画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2017年9月の日記

2017年9月の日記



9月6日

心がまだ何となく珠洲から帰らず。上野公園の人混みを半眼で見ないように歩き、目の底の海のみを見る気持。今日もしずかに安永蕗子読む。ずっと読んでいられたわけではないが、この一冊を海に持って行きよかった。



潮波の底に映りてゆらぎゐる影のかたちの我とは何か
欲しきままに風の出で入る窓あけて悲運のかたち成れり望楼
我が生きの静けき時を夏草のいかなる修羅をもてば乱るる
船ながら流離の境漂へば誰が先ゆきし痕か黒波
油凪ぎしつつ鳥さへきらめかぬ海にして我がひとつ盲愛
海中に入りゆく石の階ありて夏の旅つひの行方しらずも



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午後、2時間も指圧してもらった。「満身創痍ですね」と言われた。優しい女の人で時折会話を交わし、奥能登芸術祭に興味を持っていた。

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電車の中。食堂ショーケースや便所などに飾ってある造花の言葉を理解し、造花としか喋らない存在になり、全国造花選手権を開く、という妄想。



9月7日

密度のある孤高とはこれほどまで美しいのか、と安永蕗子の作品群に溜息をつく。彼女は怒濤のように訴えかける悲哀ではなく、悲哀に徹底的に均衡を与える。そのストイックさの裏に隠され姿を見せない「遺棄されたなにかの堆積」こそが美の悲しみである、とも感じる。その生きざまや姿勢に私の理想の境地を感じるのだけれど、それほどまでになるためには、棄てなければならないことが山ほどあり過ぎる。


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自分が姿も透明な視線だけの存在になって、ひたすらに何かを観察し、記録することが出来たら、とずっと思っていた。が、現実にはそれとは真逆の存在の仕方を、私の立場や身体や姿はしてしまっていて、いろんな人生の実質を手にしてしまっており、汚い声を発し、エゴの塊のような身体を晒し、存在の秘密一つ作れないような在り方をしてしまっているのだ。現実に透明な存在になることなど出来ないのでそれが悔恨であるとはいわないけれど、いややっぱり遠い悔恨である。

:::

安永蕗子のストイックさは無欲ではなく「物凄い圧の禁欲」だから好きなのだと思う。とくに今の自分と同じ40代の頃の作品の自らを押し殺し捩じ伏せるような圧、その圧力のなかにふとあく風穴の鮮烈さは、心を打つ。飄々とした無欲な感じの表現は私の人生とは無縁だろう。


9月9日

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芸祭は、もんのすごい人出。喧騒をよそに裏庭で私達は栗を焼いて食べる。シアワセ。

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わが教え子モエさんの売っていた水団扇。2500円也。謎の高楼建築のデッサンがかっこいい。ニスが塗ってあり、透けて、光る。


9月15日す


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今朝は波が荒い。

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珠洲は各地区で連日、祭が続く季節。御縁の出来た三崎粟津地区のキリコに参加し、夫の作品に「ゴショウダイ」を受け神事をして頂くという光栄なことがあった。その後区長さん宅に、伝統の風習でもある「ヨバレ」にも呼んでいただく。今回の滞在は濃密で筆が追いつかないのでゆっくり後から書こう…


下は上戸、正院の曳山とキリコの列。曳山は貝殻のような形でシュール。小振りだが鮮やかなキリコの列、着飾った男や子供達は妖艶だった。

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9月18日

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台風一過。藻のメンテナンス。虹が出た。


9月19日


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珠洲での色濃い風景、経験には、書いても筆が追いつかない。日記を書こうとしても言語化するのは難しい。
頑として動かなかった自分のなかの岩のようなものが動いた、それは確実に言える。
当事者ではない疎外感と引き換えに自分の自由を改めて認識したようにも思えるし、もっと言えば「自分」なんてどうでもいいよと身体中で思えた。
生きるだけで切ないし美しい。そういうものに毎日触れていた。傍観者と当事者の気分をさまよいながら。


この土地をとぶ蝶はみな大きくて悠々としていた。都会のアゲハはもっと忙しない。海 と山との狭間を鳥のように飛行し、人の合間を恐れずに舞うここの蝶と、この土地の濃い人々の印象が重なる。


また東京の日常に帰るけれども、何を大切に見て何を切り捨てるか、ということは少しは思いが定まったとは思う。




9月20日

夏から秋への能登半島…という石川さゆりの唄は好きでも、夏の能登は演歌的なイメージは全くなく、もっと違う眩しい神秘に繋がっている感じがした。珠洲がそうなのだろうか。冬はまた違うのだろう。それもこちらの陳腐な予想を裏切るスケールに満ちているんだろう。
が、滞在最後の二日間は「最涯(さいはて)」の言葉が胸に静かにしみるような何かを感じた。単に中央から遠いという意味ではない、もっと言い難い意味で。


