画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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カテゴリ:旅( 88 )

旅愁の正体

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旅先のヒナびた土地。宿の蒲団に包まる22時頃、その土地にもいる暴走族のバイクの遠いうなりを、窓の外に聞くことがある。そんな時、夜の影がぐっと黒くなってゆくような悲哀感を感じる。ヒナびた空間に彼らが急激に引き連れてくる、遠い亡霊のような「青年性」が、なぜか旅の心にパンチ力を及ぼすのだ。

空耳のような爆音が過ぎまた静かになってしまうと、わびしさはひとしおである。あの暴風めいた音はどこに消えていくのだろう。夜のどこかを走っているには違いないが、幻の世界に帰っていくようにこちらからは聞こえる。八王子の自宅で聞こえていた甲州街道の暴走族の音よりも、なぜかリリカルで、幽玄である。ああこういうわびしさを「旅愁」というのだな、と思う。



また、峠を越えてゆくトラックのヘッドライトが遠ざかるまで、夜の旅館の窓からしんみりと光を見送ったりすることがある。あのトラックに朝が訪れることがあるのだろうか、訪れやしないのではないか、と想像をめぐらせる。生活感を剥ぎ取られ前進感覚のみが冴え渡った抜き身のドライバーの、魂の行方を追いたくなる。そのドライバーが若者であれ中年であれ初老であれ、そういう真夜中のトラック運転者の孤独にもまた「青年性」を感じるのだ。



青年というものは、他のどの世代の男やましてや女よりも死に近い存在なのだ、などと漠然と思わされる。青年の魂だけがあの世とこの世の境界にいつまでも彷徨しているイメージを思い浮かべ、うっすら怖くなる。青春を続けるうちに人生の幹線道路に二度と乗れなくなった、永遠の山林のロード。そういう勝手な妄想がよく、旅先で起こる。

こういうのはあくまでも自分にとっての「旅愁」だ。旅先の美味しい地のものも楽しい会話を楽しむことももちろんするのだが、それとは全く別に急に襲い来るあの旅愁には、甘いセンチメンタルではなく、一抹の死臭の緊張感がある。その感覚を私はとても、大事にしてもいる。



まがまがしさのない旅愁を、私は、旅愁とは呼ばない。旅愁とは戦慄なのだ。そして漠然とした危機感でもあるのだ。必ずしも旅のたびにそんな旅愁を感じなくてもいい、気楽な旅もしたいから。が、とくに印象に残る旅の記憶を辿るとやはり土地のそこここで、自分をゆさぶる不穏ななにかを敢えて感じとっていた気がする。別世界からだれか知らない青年がでおぼろげに呼んでいるような気がしてくる。「その土地のミステリーゾーンに吸い込まれて消息不明になったような存在」を妄想している時に、その土地で感じる旅愁の度合いが増す。



そもそも旅愁の感覚は、自分で体得したものではなく男の人に教わったような気が昔からしている。最初は父だったかもしれない。逢ったことのない祖父かもしれない。友達、恋人、夫…おそらく誰と特定出来るようなものではない。

地霊との仲立ちをするシャーマンという意味での「巫女」ということばがあるが、私は旅において、心のどこかに必ず「巫男」的な男の存在を必要としている気がする。この巫男が私にとって愛着や憐憫を感じさせる存在とは限らない。旅の同行者でもなくていいし旅先の土地の人でなくてもいい。むしろ寂寥や取り返しのつかないものを感じさせる怖さがなくてはならず、観念の「巫男」でいいのだ。地霊ほど縛られていないし具体的な人の記憶でもない、漠然と浮遊する「青年性」の総体のようなものが、都市の居住空間ではなく「旅」のかなたにふわふわ遊離しているのだ。




海や山より、それに至る道程の谷・峠、崖といったはざまの地形の複雑さのほうが、まがまがしさを感じさせる。車のハンドル操作をコントロールしきれぬ危険。そういう地形の風景の中に、ぽっかり別世界への「黒い孔」があいている....。廃トンネル、廃墟の窓孔。その暗がりに吸い込まれ、視界が黒く塗りつぶされる感じがする。

旅先のトンネルに感じる怖さ。黒い孔が思い出させるものはなんなんだろう。突き詰めていって、放心した青年の黒い目玉をふと思い出す。古い友か知人か、だれともない青年達の仕草や目つきが、何となく思い出される。なにかを真剣に話し込み、頭の後ろで腕を組みながらじっと空や天井を見上げながら考え事をしている。旅の果ての砂の上、安宿の畳の上。考えれば考えるほど思考が抽象的な死のほうに向かっていくときの、穴のように真黒な青年特有の眼。空虚に飲まれている眼。考えてもしょうがない夢想と停滞にボカッとはまっている眼。



むかし大学時代の男友達の部屋で、本棚に一冊の地味な冊子をを見つけて手に取った。それは彼の所属している山岳部発行の、数十年前の遭難レポートだった。一行のひとりが滑落した時間から救助に辿り着くまでの過程が時系列に沿って箇条書きしてある。遭難した男子学生の身体の反応が克明に記されているのが妙に心につきささった。瀕死の遭難者の描写に「ラッセル音あり」という言葉が気にかかかったので友達に聞くと、「ぜいぜい言う音や」と簡潔に答えた。その答えと、淡々と短いレポートに籠っている死の影がなぜか物凄くて、衝撃を感じながら冊子をしまった。友はまた言った。「その人の遭難地点に煙草一本ずつ火をつけて線香みたいにたてるのが慣わしや。一級上の◯◯さんが夜の山のテントで寝取ったとき、顔の逆光になって見えん登山者に火のついた煙草を口にくわえさせられたことがある、ていうてたな。その死んだ先輩やろな」

多分そのことは自分の妄想の一つの引き金になっている。山岳、山林、青年、死、そのイメージが多様な亜種となって自分の旅愁を刺激するようになった。




青春を過ぎていく男が若い希望の上にしだいに蓋をしてゆくときの、観念的な死。いまでは旅愁のなかの死臭とは実際の死ではなく、そういう観念的な死の匂いのほうに近いかもしれない。男はいつまでもやんちゃなガキだとよく言ったって、いつしか青年期は確実にその男のものではなくなる。男だけの遊び、男だけの旅には、私には何か、開き直った明るい「とむらい」の匂いさえする気がする。

廃棄された「青年期」が吹き溜まる場所がどこかの時空にある。神隠しの男がまだ歳をとらずさまよう山林がある。青春の苦い思いが澱のようにとどこおって一大別世界を形成している奈落がある。…..そんな別世界から旅愁の寂しい風は吹いてきて、私の頬を撫でる。

