画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


by meo-flowerless

プロフィールを見る
画像一覧

外部リンク

カテゴリ

全体
絵と言葉



匂いと味



映画
日記
告知
未分類

最新の記事

2017年6月の日記
at 2017-06-07 02:11
2017年6月の夢
at 2017-06-06 04:41
アクの強い辞書たち
at 2017-05-22 20:00
カンボジアの絵看板
at 2017-05-14 01:55
プノンペン日記 2017.5..
at 2017-05-10 09:35
2017年5月の日記
at 2017-05-05 22:41
2017年4月の日記
at 2017-04-02 05:07
旅愁の正体
at 2017-03-18 18:39
【張込み】 野村芳太郎
at 2017-03-17 10:41
秩父三峰行
at 2017-03-05 23:49

ブログパーツ

以前の記事

2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
more...

画像一覧

2017年4月の日記

2017年4月の日記





4月1日


調子悪く、眠れず。
夕方の砂浜で、あらゆるタイプの「精神に変調をきたした女」の福笑いをやっている夢。五ミリ程の蟹の子供が一連になったブレスレットの夢。
なぜか黄砂が到達し金色に煙ったスイスアルプスの後方から、神秘的な陽がさしている夢。

:::

好きではないはずのキュウリの漬物がしきりと食べたい。



4月3日


地方での長期滞在製作にはいる夫の荷物を現地に運び、滞在先に一晩私もお世話になり、挨拶をすませる。
展示する場所は能登半島なのだがそこでの製作場所がまだ確保されないため、以前中之条ビエンナーレでお世話になった群馬の方の家に身をよせ、作品を制作させてもらう。なんと厚かましいのだろう、と私のほうは冷や汗が出そうであるが、夫自身は相手の懐に素直に飛び込むタイプである。
私ひとり、上州の山々を見ながらうつらうつらと汽車で東京に帰る。春の陽射しが、まぶしく、むなしい。
気が弱っている時に夫と離れるのは打撃だが、仕事が始まるしそんなことも言っていられない。絵も本腰入れて再開しなければならない。

:::

吉祥寺で夕立に遭う。春雷である。怖いので猛スピードで走った。
煙幕のように黒雲に覆われた町に、TOKYUデパートのネオンの赤い文字と稲妻だけが光る。稲妻がもしあの赤だったら、別の恐ろしさだろう。蛇の舌みたいだろう。

:::

「真昼」というものが薄いハトロン紙で出来ていて、それを折り始めるところを何度も繰り返している真昼の夢。
夕暮、「自助努力」「農協」と書かれた看板の間の藍色の領域をピンクの糸で細かく刺し子刺繍していく夢。

:::

若いときはもっと、この眼に飛び込んでくる光景の色彩と脳裏の音や言葉などをつかって、内的な映画を撮るような感覚で生きていた。あの感覚を思い出すと元気になる。それを一番邪魔するのが、いまの自分の事務的なカツカツとした喋りかたや思考だよね。やめたいのに。

:::

「御台所(みだいどころ)」という、将軍の奥方かなにかをさす言葉が妙に好きで、春になると何故か思い出す。文字通りの台所を思い浮かべたりはせず、いつも五月の青々とした山が浮かぶ。高度800メートルくらいもある高層の、清水寺のような高床式の山寺が山肌に貼付くようにしてそびえ、そのてっぺんの縁台に武家風の女の影が点みたいに見える。という場面を思い浮かべる、春の真昼。





4月4日


仕事後、ふらりと独りで横浜に行く。バングラデシュの刺し子の安いかばんを最近探しているので、店に見に行った。
みなとみらいの夕陽が澄んだ桃色で美しかった。自分にそぐわない、というか、今の自分がこんな綺麗な夕景見てもいいの?な感じ。横浜という町は自分と全く無縁な感じがする故に、かえって優しく感じるときがある。
中華街にいくたびうろうろと探せども見つからなかった、家庭的でちょうどいい価格の「お粥」店、きょう適当に折れた路地の途中に見つけた。牛肉粥750円ナリ。味もちょうど良かった。刺し子の鞄の縫目がとても気に入って、帰りの電車でときどき撫でてみていた。

