶ経路のどうでもいい殺風景なんかに限って、旅行の一番鮮烈な印象として刻み込まれることが、たまにある。




匂いや光に感じる既視感は、時間や場所などに対する感覚のトリップだ。
が、人の存在に対してさらに「他生遠くへ」いちばん自分を飛ばしてくれるものは、雑音混じりの音楽だ。
通りすがりにある感じの歌声を聴いたとき、ある感じの和音を聞いたとき、エコー感のある時など、いくつかの条件でふとその、未知と既知の狭間のパラレルワールドに、急にシンクロするような気がする。




数年前、ベトナム・ホーチミンで、1950-70年代くらいの女性のくらい歌謡曲ばかりかけている料理屋に入った。
ベトナム歌謡はメロディラインに特徴がある。東南アジアのポップスの曲調は少しずつ違えども結構似ているのだが、ベトナム歌謡のあの何とも言えないラソレ↓と下がっていく音階を聞くと、なぜか記憶の底深くにふと手を触れられたような気分になる。
それを店で聞いた時も急激に、胸が掻きむしられるような気持になった。日本の演歌に対する既知の郷愁とは何かが違う。日本に帰ってきてから、いろいろ探して、声質や歌などからKhanh Lyという女性歌手の1960年代頃の昔の曲が、一番その時聴いたのに近かった。



昨夜からまたKhanh Lyを聴いている。
どこかの知らない、西洋圏のリトルアジア的な渇いた小さな異国の町の空気感、どこかの誰かの死んだ夜の寂しさ、一抹の不吉な腐臭、不遇の感覚が、押しよせている。
この、他生に遠く呼ばれる感覚。一体、ほかの誰の人生に対して胸が詰まるんだろうか? と、気になる。



その他生に対する感覚は、殺伐とした郷愁である。と同時に、とても親しみのある旅愁でもある。
たとえば海外に渡航して、夜に宿のベッドの上でひとりその国のラジオ歌謡をぼんやり聴いていたり、青い深夜テレビを見つめている時間の、孤独が極まれば極まるほど、ああ私は独りではない、と思うことがある。(一人旅をしたことがあるわけではないし、ホームシック的な郷愁のことを言っているのではない)
そういう時想いを馳せるのは家族や友でもない。世界のどこかにいる、未だ顔を見ぬある存在の気配である。



うまく言えないけれど、たぶん目には見えない「因果」や「運命」は、自我などというしろものと契約を取り交わしているわけではないのだ。名前や肩書きにおいての我執的生きざまの果てに、運命などというものがあるのでは決して「ない」、と思う。
そして運命というものは、けっして大袈裟な結末や事件として自分の目の前に降り掛かるだけのものでもない、とも思う。淡々と自分の知らないところで平行する世界を実は持っている、それを普段は知覚することが出来ない、そんな、「手は届かないが確実に備わっている縁や運命」というのがある気がするのだ。



ふと、自分が「どこの何者でもなくなっている」ような時。旅先で疲れてひとり、自我をはぎ取られている時間。国籍も名前も記憶もどうでも良くなった瞬間。そういう時に限って、なにかの密度が、世界ごとどっとこの存在に流れ込む。
危ういジャック感覚の中にだけ、運命との出会いはある気がする。
by meo-flowerless | 2016-06-04 02:44 |

東大寺のXJAPAN

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五月。毛穴から自然の霊気が行き来するような気分だ。素晴らしい季節。
そして古美研の季節だ。
古美研とは、勤めている大学の、伝統ある古美術研修旅行のことである。奈良、京都の寺社を巡る二週間の研修。在学中に一度しかいけないところが自分は教員となったので、三年に一度引率をする。油画科の行く時期が、四、五月の一番いい時期。
今年は自分の引率ではない。けれど季節柄、思い出している。



京都もいいが、奈良の包容力のほうにひかれる。特に東大寺は何遍でも行きたい。
先生のくせに毎回たしなめられるが、太い柱の木を頻りに手で撫でてしまう。
季節のせいなのか歴史のせいなのか、風景の全てに「呼吸感」があるように感じる。自分が日頃の生活で深呼吸を忘れ、息を詰めて暮らしているのに気付かされる。
肺が目覚め、器官が震えるような呼吸。光に満ちた晴の日でも、肌寒く濡れる雨の日でも、奈良でならそれが出来ると思ってしまう。