こういう妄想世界は私の作品にもにじみ出ているとは思う。昨年は巫女的なテーマで作品を作っていこうとしたが、難しかった。かつて書いた小説(それが博士論文でもあった)の筋は行方不明の弟を捜す姉という粗筋だったが、それを思い出すと、姿を見せてくれない男の聖性を仮定するほうが、いろんな想像が働くようだ。



男がなにかと訣別していく青年期の岐路が集結し、あの世の広がりのように存在する。終わることも交わることもない分岐がひたすら続く世界を、永遠に迷う旅人がどこかにいる。いつか自分がそちら側へ迷い込むかもしれない。いやいや女の自分はこちら側の世界に踏みとどまっても、見知った男をそちら側へふと迷い込ませてしまうかもしれない。危ない、と感じて気を引き締める。旅というのは、そういう分岐点へのあやうい恐怖と、山岳の薄氷を歩かされる一抹の危機感のようなものと、常にともにあるようだ。





by meo-flowerless | 2017-03-18 18:39 |

秩父三峰行

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休日。海か山かどちらかに出かけたいなどと漠然と呟いてはいるが、私はいつも腰が重い。しかし今朝は夫が「秩父に行こう」と起きた途端に私を駆り立て始めた。三峰神社に行く、というのだ。思いつきだろう。こういうことは日常茶飯事だ。

寝ぼけ眼で普段着のまま、駅まで走る夫に分けも分からずついてゆく。あと数秒のところで何とか電車に間に合い、八王子からの八高線、東飯能からの西武秩父線まで乗り継ぎがうまくいった。



秩父には、大学受験の浪人時代に一度行ったことがある。試験前に予備校のクラス全員で、秩父の神社に合格祈願に行ったのだ。三鷹の予備校から何故はるばる秩父まで連れて行かれたのか知らないし、帰りは電車を間違え、夜に高崎のほうに向かって延々と帰路を遠ざかってしまった記憶がある。しかし無事にその年に芸大に合格した。今日再びそこを訪れるなら、やっとお礼参りということだ。



夫が三峰神社を訪ねたいのは、昨年まで奥多摩の御嶽神社で修復の仕事をしていたことも関係しているだろう。御嶽神社も三峰神社も同じように、「狗=狼」を祀る武蔵国ならではの信仰系に属するのだ。彼自身が犬っぽいし、ひとより犬と心が妙に通じるからかもしれない。



梅花の盛りの村落をぐるりと見下ろしながらカーブする電車に揺られていると、「桃源郷」ということばがまだ廃れてはいない気がしてくる。やがてそんなのどかに深い渓谷や田畑の風景に、鉱山めいた採掘場の光景が入り混じるようになり、虎刈り頭のように段々に切り崩され鋭角になった武甲山が、目前に見え始める。桃源郷感は薄れ、山陰の色も濃くなり、もっとなにか見知らぬ悲哀のなかに歩を進めてゆくような感覚になってくる。



西武秩父駅について、三峰神社行きのバスに並ぶと「急行75分」と書いてある。えっ、一時間以上もバスに乗るほど遠いのか?前に神社に行った時には、そんなに遠くバスに揺られていった記憶がない。とすると私が十八歳のときに参った秩父の神社は、三峰神社ではなく別の神社だったのだ。なんと私は、失敬と言うか無頓着だったんだろう...



古い街道、昔の宿場の名残の道、麓のカーブ、ダムの大橋、そして急峻な山の細道をうねりながら揺られる一時間強の時間は、非常にきつい。景色を観たいが、目を開けばすぐにでも酔いそうな振動と回転。

今まで幾つもの深山の渓谷を旅したことがあるが、ここまで深い谷を見たことがない。たまに薄目を開けて車窓の外を覗き込んでは、背筋を震わせる。

天から地までのダイナミックな奈落がずっと続いているが、遥か下の水面はもう、視界から切れて見えはしない。自然の幽玄とは違う。工業の手が入っている雰囲気からか、ダム地特有の裏側感覚からか、「人の俗世のはて」を感じる山景だ。

家を出てから電車三本を乗り継ぐまでは、まだ何となくぼんやりと寝ぼけ眼の散歩気分だったが、突然我にかえる。なぜこんな地獄のように深い渓谷の崖を、自分はいま、心細くバスに揺られているのか...



一眠りふた眠りして、ようやくバスが三峰神社入り口に到着。二匹の狗が見守る鳥居前の食堂で、手打ちそばを食す。周りの客は、名物わらじカツを食べていた。

やはり以前に合格祈願に来たのは、こんなに遠いこの神社ではなかった、と確信した。それはおそらく駅の案内板にあった「秩父神社」だったのだろう。記憶がどこかで入れ替わったのだ。まあ三峰神社に代わりのお礼参りをしよう。



すこし歩くと、見晴らしのお宮があった。柱に一部分雪の結晶のような彫り物と白い塗装のある美しいあずまやのようなものである。そこからの山の眺めは、美しいというよりは凄絶だった。絶は絶景の絶でもあるが、断絶や孤絶の絶でもある。なにか言葉を失ってしまうような身震いを感じる。高所恐怖症でもあるのだが。

ずっと考えているのはひたすら、何故こんな急峻な山の奥のまた奥の奥に神社を開く気になった人がいたのか、ということだ。



本殿や山門の装飾は大ぶりで堂々としており、鮮やかだった。夫は特にずっとこういう類いの着彩の仕事を習っていたので、興味津々という感じだった。特に白く彩られた手水場の装飾彫刻は見事で、生物のように存在が浮き出してきそうだった。

参拝をすませたあとは、渋い土産販売所に売っている、黒い帆布地の腕に白い狼が刺繍された男物のジャンパーを、夫に買ってあげた。

停留所で待っていたバスが満席だったので「立ったままさっきの長い過酷な道を帰るのか」と肩を落としていると、なんと同じ時間発の、二台目のバスを出してくれた。二台目のバスには私たちとあと二人しか乗らず、すいていた。


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三峰神社は「関東随一のパワースポット」として話題の場所だ。しかし私は俗にいう「パワースポット」という感覚が今ひとつ分かっていない。私が感じるこの場所の心細さや孤絶感と、みながいう霊気やパワーが、果たして同じ感覚なのかどうか。三峰神社に感じたのも、その山並に感じたのも、包容力のある霊力では決してなかった。むしろ拒絶のような。



季節のせいかもしれないが、山の性格が読めない感覚があり、数度訪れることでもなければ行った気のしないようなところだ、と思った。崖下に垣間見える道筋を目でたどっても、この険しい斜面のどこからどこまでの領域を人が理解し往来しているのか、想像がつかない。想像つかないところにこそ、獣道のようにルートがありそうである。三峰講を組んだ参拝客たちの賑やかな道よりも、旅僧や闇の商業人やサンカ等の人々の行き来した秘密の道のイメージのほうが、映像として頭に浮かんでくる。