:::

顔の長い三遊亭小遊三のような男が箱帽子をかぶった姿の能面、耳の部分に白い翼がはえていて、中央線沿いの高円寺辺りの空をずっと電車と並行して飛んでいるのを、「あっ天狗だ」と思っている夢。




4月7日


e0066861_23175788.jpg


大学。アトリエ掃除。教員中ではダントツ面積狭い私のアトリエから、ただでさえ場所をとる作業台や前任から譲り受けた大イーゼルを外にだし、学生にゆずる。私はやはりちゃぶ台みたいなのでないとだめ。座椅子でないとだめ。

:::

もやもやすることやがっかりすること、苛立つことが春から多過ぎて鬱鬱とする。
人の気配の消えた大学の夜桜を眺めながら自転車を走らせていたら、鬱という漢字はなんと密度感や色感が夜桜っぽいのだろう、と思えてきた。そう思うと鬱鬱もいいもんだ、とも。こういう思考回路は自分らしい、と思い出した。

:::

私は自分の逃避傾向を恥じはしない。なぜならば、人の行かないさみしい道の向こうに急にスコーンと突き抜けた別世界がある気がして、その世界のイメージの方が美しくクリアだからだ。
小さい頃「すごろく」遊びをしていて、ふとコマを進める枡から外れた、それ以外の何も書いてない余白が気になり始めた。この領域はなにと見なせばいいのだろうか、というような。その感覚は今なおさら大事になってきている。
正統に文脈を追いたい人は追えばいい。文脈を知っていること自体は大事だとも思っている。でも本当言うとそういう類の話を聞くたび、どうでもいいじゃないか、と白けてもいる。一度しかない自分の人生だからこそ文脈外の不明な余白にずっと迷っていたいと思う。



:::

学生の顔つきはいいなあ、と思う。まだ青白い本能の電気みたいなものを感じる。とくに一、二年生。若い体が不安で緊張しているときの鋭敏さは、それだけで財産だと思う。逃げたい気持半分、向かって行きたい気持半分、混じり合ってモヤモヤと遣る瀬無いのが真実なんじゃないかとも思う。
へたに闘争心を言語化して標榜したりし始めると、何か大事な震えの感覚が大義名分とすり替わって固化し、あの青白い電気は喪われるんだよな、とわが身を振り返り思う。





4月8日

e0066861_14042994.jpg

昼御飯は日暮里駅ニュートーキョーまで出る。
今日は一人なので、隙間みたいな小さな座席に通される。何時ものように混んでるも混んでるのだが、とにかく何だか猥雑感。一人ずつの客のなかに昭和と東京と大阪と中国と韓国のミックスされたような絶妙な客層感。
隣席の中国ビジネスおばさんの片言日本語による携帯商談が、名人の話芸のように聞こえてくる。「あのタイワン人!ダメよアッブナイよ近づくんじゃないよあれヤクザヤクザ、あーた!(貴方)」
銀やブルーできめてお洒落しているのに四股を踏むくらい足を踏ん張って開いてスパゲッティを食べているのが印象に残る。
喫茶マイアミ感とも違うこの談話室ニュートーキョーの感じを何と言い換えれば…と前から思っていたが「欧陽菲菲」感だな、と思いあたり、独り合点でうなづきながら私も隣席と同じスパゲッティを食す。


:::


もと教え子の「歌友」ふたりとカラオケ。本来はこのメンツに当時の助手のK君を加え、卒業後もたまに集まって歌う「部活のレギュラーメンバー」のような存在。
この中のT君の歌のうまさは、ちょっと他と比べ難いうまさだ。学生の中に歌友は多くいて、本当にうまい人や古い歌を歌ってくれる人も多いが、初めてT君が『ワインレッドの心』を歌ったのを聞いたときの驚きは今も耳に残る。なんと言うか聴いているほうがギューッと「胸のはりさけそうな」気分になる歌唱力。私の好きな『化石の荒野』『終着駅』を歌ってもらったり『灰色の瞳』をハモってもらったりしても、素晴らしい。
癖のない歌いかただが、ちゃんと自分の歌にして歌いこなす。独特な声の特質と正確な音感、本気で音楽の方に行っても通用したかも知れない。きのうは『アカシアの雨がやむとき』『聖母たちのララバイ』などの女歌も歌っていたが、絶品だった。
私はこのグループとなら心置きなく、この上もなく暗く古い歌を歌える気がする。昨日は谷村新司『砂の道』を初出して、ドン底に浸った。




