画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2017年6月の日記

2017年6月の日記





6月7日

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トホホな精巧さというものがある。自作なんちゃってネックレスの中でも、我ながら気に入った。

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六月半ばのイギリス出張を見合わせにさせてもらう。六月、イスラームの断食月にテロ行為をすることが呼びかけられている中、どこに渡航しても安心出来ない。






6月16日



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自分が何かを作る狂おしい集中力は、何かを集める執念と連動したときだけ、発せられる。
それが実のある蒐集や、作品の集積であるならなんも問題ないのだが、完全に目的や方向性が間違っていることが多い。だいたい目的意識によって生きている人間じゃないようだ。見境無く集めはじめてとまらないことに関しては、病的な域にいるかもしれない。
このまま飽きなければ何万個でも作るだろう。もし男だったら間違いなくルアーづくりに夢中になるタイプだろう。江戸人だったら根付をつくるだろう。



他人には絶対わからないことだが、この作業のミクロな世界のなかでの色のやりとりが、今自分のドローイングがわりになっている。色彩の洪水のような夢を見るし、蜂が人間には見えない色を見ているという色彩が今の自分には見えているんじゃないかと思うほどだ。が、まあ、絵を描かなきゃね…



6月19日


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二十年来、ほとんどしなかった「デッサン的」なエスキース(下絵プラン)。気づいたらなんとなく描いていて、朝になった。珍しいな。
細密絵画だから、下書きも綿密にやりそうだと他人には思われているかもしれないがじつは私はほぼそれをしない。エスキースはだいたい、字のメモと、あるとしても雑な殴り書きの略図だった。本番には、簡易な輪郭線だけとったらアクリル絵具でいきなり描き始めてしまうのだった。描写の二度手間が面倒くさいからだ。
けれど最近、描画との向き合い方が変化し始めた気がする。というか、イメージのいじり方が変わってきた、という方がしっくりくるか。良いこととも悪いこととも言えない。ただ変わっていくのだろう。




6月22日


この底光りと湿気の季節、頭にずっと流れている曲がある。【夢のカリフォルニア】ママス&パパス。
中学の頃にラジオから録音したときのままの雑音で蘇る。ただし浮かぶ光景は、それよりずっと昔おさない頃に住んでいた団地の森、夕立の真暗な空に不気味なふと目の虹がくっきりかかった景色だ。地面の草だけが底光りするように明るく、風に騒いでいた。ラジオで聞きながらその風景がふと浮かんだことがいまも連想の反射になっているのだろう。


【夢のカリフォルニア】は自分にとっては、異国のラジオのまったく聞き慣れない音楽の垂れ流しの中にふと「あ、この曲知ってる」とたまに混じる名曲の、物凄い遠いところで通信が繋がったような懐かしさ.....を感じさせる曲である。
カリフォルニアのはずなのに、そこに至るまで永遠に辿り着きそうもないアメリカ中西部のなんにもない荒野でポツンと車中に閉じ込められているイメージしか浮かばない。虹を見るが、それが遠い竜巻と同じくらいに何故か不吉で不気味に見えるような天候。アメリカの光景のそういう閉塞感が描かれている映画を観たくなった。




6月22日


AKBなどの48グループには微塵も興味ないし、テレビがないので興味持ちようもないのだが、ネットニュースでしきりに騒いでいる「総選挙で結婚発表しちゃった子」の話題は、面白いと思った。メンバーもファンもそりゃ腹立つだろうが、いいねーこの子。アイドルとやらが決して見せてはいけない「人生」を、唐突に全国に突きつける感じ、私は気に入った。実際そばにいたらムカつく人かもしれないが、しかし気に入ったなー。


「恋愛禁止でやめられるのならそれは恋愛ではないと思ったので」とか言ったらしい言葉もいいな。ホントそう、恋せよ乙女だよ。初めて好きになってすぐハタチで結婚て早いような気もするが、自分の旬はこの人に託したいと思ったその時が女の美しさの託しどきだもんね。大勢に見せびらかす美もあるかもしれないけどそれは虚飾なんだから。
生身の女など、恋もうんこも裏切りもするおぞましいものなのだ。おぞましく愚かしいからこそ愛を知っていくのだ。
夢そのものであるような存在なのではなく、夢は技術で作り出している。だからこそ夢なのだ。
「金で売り買いできない、有無を言わせぬなにか」の方が上、とはっきり言い切る。それでいいと思うよ。



6月23日

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列車は北陸・羽咋の駅を過ぎたところだ。羽咋という難読の地名に魅かれるのは、松本清張【ゼロの焦点】に出てきたからだろう。若い妻の禎子は、新婚間も無く失踪した夫を遥々探して、ひとりこの地にやってくるのだった。
青い田の光景は自分の故郷の風景ではないはずなのに、私をどこかに返し、戻してくれるように思う。
私も東京からひとり遥々きたがまだまだ道のりは長い。七尾、和倉温泉、穴水を経て、夫の居る、能登の最果て・珠洲へと向かう。