帰路は、もう少し余裕を持って車窓の風景を眺めた。なにかずっと、重苦しさというか、自分のものでもないような悲哀がぐさりと刺さったままのような気持がしていた。冬枯れの青白い風景だからなのか。渓谷の奈落が地獄のように深すぎるからなのか。死を連想させるような凍り付いた巨大なダムが怖かったからか。



秩父湖の暗い水上に細糸で刺繍したようにかすかな、長い吊り橋が見え、またゾワッとする。岸壁に貼付くようにして残る「バラック製フジツボ」のような旅荘群。日常生活のスケール感や色彩感をふと狂わせる、モノトーンな石灰採石場。ふしぎに青白い、巨大な氷柱の滝。「大血川ドライブイン」と子供の字のような素朴さで描かれた、食堂の屋根....

三峰神社にはなかなか再訪しないだろう、という気がしても、この界隈の殺伐とした山河の風景には、怖くてわびしいながらも惹かれるものがあり、また来そうな気がした。



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by meo-flowerless | 2017-03-05 23:49 |

多摩河原

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静かな日。晴れてはいるけれど、なんとなく世界中から血の気が引いたような日だ。たんに人の気配がないだけかもしれない。みなどこへいったのだろう。
暮れの買物客は立川駅でも一定数は見かけた。けれどバスに揺られて多摩川近くの団地に降り立つと、ゴーストタウンのように誰もいなかった。


特にその団地に用があったわけではなかった。
去年買ってあげたハーモニカを最近あまり吹かないね、と夫に言ったら、人のいない所に吹きに行くのだと言いながら、当てずっぽうに夫に連れて来られたのだ。


彼は最近、住宅街にある平凡な「公園」に興味があるようだ。この団地のバス停に降り立ったのは地図上の「めいろ公園」「おもしろ公園」「せんべい山公園」が気になったかららしい。
団地内の片隅の、なんてことない遊具しかない場所だが、人の気配のなさがシュールさをかきたててとても良い光景に映った。まるで、ソビエト時代の遺構か、火星のパラレル世界か何かのようだ。


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コンクリートのきのこのようなテーブルやいす、誰も興味を示さなくなった地球ののりもの、宇宙のタコ的生命体を模したような滑り台。丸い体の鳩たちが、落葉の中に種を探して忙しげにしている、それだけがいきものの気配だ。
最後に辿り着いた公園に、西日にあてられ銅像のように場所になじんでいる無言の子供が三人くらいいて、異物を見るようにこちらを凝視していた。団地内のよそ者....それはそうだろう。
しかしこちらも不意に出会ってぎょっとさせられ、宇宙人の子供を目撃した気分だった。



団地の壁は幾度か塗り替えたのか、白く清潔で、洗濯物に垣間見える人々の暮らしもしっとりと奥ゆかしい。老夫婦ばかりなのだろう。
比べると、自分のかつて住んでいた団地はもう少し雑草にはびこられ、無人化していたな、と思い出した。
かつて商店が建ち並んで居たであろう通りは、なんとなく面影でわかるのだが、今は住宅に立て替えられていたり、正体不明の空店舗がただ冬日に晒されたりしているだけだった。



そしてその後、多摩河原をひたすら歩いた。
枯野はあまりに広大で、夕空は不思議なグラデーションで丸みを帯びて見える。更に火星に居るかのような気分で、黙々と地面を踏みしめた。
会話は何もない。ずっと私は私の考え事に没頭していた。夫もそうだろう。
どちらもそれぞれ、孤独を欲する質だと思う。中でも今は「荒涼に圧倒的に呑まれるような孤独」のようなものに飢えている。
葦の野原を一面雑に刈り取った敷地が、遠くの水面までずっと続いている。しかし葦の鋭い根が至る所に残り、自分のボロ運動靴の底に突き刺さり、靴が壊れ始めた。靴底に「くつたろうくん」と書いてある愛用のボロ靴だ。瀕死のくつ太郎をいたわりながら歩いた。


この場所。小学校一年から電車通学をし、来る日も来る日も車窓から見下ろしていた河原である。
高校生の頃の学習塾の講師が、この葦野原が火事で燃え上がって炎のカーテンになっていた、という話をしていたのを思い出した。その話の後でしばらく自分は、焼跡らしき広大な黒い三日月型を電車で見下ろしながら通学した。
抽象的な想像だが、言葉にならない形容も出来ないものがいろいろ燃えたに違いない、と思っていた。宿無し人の生活の痕跡も、水害などの歴史も、他の様々な気配たちも。
別の時には、彼岸花の真紅の横に打ち捨てられた綺麗な桃色のスクーターを見た。
また別の時には、誰にも邪魔されずにススキの中を追いかけ合う男女の高校生を見て胸が憑かれるような気持もした。


この河原を一度も歩いたことがないのに、何度もこの河原を歩く空想が自分の文章にでてきた。絵にも描いた。他の町の多摩河川敷では駄目。この中央線高架下こそが、自分にとって生涯心に残る私の多摩川だろうと思う。
が実際降り立つのは43歳になって初めてなのだ。複雑な思いがする。


十分ほどひたすら葦を踏んで歩くと、石がゴロゴロした河原にようやくでる。
そこからは、見事に中央線の鉄橋が見晴らせる。後ろを向くと、富士山がくっきり遠くに全容を見せている。今度は長々と、歩きにくい石の上を歩いた。
中央線を見ながら、プープカとハーモニカを吹いた。離れた場所に座り込んだ夫はへたくそなので、すぐ吹き止めた。私はいくつか曲がふけるが、「冬景色」「旅愁」「ふるさと」「朧月夜」そういうのを吹いた。しかし何だかわびしくなってしまい、私も吹き止めた。
中央線を見上げながら、その車両から河原を見下ろしている「もうひとりの自分」の視線を想像した。実際には、誰もこちらなど見ていないようだった。



夕陽はちょうど、富士山の真後ろに沈んでいった。沈む瞬間を私達だけではなく、どこかの妙にダンディーな父娘が、「なんだあっけない」などと実況しながら、後方で見守っていた。
とても体が冷えきった。夫の心はたいやきを求め、私の心はたこやきを求めていたが、殺伐とした多摩郊外の町にそんな店は見つからなかったので、凍えながら帰路についた。

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by meo-flowerless | 2016-12-28 23:32 |