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半年間自宅を離れ旅先で休まず大作に打ち込んでいた夫は、滞在最後の方は廃人のように疲労をしていたが、帰宅して一人過ごす時間で自分を取り戻そうとしているようだ。
寅さんのDVDを心ゆくまで見たい、好きな怪談を読んで過ごしたい、黙って展覧会など一人で観て周りたいとボツボツ呟いていたが、私が仕事から帰宅してみると、何故か昔のプロレスの試合を(小橋戦)youtubeで次から次に貪るように観ていた。なんなんだろう。

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たった三週間しか能登にいなかった自分でも、あの海をきのう離れきょうの東京駅の帰宅ラッシュにぶつかることは心身にきついアタックだと感じた。慣れきっているはずだが人の群の非人間的な素早い集団移動に、ウッとのけぞるような圧を感じた。
この光景を受け入れながら働き続けるのはきつい、と思ったが、記憶の中にあるもっと別のヨレヨレとした裏東京が何処かで自分を支えているのを思い出しもした。東京は光ではなく自分の影なのだと思う時あらためて、自分が立体的に在れる気もする。

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誰もが暮らしの掟や生きるべき土地に縛られており、私も例外ではなくいろんなものに縛られてはいるのだが、胸にひめた自分の神出鬼没性を信じているかぎり、飛べる時は飛べるのだ、と感じる。画家であり先生であり妻であるという役割や、この年齢のこの姿のおばさんであるプロフィールが私を措定しているわけではない。もっと別の時空に生きざまの足がかりを持つことは可能だ、感性の問題なのだ、と思う。


9月22日

「旅」という言葉も概念もなかったら、と想像してみる。旅が好きだし言葉としてもよく使うが、「旅」に酔いしれることでじつは小さくなってしまう何かが、人の移動にはあるかもしれない、とふと思って。
演歌に歌われながら演歌にそぐわないスケールの風景の中に居て、演歌に歌われている「旅」人の視点の限界にあらためて気づいた。
さまよう、さすらう、という言葉は、どのくらい古いのだろうか。少なくとも「旅→をする」という行為の言葉よりは、直感的で歴史も古そうに思う。調べよう。

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銀河鉄道999よりはるかに頼りない汽車が私のためだけにユラァと漂ってきて、ひとり誰のためにでもなく丹念に各駅で降りては私も町を漂い、看板も人もなく曖昧な色彩だけがあるそれら町の駅に、一つ一つ微妙な「色の名前」を与えていく。妄想。

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ラジオ深夜便、フュージョン音楽「フルーツケーキ」特集。フュージョンは全く未知の領域でフルーツケーキなんて知らんわと思っていたが、かかる曲が見事に「通勤前朝6-7時の天気予報」か「大型スーパーのエスカレーター付近でかかっている」の連続で昼間の活動を思い出してしまい、目が覚めた。
やかましいし好きではないが、80年代が懐かしくはなる。あの頃の天気予報…「明日は眩しい天気雨」「夜のドライブのお供に満天の星空」などという天気もあった気がするんだが、いや実際はそんなことは予報士も言ってなかっただろうが、兎に角なにもかもきらきらと期待感があった時代だったな。心を遊ばせる時間が今より長かったんじゃないの。今も自分はそんな感じだけど。


9月23日


しばらく、鋭く研ぎ澄まされ覚醒した安永蕗子の歌を読んだあと、久しぶりに葛原妙子を読むと、こんどはその鈍く妖しい狂気にあらためて気付かされる。安永の歌に浮かぶ絵はこちらから訪ね当てる光景、葛原の歌に浮かぶ絵は向こうからぬっとやってくる光景。
そればかりか、自分がかつて描いた絵がそのままやってくることもある。確実に今はじめて読んだ歌集なのだが。

疾風はとほく吹きゐつ目の前に雛のをらざる赤き階段

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読んでいるのは【鷹の井戸】。紙質も文字体も白銀の表紙も挿画も考え抜かれた美しい歌集。狂気が漂う。意味がわからなくとも凄みだけで腹一杯になる。

千羽に一羽の毒鳥ありといふ椋鳥のかほ、まなこのあたり
げに晴夜 うしろ山の墓穴に骨片星と交信せり
殺蟲劑すこし掛かりし祖母の顔仄かなる銀となりゐつ
昔日本に幻音ありきいつせいに鶴は樂音のごとく立ちにき

:::