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列車のなかではよく私はウズラ卵の燻製を食べる。すぐ一袋食べてしまうのだが、気になるのはウズラの適量だ。鶏卵はコレステロール的に1日2個限度らしいが、鶏卵好きの自分は、平気で5つくらい食べる日もある。ウズラの燻製も、食べ終わるとき若干気持ち悪いから、一袋は食べ過ぎなのだろう。

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七尾線・穴水行きは2両編成、列車じゅうにテルテルボーズが揺れていて、永井豪を激推ししている。よくみるとガラス窓にもキューティハニーの影が。
乗客は10人もいない。


十年ほど前の旅でこの海沿いを炎天下えんえんと歩いたことを思い出した。田鶴浜から七尾まで歩いたのではないか。


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終点穴水駅まで車で迎えにきてもらったが、そこから珠洲市までの遠さ、ひと県をまたぐ感覚だった。しかも珠洲の町からさらに突端の狼煙、折戸といった町までの遠かったこと。
えんえんと緑の中を行く風景は単調だったが、集落の黒い屋根瓦や家の作りは美しく、自分にはあまり見慣れない美しさだった。


図面を引いたり船大工に教えを請う夫の横で私は今日はおとなしく付いていったり、いねむりしたりしていた。作業場の桑の実をもいで食べた。

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狼煙(のろし)という地名はいかにも夫が好きそうで似合う。その集落にある古い灯台の美しさは今まで見た中でも記憶に焼き付くものだろうと思った。映画【喜びも悲しみも幾年月】の冒頭シーンに出てくるのにも似た、鏡が回転する古い灯台の灯りで、思わず映画の傑作タイトルバックが蘇った。なんども見てその度泣く映画だ。佐田啓二と高峰秀子のやつ。好きな映画十傑に入るかな。


日本海は太平洋より広い感じがいつもする。夕陽は見えなかったが、甘い桃色の空気と穏やかに拮抗する海面は素晴らしかった。


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6月24日

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朝5時に起床し、浜辺を回って漂着物拾い。夫の作品の収集の手伝いではあるのだが、何より自分自身が漂着物拾いが好きでたまらない。
なににつけても夫に褒められることの少ない私だが、漂着物拾いについては「さすがだなあ、すげえ」と褒められる。
こういう繊細なものをごみの山や砂中から拾いあげる。はかない馬車の玩具、競馬馬の玩具。それぞれ別の浜で見つけた。朝鮮半島のものか、ロシアのものか。


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一日中様々な浜を歩きまくり、波音を背に、火搔箸で漂着物をあさる1日。早朝に拾った浜に午後は地元人の大清掃が入ったりしたようで、ゴミ溜めのようだった浜が午後には綺麗に片付いていた。朝のうちに目ぼしいものを取っておいてよかった。


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夕刻作業場に戻り、収穫物を洗う。夫が依然小豆島で滞在制作した時も、アライグマのようにずっと漂着物を洗ったことを思い出す。
並べてみると、それぞれのモノがそれぞれの声音や語りを持っているように思えてくる。流通している完成品よりも、機能も姿も剥ぎ取られた断片の方がモノとしては雄弁に思えてくる。


漂着物と言っても、いかにもクラシックな小瓶や硝子のかけらにはそんなに惹かれず、色あせた極彩色のプラスチックが好きだ。色が飛んで複雑な白グレーにまで反転した蛍光ピンクとか、かえって繊細な果実のようなグラデーションになった蛍光山吹色や、絵具で思考している限りあまり思い浮かばないような色彩の世界が、漂着物にはある。


でかいザリガニの模型、赤や黄の水鉄砲、入れ歯…どんな遍歴を経てあの浜で死んでいたのか。無機物であっても漂着物にはやはり一抹の遺体感があるのだ。入れ歯はシャレで拾ったが、ひとのボーシやクツは生々しすぎて拾わない。


美しいのは各種カゴ・アミ類だ。様々な模様は世界のどこかで誰かがささやかなデザインをしたものなのだ。格子だけでなく波模様、かごめ、メロン模様にしたその心。しかし無銘の瑣末な仕事としてそんなデザインは見向きもされない。
廃物を並べてみると1つ1つの色や模様が千代紙のように引き立って見えるのが面白い。
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私個人の戦利品として、赤い馬車の玩具、造花の花弁ひとひら、赤い小さなカバのおまけ(尻が私に似てる)、薄緑の精巧な金魚を持ち帰ることにした。みなプラスチックだが、珠玉感がすごくある。

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6月25日


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朝から雨だが曽々木海岸へ。夫が冬に来た時は漂着物が沢山あったらしいが、清掃後なのかまったく食指が動くブツがない。
私の勇姿…モンペにカッパ、背負子にトング、そして頭にかぶるタイプの雨傘。このC級発明みたいな雨傘は、頭にゴムバンドではめつけるだけ。能登に来る前日に、家の近所の雑貨屋でぐうぜん2つ見つけたもの。タイ製。
夫が喜ぶかと思ったが、初めは引いていた。しかし最終的には気にいるかもしれない、と私は踏んでいる。