研修中、暗くなってから学生達と一緒に、二月堂の高楼に上がったりする。
そこからの奈良の灯をぼんやり見下ろしながら、他では味わえない感傷に浸る。
時間に対する感傷ではあるのだが、「人の経てきた時間」に対する感傷でも、風景のに対する感傷でもない。「ものの経てきた時間」に対する感傷だ。



奈良の寺社の黒ずんだ色。時を経ても、派手であったであろう当初の色に塗り返さない。
その黒ずみを選んできた奈良人の感性は、情感よりは霊感に近かったのではないかと思う。人の魂以上の「ものの霊魂」をそこに感じない限り、そういう選択はなかったんじゃないか。
現在の修復や色の塗りかえしが悪いとは全く思わない。かつて意味を込めて建造され彩色された建造物や装飾物を、歴史を超えて経験出来るから。でも、奈良の寺院の持つ古色の雰囲気は、また別の次元の感覚の話だ。
あの黒ずみの奥底から、建築や仏が...と言うより、その材質が「息をしている」のが聞こえる気がする。そんな感覚をもって、人々はあれを新しい顔料で塗り籠め「息を詰めさせる」ことをしなかったのだろう。
そう、勝手に想像する。



古美研にいくたび、美術に携わりながらも美術などという言葉は、近現代人の思惑にまみれすぎているのかもな、と思う。今の美術という言葉にどこかつきまとう、何かを理解しようとか学習しようとする集中力は、深呼吸を生むのではなく、逆に「息を詰めさせる」。緊張しながら鍵を解かなくてはいけない、神経的試練のようなものだ。
本当は、奈良の寺社や仏を体験することを、古美術体験などと言うのは抵抗がある。
というか、そもそも、そうではないだろう。あれらの全ては、そこに立つ者が「息を吹き返す」感覚のための環境装置であって、それ以外の要素は不必要なのかもしれない。



夜の春日大社にも、思い入れがある。
春日大社に夜入っていいのかどうか、は知らない。でも学生と探検していて、迷い込んだ。
遠近も分からず手探りでもがく森の暗闇の中、砂利の白さだけが夜の波の航路みたいにぼやっと泡立っていた。あれほどの暗闇は、他にあまり経験していない。
糞の臭気とかすかな音で、木陰に鹿たちが潜んでいるのが分かる。獣の潜む気配とはこういうものか。圧倒的な量の夜気が人間の身の丈を教えてくれる。



歩き尽くしてどこかの広い野原に出た時、学生たちとガキのように野原を走った。興奮の余り、誰かが小川の水に嵌まった。
何故か、泣きたいような気分になっていた。
解放感というのは、哀しみと背中合わせのときがある。日頃どうして、こういう五感の開放を自分に許していないんだろう、という、長い嘆息のような解放感。



解放感の哀しみは、学生時代に若草山でも体験した。
寺社見学の行程が早く終わり、数人で夕暮の若草山に上った。芝というか草原の丘だ。
西日のなかに赤く沈む奈良の街が、何となくせわしない。
「なんかライブがあるらしいよ、東大寺で」「え?東大寺で?」「XJAPANが来てるらしいよ」
などの会話をして、芝に寝転ぶ。
桃色とも水色ともいえない、夕暮の空が流れて行く。
そうやって草の上に寝転ぶことなど、まだ若い大学生でいてさえ、どんどん忘れていく。自分の存在が何か空気に剥き出しになっていることが本当に久しぶりのように感じ、なんともいえない胸の痛みを覚えた。このなんでもない時間、どうでもいい会話、どこともいえない(いや奈良だけど)旅の空。



その時、空一杯にジャバーンというようなギターのこだまが炸裂した。花火大会が始まった最初の一発のような華やぎ。びっくりして、みな草の上から跳ね起きた。
半信半疑だったライブは本当だった。古都の空の幕が開けていくような感じがした。歓声の気配が下方でしている。
なんともミスマッチで不思議な状況。寺の梵鐘がゴーンという静寂の夕景に、金属のお椀をガランガランと落っことしたみたいな音響が重なる。
流れ出した曲が何の曲か私は知らなかったが、高音の声は彼らのもののようだった。様々な山や建物の斜面にこだまして音が揺れていた。



