画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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秩父三峰行

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休日。海か山かどちらかに出かけたいなどと漠然と呟いてはいるが、私はいつも腰が重い。しかし今朝は夫が「秩父に行こう」と起きた途端に私を駆り立て始めた。三峰神社に行く、というのだ。思いつきだろう。こういうことは日常茶飯事だ。

寝ぼけ眼で普段着のまま、駅まで走る夫に分けも分からずついてゆく。あと数秒のところで何とか電車に間に合い、八王子からの八高線、東飯能からの西武秩父線まで乗り継ぎがうまくいった。



秩父には、大学受験の浪人時代に一度行ったことがある。試験前に予備校のクラス全員で、秩父の神社に合格祈願に行ったのだ。三鷹の予備校から何故はるばる秩父まで連れて行かれたのか知らないし、帰りは電車を間違え、夜に高崎のほうに向かって延々と帰路を遠ざかってしまった記憶がある。しかし無事にその年に芸大に合格した。今日再びそこを訪れるなら、やっとお礼参りということだ。



夫が三峰神社を訪ねたいのは、昨年まで奥多摩の御嶽神社で修復の仕事をしていたことも関係しているだろう。御嶽神社も三峰神社も同じように、「狗=狼」を祀る武蔵国ならではの信仰系に属するのだ。彼自身が犬っぽいし、ひとより犬と心が妙に通じるからかもしれない。



梅花の盛りの村落をぐるりと見下ろしながらカーブする電車に揺られていると、「桃源郷」ということばがまだ廃れてはいない気がしてくる。やがてそんなのどかに深い渓谷や田畑の風景に、鉱山めいた採掘場の光景が入り混じるようになり、虎刈り頭のように段々に切り崩され鋭角になった武甲山が、目前に見え始める。桃源郷感は薄れ、山陰の色も濃くなり、もっとなにか見知らぬ悲哀のなかに歩を進めてゆくような感覚になってくる。



西武秩父駅について、三峰神社行きのバスに並ぶと「急行75分」と書いてある。えっ、一時間以上もバスに乗るほど遠いのか?前に神社に行った時には、そんなに遠くバスに揺られていった記憶がない。とすると私が十八歳のときに参った秩父の神社は、三峰神社ではなく別の神社だったのだ。なんと私は、失敬と言うか無頓着だったんだろう...



古い街道、昔の宿場の名残の道、麓のカーブ、ダムの大橋、そして急峻な山の細道をうねりながら揺られる一時間強の時間は、非常にきつい。景色を観たいが、目を開けばすぐにでも酔いそうな振動と回転。

今まで幾つもの深山の渓谷を旅したことがあるが、ここまで深い谷を見たことがない。たまに薄目を開けて車窓の外を覗き込んでは、背筋を震わせる。

天から地までのダイナミックな奈落がずっと続いているが、遥か下の水面はもう、視界から切れて見えはしない。自然の幽玄とは違う。工業の手が入っている雰囲気からか、ダム地特有の裏側感覚からか、「人の俗世のはて」を感じる山景だ。

家を出てから電車三本を乗り継ぐまでは、まだ何となくぼんやりと寝ぼけ眼の散歩気分だったが、突然我にかえる。なぜこんな地獄のように深い渓谷の崖を、自分はいま、心細くバスに揺られているのか...



一眠りふた眠りして、ようやくバスが三峰神社入り口に到着。二匹の狗が見守る鳥居前の食堂で、手打ちそばを食す。周りの客は、名物わらじカツを食べていた。

やはり以前に合格祈願に来たのは、こんなに遠いこの神社ではなかった、と確信した。それはおそらく駅の案内板にあった「秩父神社」だったのだろう。記憶がどこかで入れ替わったのだ。まあ三峰神社に代わりのお礼参りをしよう。



すこし歩くと、見晴らしのお宮があった。柱に一部分雪の結晶のような彫り物と白い塗装のある美しいあずまやのようなものである。そこからの山の眺めは、美しいというよりは凄絶だった。絶は絶景の絶でもあるが、断絶や孤絶の絶でもある。なにか言葉を失ってしまうような身震いを感じる。高所恐怖症でもあるのだが。

ずっと考えているのはひたすら、何故こんな急峻な山の奥のまた奥の奥に神社を開く気になった人がいたのか、ということだ。



本殿や山門の装飾は大ぶりで堂々としており、鮮やかだった。夫は特にずっとこういう類いの着彩の仕事を習っていたので、興味津々という感じだった。特に白く彩られた手水場の装飾彫刻は見事で、生物のように存在が浮き出してきそうだった。

参拝をすませたあとは、渋い土産販売所に売っている、黒い帆布地の腕に白い狼が刺繍された男物のジャンパーを、夫に買ってあげた。

停留所で待っていたバスが満席だったので「立ったままさっきの長い過酷な道を帰るのか」と肩を落としていると、なんと同じ時間発の、二台目のバスを出してくれた。二台目のバスには私たちとあと二人しか乗らず、すいていた。


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三峰神社は「関東随一のパワースポット」として話題の場所だ。しかし私は俗にいう「パワースポット」という感覚が今ひとつ分かっていない。私が感じるこの場所の心細さや孤絶感と、みながいう霊気やパワーが、果たして同じ感覚なのかどうか。三峰神社に感じたのも、その山並に感じたのも、包容力のある霊力では決してなかった。むしろ拒絶のような。



季節のせいかもしれないが、山の性格が読めない感覚があり、数度訪れることでもなければ行った気のしないようなところだ、と思った。崖下に垣間見える道筋を目でたどっても、この険しい斜面のどこからどこまでの領域を人が理解し往来しているのか、想像がつかない。想像つかないところにこそ、獣道のようにルートがありそうである。三峰講を組んだ参拝客たちの賑やかな道よりも、旅僧や闇の商業人やサンカ等の人々の行き来した秘密の道のイメージのほうが、映像として頭に浮かんでくる。



帰路は、もう少し余裕を持って車窓の風景を眺めた。なにかずっと、重苦しさというか、自分のものでもないような悲哀がぐさりと刺さったままのような気持がしていた。冬枯れの青白い風景だからなのか。渓谷の奈落が地獄のように深すぎるからなのか。死を連想させるような凍り付いた巨大なダムが怖かったからか。



秩父湖の暗い水上に細糸で刺繍したようにかすかな、長い吊り橋が見え、またゾワッとする。岸壁に貼付くようにして残る「バラック製フジツボ」のような旅荘群。日常生活のスケール感や色彩感をふと狂わせる、モノトーンな石灰採石場。ふしぎに青白い、巨大な氷柱の滝。「大血川ドライブイン」と子供の字のような素朴さで描かれた、食堂の屋根....

三峰神社にはなかなか再訪しないだろう、という気がしても、この界隈の殺伐とした山河の風景には、怖くてわびしいながらも惹かれるものがあり、また来そうな気がした。



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by meo-flowerless | 2017-03-05 23:49 |