4月9日


e0066861_13060236.jpg

雨の道の真ん中に、でかいこいつらがいた。上に乗ってるやつは15センチ以上ある。車に轢かれるぞ、と話しかけても、けしかけてもつついても絶対動こうとしない意思。それどころか、車道のまんなかに2匹でこのまま這って進む。干渉はよして、その場を立ち去った。

:::

昨夜の歌の席でふと井上陽水の『とまどうペリカン』を歌いたくなった。
カラオケで歌おうと思ったことはなかった。あまりにけだるい世界観はさすがにカラオケには似合わない。しかし歌いながら、自分の原風景.....「途方に暮れる夜」のようなもの、を噛み締めるように思い出していた。自分の作品の背後の一曲として、昔からこの曲が流れている、と思う。意識したことはないが大事な曲だ。
陽水のファンだと思ったことはないし、すべてを聴く気にもならないのだが、これと『ジェラシー』『リバーサイドホテル』『夜のバス』は、青春に浮遊感のある闇をもたらしてくれた、思い出の曲だ。『密愛村』などの夜を描いたものの世界観は、二十代でこれをかけながら走った夜の車窓風景に、遠く繋がる。


絵画を考えるときに、シュールかリアルかなどという言語の枠組みにとらわれて考えがついつまらなくなるが、陽水の曲を聴いてふと逃れられることがある。彼の描く風景はシュールでもリアルでも同時にあるし、そのどちらでもないとも言える。ロマンスかシリアスか、などと言い換えたりしたほうが似合うかもしれない。
追いかけてもたよりなく逃げる遠い空の月と、車の下に唸り続ける車道の摩擦の重低音と。それらを同時に感じている夜の身体のからっぽな充実感。


途方に暮れていたい。しかもぼんやりとではなくはっきりと途方に暮れていたい、という矛盾を自分は表現物に定着したいのだ。陽水の歌にはそういう「途方に暮れた充足」、あるいは「したたるような欠落」みたいな矛盾がある。

:::

「東京湾にガスのような異臭がした」と方々から通報があった、というネットニュースの見出しに、何故か胸が躍った。意味はない。遠いニュースの向こうのそこはかとない吐気、という感覚もさっきの陽水感覚に通じる。




4月10日

e0066861_23181044.jpg

助手のGちゃんが大学の廃物置場あたりから網目の笠の大きなキノコをゴロゴロとってきた。それほど鬱蒼としてもいないのにこんな立派なキノコが生えるのかと驚いたが、生えたいきさつを聞いてなおさら感心した。拾い物が好きでよく廃物置場に行く彼女がある日「玉砂利」一袋まるごと捨ててあるのを見つけ、要るほどでもないが綺麗な丸石なので、物陰に少し撒いたのだ。そこから今日巨大なキノコが生えていたのを見つけたのだ。花咲か爺さんというか、縁起物の昔ばなしみたいだ。
触っていたら、小さい頃にキノコ恐怖症だったことを思いだした。
これはトガリアミガサタケといって食用になるのだとGちゃんは言う。えー…などと躊躇して笑っていたが、ストーブで乾燥させ始めると、高級な舞茸みたいな、えも言われぬ良い香りが研究室じゅうに充満した。そうときたら早く乾かして食べたい。


