画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2017年8月の日記

2017年8月の日記






8月1日


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佐賀県の高校生に合宿講義するためのプリントを一生懸命作った。作ったって誰にも褒められるわけでもないのでとりあえずここで自分を褒めてやる。しかし非常に疲れ、家に帰る気力も無い。三日後に九州なんか行けるのか。しかも新幹線で…

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資料を探しつつエドワード・ホッパーの画集に手が伸び、他の画集より数倍強く引き込まれる。「アメリカそのもの」だとか「都市的」だとか色々な形容が彼にはあるけれど、なんかもっとグッと深い言葉であの世界を捉えてみたい。しかしなかなか言葉が見つからない。
一編の映画や一冊の小説とのふとした出会いが、ジワジワと深層でひとの人生を変えることがある、そういう感覚を、この人のたった一枚の絵からでも覚える。どこにでもある殺風景を味わい尽くすことの、逆説的なゴージャスさをひしひしと感じる。リトグラフの何気ない景色が、また最高だ。こういう濃密なタッチの絵はとても描けないけれど、世界観として、人生の裏にぴったりと寄り添う向こう側の世界にジワッと逃してくれるような表現者を目指したらいいんだなと思うと、改めて多少のやる気が湧いてきた。


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そうやって改めて探してみると魅力的な風景はいくらでもある。
ザッと通り雨の上がった、人居ない夜の上野公園、人工的な紅白の花壇に囲まれた黒い夜の池の上を生暖かい風が渡り、遠くでくぐもった花火大会の音がする。ぞわぞわするほど描きたい「なんでもなさ」、張り詰めたうつろさ。
でも描けないんだろうな、そのままでは。写真でなど、写りようもないんだろうな、あのか細い情緒は。


8月3日

夏休みの大学。大浦食堂に、大学見学に来た中学生の集団が行列を作っている。まだあどけなくて可愛らしい。時間掛かるのを承知で列の後ろに並ぶ。皆、姿はあどけなくても落ちついていて、あの大浦レジの分かりにくい注文システムも気にせずに「たぬき蕎麦、冷やしで」とか「カツカレー、あとカボチャの煮付け」など大人びた注文している。なにか微笑んでしまった。

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久々に新宿伊勢丹で香水でも見ようと、ライトアップされたセルジュ・ルタンスの棚を見ていた。四角く薄型のモダンな瓶たちの足元、アンティークブロンズの精巧な細工が棚のふちに煌めいている。瞳が赤と緑に偏光する蝿の細工で、しかも交尾しているデザインだ。わっ、エグいけど凄いな、と見入っていると、少し動いたのでびっくりしてしまった。なんのことはない、本物の蝿だった。



8月8日

熱を出して寝込んでいる。関節痛がツライけどこれもまた一興。やっと気を休められるんだ、という安堵に身を任せる。
冷房を消して窓を開け放し、じりじりと責めるような蝉の声を部屋のなかに入れる。その方がぐったり眠っていていい気だるさが増すからだ。寅さんの映画に出てくる病院はどれもこれも古い町の木造病院の一階のベッドだが、なかでも沖縄でリリー(浅岡ルリ子)が病に倒れたときの真夏の病院感が特に心に残っている。今日はその感じ。
怠い手で携帯いじり、失くなった「葛原妙子歌集」と、「西東三鬼全句集」注文した。

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鳥、魚、虫のほかに「果物」という生き物がいるような気のする日。熱のせいか。白いバナナの体をおどり食いの魚のような心持ちで食べる。
37.7度から体温動かず2日目。上がれば楽になるものを。身体中の疼痛で唸る。停滞する台風がからだの中にあるのと同じ。




8月9日


目を覚まし、『安永蕗子歌集』読む。いつも思うが、歌人、俳人には嫉妬するしかない。作っていそうに見えて私にはまったく手の出せない世界、歌が詠めるのだったらもっと若い頃から詠んでいただろう。
旅に携行するのは短歌集がいい。軽やかな嫉妬をひとり持ち歩くうちに何かが解放されることはよくある。美術作品に圧倒されに行く経験に、解放感があまりないのと対照的に。