XJAPANと奈良は意外にも、絶妙の相性だ。
遠いビブラートが、何か遥かなものの呼吸を呼び覚ます。宗教的な叫びのようでもある。
音があちらこちらに呼応するせいか、つい数分前よりも下界の街を見下ろす自分の視野が広がり、いっきに風景が全方位パノラマ化する。
普通に考えれば「こんな宗教都市で野外に音が漏れまくるライブなんてけしからん」なのだが、そんな考えを洗ってゆくようなじわじわした余韻の情動が、胸に込み上げてくる。フシギだ。
奈良の包容力が、音韻を風景に取り入れてくれるのだ。もし京都だったら、やっぱりけしからん気にさせられたかもしれない。東儀秀樹とかなら合うのかもしれないが。
皆も何故か笑いながら、「何か妙に感動するな」「寺も粋なことやるな」などと呟いていた。



青く光る東大寺のあたりを見やりながら、こういう奇妙な経験の情動はきっと絶対忘れないのだ、と予感した。
客としての対峙ではなく、行きずりの、バックヤードからの無責任な立ち会い。そうだ、経験というのは「わざわざしにいく」ことだけではない。「図らずも、その場に立ち会う」のも経験だ。
そういう経験は、積み重なるというより、体に浸透して身体そのものになっていくのだろう。
経験を呼吸する器官は自由に開放されている。奈良とXJAPANという奇妙な融合が、不意に私にそう気付かせた。
同時に、再び草に寝転びながら、このような感覚の「自由」を、私という存在はいつまで忘れずに保てるのか、不思議な哀しみを感じていた。


五月......そんなことを思い出した。
by meo-flowerless | 2016-05-22 23:34 |

時空とエアポケット

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このごろ、文章に「時空」という言葉を多用してしまう。
一過性の口癖ではない。ある感覚を現すにはこの言葉しかない、という妥当感があり、これからも使っていく言葉だと思う。
五月の講義でも、自分なりの「時空」感覚について話そうかと考えている。



歳をとるにつれ、自分の関わる時間と空間に、権利や義務が付随することが多くなる。
社会に組み込まれれば当たり前のことなのだが、時間的空間的な自由を何とか切り詰め工夫しなければ得られないのと同時に、心の内面的な自由までそうなっていくような気がしている。
ものをつくる仕事をしている以上、「心の自由」を切り詰めることは本当に嫌だが、ものを作るのを「仕事」と思う時点で、もう自由ではないのかもしれない。



けれど、時間空間を併せ「時空」という言葉を使ってみると、何だかすーっと誰にも邪魔されない宇宙に吸い込まれるというか、透明人間になって好きなだけ好きな中空を浮かんでいるような、いい心地になってくる。
特殊相対性理論なんていうものは私の愚かな頭に理解出来るはずもないから、イメージの「時空」でいい。
「自由」という言葉を「自在」に置き替えてみると身体が楽になる感覚がある。自由にはそれなりに自力の飛翔の労力を感じるが、自在にはテレポーテーションの神出鬼没性を感じる。「時空」には、自由より自在が似合うかもしれない。




「時空」という言葉はSF的で、それを動的に「超える」という言い方の時に使われることが多い。
自分にとってのイメージの「時空」には、「嵌まる」という言葉を使いたい。
中空にポカッと、自分にしか見えないカンガルーのポケットみたいに浮かんでいる、じっと潜伏可能な「ふところ」なのだ。
この時の、「中空」という言葉の感覚も大事で、それは決して「空中」ではない。
時空、中空どちらにも出てくる「空」は、私には天ほど高いところにある空をさすのではなく、斜め上に顔をふと上げたときの空気中の空白......ややこしいな、「うわの空」の「空」とでもいっておこう。



同じような感覚で使う言葉に、「エアポケット」がある。
「エアポケット」に関しては時間的なというよりも、空間的に他から切り離された独立した空白、という感覚で使っている。




中学生の夏の終わり、最寄りの駅の反対改札側の町を母とゆっくり散歩していた。
ある程度道を知っているはずなのに、まだ知らない風景や抜け道がある。迷路に迷い込んだ気分だった。入り組んだ住宅街を抜け、視界が広がったと思ったら、驚いた。
突然ひまわり畑が広がっていた。
ひまわりは夕風にかすかに揺れ、うつむいていた。偶然自分は黄色いひまわり柄のワンピースを着ているのだった。ワンピースがこの風景を引き寄せたのか、と思った。
近所にこんな花畑があることに何故か長年気付かなかった。ここだけ夢のように時が収縮している気がした。