山の音

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トンガリ屋根のドライブイン。前の記事にも、それを目撃する時の、独特の心踊りのことを書いた。その時は書いても上手い言葉は見つからなかった。
幼少時から、幹線道路沿いにトンガリ屋根の飲食店を見かけるたび、なんだか無性に胸苦しいような腹苦しいような切迫感に襲われる。それが山深いロードサイドの廃墟だったりするほど、切なさは緊張感を増す。


かつて誰かがその山に分け入ったが、今は安否不明、消息不明である…というような、「山」のもたらす不安さ。山小屋風のトンガリドライブインへの違和感は、それを思いださせることが決め手なようだ。


今ふと、旅の宿の天井をみつめて寝転がりながら思っている。あれを目撃して感じるのは切なさではなく「心細さ」なんだ、と。切なさにはもっと人間臭い感情が絡む。侘しさや悲哀感と言ってしまうとより精神的になる。侘しさや切なさのもっと前段階に「心細さ」がある。それは半分は感情、半分は説明つかないような身体感覚のふるえだ。自分の全ての世界観には、その「心細さ」の体感こそが何より大切な基準のなのだ、とどんどん思えてくる。
トンガリ屋根のドライブインに感じる心細さは、そこに駐車して休憩、飲食などしてしまえば、違うものに変わる。車で通り過ぎる一瞬の、亡霊的な建物の幻影に、ビクッとする感覚でなくてはいけない。



昨日マルヒの鴻池さんも言っていた。あの型の屋根の流行は、60-70年代の山ブームや歌声喫茶の名残りではないか、と。そういえば、それは子供時代の私にも分かっていた。名残であり、もう既に廃れきった古い型だろうくらいの認識はあった。
ある時期に調子に乗って作られすぎた流行りのものは、それが過ぎた時代には、陰翳の黒さが倍増される。特にああいうロッジやアルペンタイプの建物には、華やかなりし頃の歌声喫茶の「空耳」が虚しくエコーするように感じられる。「空耳」の感覚も、自分の何かを常に遠くで支配する重要な感覚であり、「心細さ」と連動している。



父はよく、幼い私に歌を教えてくれた。ある夜道で「これは登山で死んだ友達に歌う歌だよ」と言いながら【雪山讃歌】を歌いだした。たまたまその日の夜空が曇っていて、黒地に白々と光る雲が空いっぱいに不気味に浮かんでいるのに気づき、何か「死」というものの非常の感じが急に父の歌声の背後に迫って来たように感じた。そのとき覚えた「死」はダイレクトな喪失の悲しみより、「消息不明」の心細さのことだった。




小学校三年の時に初めて学級で旅行に行く行事があった。いま夫が働くのに使っている御岳山の宿坊、そこにかつての私は林間学校宿泊に行ったのだ。
一人の級友が水疱瘡でひどく発熱し、下山することになった。ただでさえ初めてのお泊りで若干殺気立つほどはしゃいでいる子供たちは、その真夜中の下山、という非常事態にものすごく興奮した。私には、彼女がそのまま夜のどこかに忽然と消息を絶つように思えてならなかった。



御岳ロープウェイは18時最終だから、真夜中の下山は記憶違いのはずだ。が、皆で窓の向こうの山の闇をみながら、赤ランプをつけたロープウェイのひっそりとした消息に思いを馳せたことは覚えている。
山の底の方からなにかビーン…という絶え間ない電子音が響いていて、あれはなんの音だろう、と耳を済ました。遠雷が音もなくチカチカ山間に光るのもあいまって、秘密のモールス信号だとか、幽霊ロープウェイだとか、子供じみた憶測にシビれた。
あの山の遠くからなんとなく響いていたビーンという音が今も本当にするか、夫に確かめればよかったが、夫は工期を終え下山している。



あの耳を済ました夜、子供心に、「空耳に対して耳をすましている」という感覚があったのも覚えている。それはまるで今までないがしろにしていた亡霊の微かな声を聞くような不安な悲愴の感覚だった。
ただ単に音が気になるのではなく、夜のあちこちにあるはずの、自分の想像及ばない他者の営みや、土地の過去や、風化した出来事や、封印された時間、そういうものの重い質量に、改めて思いを馳せた時間だったのだ。そういうことに対峙する自己は無防備でたよりなく、未知の暗い地球の半球に剥き身で放り出されていたのかもしれない。



圧倒的に暗い夜の闇に対峙して、必要以上に騒いで怖がるような人はきらいだし、逆に大丈夫大丈夫を連発して不遜な人もきらいだ。怯えながら分け入ってしまうような人には惹かれる。気配は確かにある。その気配との心細いやりとりが、自分が生きているということの基本的な把握なのだと感じる。



トンガリドライブインに対する心細い怯えと怖いものみたさは、そういう、闇に何かを幻視、幻聴する感覚に近い。子供の遠足の道端にポッカリと渇いた傷口を開けている、棄てられた「大人たちの営み」の痕跡。町中で脈々と続く家族の暮らしとは対局にあるような、気まぐれなレジャー感覚の果てに飽きられたそういうものに限って、なんか生々しい人間の慚愧を感じたのかもしれない。
もはや気配と化したかつての人間の念は、いつしか優しい夜風になる。優しいと言っても人の心細さを逆なでするような奥深い怖さをもった優しさだ。トンガリドライブインから発するオーラには、「何かを言おうとしたまま事切れた優しい表情の死骸のような怖さ」がある。



その感覚を、私はもっとちゃんと描けるようになりたい。
by meo-flowerless | 2016-10-05 01:42 |

無為無策旅行・ 愛知めぐり

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バス、電車、またバスを乗り継ぎ、知多半島の先端、師崎港へ。
暗い霧雨の平凡な県道景にうつらうつらしていると、時々夫が私をつついて起こす。目を開けるたび、白金色の眩しい視界のなかに広がる海があった。
師崎の港から、小さな船で日間賀島へ。ひまか島という響きがのんきで良い。着いた港の前に、数軒の魚介土産屋が軒を連ねている。一軒の前には「暇持て余し用」の椅子が三つくらい出してあり、椅子の背後の硝子戸に、ひらがなの「ま」の一字が書いてある。「ま」という字も何かまぬけで良い。
海水浴客や釣客に全く会うことのない集落の路地を、一時間ばかり、ひたすら歩く。
大きく育ったイチジクの木の多い島で、実がたくさんなっていた。

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by meo-flowerless | 2016-08-20 21:30 |