風波のほか何もなき海に来て心ひとつの塊ぞ濃き
壁暗き町の死角を歩く癖もちてひそけき半生に入る
常闇を走る電車の黒玻璃に映りゐる油紙のごとき者を怖れよ


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むかし串焼き系のものが好きになれず、輪っかのついた銀の細串を家の台所で見るたび「要らないな」と思っていた。今ではバーベキューなどは参加すれば楽しいけれども、自らあの串で肉や野菜を焼くことはこれからもないだろう。
しかし、例えば「ひとの心に突き刺さる表現」などと考えるとき、痛切にだれかの表現から感覚を射抜かれるとき、イメージのなかのその凶器は、いつもあの輪っかのついた銀の細串なのだ。ときめくときも傷つくときも、バーベキュー串で鳩尾を刺されている。

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西東三鬼全句集、来る。偶然同じ頃に、私は「夜の桃」の句をふと思い出し欲しいと思っており、夫は友川かずきの歌を聴いて欲しいと思っており。ようやく買う。
「感覚的で生理的なのは女性」という決めつけが、波に押されるように覆る、「男の感覚」の句。冬の句のほうがグッとくるが、「算術の少年忍び泣けり夏」などという夏の傑作もある。


男女 良夜の水を跳び越えし
狂院をめぐりて暗き盆踊
夏黒き船の何処かで爆笑す
炎天やけがれてよりの影が濃し
鈍重な女の愛や蚊を連れて


この人のコントラストの強い清濁を楽しむには、眩しい暑い夏の句も、夜に遠い心持ちで読むと良い気がする。



8月10日

インフルエンザより辛いかもしれない疼痛と咳から今日はだいぶ解放され、小康状態の間また読書。
今日は葛原妙子の歌を読む。この人の世界は歌の表面的な言葉遣いを研究したところで真似も理解も出来ないだろう。けれど絵描きの自分含め、美術、映像、音関係に携わる人には間接的にジワリと影響及ぼす歌なのではないか。


黑峠とふ峠ありにし あるひは日本の地圖にはあらぬ
一枚の目鼻なき繪の輝けり人垣間みることなき部屋に


怖い。素晴らしくコワい。
好きな歌は数えきれず発見できるが、聴覚の気配に鋭い歌がとくに魅力ある。
「にぶきものおとどこかにあらざりしか春夜とてつもなきものおとの」「冬の夜のわがそら耳にあらざりき男といへど哭くことのある」「もしや 人閒の耳に聴こえざる夜ふかき音のひとつありなば」
音、匂い、視覚、そういうものが敏感である自分をことさらに自負するような詩歌は多いけれど、この人の感覚は五感が絡まるように渾然と意識と無意識のあいだにある。そのグレーゾーンにある見えづらいものを切り取るのは写真機のように一瞬のことだ。歌のなかで黒い不可解と白い事実が瞬間的に明滅する。


あきらかにものをみむとしまづあきらかに目を閉ざしたり

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葛原妙子に与えられた「魔女」の烙印は、彼女を見出した中井英夫の言葉で含蓄もあり、それが時代や文化的背景を帯びているとは言え、どうかな…と個人的には思う。短歌には門外漢でも表現の世界に携わってはいるので、表現者に与えられた烙印的なものは気になる。
「魔女」でも「魔性の女」でも、一見魅惑的でありながら「他者を幻惑する者」という役割に押し込めるような呼び名でしかない。幻惑することには理由がなく、一方的なものだとされる。魔物ははじめから情状酌量など全くされていないのだ。
だからと言って言い訳のような理由や説明をすれば魔女の烙印から逃れられるか、と言ったら、そんなことをしては表現の神秘の全てを失う。


他者を幻惑する技巧がまず先にあるのではなく、自分自身がまず何かに幻惑されたくてそういうものを探している…それがシンプルな真実のような気がする。魔法をかけようかけようとする呪術的な執念などではなく、まずはその本人の「魔法にかかりやすさ」が魔性の本質なのではないか、と彼女の歌に触れて思う。
前者と後者の違いは絶大で、後者の「魔法にかかりやすい」感じやすさ、不安定さ、というものは、今や時代のどこにも許されなくなった余地だと感じる。