母も同じように、狐につままれた気分がしているようだった。そのとき母が言ったのだ。
「エアポケットね」
ひまわり畑の向こうには平屋一戸建住宅の敷地が広がっていて、そこに辿り着くのも初めてだった。帰宅して地図で調べると国鉄職員宿舎だった。
数年経ってふと思い出して行ってみたときは全てが無くなり、痕跡のない更地になっていた。
やがてマンションが建って、記憶も薄れていった。
けれどあれ以来、歩きながら途中でふと夢うつつの「エアポケット」に紛れ込む場所を、いつも探している。




「時空」も「エアポケット」も、ノスタルジーを感じさせる常套句だともいえる。
それらの言葉の口当たりの良さはどうでもいい。あの「ふところ」感覚が私には大事なのだ。
自分自身からも迷子になっているような、抜け穴入口のメビウスの輪っか状に気を取られ延々とねじれの上で輪廻的徒歩をしているような。
行ってるのか帰ってるのかわからない感覚が、私を解放してくれる。




この世界の誰からも忘れられるなんてことは、本能的に寂しい。
けれど、どうか束の間思い出さないでいてくれ、と意味もなく思っていることも、また本能的にある。
夕食を作るのに忙しい母親が、頭の片隅で子供が帰宅しないのを認識しつつ、それほど気にもしていない。そんな黄昏のひととき、まだ帰りたくない子供の、迷子や神隠しとまでは行かずとも「今だけは風船のひもが、ふと切れている」というような遊離感覚を、いまだに心で大事にしている。
自力で帰る力のある限りは。
by meo-flowerless | 2016-04-01 03:32 |

一橋大学

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他校の学食を食べたくなるお昼がたまにある。今日もそんな日だった。
立川に出る用事があったのでそれならばどうせ、と国立まで足を伸ばす。
国立の大学通りは思い出の道だ。小学校六年間この通りにある私立小に通った。
大学通りは桜が咲き始めていた。むかし珍しい青いスミレが咲いていた苔むしたモルタルの長屋は、バーミヤンに変わっていた。


大学通りの「大学」とは、一橋大学のことだ。
今も三十数年前と変わらぬ門の佇まい。変わったのかもしれないが、同じような文字、同じような色の学生の立て看板がある。大学祭前後には[◯◯ at 兼松講堂]などと書かれたライブの告知の大きな手書き看板がいくつも並んでいた。松任谷由実、大貫妙子なんて名をそのタテカンで知った気がする。


一橋大学の校舎の素晴らしさは、全てが煉瓦で出来ていることだ。古びているようでもあり新しい外国のアパートメントのような趣もある。
首を曲げなくては天が見えないほど背のひょろ長い松が煉瓦の隙間に伸びている。


グラウンドで陸上部がトレーニングしているのが見える学食で、カレーとポテトコロッケを食べる。
一橋大学は昔から「質実剛健」という感じがする。というかオトナっぽい。
自分が小学生の頃のお兄さんたちは、80年代でも長髪にサンダルという、昔の学生感覚をにおわせていた。決して美大のようなルーズな派手さ(イメージ)ではなく、何気に英語の小説くらいはポッケに入れていそうな知的雰囲気があった(イメージ)。


文学部志望だった頃に都心の大学に見学に行ったが、自分が小さい頃に抱いていた「大学」と何かが違い、規模がでかすぎるわなんかチャラいわで憧れがさめ、英・国・社の勉強に身が入らなくなっていくと同時に、美術志望に傾いていった覚えがある。
そのとき比べていた「大学」らしい「大学」は、幼い頃通った道の「一橋大学」だった。


「深い緑があり、建物が奥ゆかしく、アンツーカーのグランドで部活動をしている人がいて、学食で勉強している人がいて、学園祭はDEEPで、ユーミンまで来て、そんな学問空間が賑やかな町中にある」というイメージを全て裏切る、芸大の「取手校地」の一期生になった。体育の時間はグランド(草原)の草むしりだった。学食からは、赤いミニスカートからパンツ出してダンボールを敷き、崖を芝滑りしている同級生が見えた。


今日は食堂の窓際で、ひとりでゆったり勉強をしている渋いおにいさんがいた。横顔が美しい。
おにいさん、と思ったのだが、考えてみれば仮に院生にしたって、私より十以上は年下なんだな、と思い複雑だった。自分は何も成長していない。
by meo-flowerless | 2016-03-23 20:19 |

保健室ホテル

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昨日、茨城県で催されるアートプロジェクトの話し合いをしながら、ちょうど去年の今頃このプロジェクトの下見で茨城北部を訪れた時のことを思い出していた。