別府温泉の海綿手品

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いかにも地獄という言葉を好みそうに思われるが、自分にとっての地獄のイメージを冷静に遡っていくと、温泉に行き着く。
別府鉄輪温泉の「地獄巡り」のせいだ。
いかに地獄のような宿題に終われようと、地獄のような片想いに身を焦がそうと、昔から「はぁ〜地獄だ」と溜息つくたび、脳裏に赤茶色の温泉池がぼこぼこと泡を立てているのが見える。別府血の池地獄である。「もうだめ....死....」くらいにまで疲労が達して見える灰色の不気味な泥世界は、別府坊主地獄である。



思春期に別府を訪れるまでに、私の頭には既に色とりどりの泥地獄のイメージが出来上がっていた。母は大分を点々と移り住んだが、回想する時に一番多いのが別府の話だったからだ。
煉瓦を溶かしたような赤、ミントアイスのような水色。
不思議な温泉池の色たちを事前に正確にイメージ出来ていたのは、母の形容が的確だったのだと思う。おどろおどろしい血の池地獄より、涼やかに青い海地獄が100度の熱さだ、というようなギャップが、「美しいものは怖い」という信念をさらに掻き立てた。



初めて訪れた時には、池そのものよりも、「地獄の釜」的に硫黄汚れした温泉施設の建物や、ホテルからの湯気に圧倒された。工場群が無機質な内臓のように生々しく思えることがあるが、剥き出しの温泉施設の配管やポンプは、別種の黄色な内臓のように感じられた。
くたびれた地獄の動物園の獣たちの倦怠感が、温泉毒にやられる日常を見せつけてくる。濁った水にサンゴ色の嘴の黒鳥が泳いでいたり、巨大な黒い猛禽類が目の前で翼を広げたり、晴天の空が黒いくらいに青かったり、「別府にはコントラストの黒い影がある」というイメージが焼き付いた。



一通り観光を終え、親が疲れて宿で眠ってしまうと、私はぶらぶら土産物漁りに出た。
暇そうなおじさんたちが店番をしている店。ただでさえ古びた温泉世界から、逆レンズで昭和初期を覗いたような色合いが、レジの後ろ辺りにぶちまけられている。見世物小屋の楽屋裏というのはこんなだろう。
蛍光色のエビやカニの玩具をひたひたと水につけている水槽、金魚鉢などがレジまわりにゴチャッと置いてあった気がする。安花火の染料が雨で沁みた色、褪せた水中花、そんな色の空間。



濃い青空の記憶からすると、季節は決して秋冬ではなかったはずだ。
けれど派手な花柄の「ドテラ」を着た男の人がいた。
劇場幕のようなカーテンの向こうの畳には、ストーブの赤い灯があったイメージさえある。ドテラ男はカンカン帽をかぶっていた。古物屋の主人によくいる感じの「シレッとした根暗な丸顔」だったように思う。



私の視線を感じたドテラ男は新聞から二、三度顔をあげて私を見て、三度目でおもむろに話しかけてきた。「手品見せてあげるよ」
唐突だったが、既に先方のいでたちが唐突にふさわしいので、驚きもせず私はうなずいて男の前に立った。散らかった机のどこかから男はポヨッと赤い柔らかいものを手の中につかみあげ、レジの混沌の中のどれかの水槽の水に、一瞬それを浸した。
「手品というよりも、まずこの海綿がチョット珍しいんだよね。大分でしか手に入らない」
「海綿.....」
「こう水につけるのがポイント。海綿だからね」
言いながらドテラ男は手の中で濡れた赤い海綿を揉んでいる。



「城下ガレイはもう食べた?」「いえまだ」「是非食べなさいよ」のような覚束ない会話の間も、ずっと男は海綿を揉んでいる。
「別府湾のね。非常に特殊なところに、この海綿がとれるところがある」
と少し遠い目をして男が言う想像の先にぼんやり別府の海を想像しかけたときだ。男の手から、さっきの塊の子どものような小さな赤い丸い海綿の玉が、ころころ、次々とこぼれだしてきた。
「あっ!!!」



もう一度見せてください。とせがむと男は「何度でも。だって特殊な海綿なんだもん、自由自在」と言いながらまた揉み、手の中ではまた一つの赤い丸い塊に変わっている。
「ええ、どうして?手品ですよねこれ、どういう仕掛けなの」
「仕掛けも何も、そういう海綿なんだって」
揉んではぱっと手を開き、揉んではまた開きを繰り返し、その度に赤い海綿は分離したり親玉に戻ったりする。「海綿」という言葉が私の想像力を狂わせた。暗紅色の海綿が豊後水道に漂っている様を、夢のように思い浮かべた。その海綿だけが、手品、とか仕掛、とかいう言葉から勝ち抜いて、頭に残る。
そして何より一番の魔術的なせりふを、とうとう男は私に言ったのだ。
「こんなの、珍しくもなんでもねえよ。その棚に売ってるよ、いくらでも。800円」



【SPONGE MAGIC】とか何とか商品名が描かれた安っぽい箱を、宿の部屋で私は開けていた。
両親が、何か言いたそうだが言わない、と言う顔でちらっと見ている。
箱から出てきたのは、赤いスポンジの球(大1ケ、小9ケくらい)と赤いスポンジの鳩だった。
自分が思い描いていた豊後水道の海綿と随分違うな、と、いやな予感がした。
説明書の通りに、私はスポンジを弄った。
「スポンジボール小を小さく折り畳んで、スポンジボール大の穴の中に押し入れます」
穴ってなんだよ、と思い手にとると、スポンジボール大は真中がぱっくり空いた袋状になっていた。それに、あれ?水に浸したりしなくてもいいのか。もみもみして、揉んでいるうちに大ボールの穴から、畳んだ小ボールを揉み出します。以上、終わり。




.......そうだよな、魔法の海綿なんかじゃないよな、と独り言を言っている私に、母は「今気付いたの?」と冷静に言い、父は、「ばかだねぇ」とあくびまじりに言った。やけになってその旅行中スポンジ手品をマスターしようとしたが、難しくて出来なかった。



20年近く経って今度は夫と、また別府を訪れた。
硫黄の匂い、温泉卵の湯気のもうもうと立つ中、だみ声の投げやりな調子で、地獄池を解説している拡声器の男がいた。
顔は定かではなかったが、そのカンカン帽姿を見て、瞬間的にあのドテラ男だ、と思った。
だとしたら、相変わらず投げやりながらも、前見たときよりも真剣に仕事をしていた。



九州育ちの母も自分の幼時体験の中にただの一度も地震の記憶はないと言う。
久住高原、別府、博多.....親族がいたり母の縁故の土地だったりするだけではなく、熊本では市立美術館での展示や作品収蔵など、自分にとっても縁が深い九州。
思い出の中にあるというよりも、九州と四国は、いずれ移り住みたいと思うくらい好きな土地である。
被災のことも今後のことも、心配でならない。
by meo-flowerless | 2016-07-23 12:36 |