8月11日


三日間、母が夜にお弁当を作ってきてくれた。ありがたく、泣けてくる。私の好きなおむすび、卵焼き、じゃこと獅子唐炒め、鳥の唐揚げ。風邪だけではないここ数年の疲れをこの三日間で整理しているのかもしれない、きしむ体が。そんなとき母の味が身にしみる。今日はロールキャベツを作ってくれた。おいしかった。


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昨日書いた「魔女」の称号の続きで、「幻視者」という言い方についても考えている。幻視とは曖昧な言葉だが、まあ分からなくはない。でも幻視-的なものが自分の身の上にもあるとしたら、それは幻視する一種の「技術」である。絵を発想する時にはそういう状態に自分を持っていく。
しかし自分が惹かれるのは、幻視する意思や技術というより、「何かの幻影を気にしている」精神状態のひと自身、のように思う。自分自身でも、単なる技巧的な想像力より大切にしているものは、それだ。幻影に取り憑かれているところまでいくともう極端なのだが。


どうしても過去のなにかの忘れがたい幻影を追ってしまう、形のわからない幻影のようなものが物陰に潜んでいる気がする、幻と承知でも、ついふと現実に現れそうな気がする…そういう危うい境界感のある表現に、惹かれるのである。自分の絵をまだその境地で描けたことはあまりない。まだ技巧的である。文章では、出来ている作品がある。




8月12日

「今日から長い夏休みだ。君らが死ぬ日までそれは続く。宿題を一つ出す。【自我とは何か】この問いと答えを夏休みじゅう繰り返し為すこと。死ぬまでだ」
といつか、顔貌も定かではない先生に言われた気のしたまま、生きている。
15歳の時から日記的なものをやめないのは、これがずっと続く夏休みの記録だからかもしれない。春であろうが冬であろうが心の何処かに、臨終を匂わせる怖い夏休みが横たわっている。怖いけれども最も素の自分を任せられるのが真夏の孤独の時間である。



8月13日

孤独な闘い、に惹かれるのではなく、孤独とは何かとしずかに世に知らしめる闘い、に惹かれるのである。孤独の絶望も甘露も、どちらも含めてそこにあるさまを。


8月14日

例えば枯れかかった菊のあのジンとする香りは、枯菊の抽象的な縺れた形態で呼び起せなくはないし、山百合の白い香気も咲いて居る場所との暗いコントラストが描ければ、佇まいでぎりぎり伝わりそうに思う。
が、くちなしの香りは絵には描けない。くちなしの花を描いたことはあるが、くちなしを描こうが六月を描こうが、あの香りに含まれる独特なものは呼び起こし難い。むしろ視覚が邪魔をするのが夜花の香りだ。虫が匂いだけを頼りに行くほどのなにか、それはただの「香り」ではないのだ。


葛原妙子と、比較される前衛短歌の王のような塚本邦雄を読み比べていると、何か自分が越えるべき次の山は見えそうである。絵描きから見ると絢爛でシュールで博覧強記的な塚本邦雄はイメージの宝庫のようなひとで隅から隅までお手本にはなるが、されど惹かれるのは葛原妙子のほうである。すぐ絵に置き換えるのは難しい問題だが、長く考えるべき課題がわかってきたように思う。


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普段乗らない総武線から見下ろすと、お盆の高速道路は長い長いカラの受け皿のようで面白い。
面白いと同時に都市のかたちが剥き出されていることはなんとなく怖い。


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川野里子【幻想の重量 - 葛原妙子の戦後短歌】、一文ごとに今の私に迫り来る啓示のようなもの、凄い。40代のこの過渡期、忘れられない本になるのでは。「戦後に生きる女」としてのあらゆるバイアスを忌避しながら葛原が探り当てて行く微妙な、霊と肉のあわいの「自我のありか」。自分の(卑小ながらも)苦悩に重ね合わせて読み進める戦慄感がある。そのなかに、