昨年三月。マイクロバスに揺られ大学の先生方と一緒に、日立鉱山跡や五浦の海など昼間のうちに十カ所ほどを訪れ、夜になってようやく北茨城市のビジネスホテルに辿り着いた。
夕飯時、どうも先生方の会話がちっとも頭に入ってこない。思えばその時からぐったりしていたのだ。このヒトは無口なのか?と怪訝そうな顔をされつつ、その日は各部屋に引き取って寝た。


胃痛に苛まれ始めたのは、その夜中だった。
付け放しの枕元の灯のなかでパチっと目覚めた。熟睡から突如目を覚ますということは身体がおかしいということだ。胃液の中に溺れているのかというくらいに、おなかが気持が悪い。関節痛がしてきて急激に発熱、吐くこともできず一晩中苦しむ。火のような胸焼けに、逆流性食道炎とはこういうものか、と初めて知る。
苦しみ抜いて一睡も出来ず、朝を迎えた。
同行の事務の方がフロント経由の電話で知り様子を見に来た時には、海老のように腹を丸め、二三歩歩くのが精一杯だった。


心配する先生方に謝り、結局私はそのビジネスホテルに寝付くことになり、皆はマイクロバスで帰路についた。朦朧とした意識でフロントからタクシーを呼んでもらい、一時間弱かかる病院へ一人で行った。
雪が降っているわけでもないのに青白い、関東の平野が延々と続く。体調のせいで視野が青く染まっていたのかもしれない。
よくあるおなかの風邪なので、まあ二、三の薬を呑み、治るまで安静に、と病院で言われた。
灰色ボール紙で造った模型のような病院のロータリーで悪寒に震えていたら、行きに呼んだタクシーの人が遠い駅からまた来た。言葉少なだが事情を察し、心配してくれた。


病院に行ってやはり少し安心し、さて、と考える。あの過酷な出張からも、自分は開放されたのである。
休もう。休むのだ。人間を休む!
ビジネスホテルは本当に簡易で、新しくもなく広くもなく、かと言って不潔でもない、要は私が一番好きなタイプの、「ほっといてくれる」宿だ。
夫にも電話をして、治癒するまでビジネスホテルで安静にしていることを伝える。迎えにくると言ってくれたが、こちらのほうが東京まで四、五時間かけて帰る体力はないので、当分ホテルに留まることになった。


遠い知らない町でたった一人、病床に埋没する。
胃腸の症状は治まってきたが、高熱の疼痛が酷くなり、寝返りを打つ時もいちいちうなる。タクシーの途中で買ったポカリスエットを一口飲んでは寝、一口飲んでは寝、を繰り返す。
白い天井を見ながら、何だか透明な涙がすうっと流れてしょうがない。不思議な涙だ。ものすごく心細いのだが、不安とも違う、逆に幸福感のある心細さなのだ。
何の音もしない、何の動きもない、何の存在理由もない。ただ白い天井と、白い蒲団と、動かない身体と、気怠い涙の感覚だけがあるこの感じを、どこかで知っている。と考えて、小中高校の「保健室」だ、と思い当たった。


常連でこそなかったものの、保健室にたまに眠りにいっていた生徒だった。心の悩みで、という日もある。その時のあの、水槽の底のような密室感。
白いスクリーン衝立ての向こうから休み時間ごとに聞こえてくる、保険医先生と生徒との会話を聴きながら朦朧とする時間。ずっと何かの装置が、ムーンと気怠げな音波を放つだけの静けさ。消毒液の匂い。具合は悪くても、あの解放感と幸福感はなんだったんだろう。最も得難い上級の孤独、という感じだった。
大学以降にはずっと忘れていた独特な幸福の感覚、それを今、この知らない町の知らないホテルの一室で味わっている。こうやって倒れることによって今、手に入れることが出来たのは、時間でも空間でもない。私だけの「時空」という不可思議なヤツだ、と思った。


ようやく熟睡し目覚めた時には、暗い部屋のテレビがもうテストパターンの虹色画面になっていて、「ぷーん」という発信音波が漂っていた。
それを薄目に見て、ああなんて幸せな孤独なんだろう、とまた変な涙をチョロっと流し、眠りに落ちる。
「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる、だ」と何度も夢の中で、松尾芭蕉の辞世の句を思っていた。


