画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


by meo-flowerless

プロフィールを見る
画像一覧

外部リンク

カテゴリ

全体
絵と言葉



匂いと味



映画
日記
告知
未分類

最新の記事

2017年10月の日記
at 2017-10-02 00:56
2017年9月の日記
at 2017-09-06 19:05
珠洲日記1 2017.8.2..
at 2017-09-05 12:52
白玉のブルース
at 2017-08-13 15:27
2017年8月の日記
at 2017-08-08 18:20
佐賀日記〜波戸岬講座
at 2017-08-07 23:22
冥婚
at 2017-07-06 02:01
2017年7月の日記
at 2017-07-03 21:51
2017年6月の日記
at 2017-06-07 02:11
2017年6月の夢
at 2017-06-06 04:41

ブログパーツ

以前の記事

2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
more...

画像一覧

【鬼の詩】 村野鐵太郎

【鬼の詩】('75村野鐵太郎)藤本義一原作。たまたま途中から観た。
映画として面白いのかはわからないが、ATGらしい簡素さとおどろおどろしさが相まって、鬼気迫る忘れ難いものがあった。明治末の噺家・桂馬喬の零落の生涯と芸道を描いた話。馬喬とは二代目・桂米喬をモデルにしているらしい。


仲間からの追放。報われない門付芸の流浪。偏執狂的なまでの先輩芸の真似。エキセントリックな遍歴を経て馬喬は、たった一人の理解者である妻を亡くしたあとには、亡霊のような姿に身をやつし際物めいた見世物芸で蘇る。
師匠や仲間が「それは芸の本道ではない」と警告するのをよそに、サディスティックな観客の玩具として自ら弄ばれるように芸をおとしめていく彼の末路には、天然痘で滅茶苦茶になったその顔を自虐的に利用した「究極の芸」があった。


実際の噺家・四代目桂福団次が演じているが、うつろで何をも観ていないような金壺眼が、役柄に嵌まっていた。暗闇の中でひとり必死に芸をあみ出してみても常に正道から焦点がずれてしまう、どこかが偏った人物像。けれど、ものを作る私のような人間にとっては、芸道の追求と表現への執念との違いに気付かされた。


安定した芸人にとって、また固定した観客にとってだけいえば、芸道には本道と邪道、上品と下品の境界線が確かにあるだろう。しかし人間にとっての芸、と考えた時にそこに生まれ出るのは、熟練や洗練に凝縮される芸だけではないはずだ。
芸、とはその人生に応じたものなのではないか。零落したならしたなりの、瀕死ならば瀕死なりの、奢りには奢りの中の、極度に偏っていても、そこにしかあらわれないような芸の求道と達成があるのではないか。
この場合の、芸、とは、巧さや個性というような問題ではないのだ。その人生からしか絞り出せない、なにかへの拘泥とでもいおうか。その言葉なき拘泥を通過することなしには、自分のすること全てが自分自身の中で尊厳を保てないような。
拘泥と執念。芸ということにおいて、自分の惹かれるのはそういうことだ。たおやかに生と折り合いを保ちながら円熟していくことよりも、反骨精神で鮮やかに暴力的な花を咲かせるよりも、だ。


芸。美。それらの言葉の解釈は、歴史を通じて華麗に変貌もするし、何度も再生産もされる。けれど独りの人間の「執念」は、その人間の身体と命と人生に付随した一度きりのものである。ときには世間の批評を拒みながら痛々しく放置される、見たくもない傷でもある。
万華鏡のようにあれこれと世界に解釈され続ける芸や美の話よりも、独りの人間の執念にショックを受ける時のほうが、私には衝撃度が強い。作品のことを考えるにつけても、まずは自分の執念のありかを探ることが一番先なように思う。


零落を反映する無様でエグい演目を絞り出すしかなかった馬喬の表現に尊厳を感じたのは、自分自身のそういう所に理由があるんだろう。馬喬の捨身の執念を、悲愴な露悪趣味や痛々しい見世物などと片付けることは出来なかった。
表現がどこでオリジナリティに辿り着くかなど予測出来ない。予測出来るものはオリジナルではないだろう。ただ、なにかしらの執念に対する自嘲や自虐を経てそれを突破したとき、不意に出会うような気は確かにする。
原作はまた違う含蓄がある気がする。読みたい。
by meo-flowerless | 2016-10-11 21:37 | 映画