はるかなる黑き森はも身ふるはむわれのみぞその位置知れる森


との歌が出てきたときハッとした。特に「位置」という言葉に。
この歌により数年間見失っていた、自分の大事にしていたある感覚が蘇った。我のみぞ位置知れる森…自分が【密愛村】を描き始めたときにそのようなことを思っていたはずではなかったか。
二度はたどり着けないが確かにあった時空の、視覚の記憶よりは位置感覚をまさぐり、確かにそこに至った道を逆算して、自我のありかを逆照射するしかない。それが私ではなかったか。
私が知りたいのは目的地の光景などではなく、誰かの面影でもなく、ただひたすらどこかに至る道の証拠の断片、位置確認の痕跡ではなかったか。さまざまな迷いがあり、不意に忘れていたあの感覚だった。【密愛村Ⅱ】で自ら書いた言葉を忘れないために書く。


私は二度と訪ね当てられないだろう あなたと見た谷間の灯を


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「場所とわたし」というような身構えでものをイメージするな、「位置と点」というところからイメージしろ。

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五感は触手であり翼である。その触手が訳も分からず伸びていった距離や、翼がさまよった幽冥の距離がだいじなんだろう。
触手が獲得したものをコレクションのように身の回りに寄せ集めてからイメージを整理するばかりではいつか飽きる。それは整理であり陳列でしかないのだろう。




8月16日

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いろいろな花が雨に萎れているけれど、この家の庭の花が最も「慚愧にたえぬ」という感じで佇んでいる。凄い。

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むかし図鑑で見た「桃色と水色の不可思議な色の花」が蘇り、その名を必死で思い出そうとする。
百合のようでいて百合でないような花。桃色と水色を重ねる色彩を自分で勝手に「ゆりもも色」と名付けていて、昔のアイデア帳にも散見される。
リウココリネ、リリオン、違うな…と思いめぐらせ、記憶がリコリスに行き当たり調べて見たら、やはり【リコリス・ブルーパール】というのがゆりもも色の花のことらしかった。百合と見えて総体は青白い彼岸花のような花である。多分写真のこの花もそれなのではないか。


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「ブルーパール」。人生のふとした曲がり角で、なんの暗示かは知らないが、よくブルーパールのビニール球に遭う。
予備校の頃、モデルが持っていたビニール球がうまく描けず「ブルーパールの感じを出せよ!」としつこく怒られたのが始まりだ。夫と付き合う前にコンビニで買ったブルーパール球でバレーボールをして遊んだことがあり、それは段々劣化して萎んでも、アトリエに転がっていた。何度も捨てようとしたが何故か、やつを見つめるうち捨てられない気持ちになるのだ。自分史上最も放置しっぱなしの宝物とでもいうか。
学生らと何度かそれで遊ぶたび、取手校地の鬱蒼とした茂みに失くしたのだが、後から必ず探して取り戻した。いまは萎みに萎んでダンボールの何処かに収まっている(と思う)。


行く先々の海岸の廃物に、駅の線路際に、何故か暗示のようにブルーパール球が落ちているのに出会う。会うたび心で「今日はここにいたんかい」と挨拶する。
袋田の滝に観光に行った時、遠い瀑布の滝壺のところで永久にクルクル水に回転している小さなブルーパール球を見た時には「あいつ!あんなところで何やってんだ」と心配した。
やつのテーマ曲は、青江三奈【恍惚のブルース】ブルーパールの雨のくだりである。




8月17日

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山岳を描くのは本当に骨が折れる。屋根の上に乗ってる山。悪態を呟きつつ描く。
浅川マキの【山河ありき】に捧げる絵を描きたいがうまくいくかどうか。自分の知る中でも1か2に哀しい唄だと思う。


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黑峠、以外にも葛原の短歌のなかで、はっと核心を突かれた気になるものがある。
[原不安といふはなになる 赤色の葡萄液充つるタンクのたぐひか]
「原不安」という分かるような分からぬような無機的な学問語を使いながらも、身体感覚は絶対それについていこうとはせず、ゆっくりと本当の不安に向かって感覚が沈殿していく。赤は葛原の好きな色らしい。花や血のわかりやすい赤ではなく、花の絞り汁や血液や葡萄液の底にこごった「澱」の赤色を感じる。
時間差で違和感がじわっとやってくる感じ。私自身の感じ方と重ね合わせてしまう。幼少期、一人っ子の沈黙の視覚から見た大人の世間、テレビの政治。渇いた町の光景。白昼の光と影。