結局私は、そこに三日くらい居た。
ぎすぎす軋む身体で、本当に何もない殺風景な町を歩いて、粥や水などを買ってきて、ホテルのレンジでちんして食べた。
こういうときこそのビジネスホテルである。いいホテルや旅館では、このように病で寝付くことは出来なかったかもしれない。ホテルの人は何も干渉をしてこなかったが、とにかく身体を休めたい私の事情を察し、それとなく助けてくれた。


歩いて初めて、そこが磯原という駅の傍だと知った。
人っ子一人歩いていない、白い埃の中のような町をとぼとぼ行くと、何となく岸が荒んだ感じの川があった。なぜこんなに河川敷が荒れているのか、と考えてようやく、この土地が津波にやられた町なのだ、と思い当たった。


三日目の早朝、大学の仕事に戻るため、私はホテルのフロントの人に礼を言い延滞分の料金を払って、その町を出た。
駅で列車の時刻を見ると、十五分ほど時間がある。病み上がりの身体だが、走って、最後にこの土地の海を見に行こうとした。しかし海は遠かった。歩道橋に上がって、海から来る朝の光を見た。
これまで見た中で一番金色な金色だな、と思った。
病気で寝付いて人にも心配をかけたにもかかわらず、極めて満足の行く一人旅をしたあとのような気持で、列車に揺られて東京に向かった。
by meo-flowerless | 2016-03-22 11:11 |

カカシ山

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東京の端の市、そのまた奥地、というようなところに十年前は住んでいた。
薄暗い山を切り開いた丘陵地の団地。建築群をカードみたいに差し込んだような風景がずっと続く。
牧歌的な地元農家暮らしもごくたまに見受けられるが、土地を団地向けの大型スーパーや駐車場に明け渡す家も多い。
殺伐さにさらに山林が陰影を加えている、それが八王子だ。


そんな風景の中、幾年も前の散歩の途中に、とてもインパクトのある山の畑を見つけた。
狭い斜面を無理矢理段々にしたような畑のそこここに、ハロウィーンの後始末のようなカカシが点在していた。


「うわー、手作りなんだろうな」....って、カカシは大体持ち主の手作りだが。
創意に満ちた人形たちに茫然としていると、畑の上のほうの小屋にいたおじさんに「良かったらゆっくりしていけ」と呼ばれた。
小屋でお茶をご馳走になりながら、世間話をしたりしてぼんやりした。
しかし何を話したか全く覚えていない。
烏骨鶏やニワトリが小屋で大騒ぎしていたせいで、その音の記憶しかない。
おじさんはその並びの小屋にベンチと座布団を置き、変わりゆく団地の丘陵を眺めて暮らしているのだった。  
畑の背後は山になっていて、おじさんとともに山を歩いた記憶がある。タケノコの夥しさに手を焼いていた。


日本のいろいろなところを旅するが、時折通りすがりのカカシのなまなましさやズレた創意工夫に心奪われることがある。
これが「カカシコンテスト」とか「時事ネタを織り込んだカカシ作品」とかになってしまったら、もうだめだ。
純粋に烏や雀を除ける道具でもなく、カカシの造形性を芸術性と言い切ってしまうのでもない、その間がいい。
人がお化け屋敷を必要としダッチワイフを必要とする....のとおなじところのハリボテへの情愛に魅かれる。


ずっとここを再訪したかったが、隣町に引越してから、行っていなかった。
さすがに畑もカカシも取り払われたかな、と十年の月日を経て、冷たい雨のそぼ降る中、今日訪れてみた。
カカシはひとまとめになっていたが、まだあった。
そして、雨のせいなのか、記憶よりずっとホラー感覚が色濃かった。おじさんはいなかった。烏骨鶏はまだ騒いでいた。
山の入口のカカシはもはや、道ゆく人を怖がらせるためとしか思えなかった。


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by meo-flowerless | 2016-03-14 17:45 |

八丁堀

この間、夜の運動場に水の反射がただ揺らめいている夢を見た。
ナイターの灯に照らされる何かの運動場。80年代のB級映画にはそんなテニスコートや夜のプールがたまに出て来る。12チャンネルでよくやっていたようなSF・エロ・ホラーの要素がいい加減にはいった映画。


その夢から覚め、「八丁堀」に、そんな夜のバスケットコートがあったような記憶が蘇った。
八丁堀。江戸前な土地の名と、B級SFの欧米人感覚のミスマッチ。
無人のバスケットコートは集光灯の白光をさえざえと照り返していた。宝石のないショーケースのようだった。
誰かの家に夜お邪魔する途中だった気がする。川もあり、水の照り返しの上ゆらゆらと橋も渡った。