新宿射撃場

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美大進学のための予備校に講師として勤めていた八年は、新宿が庭のようなものだった。
帰り際は、伊勢丹の化粧品売場の試用かCD屋で音楽を漁ることで満足して帰路につくのだが、同僚に同年代の男たちが多くいたので、たまに彼らの遊びについていった。
彼らの趣味と言うか存在感じたいが渋かったのが自分にとっても、ほろ苦いような、近くとも手の届かない憧れのような、いい思い出である。


コマ劇場の広場付近に「射撃場」があり、そこに行く彼らに付いていって射撃をした。
物凄く簡易な空間で、飾りも何もない。
ただのテナントビルの空いた一室に薄暗い蛍光灯がついていて、ガラスで仕切られた向こう側の射撃レーンに紙の標的が浮かんでいる。
人生の事情を全部洗い流して清貧になったような感じのおじさんが、静かに銃を渡してくれる。
もちろん実弾が装填されているわけではない。


そこに来る人も若いチャラチャラした者はおらず、酔ったサラリーマンなども皆無で、同じように何かを洗い流したようなシンプルなおっさんたちが黙々と的を撃ち抜いていた。
若い女の私が一人混じろうが誰も不快も興味もなんにも見せず、流れ者しかいない男風呂の脱衣場のように淡々と時間が流れていた。
その無感覚、無感情、無機質に、今まで男に感じていた「男」とは全く違う、男の虚無を見たような気がした。
弾を全て打ったあとは、その撃ち抜いた紙の標的が貰える。肌色の紙にシンプルな黒の印刷。
簡易な紙に穿たれた穴。それがかえって一抹の事件感をにおわせた。


よく「ニュートラル」という言葉を格好よく使う人がいるが、私は何故かニュートラルという言葉に、あの簡易な新宿射撃場をいつも思い出す。
もうひとつ思い出すものは、セロテープの一片を折り畳んだ切れ端の、透明でも白でも黄色でもない色である。
生業は何だったのか知らないが、あの場所にいた、無機質と人間味の狭間に在るような人々の面影は、そんな顔色をしていた。
彼らはなんらかのニュートラルを欲してあの場所にいたのだと想像する。
ただそのニュートラルの本質は多分、女の私に言語化出来るような、勝手にしていいようなことではない。



歌舞伎町のあの辺りが一掃されることにもそこまでの無念は感じなかった。
新宿射撃場が無くなったと聞いた時は、さもありなん、という感じがした。
射撃場に関してだけは、なんだか宇宙に星がひとつ消滅したような喪失感を感じた。
「何かを無くしにいく場所が、無くなる」ということを、しきりに思った。
by meo-flowerless | 2016-06-08 00:05 |

他生への郷愁

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「他生への郷愁」とでも言えばいいのか。
たまに、自分の過去の記憶外のなにかが、感覚として押し寄せることがある。
私のとも言い切れず、でも誰か別の人のものとも言えない。記憶とすら呼べないような、夜風に撫でられるときの寒気のようなもの。未知の領域でも既知の領域でもない知覚たちが、灰汁のように浮上する。



前世というほど過去のことではない。が、必ずしも現在だとも言わない。
自分と同時代を生きていたことのある人が、遠いどこかで感じていたであろう、あるいは今感じている、人生の震えのようなものが、ふと傍受されて、皮膚をゾワッとよぎる気がする。
気がする、だけかもしれないけど。



【ふたりのベロニカ】という映画がある。
ポーランドとフランスの二人の「ベロニカ」は、顔も能力も癖も同一人物のような人間だが、互いの生を知ることもなく、全く別の人生を違う土地で生きている。
が、片方のベロニカはうっすらと、もう一人の存在の死に重ねて自分の生がある、ということを知覚することがある。
あの映画のような「無性に懐かしいが、知りはしない」存在が、私と同じ「私」という生を、どこかのパラレルワールドで生きているのかも、と思ったりする。




日本にいる時にそういう感覚がするときは、どうせ忘れていた自分の過去がフラッシュバックしているのだとか、親の話から想像した過去に感覚ジャックされているのだとか、なにかのテレビドラマが自分の記憶に重なったのだ、と考える。
けれど、海外の町にいるふとした瞬間に、強烈な「縁」の感覚と、その縁の喪失感のようなものにおそわれるとき、その既視感の出所について、つい不思議になってしまう。



ドイツのケルン近郊の小さな町に行った時に、何気ない新緑の風景にふと、幼児の遊ぶワークルームのような場所の匂いや光の記憶がどっと襲ってきた。それは日本の幼稚園の感じとはかなり違う記憶だった。
あと、行ったことないのに小さい頃から、「ロンドンの文具屋か本屋のようなところでインスタントレタリングを選んでいる」という未知の経験が自分のもののように蘇ることがある。そのとき、なにかの鐘の音とともに蘇る気もする。
ほかに、アメリカでも東南アジアでも、町の郊外の高速道路が殺伐とした風景を呈しているような場所に行ったときは、たいてい胸を突くような、何かの記憶が蘇りそうになる。が、映像として思い出せはしない。そういう理由で、まだ旅の始まっていない、或いは終わった時点の、郊外の空港と町を結ぶ経路のどうでもいい殺風景なんかに限って、旅行の一番鮮烈な印象として刻み込まれることが、たまにある。




匂いや光に感じる既視感は、時間や場所などに対する感覚のトリップだ。
が、人の存在に対してさらに「他生遠くへ」いちばん自分を飛ばしてくれるものは、雑音混じりの音楽だ。
通りすがりにある感じの歌声を聴いたとき、ある感じの和音を聞いたとき、エコー感のある時など、いくつかの条件でふとその、未知と既知の狭間のパラレルワールドに、急にシンクロするような気がする。




数年前、ベトナム・ホーチミンで、1950-70年代くらいの女性のくらい歌謡曲ばかりかけている料理屋に入った。
ベトナム歌謡はメロディラインに特徴がある。東南アジアのポップスの曲調は少しずつ違えども結構似ているのだが、ベトナム歌謡のあの何とも言えないラソレ↓と下がっていく音階を聞くと、なぜか記憶の底深くにふと手を触れられたような気分になる。
それを店で聞いた時も急激に、胸が掻きむしられるような気持になった。日本の演歌に対する既知の郷愁とは何かが違う。日本に帰ってきてから、いろいろ探して、声質や歌などからKhanh Lyという女性歌手の1960年代頃の昔の曲が、一番その時聴いたのに近かった。