ミケランジェロ・アントニオーニの【太陽はひとりぼっち】は15歳の時にビデオで見て、これは私自身だとまで思った原点のような映画だ。白黒画面の白い団地群の中にいるモニカ・ヴィッティとアラン・ドロン。話の筋はあまりなく、なんとなくすれ違う人間の不安のようなものがモニカ・ヴィッティの視覚を通して映し出されるだけだ。恋人に微笑んでみせたわずか一秒後の虚無的な瞳、機械や建物に生命感を感じて少し輝く瞳。感情的なものはないが、感覚だけは薄暗く影を落とし続ける。明るい真昼の何処かにふっと真っ黒く浮かぶ穴を、自分だけが感じて気にしている…ような。
違和感が後からやってきて、腑に落ちなさがすうっと世界の死角に沈殿していく感覚。のめり込むようにみた。


夜、ひとり団地の広場に彷徨い出た彼女が、ふと我に返って気配に仰向くと、鉄のポールの行列が風にガランガランと微かな鳴き声を立てている。恋人といる時より寧ろ人間的な表情で少し微笑み、興奮したように、いや慄いたように、後ずさる。後ずさっただけでなにもしないのだが、そのシーンは特に忘れられない。
ミーナの歌う太陽族調のポップスが映画の主題で、真昼のラジオのなかで白々と切迫した青春を、遠く歌っている。現実感のあるようないような時代の輝き。そのミーナの曲がまたたまらなく好きだった。
原不安の短歌に、その映画を思い出した。


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「森岡貞香歌集」届く。同じく戦後を生きた歌人。葛原妙子を知ることがなければこの人の名も知ることはなかったろう。
難解派とか前衛と言われたこともあったようだが、素直に人生が滲み出た都市風景が多い。見知らぬ他人の日記のなかの死、病、家族、愛を垣間見る気もする。
この年代にしては、現代の東京の雨の街灯の光景を思わせる歌が多く、勝手に脳裏に桑田佳祐の【東京】流れる。

夜遠き河岸の閒(あひ)に遊技場白く默せり魂(こころ)投げたき
夜の風に立ちしこゑごゑ遠退けば舗道に工事の穴が埋めずにあり
夜遅く戻りてきたる汝の脛のかなたにありき街のまぼろし


8月18日

漠とした将来の不安含め「現在過去未来・他人の中の見えづらい記憶・この世のものではない時」まで引括めた時空に「神出鬼没する」というような表現に、どうも惹かれるようだ。葛原短歌もそう、【太陽はひとりぼっち】にもさりげなくその要素はあり、ソクーロフ【日陽はしづかに発酵し】はその真骨頂である。この映画は重厚SFなのである。
邦題はどちらもピンと来ないが、【太陽はひとりぼっち】のイタリア語原題は[皆既日蝕]であり、【日陽はしづかに…】のロシア語原題は[蝕の日々]である。どちらも「欠けていく白昼」のイメージである。
ソクーロフのそれと比較するのも何だが、タルコフスキーの【ノスタルジア】は、同じ退屈抽象映画でも嫌いなほうのやつだった。結局自分だけの過去や苦悩に延々と没しているだけで、急に飛翔する神出鬼没性がないと、私には感情移入できないらしい。



8月19日

「黒峠」は実際に日本にあるのだ、と川野里子氏が評論に書いていた。彼女の知る限り一カ所は広島にあり、もう一カ所は大分の久住連山・黒岳に続く峠がそうだという。
久住、と知って驚く。母の故郷。自分にも意味のある場所。
もう久住の山の方に縁者は住んでおらず竹田に居るので、私があの高原を訪れることも無いのだろうか。高山植物の咲き乱れる斜面。
黒岳はどこがそうなのかとても私などには分からない。あのへんは全て山だった。黒峠も本当にあるのかどうか、ネット上の地図などには記されては居なかった。しかしとにかく、黒峠という言葉に魅かれた因果のような情報を知り、不思議な気持に貫かれた。


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真鍋美恵子全歌集、入手難しいものを思い切った値段で買ったが、大好きになれる一冊かもしれない。一抹のシュールさ、投げやりさ、素直さ、映像喚起力…一番好きかも。変にこしらえてないところがいい。
煌びやかな語彙で非現実的に見せているのではなく、感じ方自体がどことなく不穏をおびて幻覚的である。