なぜ八丁堀の記憶があるんだったか。経緯の記憶というのは本当にか細く淡い。
意識を遡ると、「Burnableごみ」という下手な字とともにその夜の記憶がある。
あの辺にあった外国人向けアパートの階段下に、誰か留学生が英語と日本語のチャンポンで書いていた貼紙だ。


そういえば、イタリア娘のフランカの下宿だった。
なぜか同い年くらいのイタリアの女の子の家に三回だけイタリア語を習いに通った。
油画科の級友が数人いた。その中の誰かが、殆ど行きずりのようにたまたま知り合ったイタリア人だった。それ以上の経緯が全く思い出せない。
青く浮遊する町と、下宿の壁にあった子供の落書きみたいな外国人たちの貼紙、ささやかなパーティーの残骸の折紙装飾の色彩だけが、次元スリップした別の星の記憶のように残る。


普段寡黙で訥々と喋る親友のワッコが「あなたの喋り方はイタリア語ではなくスペイン語に向いている。まるでスペイン人のようだ」とフランカに妙に褒められていた。フランカの作るカルボナーラスパゲッティに期待していたが、本場のイタリア人のパスタはこんなにまずいのかと思うほどまずかった。
確か三回しかレッスンがないままフランカが帰国してしまったので、イタリア語も全く上達なんかしなかった。ワッコが数を3まで数える「ウーノ、ドゥエッ、トレッ!」という叫び声が浮かぶから、そこまでは習ったのだろう。
そしてそれだけの記憶である。


そんなことを不意に思い出したあとに、たまたま永代橋から近代美術館のフィルムセンターまで歩いて散歩した日があった。
八丁堀も通った。この土地を歩くことは普段滅多にない。真昼の光景から何の記憶も辿れはしない。
あの不思議な時空、宇宙の星のようだと思った空間は夜の光のなせるわざだったのか、それとも土地自体が変わってしまったのかさえ、わからない。たしかに川はあるが、あれはこの橋を渡った記憶ではない。


バスケットコートなんかももうどこにあるのかわからないだろうな、と思った瞬間、斜めに伸びている細い庶民的な道が、急に目に入った。
おそらくここがフランカのアパートのあった路地だろう、と直感した。
赤いクレヨンの「Burnableごみ」の文字が、脳裏にまた揺らめいた。
連れが先を急いでいたので行ってみはしなかったが、記憶の本丸だけが、むきだしの果実の種みたいに最後に残されている気がして、不思議だった。


あの時のまずかったフランカのツナカルボナーラのスパゲッティの味だけはよく覚えている。これを書いてみたら、それが妙に食べたくなった。
自分も幸い料理はそんなにうまくないし、今日は一人だし、ぼそぼそスパゲッティにしてして作ってみようかと思う。
by meo-flowerless | 2016-03-06 12:19 |

ホーチミン日記8.18-2

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午後は、念願の「チョロン」地区へ。
チョロンとは地名ではなく、大きい市場街というような意味の地域で、屋根つき施設の大きな「ビンタイ市場を」中心とした、中華系問屋街の総称だ。
東京で言えば合羽橋やら蔵前やら浅草橋と、横浜中華街が合わさった感じ。
でもその熱気と言うか混沌の風景は、とてもとても日本人が自国で今の時代お目にかかれるようなものとは違う。


昨日は市の中心部の「ベンタイン市場」へ行ったが、これは観光客にも対応したスレっからしたところのある綺麗な市場だった。
けれどチョロンは、本当の中華系ベトナム庶民の生きる場としての問屋街だ。
タクシーが市中心部からはずれチョロンに近づくごとに、夢のなかで見たような捩じれた猥雑さを持つ混沌景が繰り広げられていく。
ありとあらゆる声の出し方のクラクションでお互いを牽制し注意をしあって、轢かれそうになっても何も気にせずバイクと車が進路を絡ませる。
日本人が住みついてもまずこの交通事情でストレスに陥るだろう。日本の硬質なスピード感覚、真直ぐな進路感覚で道を歩いたり走ったりすると、かえって危険だ。


バイクと同速度でゆく自転車のドラえもんガール。ドラえもんはベトナムで根強い人気キャラクター。

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by meo-flowerless | 2014-08-19 08:43 |