昨夜からまたKhanh Lyを聴いている。
どこかの知らない、西洋圏のリトルアジア的な渇いた小さな異国の町の空気感、どこかの誰かの死んだ夜の寂しさ、一抹の不吉な腐臭、不遇の感覚が、押しよせている。
この、他生に遠く呼ばれる感覚。一体、ほかの誰の人生に対して胸が詰まるんだろうか? と、気になる。



その他生に対する感覚は、殺伐とした郷愁である。と同時に、とても親しみのある旅愁でもある。
たとえば海外に渡航して、夜に宿のベッドの上でひとりその国のラジオ歌謡をぼんやり聴いていたり、青い深夜テレビを見つめている時間の、孤独が極まれば極まるほど、ああ私は独りではない、と思うことがある。(一人旅をしたことがあるわけではないし、ホームシック的な郷愁のことを言っているのではない)
そういう時想いを馳せるのは家族や友でもない。世界のどこかにいる、未だ顔を見ぬある存在の気配である。



うまく言えないけれど、たぶん目には見えない「因果」や「運命」は、自我などというしろものと契約を取り交わしているわけではないのだ。名前や肩書きにおいての我執的生きざまの果てに、運命などというものがあるのでは決して「ない」、と思う。
そして運命というものは、けっして大袈裟な結末や事件として自分の目の前に降り掛かるだけのものでもない、とも思う。淡々と自分の知らないところで平行する世界を実は持っている、それを普段は知覚することが出来ない、そんな、「手は届かないが確実に備わっている縁や運命」というのがある気がするのだ。



ふと、自分が「どこの何者でもなくなっている」ような時。旅先で疲れてひとり、自我をはぎ取られている時間。国籍も名前も記憶もどうでも良くなった瞬間。そういう時に限って、なにかの密度が、世界ごとどっとこの存在に流れ込む。
危ういジャック感覚の中にだけ、運命との出会いはある気がする。
by meo-flowerless | 2016-06-04 02:44 |

東大寺のXJAPAN

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五月。毛穴から自然の霊気が行き来するような気分だ。素晴らしい季節。
そして古美研の季節だ。
古美研とは、勤めている大学の、伝統ある古美術研修旅行のことである。奈良、京都の寺社を巡る二週間の研修。在学中に一度しかいけないところが自分は教員となったので、三年に一度引率をする。油画科の行く時期が、四、五月の一番いい時期。
今年は自分の引率ではない。けれど季節柄、思い出している。



京都もいいが、奈良の包容力のほうにひかれる。特に東大寺は何遍でも行きたい。
先生のくせに毎回たしなめられるが、太い柱の木を頻りに手で撫でてしまう。
季節のせいなのか歴史のせいなのか、風景の全てに「呼吸感」があるように感じる。自分が日頃の生活で深呼吸を忘れ、息を詰めて暮らしているのに気付かされる。
肺が目覚め、器官が震えるような呼吸。光に満ちた晴の日でも、肌寒く濡れる雨の日でも、奈良でならそれが出来ると思ってしまう。



研修中、暗くなってから学生達と一緒に、二月堂の高楼に上がったりする。
そこからの奈良の灯をぼんやり見下ろしながら、他では味わえない感傷に浸る。
時間に対する感傷ではあるのだが、「人の経てきた時間」に対する感傷でも、風景のに対する感傷でもない。「ものの経てきた時間」に対する感傷だ。



奈良の寺社の黒ずんだ色。時を経ても、派手であったであろう当初の色に塗り返さない。
その黒ずみを選んできた奈良人の感性は、情感よりは霊感に近かったのではないかと思う。人の魂以上の「ものの霊魂」をそこに感じない限り、そういう選択はなかったんじゃないか。
現在の修復や色の塗りかえしが悪いとは全く思わない。かつて意味を込めて建造され彩色された建造物や装飾物を、歴史を超えて経験出来るから。でも、奈良の寺院の持つ古色の雰囲気は、また別の次元の感覚の話だ。
あの黒ずみの奥底から、建築や仏が...と言うより、その材質が「息をしている」のが聞こえる気がする。そんな感覚をもって、人々はあれを新しい顔料で塗り籠め「息を詰めさせる」ことをしなかったのだろう。
そう、勝手に想像する。



古美研にいくたび、美術に携わりながらも美術などという言葉は、近現代人の思惑にまみれすぎているのかもな、と思う。今の美術という言葉にどこかつきまとう、何かを理解しようとか学習しようとする集中力は、深呼吸を生むのではなく、逆に「息を詰めさせる」。緊張しながら鍵を解かなくてはいけない、神経的試練のようなものだ。
本当は、奈良の寺社や仏を体験することを、古美術体験などと言うのは抵抗がある。
というか、そもそも、そうではないだろう。あれらの全ては、そこに立つ者が「息を吹き返す」感覚のための環境装置であって、それ以外の要素は不必要なのかもしれない。



夜の春日大社にも、思い入れがある。
春日大社に夜入っていいのかどうか、は知らない。でも学生と探検していて、迷い込んだ。
遠近も分からず手探りでもがく森の暗闇の中、砂利の白さだけが夜の波の航路みたいにぼやっと泡立っていた。あれほどの暗闇は、他にあまり経験していない。
糞の臭気とかすかな音で、木陰に鹿たちが潜んでいるのが分かる。獣の潜む気配とはこういうものか。圧倒的な量の夜気が人間の身の丈を教えてくれる。



歩き尽くしてどこかの広い野原に出た時、学生たちとガキのように野原を走った。興奮の余り、誰かが小川の水に嵌まった。
何故か、泣きたいような気分になっていた。
解放感というのは、哀しみと背中合わせのときがある。日頃どうして、こういう五感の開放を自分に許していないんだろう、という、長い嘆息のような解放感。



解放感の哀しみは、学生時代に若草山でも体験した。
寺社見学の行程が早く終わり、数人で夕暮の若草山に上った。芝というか草原の丘だ。
西日のなかに赤く沈む奈良の街が、何となくせわしない。
「なんかライブがあるらしいよ、東大寺で」「え?東大寺で?」「XJAPANが来てるらしいよ」
などの会話をして、芝に寝転ぶ。
桃色とも水色ともいえない、夕暮の空が流れて行く。
そうやって草の上に寝転ぶことなど、まだ若い大学生でいてさえ、どんどん忘れていく。自分の存在が何か空気に剥き出しになっていることが本当に久しぶりのように感じ、なんともいえない胸の痛みを覚えた。このなんでもない時間、どうでもいい会話、どこともいえない(いや奈良だけど)旅の空。