塵芥を収集せし車が何物も漏らさぬするどさに蒼光りせり
水平線を執拗に黒く描きたる絵今宵しきりに所有しをりたし
固定せるもののはげしさ地下底にコンクリの柱くろぐろと立つ
受身なるものの素直な態にして給油されゐる黄のくるまあり


そうかと思えば、とぼけたような投げやりな情景歌が差し挟まれる。


秋暑き港町来て着色の濃き飲料をわれののみたり
友が建てたる山荘にきぬ記念写真を撮るに素直にならんとしてゐつ
城のなき城下町にひとりきてほそき鰻をわれは食ひたり


上記のような「だからなに!」と突っ込みたくなる少し情けない「ただの寸景」が、全体のなかで何ともいえない哀愁を帯びて効いてくる。


真鍋美恵子、森岡貞香、安永蕗子、葛原妙子の厚い歌集たちは一生の宝になりそうだ。例えばこれらを参考に絵を描いたりは出来ないだろう。しかしお守りのように側に持っていたい。孤独は万華鏡のようなものであること、自分の人生に寄り添い徹底的にそれを見つめること、妄想すると同時に覚醒していること、才能は最後まで自分で磨くのだということ、を忘れないため。



8月20日

早朝台所の窓を開け「なんだまた曇りか」と一瞬は思ったものの、その曇天の美しさにはっとした。晩夏にはこんな白い朝がたまにある。無愛想に今までの何かを全て覆してしまうような空。

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明日仕上げ。




8月21日

二週間ほどほぼ黙りこくって独りの時間を過ごした。ぼんやりと自分に寄り添い自分の声を聞く日々でよかった。しかし明日から能登の共同生活にいきなり飛び込めるのか?夫は作品の追い込みで鬼気迫り来る状態だろう。作家たちの出入りも激しくプライバシーもあまりない。大丈夫か私は?
たまに電話で家族や仕事先と話をしたが、話言葉がすんなり出てこない。言い澱みすぐ息が上がる。書き言葉はすらすらでてくるのに。筆談で過ごそうかしら。


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吉祥寺「くぐつ草」のラムアイスコーヒー、妖しく旨い。うつわが氷のように冷たい。
人混みに出る練習して、一杯。

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「具体的」なモチーフを通し...様々な通り抜けかたをしながら「抽象的」な感覚と往来すること。
十代、まだ文学部を目指していた頃のほうが、はっきりそれを考えていたような気がする。そこから絵画の道に来たことで、具象や抽象という言葉の扱いに惑わされるところがあったかもしれない。
ある種の短歌は、日本文学の中でも一番その具象性と抽象性の行き来の格闘の痕跡が見える希有な形式なのではないか。俳句よりも詩よりも。書かれている言葉の表面的な姿とは、また別の気韻を感じることができる。(もちろんそれからはほど遠い歌も数しれずなのだろうが)。とても参考になる。


私が今後「抽象絵画」を描くようになるとは思えない。あらかじめ抽象的なことを抽象によって表現することに意味を感じないし、具体的なことを抽象化していくことは自分には合っていない。逆である。抽象的な「あの感じ」として意識下からのぞく何かに、具体的に形を纏わせる。ということを考えるタイプなのだと思う。
いつのどこから意識下に埋もれていたのか分からない数々の「あの感じ」と、具体的な経験の断片的記憶と、代替するモチーフのイメージの符牒がピッピッと合い始めるときがある。符牒が合ってゆくときというのは、黄緑の繭糸のようなものが黒さを貫きながら、観念の日本海溝を深く渡ってゆくような感覚である。その糸なしに、作品を安易にシリーズ化だけしていてはいけない。