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昨日のようにときめく戦利品はない。それよりも海岸を無残に覆いつくす目を覆うばかりのプラスチックの廃物の山に、漂着物好きの気分を過ぎやはり暗澹とした気分になる。人間は、自然回帰不能のものを作り出して以来それを止めることはもうできないのだなと痛感する。


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宿舎、仕事場、街の中心のホームセンター等が余りにも離れ過ぎている。車で飛ばしてもそれらを回るだけで片道40分くらいかかっている。
海岸で廃物や大きな流木を拾いトラックに積んで、それを作業場に降ろしに行くだけで長い山道のドライブである。流石に夫はこの毎日の労力がつらそうである。


小豆島、中之条、今迄の夫の滞在制作先はいずれも深い山林を車で走り回るような場所だった。今回もそうなのだが、なにか先の二箇所よりもっと苛酷な自然を感じる。そして山の中の路が非常に分かりにくく複雑で迷いやすい。


2度も同じ山道で彷徨ったが、行き止まりに急に開けるたった一軒の農家が、隠れ里のマヨイガ(迷い家)そのものに思え、懐かしいような戦慄するような感じがする。
この地方らしい黒光りする瓦屋根や焼杉材の黒々とした壁、三角屋根の立派な農家は、さいはての鬱蒼とした山林とミスマッチだ。
ふと山奥にそういう集落が現れるたび、胸がズキンとするような宿命感にも似た感じを覚えた。なぜか悲痛なくらい懐かしく、しかも凶々しく思える。
自分の前世があったとしたら、能登に関係でもしていたのかもしれない、とぼんやり考え続けた。


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海流や地形によるのだろうが、幾多ある浜辺に集まるそれぞれの漂着物の種類はどこも違う。きのうの馬車を見つけた場所は比較的ドリーミーな古いプラスチック片が見られたが、別の場所ではただゴミ溜めとしか言いたくないペットボトルや汚い容器の山だったりする。前者では「よく遥々時空を流れて来たねえきみ」と漂着物に語りかけたくもなるが、後者では人間全般に「ゴミ出すんじゃねえ!靴落とすんじゃねえ!プラスチック使うんじゃねえ!」と怒鳴りたくなりもする。自分に跳ね返り、色々考えてしまう。


様々な浜でも、小さな貝殻しか落ちていない浜に連れて行ってもらう。
ここにはプラスチックも他の小さなクズゴミはなく、ひたすら様々な小さな貝の破片で埋め尽くされている。もちろんこの渚は人工的なものではないだろう。海流が貝だけを運ぶメカニズムがあるのだろう。不可思議である。
私は子供にかえって夢中で好きな貝を拾う。夫も沢山拾って私にくれた。魚か小動物の小さな骨、あるいは陶器片などが彩りを添える。



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瓶詰めにした様々な貝を、種類に分け、並べて乾かす。
集めて並べる…私の人生の大半はこういう行動の繰り返しなのかもしれない。



6月27日

独り帰京して、あとにしてきた能登を思う。
今迄、様々な端っこの土地に行った。知床、佐渡、平戸、坊津…そのどこも一種壮絶な「さいはて」感はあった。能登半島も端というのでは同じであり、今回滞在した集落も北端なのだが、いかにもという「さいはて」感は感じなかった。夫によると冬に訪れなければその感覚はない、と言う。今の季節は海も、土地の「気」のようなものも凪いでいるのかもしれない。
けれど個人的に、胸が締め付けられるような懐かしさと不安を同時に感じる土地だった。なんの不安なのか…閉塞感か喪失感か。ちょっとまだ分析できない。何かを思い出そうとしている自分がいる。何も思い出せないが。
山はまだ6月の草木で不気味に鬱蒼と静かだが、これから割れるほどの蝉時雨の音やヒグラシの輪唱の季節になると、あのぞわぞわとする懐かしい不安感は増すだろう。

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その山の県道で、生まれて初めてキツネを見た。溝のなかに何やらケモノがちょろっと入って行くのを車から見かけ「野ネズミかな…」と呟いたら夫が「ん?何かいた?」とふと車を止めた。止めて振り向いた溝の中からひょこっと顔を出したのは子供の(多分)キツネだった。向こうも興味津々で逃げようともせずこちらを見つめている。
写真左のほうによく見るとこちらを向いて写っている。キツネは可愛らしいのになぜ化かすイメージなのか。とにかく出会えて嬉しかった。

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6月28日



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私の曽祖母は私にそっくりで…などと言いたくもなるが、こりゃ私だ。
今日急遽、学生の作品の手伝いで着せられて。ヅラがでかかった。「男にだらしないオカーさん」の役。

by meo-flowerless | 2017-06-07 02:11 | 日記