その時、空一杯にジャバーンというようなギターのこだまが炸裂した。花火大会が始まった最初の一発のような華やぎ。びっくりして、みな草の上から跳ね起きた。
半信半疑だったライブは本当だった。古都の空の幕が開けていくような感じがした。歓声の気配が下方でしている。
なんともミスマッチで不思議な状況。寺の梵鐘がゴーンという静寂の夕景に、金属のお椀をガランガランと落っことしたみたいな音響が重なる。
流れ出した曲が何の曲か私は知らなかったが、高音の声は彼らのもののようだった。様々な山や建物の斜面にこだまして音が揺れていた。



XJAPANと奈良は意外にも、絶妙の相性だ。
遠いビブラートが、何か遥かなものの呼吸を呼び覚ます。宗教的な叫びのようでもある。
音があちらこちらに呼応するせいか、つい数分前よりも下界の街を見下ろす自分の視野が広がり、いっきに風景が全方位パノラマ化する。
普通に考えれば「こんな宗教都市で野外に音が漏れまくるライブなんてけしからん」なのだが、そんな考えを洗ってゆくようなじわじわした余韻の情動が、胸に込み上げてくる。フシギだ。
奈良の包容力が、音韻を風景に取り入れてくれるのだ。もし京都だったら、やっぱりけしからん気にさせられたかもしれない。東儀秀樹とかなら合うのかもしれないが。
皆も何故か笑いながら、「何か妙に感動するな」「寺も粋なことやるな」などと呟いていた。



青く光る東大寺のあたりを見やりながら、こういう奇妙な経験の情動はきっと絶対忘れないのだ、と予感した。
客としての対峙ではなく、行きずりの、バックヤードからの無責任な立ち会い。そうだ、経験というのは「わざわざしにいく」ことだけではない。「図らずも、その場に立ち会う」のも経験だ。
そういう経験は、積み重なるというより、体に浸透して身体そのものになっていくのだろう。
経験を呼吸する器官は自由に開放されている。奈良とXJAPANという奇妙な融合が、不意に私にそう気付かせた。
同時に、再び草に寝転びながら、このような感覚の「自由」を、私という存在はいつまで忘れずに保てるのか、不思議な哀しみを感じていた。


五月......そんなことを思い出した。
by meo-flowerless | 2016-05-22 23:34 |

時空とエアポケット

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このごろ、文章に「時空」という言葉を多用してしまう。
一過性の口癖ではない。ある感覚を現すにはこの言葉しかない、という妥当感があり、これからも使っていく言葉だと思う。
五月の講義でも、自分なりの「時空」感覚について話そうかと考えている。



歳をとるにつれ、自分の関わる時間と空間に、権利や義務が付随することが多くなる。
社会に組み込まれれば当たり前のことなのだが、時間的空間的な自由を何とか切り詰め工夫しなければ得られないのと同時に、心の内面的な自由までそうなっていくような気がしている。
ものをつくる仕事をしている以上、「心の自由」を切り詰めることは本当に嫌だが、ものを作るのを「仕事」と思う時点で、もう自由ではないのかもしれない。



けれど、時間空間を併せ「時空」という言葉を使ってみると、何だかすーっと誰にも邪魔されない宇宙に吸い込まれるというか、透明人間になって好きなだけ好きな中空を浮かんでいるような、いい心地になってくる。
特殊相対性理論なんていうものは私の愚かな頭に理解出来るはずもないから、イメージの「時空」でいい。
「自由」という言葉を「自在」に置き替えてみると身体が楽になる感覚がある。自由にはそれなりに自力の飛翔の労力を感じるが、自在にはテレポーテーションの神出鬼没性を感じる。「時空」には、自由より自在が似合うかもしれない。




「時空」という言葉はSF的で、それを動的に「超える」という言い方の時に使われることが多い。
自分にとってのイメージの「時空」には、「嵌まる」という言葉を使いたい。
中空にポカッと、自分にしか見えないカンガルーのポケットみたいに浮かんでいる、じっと潜伏可能な「ふところ」なのだ。
この時の、「中空」という言葉の感覚も大事で、それは決して「空中」ではない。
時空、中空どちらにも出てくる「空」は、私には天ほど高いところにある空をさすのではなく、斜め上に顔をふと上げたときの空気中の空白......ややこしいな、「うわの空」の「空」とでもいっておこう。



同じような感覚で使う言葉に、「エアポケット」がある。
「エアポケット」に関しては時間的なというよりも、空間的に他から切り離された独立した空白、という感覚で使っている。




中学生の夏の終わり、最寄りの駅の反対改札側の町を母とゆっくり散歩していた。
ある程度道を知っているはずなのに、まだ知らない風景や抜け道がある。迷路に迷い込んだ気分だった。入り組んだ住宅街を抜け、視界が広がったと思ったら、驚いた。
突然ひまわり畑が広がっていた。
ひまわりは夕風にかすかに揺れ、うつむいていた。偶然自分は黄色いひまわり柄のワンピースを着ているのだった。ワンピースがこの風景を引き寄せたのか、と思った。
近所にこんな花畑があることに何故か長年気付かなかった。ここだけ夢のように時が収縮している気がした。




母も同じように、狐につままれた気分がしているようだった。そのとき母が言ったのだ。
「エアポケットね」
ひまわり畑の向こうには平屋一戸建住宅の敷地が広がっていて、そこに辿り着くのも初めてだった。帰宅して地図で調べると国鉄職員宿舎だった。
数年経ってふと思い出して行ってみたときは全てが無くなり、痕跡のない更地になっていた。
やがてマンションが建って、記憶も薄れていった。
けれどあれ以来、歩きながら途中でふと夢うつつの「エアポケット」に紛れ込む場所を、いつも探している。




「時空」も「エアポケット」も、ノスタルジーを感じさせる常套句だともいえる。
それらの言葉の口当たりの良さはどうでもいい。あの「ふところ」感覚が私には大事なのだ。
自分自身からも迷子になっているような、抜け穴入口のメビウスの輪っか状に気を取られ延々とねじれの上で輪廻的徒歩をしているような。
行ってるのか帰ってるのかわからない感覚が、私を解放してくれる。




この世界の誰からも忘れられるなんてことは、本能的に寂しい。
けれど、どうか束の間思い出さないでいてくれ、と意味もなく思っていることも、また本能的にある。
夕食を作るのに忙しい母親が、頭の片隅で子供が帰宅しないのを認識しつつ、それほど気にもしていない。そんな黄昏のひととき、まだ帰りたくない子供の、迷子や神隠しとまでは行かずとも「今だけは風船のひもが、ふと切れている」というような遊離感覚を、いまだに心で大事にしている。
自力で帰る力のある限りは。
by meo-flowerless | 2016-04-01 03:32 |