午前一時。「船の船の」という夫の寝言に目を開ける。「船のそばにあるんだきっと」と言ってまた寝息を立てている。



9月25日

「しずかなところで珠洲での制作中の日記を思い出しながら書きたい。家は気持が腐るからいやだ」と夫がいうので神代植物公園に行ってみるが休園だった。仕方なく深大寺の茶屋で「思い出し日記」作業を手伝おうとする。しかし「木工作業」「彫像制作」「砂埋め戻し」など作業的なメモ程度のことを思い出したのみでやめていた。人の言葉や風景や状況を吟味している余裕などなかったようだ。
 
:::

古書店「佑夢」で岡井隆の歌集【鵞卵亭】を見つけて買う。詩集はたくさん揃えているが歌集はこれ一冊だった。
一頁に一首のみ印刷された贅沢な頁割りの本、シンプルで美しい。歌もさすがに良いとは思うが、しかしこのひとは何か好きになれない。遠い価値観ではないのに絶対人生が交わらないタイプの男性、と言う感じ。例えばむかしの男性雑誌の漫画の中に出てくる女の、ブラウス姿・長い髪・愁い顔・清楚な像に「男が思い描いている女ってこんな抽象的な美女なのか」と辟易するような感覚をどこかに感じる。別に女の歌を歌っているわけではないが、青春、性愛、政治、日常観察、時事、どれをとっても女の私にはどこか取りつくしまのない感じを感じる。男が孤独がっている時に得てして全く孤立ではない感じのあれ。
でも持ってていい一冊だと思う。


しらぬひ筑紫の国の私生活死のかげの射すま昼と思ふ
しぐれ来てまた晴るる山不機嫌な女とこもるあはれさに似て

家庭も仕事も突然棄てて失踪し九州で静かに女と住んでいたこと関連の歌だろうか。映画のような陰影はある。


9月26日

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【玻璃】真鍋美恵子、【薔薇窓】葛原妙子、届いて嬉しく悶絶。この辺りの歌集はネット上でよくよく狙わない限り、古書店の店頭などでもまず出会えないだろう。この【玻璃】のシンプルな題字ときたら。内容も素晴らしい。両方とも昭和三十年代前半の歌なので、その時代の映画を観ているようだ。成瀬巳喜男とか…。
汚したくないが持ち歩きたいので、珠洲の商店で買った袋を専用袋にして持ち歩くことにする。
二冊とも「この本いいよ、読んでみて」と言える人が今の私にはいないように思う。母も夫も他のは読みそうだがこれにはぴんとはこないだろう。旅をする友や食事をする友や歌を歌う友はポツポツできたが、これぞという本を読み合う友は二十歳を最後に離れ果てた。しかし真っ先に一番初めにこれら歌集を読ませたいのは十七、八歳の私自身だ。彼女なら絶対に嵌まるだろう。


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金木犀の匂いを嗅ぐと、なぜかしおらしく病院で診察を受ける気になる。大の病院嫌いだが。気になる症状に二、三日鬱々として検査に行ったがとりあえず乳癌ではないらしかった。行けば検査が大事だとよく分かる。さてその次はヘルニアだ。これは余り良くないだろう。


9月27日

海近い宿の夢。絶え間ない波音はじっくりと畳に染み込み、畳はまたじっくりと枕の上の私の髪にその波音を移す。

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旅が夢うつつの境にいることを許してくれるように、日常生活もそれを許してくれないだろうか。覚醒は必要かもしれないけれど、さめていることが同調圧力になったらもうなにもかも美しくはなくなる。
抜け駆けのなかでしか出会えない美がある。しかも一人勝ちを誇示するような抜け駆けでは意味がなく、一人負けて逐われるような抜け駆けの果てに自分の美はあるように思う。明日からまた仕事の日々が始まる。この意識をどう抜け駆けさせるか、夢うつつを自分にどう許せるか。さめたくはない。

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【朱霊】も注文していたが、来て見たら廉価版の小さな冊子だった。文庫本より少し四角い。しかし持ち運びには最適かも。それに、自分が本を作りたかったかつての原点を思い出す。短歌は出来なくても、なにか私家版の文章作品作ろうという気になってくる。

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夢。「駿河」「備中」「伊予」「丹後」などの名前の日本産の宝石が、各地方にそれぞれあり、美しい。


9月28日

この二ヶ月家でも珠洲でも会話少なく静かに過ごしていたため、今日久々に職場の会議でスムースに言葉が出てこず、何回も言い詰まった。夕方にかけてだいぶましになって来た。しかしこのくらいが本来望ましいような気もする。

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朝、近所のパン屋喫茶で飲んだ日本産紅茶のアイスティーが目がさめるほど美味しかったので思わず袋を購入した。「べにふうき」茶葉をつかった肥後紅茶だ。
大学近くの【りんごや】という紅茶屋で夏に知人たちと飲み比べた日本産紅茶の数々も花のような柑橘のような鼻通りで美味だった。特に愛知豊橋の産のものが。発見だった。