4月12日

e0066861_00502558.jpg


日暮里繊維街でたまたま入った店舗が、私に散財をさせた。投げ売り品のブレード(手芸用フチ飾り)。巻いてあるようすも購買欲をそそられるが、手にとってそれぞれを眺めれば、一つ一つにそれぞれの語り口があるように見えて、愛着が湧く。余り物として売っていたが、デッドストックだと思うと貴重に思えてくる。ヒモ類は絵の中に描き入れることが多いので、資料としても役立つ。

e0066861_00504091.jpg




4月15日



e0066861_13433079.jpg


今年は桜の花が持ちがいい気がする。気のせいではなく別の人もそう言っていた。雨にも寒冷にも負けず二週間近く咲き誇っている。
春爛漫の川べりを歩く。白い山桜はそこに一本あるだけで豊かな匂いがあたり一体に広がる。今日始めて気づいたのだが、今まで匂いはないと思っていた染井吉野の花にも、淡いが桜特有の匂いがちゃんとあるのだ。花に鼻先をうずめて嗅ぎながら並木の下を歩いた。

:::

母にきいたら、山桜が匂うのではなく「大島桜」が匂う桜なのだそうだ。そして染井吉野には微かだが確かに桜特有の香りがするとも言っていた。




4月17日

制作中にかける音は、音楽だけではすこし人恋しい。しかしラジオだけだと、話の内容が入ってきすぎてうるさい。
ので、静かなインスト曲に、NHKや放送大学のクソマジメな語りを重ねて聴く、というのを昔からやっている。そうするとただ音楽だけ声だけよりも、不思議な時空の思考に誘われる気がする。
何かそんなことを昔のブログにも書いた気がしたが、いま調べたら確かに書いていた。


久しぶりにそうしてみた。放送大学の講義に、アンビエントや静かな電子音やピアノ曲を集めたitunes上のプレイリスト「火星」(なんだその名前)を重ねる。
しかし以前には物凄くマッチしたこのコンボが、全然合わない。いらいらするのはなぜカシラ?と注意深く聴いてみると、あきらかに放送大学の講師陣の話し方が魅力なくなっているのだ。前にもっていた放送大学のイメージ....どこかの遠い星でふわふわ籠った宇宙的音声で響いているようなあの音声、ではない。カピカピキンキンしていてうるさい。若い女の講師などは喋りかたもひどく品がない。人によるけど。講義というのは本当に技術なのだな、と思わされる。


ただ、自分も教員をしている以上、こういう印象はそっくり自分に跳ね返ってくる。自分の講義の音声化など聴いちゃいられないだろうな、と思う。ああいやだ。
博士発表の司会のあとで前任の大先生に「もーすこーし早口を直せばいーのにねー」と止まった時計のような速度でゆっくりいやみを言われたが、本当にその通りだと自分を恥じた。



:::


外国人講師によるラテン語講座とGhost Box Recordsから出ている音楽たちの組み合わせはとても良い、宇宙的だった。Ghost Box Recordsの所属アーティストたち、Belbury Boy 、The Focus Group 、The Advisory Circleなどの音楽は好きでよく聴くのだが、詳しいことは何も知らない。
アナログシンセで作った70年代くらいの教育番組のジングル、なんかを意識しているような電子音楽。ライブラリー音楽というやつのフェイク。


e0066861_23460698.jpg




4月20日

e0066861_20584817.jpg

久しぶりに新宿小田急あたりを歩いていて、普段上ったことのない階段をふと上ってみたら、この視界に出会った。
この視角。こってりと黄ばんだ青空。ビル裏のダクトや室外機のよごれと無機質に磨かれた壁の織りなす、70年代的近未来感。学生のころ描きたかった原風景が、こういうオレンジの西日と影にコントラストをかたどられた鋭角な町だった。このビルの何処か高いところからもう一人の自分が町を見下ろし「ウナ・セラディ東京」の感傷に浸っているのが見える。「街はいつでも後姿の幸せばかり」。忘れていたことにも思い出したことにも両方に、胸がズキンと痛んだ。




4月22日


完全なる孤独、人に勝手な斟酌も干渉もされず、こちらも身構える対象のない、私自身といるだけの時間が必要だ。この孤独は、意識して得なければ得られない。が、奇妙な簡単なスイッチでその孤独の獲得が可能なときもある。
完全に身も心も一人きりになって感覚に身をまかせることが出来るのは、何故か、知らない町の電車に乗っているときが多い。ので、よく都市近郊の電車に独りでぼんやりと揺られに行く。
今日は上野から南浦和、武蔵野線に乗り換えて自宅にふらふら流れ着いた。枯れて殺伐とした武蔵野線の車窓景をみるうち、やけに元気になって来た。