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突然歌謡曲の話になるが、完成度の高い歌謡曲には、短歌とはまた別の領域で獲得された抽象性がある。まあ音楽とはリズムそのものだから...そうなのだが。
【津軽海峡・冬景色】の主調のエモーションは、五七調では成り立たなかっただろう。あの三連符の連続と三語区切りの歌詞の部分がなければ、荒海の連絡船上で激情の揺れに乗っかっている感じは出ない。一番凄いと感じるのは二番の歌詞の「風の・音が・胸を・揺する・泣けと・ばかりに」、言葉とリズムとメロディーの恐ろしいほど合致した身体感覚だ。一番の歌詞よりも情景と状況に憑依した詩韻だと思う。これはもしかしたら言い尽くされていることなのかもしれないが、本当に凄い。
五七調の中に[汽笛が(ジャー)・汽笛が(ジャー)・汽笛が(ジャー)]の破調を突然入れて一気に波止場の音世界の中へ身体ごと持っていかれる【涙の連絡船】の奇跡と同等の凄さである。


また【魅せられて】の最後部分の「おんなはうみ」の六文字は、数としては収まり悪いはずなのに、「おんなはうみいー............→(そして視線は一気に海上にゆだねられる)」という余韻のために七文字や八文字になっていないところが、凄さなのである。うみいーと伸ばすところで、カーテンは部屋の外にふわっと無責任に躍り出るのだろう。後はご想像に、の余韻でもある。
「歌う歌」だけあって、響きやリズムや身体の方向性とともに説明出来ない感じを表現するのが面白いのである。
ちなみに【津軽海峡・冬景色】の身体性にくらべ、【天城越え】はとても説明的であり「コラージュで絵を作った」ような感じがある。天城越え、というそもそもの松本清張の小説の題はぐさっとインパクトがあるのだが、あの歌のタイトルとサビが「天城越え」でなかったら、後は至極平凡な演歌のように思う。


誰か若い人、最近の歌でこのような凄さを持っている歌があったら教えてくれないだろうか。私は全然聴かないので。


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限りない白の広がりを、黒の直線がひたすらに切り裂いていく。切り裂かれても再び線は無の中に没する。終わり続けながら終わりはしない抽象絵画が永遠に塗り重ねられる。数年前の冬の秋田出張では、雪の新幹線でそんな感覚を味わった。何度か経験した新潟方面への横断とは、また違う果てしない感覚だ。東北方面は、やはり日本を縦に進むから奥行きが知れないのだ。これが夜行列車なら、またどれほどの無のなかを直線が切り裂いていくのだろう。
八代亜紀【愛の終着駅】はシンプルな歌詞とメロディで、津軽海峡…のような奇跡のグルーブ感はない。が、傑作である。いきなり高音の「さーむいー… 夜汽車でー」でもう本当に寒っみいー!と身震いがするほど、冒頭で全てが決まっている。あれは八代亜紀の声でなくてはなし得ない音世界だ。「寒い」という言葉であると同時に汽車の汽笛であるような、張り詰めた発声。くぐもりながらも一直線につきぬける硬質な声が、雪の無をピーッとひたすらに切り裂いていくのだ。


他の歌手が歌ったらと考えてみる。
坂本冬美はこぶしを聞かせてしまい横に海が見えちゃうだろう。まあ他の若い演歌歌手さんではそもそも歌いこなせないだろう。森進一は「寒いー夜汽車でー」は素晴らしいかもしれないが、その次の「膝を」で情念が入り過ぎ、ワケありになりすぎるだろう。美空ひばりは【みだれ髮】のように繊細な女になり過ぎそうだし、都はるみの声も繊細すぎ汽車の音に掻き消され吹雪の哭く音に同化していく。逆に藤圭子の声は迫力によって汽車の幅をはみ出し、声のこだまが雪に残ることはないだろう。石川さゆりはいいがその次に乗り継ぐ連絡線に激情の余力を残していそうだ。
やはり雪中の鉄道の硬質な直線感と距離感は、八代亜紀の声でしかあり得ない。ふと、ちあきなおみはよさそうだ?と想像したが、ちあきなおみはなんとなく途中駅ですぐふらっと下車しそうなのだ。降りちゃいけないのだ。愛の終着駅まで我慢して揺られていなければだめである。

(ちなみにこの歌の歌詞は実は女自身ではなく、手紙の主の男が汽車に乗っているのだが、よく言われるように、八代亜紀の「寒いー」が寒すぎて、女自身が寒い夜汽車に乗っている感覚に錯覚される歌である)






by meo-flowerless | 2017-08-08 18:20 | 日記