ホーチミン日記8.18-1

午前中のうちに、ホーチミン市立美大にて、このプログラムの開会式があった。
ベトナム、タイ、カンボジア、ラオスはそれぞれ近いので各美大同士の交流もある。極東から滑り込むような形で、芸大はこの東南アジアの交流に名乗りを上げたのだ。
芸大の偉い先生方は「東京芸大がいずれアジアのリーダーになるべく、交流の礎石を置いてこい」みたいなことを一応私に言っていたんだけど、そんなたやすいことじゃないし、そういう感覚ではいずれ何もかもから取り残されるような気がする。



ベトナムを初めとした東南アジアの国々が経験している様々な他国からの蹂躙と干渉の歴史、少数民族の存在、その結果による複雑な文化の絡まり具合。
一方、自国の文化が奇跡的な形で温存されているタイの人々の優雅さと誇り高さ。
背景を知らないまま近づいたところで、本当の意味での交流はなされないだろう、と感じる。

この市立美術大学にしても、「国立」ではないのは社会主義の国だからだ。国家は自由な芸術活動を奨励するわけがない。ベトナムの美術家たちは先鋭的であればあるほどアンダーグラウンドでの作家活動を余儀なくされていると言ってよい。
学生たちの作品は大まかに言ってやはりソビエト時代の美術の影響を受けたものがほとんどで、素朴な写実油彩や、労働や戦争をテーマにしたプロパガンダ的彫刻などが主だ。
そのなかでベトナムの伝統として温存されているのが「漆絵」「絹絵」のジャンルで、これの専門セクションは芸大で言えば日本画のように、絵画科の一部になっている。


かれらは頑なに自国の歴史をこちらに突きつけるような硬い態度を取るわけではない。
柔らかく細くしなる竹。それが東南アジアの第一印象だ。



日本のメンバーは私の他に、通訳のジャック、彼は米国からの留学生で博識な博士三年生。
高倉君はレバノンから帰国したばかりの第四研究室の卒業生、通訳可能なほど英語は堪能。
後藤さんは技法材料研究室の非常勤講師の女性。
西岡さんは日本画家の教育研究質の女性。


現地へ来てやっとその日その日の細かい時間スケジュールが発表された。
10日間のうちの初めのほうは、午前中に合同で様々な施設を見学、午後は自由、と言った形。
それでも朝、昼、晩はホテルに帰って食卓につくということが基本。
日本の旅館の食事つき宿泊とはまた違うのだろうが、食事に関しては外食抜きではなかなか不便ではある。

ベトナム料理は日本人の口に合うだけではなく、とにかく味のセンスがいいと言うか、何を食べても美味しい、と感じる。
すぐ隣にあるでかいスーパーで買うポテトチップの味付けまでもが、程よくガーリック、程よく肉パウダーが効いていて美味い。
二度目に訪れた漠然とした感想から言うと、悶絶するほど上手いレストラン飯を毎色食べて胃が疲弊するよりも、一汁一飯三菜を毎日違う形で簡易に出してくれるホテル飯のほうが健康的でいいのかもしれないけど。
by meo-flowerless | 2014-08-19 08:29 |

ホーチミン日記8.17-2

四時ちょうどくらいにお約束のスコールが降ってきて、またお約束のように止んだ。
私達のいる二階建てのホテルは、ビジネスでグループ宿泊するときの離れのヴィラのようなもの。
一日中となりのテニスコートから誰かのプレーする声が聞こえてくる。
赤いカーペットの廊下に新しい旅行客の男性陣、あれはきっとカンボジアの美大の先生方だ。
手を振ってみたら物凄く人なつこくみんなよってきて、お互い挨拶を交わした。


私達日本のグループは、ホテルでの夕食前にちょっとでもいいから、とタクシーで、市の中心部ベンタイン市場へ。
カラフルな虫のようなバイクの光景は、二度目の目にはもう珍しいというより包装紙の模様のようなデザイン的なものに見える。



味のわからない味つき煙草かなにかのエキゾチックな紙箱と銀紙をくしゃくしゃっとしたような、アジア的アルファベットの看板群。
フランスの植民地時代の名残のアパート建築群はどんなボロ屋であっても麗しい感じ。水色にひしゃげたリンドウの花のアールデコ調鉄柵に、安いお菓子色した洗濯物が引っかかっている。
コンクリートの壁がはげて結露とともに腐れ落ちそうだ。しばらく土の眠りから覚めることのない静まりきった過去の怨念を感じる。

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by meo-flowerless | 2014-08-18 00:58 |