:::


先日も気怠く郊外の夜の電車に揺られていたが、ある静かな駅で「しばらく停車します」とドアを開け放したまま、電車が止まった。理由は分からなかったが、駅の外なのか中なのか、少し遠くでしきりにジリジリと非常ベルが鳴っていた。夜の静かな駅一体にこだまして、まるで涼しげなヒグラシのようだった。非常ベルというのは心臓に悪い恐怖感も催させるが、故障した非常ベルが遠くで性懲りもなく鳴っているような場合には、なにか情緒を感じる。
その遠い非常ベルのこだまで、鬱々とした気分が晴れ、これが素の自分だなと思える感覚にふと戻れた。なんなのだろう。二分ほどなり続けた非常ベルがピタと止まり、静寂が戻る。駅員のアナウンスも淡々と何があったか知らせずにドアが閉まって、駅を発車した。

:::

「逃げたい、逃げるぞ」とせっつかれた気分になるときがある。何から逃げているのかも分からない。いろんなものだろう。自分自身の一部から逃げている時もある。
電車に乗ると、逃げて来た場所が物凄く穢れていたような気がしてくる。自分がとにかく流れて行きたい場所は本能的に「穢れていない」場所である。
自分にとっての「穢れていない」の基準は純潔さでも静謐さでもなく「滅びの感覚がある」ということである。もう少し突き詰めると「そこに諦念がある」ということでもある。「どこからも遠い」と言い換えることも出来る。

:::


久々に帰宅しぐっすりと眠り、楽しい夢などもたくさん見て、突如電話で起こされる。朝六時半。
群馬の山にいる夫からである。むこうでの制作の合間、「シジュウカラの巣箱」をつくったので私の実家に送ったという。そして私には大学の研究室裏手に設置する小鳥のえさ場を作ってくれたので、送ってくれるという。
寝ぼけ眼で聞いていたが、裏山でも早朝の鳥たちがいろんな歌を歌っているのが聞こえていた。安らかな朝だ。
夫も山にこもり、大事な孤独を貪っているのだな、と思う。毎晩トラツグミのあの寂しい声とフクロウの声が聞こえるらしい。そして寝起きしている製材屋の離れでは、眠っている途中に突然、部屋に迷い込んでいたコウモリの襲撃を受けた、と言っていた。




4月28日

e0066861_00284350.jpg


千駄木よみせ通りを少し入ったところの、とある小料理屋で、お座敷カラオケの夜。
カウンターは四人くらい、小さな座敷に八人くらいで一杯いっぱいになる小さな店だが、おかみさんの作る家庭的な料理は美味しく、常連さんに混じって心ゆくまで歌わせてくれる。
店のお客さんは70、80歳代が多いようで、おかみさんもどうやら80代らしいのだが、60代にしか見えない。
シルバー向けのカラオケはすなわち私向けでもある、何故か。


連れて行ったのは大学の女子八名、いつかの藝祭で一緒にスナックを出店した女の子たちだ。地元の方々に入り混じる小料理カラオケは彼女たちにはさすがに渋すぎただろうか?けれど彼女たちも果敢に古めの歌を元気よく歌い、歌唱力でおじいさまたちに暖かく迎えられていた。


もともとは夫の盟友・Y木さんに連れられていったお店。
カラオケボックスでは味わえないような、歌と歌のかけあい、曲選びの間合いが、人生勉強になる。



4月29日

休日の大学。新緑の校内に、揺らぐ反響音の遊園地音楽が流れてきている。となりの動物園からだろう。空のどこに浮かんでひっかかっているのかわからない陽気さは、かえって物悲しい。はぐれた風船と同じだ。


自分の博士論文の出だしを思い出した。小説を博論として提出したのだった。どこから聞こえているのかわからない遊園地音楽と迷子の呼び出し放送、のシーンから始まる。
あの博論を書いて考えかったことは何なのか、とふとシンプルに理解した。「迷子」について、ということだ。忘れていたが、いまも、なにも変わっちゃいない。むしろ迷子の実践にますます深く没入していっている。


