画家 齋藤芽生の日記


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【十九歳の地図】柳町光男

先日、阿佐ヶ谷の映画館で【十九歳の地図】(柳町光男’79)を観た。夫に誘われたのではあったが、遠い学生時代に何かの本に書いてあって観たいと思っていた映画だ。
解説を読むと、中上健次原作だった。時代は1979年バブル前夜の東京の片隅。新聞配達員の青春の鬱屈、雰囲気は何となく想像出来た。
が、実際に観た密度感は、当初の想像を凌ぐものだった。例えば若松孝二のある意味わかりやすい「芸術のニオイがするまでの暴力性」とはぜんぜん違う。これも緊迫感のあるジャズが時々映像のアクセントになっているが、その音楽も前衛的な緊張感よりはリアルな生命感を感じさせる。
全面が赤い煮こごりの中に沈んだような色彩で撮影されているのが、底辺の沈殿の圧迫度をより密に感じさせる。上空は冷たく醒めていて下辺は澱んで熱い、という感覚が、東京だ。


イヤになるほど緻密な、人生の薄汚さ。
新聞配達の日常に俯瞰する家並の一軒一軒に破壊欲を沸き立たせながら、自分だけの東京地図を繰り広げていく青年が主人公だ。役者なのか素人なのか、ひょっとすると知人なのか自分自身なのか...わからなくなるような朴訥な存在感の男。
今の時代だったら無意味に浮遊感のある殺意などの描写に結びつけられてしまうのかもしれないが、この映画の焦点はそういうものではない。この世の見えなさと貧しさに押しつぶされそうなはずなのに、地面を足で踏みしめ体で確認していく手応えと、妙に自由な疾走感がある。


どうしようもなくだらしない先輩役の蟹江敬三も、真骨頂という感じがする。あれほど薄汚くみえるのに、スミレの花か澄んだ雨のようなロマンも、同時にある男。
また、出てくる女たちには共通の窶れた臭気がある。汚いアパートの一室のむっと籠った、便所と蒲団の汗と化粧のすえたニオイが届いてきそうだ。
蟹江敬三言う所の「かさぶただらけの苦しげなマリア様」、そのほかにも黄ばんで皮脂の枯れた銀歯だらけの、だけど菩薩のような顔をした女がちょこちょこでてくる。どうしようもない底辺の女ばかりである。しかしそれら登場人物の女に背負わせているのは色恋でも肉欲でもなく、けれど不思議と重苦しいだけの人生だけでもない。


マリアが住宅街のススキの空地でダラしない下着から真剣な顔で放尿をしている姿に、なにか自分の人生のどこかで交錯したような気のする誰かの、「私には手の届かない自由」を感じてしまう。
この饐えたニオイの東京の底辺は、父母がすれすれの間近に観ながらも必死で、幼子の私がそれを目撃することの無いように遠ざけてきた東京の姿だ、とも感じた。



柳町光男監督、もっと別のを観てみたいと思い、検索して、あっと声を上げた。学生時代にビデオで観て、どうしても忘れることの出来なかった不可解な映画【さらば愛しき大地】の監督だった。
やはりな....と妙に感慨に耽った。
【十九歳の地図】より、更に救いもなく停滞感のある映画で、関東の農村にはびこる倦怠と麻薬が印象的だった。しかし不思議に澄んだ叙情が余韻として残った。あんな不快な描写の連続を全ての観客がそう感じるわけでは絶対ないだろうが、あの静謐さはわかる人にはわかると思う。
シャブで荒廃した根津仁八の瞳に映る、青田の稲穂に渡る無言の風。台所の片隅のホイホイのゴキブリを無表情な目で見下ろす秋吉久美子。観ているときはうんざりしてもう二度と観ないと思うのに、観終わった途端これは傑作だな、と思ったのは【十九歳の地図】も同じだった。



ベタついた感情が説明されていないのである。主役である青年たちはまったくたよりなく自分の感情も感覚も理解する以前の存在であり、かといってそれを包容するかのように一見感情に満ちた女たちも結局、浮草のように揺らぐばかりで締まりがない。
この監督の描く女は、あまたの監督の中でも私は一番好きかもしれない。二本しか観ていないが、そう思う。物語にも何にもなりゃしない、アイコンでもダーティヒロインにもなり得ない情けない女、結局一緒にいる男によってなんとなく小ずるく変わっていくうちに、自分も冴えないまま運を落としていくだけの平凡な女。それぞ女だとも思う。



感情では流されまいとしているようでも、感覚は押し崩されながら砂礫のように流れに従っていく。そして水は消えてもその砂礫が残る。私も結局そんなようにに生きてるんじゃないか、と感じる。
苦しみも喜びも仕事も恋も目的も価値基準も、それにその都度確実な言葉を纏わせて生きているけれど、最後は互いに誰も忘れていく感覚の泡沫でしかない。感情などというものは、渇いた土地の上ですぐに蒸発して霧散していく水分でしかない。そのかわり感覚だけが地表に、一抹の残り香としてこびりつくのだ。


表現などというものも、残り香として残るときのみ成功だと言えるんだ。とさえ思う。ほとんどの表現行為が人間の普遍を、あらゆる理屈や物語や文脈で説明することに、終始するなかで。
私自身が最も欲する「救いようもない感情と、それを救う一抹の感覚のエレガンス」を、この監督の情景表現は持っているから、魅かれたのだろう。
by meo-flowerless | 2016-12-16 22:37 | 映画