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台湾からの交換留学生・劉君が明日いよいよ日本を離れる。はじめは殆ど日本語がわからず孤独そうにしていたが、研究室に馴染むうち様々な話を筆談交えながら出来るようになった。非常に深いものを感じる学生だった。国に帰れば一年間の兵役が待つ。友人達は兵役中に美術を捨てる者が多かった、と言っていた。彼は絵を描き続けると思う。
すでに皆でお別れ会もしていたが、今夜は劉君、私と、助手野口の作る夕食を三人しみじみと食べた。最後に師匠の秋本先生も加わり、なんと言うこともなく沈黙やたばこを楽しみ、また会いましょう、とさりげない去り際で帰っていった。



9月29日

夏の前に、わが油画科はNM先生監修のもと「科の紹介映像」を作成した。幾人かの教員が一言ずつ芸大や絵画について語るのが映る。他の先生の綺羅星のような言葉はビシッと決まっていて格好いい。私も講評中にカメラを回されたのでどの部分が編集されたのかと初見を楽しみにはしていた。そうしたらこんなことを言っている。
「絵って上手いとか下手なんじゃなくって、何かこう突然絵が立ち上がる(エヘヘと何故か照れ笑)ものじゃん」
この部分が使われたのかと赤面するとともに、なに大事なとこで笑ってんだよバカ!と自分を責めたが、この笑いにこそ自分の本当の実感に対する照れがにじみ出ていた。立ち上がる....いつも上手く伝えられないあの感じである。足のついた絵がヨッコイショと立ち上がって歩いてくるのを想像されたらアウトだ。


「立つ」とは、蜃気楼が立つ、幻影が立つにも近いのかな。指紋の透視図像が一致するときの戦慄みたいに、自分のこだわる均衡とただの風景(や形態や色彩)とがビタッと重なり突然平凡ではない絵に見えてくる戦慄、と言ってもいい。
でもおそらく私は「絵が立ち上がる」と言いながら、本当は「詩が立ち上がる」ということをもっと言いたいんじゃないか。昨春の卒制講評でも、センスがありつつ散らかった印象のインスタレーションをしてしまう或る学生に私は「観る者との間に詩を立ち上がらせるタイプの人だと思うから、その詩の要素の配置を周到に考えろ」「詩そのもののように生きろ」と熱弁し、ちょっとキョトンとされたように思う。いやでも彼は分かったんじゃないか。詩ではないはずの外殻の中でふと、詩のうごめきが生命体のように立ち上がるとき。
立ち上がるんだよね。わかるかな...立ち上がるんですよ....竪琴のドリーム音と一緒に...


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詩の形式を纏っているから詩なのではないし、詩人が吐く言葉だから詩なのでもないと、はっきり十代のときから思っている。そして絵に対してもそれを言いにくくはあるけれども、実は同じように思っている。自分にとっての詩のようなものと絵のようなものは等しく、それらの原型に区別は無い。そういうものの発生も、そのようなものに対する幻視も、自分の中ではとても楽しく容易でとめどがない。しかし、そういう無形のものを「立ち上がらせる」瞬間を、どのようになにをもって与えるか、というところで、なんかこう、絵や言葉技術以上の知恵というか、所作というか、様々な勘所が難しいのだ。


9月30日


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日帰りで倉敷出張。審査員の仕事だがなんと、料理レシピの試食の仕事だ。大原美術館収蔵のさまざまな絵画をイメージしたレシピを地元の高校が応募したものの中から最終審査に選ばれたものを倉敷アートロイヤルホテルの料理長が調理する。
グランプリには児島虎次郎【朝顔】から発想された鯛のカルパッチョ。絵のなかの夏の空気感、少女たちの白い夏の着物の爽快感、点々と咲き乱れる花々が、その雰囲気のまま味になっていた。グレープフルーツの苦味とセロリの粒の苦味、イクラの塩気が合っていて美しい美味しさ。他の生徒作品も素晴らしかったが、ブリジット・ライリーの波の幾何学柄をクレープにした生徒の目の付けどころやプレゼンにも関心。
ある審査員の代理で、学生時代の旧友が偶然列席していて、ほぼ20年ぶりの再会。不思議な気持が消えなかった。


審査後、大原美術館に挨拶に。昨年お世話になった柳沢さんにお会い出来、展示をご案内頂いた。秋の倉敷の空気は本当に奥ゆかしい匂いがする。距離を超えて、しょっ中ふらっと訪れている錯覚になる気安さ。今夏の珠洲や昨年の大子町もそうだが、自分にとって距離を感じない町を増やしていきたい。




by meo-flowerless | 2017-09-06 19:05 | 日記