:::

e0066861_22024815.jpg

特急あずさで居眠りから目覚め座席から飛び起きた。また乗り過ごして甲府あたりまで来ているのか?と思ったのは単に寝惚けていただけで、まだ降車駅には着いていなかった。早とちりして立ったドアから見る風景は、地面が濡れているのに陽がキラキラとしている。ふと勘が働いて反対側のドアに回ったら、やはり虹が出ていた。低いところ、一直線に近い、滲むような虹だ。
虹を見ると晴れやかな美しさより、見えないはずの幻影が拡大されて照射されてしまったような不気味さを先に感じる。その不気味さが良いのだ。そして写真には、そのえも言われぬ不気味さだけが、なぜか写らないように思う。


:::


ここ数年でも際立ってるくらいの精神的なツラさを最近、持て余していた。具体的なストレス源がいくつかあるのはよくわかっていて、それらを頭でサーキットのように巡っては一つ一つ治めようとしていたが、それがかえってよくなくてツラさが増幅されていた。
しかしふと何かの文章で「不安が強い人」という言葉に出会い、気付いた。「ああそうか、私は物凄く不安なんだ、つねに」「小さいときから人の十倍くらい心配性で、懐疑的で、何でもまず不安に思うのだ」とあらためて思った途端、スーッと気が楽になった。
背後にある漠然とした不安を分からないまま、何かの事実についての違和感を理詰めで他人に訴えても、結局あまり伝わりはしない。それよりは自分自身で「とにかくよくわからなけど何か不安なのね」と自分に寄り添ってあげることのほうがずっとはやく疲労が回復する。

::

ラジオ深夜便から矢沢永吉【東京】流れている。少しノイズまじりで。自分から聴くというよりは、こういう風に流れているのにあらためて触れると、尚更いいな。絹糸のような電流感、他の人には無い。

:::

この不安を拭い去るためではなく、この不安に徹底的に美を与えるため、に仕事をしていると思う。
自分だけの美かもしれない。しかしその自分にしか分からない美によって、自分は救われるのだ。花のような美ではない、爽やかな美ではない。漁村で縺れるワカメみたいな美だし、食堂裏の排気口の結露のシミみたいな美かもしれない。それでいい。誰かに理解される外向きの美なんかではない。
想いとは渦のようなものであり、いろんなものを吸い込み、また内面のどん底からいろんなものを巻き上げながら上昇していく力だ。そして渦とは不安そのものなのだ。


内向的で閉じた表現をけなす人は多いが、そういう人が逆に私には分からない。その人がどういう人であれその物言いには微塵も魅力を感じない。想いというものを恥ずべきものだ、と見做す傾向のある人なんだろう。不安には蓋をするのだろう。
実際自分の表現が誰に届くかなんて分からない。世を良くするためになんか絶対に作れないし、そういう物言いも出来ない。ただ誰か見知らぬ人の孤立した不安に、いつのまにか地下水脈みたいに到達する表現ではありたい。誰かが不安を自らのものと受け止めその色や質感を捉え直すことのためには少しは働くだろう。いくつかの詩や音楽や映画が静かに私にそうであったみたいに。


4月30日



e0066861_14215056.jpg


最寄の駅の改札、一番目立つところにある掲示板はいつも、だれかの手作りの貼り絵ポスターが堂々と主役の座を占めている。なんかのキャンペーンの言葉もなく、ただ「紫陽花」とだけ…これは切り絵の紫陽花とおりがみのカタツムリで出来ていて近くで見るとひらひら立体的。こういうの愛着を感じる。

:::

ベトナムのKhanh Lyの【美しい昔】は涙腺を直撃する。1970年日本語で紹介もされヒットしたとか。生まれる前だからさすがに知らない。日本の歌謡曲の数多ある名曲にもこうすぐ出だしから泣かされはしないのに、ベトナムの古い歌謡曲のメロディラインはみぞおちの致命傷みたいに深く悲しみを突いてくる。
最初の「赤い地の果てに...」という歌詞からして、なみだのツボを直撃されあえなく陥落。
https://www.youtube.com/watch?v=mgFIUa8KvVI



by meo-flowerless | 2017-04-02 05:07