画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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山の音

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トンガリ屋根のドライブイン。前の記事にも、それを目撃する時の、独特の心踊りのことを書いた。その時は書いても上手い言葉は見つからなかった。
幼少時から、幹線道路沿いにトンガリ屋根の飲食店を見かけるたび、なんだか無性に胸苦しいような腹苦しいような切迫感に襲われる。それが山深いロードサイドの廃墟だったりするほど、切なさは緊張感を増す。


かつて誰かがその山に分け入ったが、今は安否不明、消息不明である…というような、「山」のもたらす不安さ。山小屋風のトンガリドライブインへの違和感は、それを思いださせることが決め手なようだ。


今ふと、旅の宿の天井をみつめて寝転がりながら思っている。あれを目撃して感じるのは切なさではなく「心細さ」なんだ、と。切なさにはもっと人間臭い感情が絡む。侘しさや悲哀感と言ってしまうとより精神的になる。侘しさや切なさのもっと前段階に「心細さ」がある。それは半分は感情、半分は説明つかないような身体感覚のふるえだ。自分の全ての世界観には、その「心細さ」の体感こそが何より大切な基準のなのだ、とどんどん思えてくる。
トンガリ屋根のドライブインに感じる心細さは、そこに駐車して休憩、飲食などしてしまえば、違うものに変わる。車で通り過ぎる一瞬の、亡霊的な建物の幻影に、ビクッとする感覚でなくてはいけない。



昨日マルヒの鴻池さんも言っていた。あの型の屋根の流行は、60-70年代の山ブームや歌声喫茶の名残りではないか、と。そういえば、それは子供時代の私にも分かっていた。名残であり、もう既に廃れきった古い型だろうくらいの認識はあった。
ある時期に調子に乗って作られすぎた流行りのものは、それが過ぎた時代には、陰翳の黒さが倍増される。特にああいうロッジやアルペンタイプの建物には、華やかなりし頃の歌声喫茶の「空耳」が虚しくエコーするように感じられる。「空耳」の感覚も、自分の何かを常に遠くで支配する重要な感覚であり、「心細さ」と連動している。



父はよく、幼い私に歌を教えてくれた。ある夜道で「これは登山で死んだ友達に歌う歌だよ」と言いながら【雪山讃歌】を歌いだした。たまたまその日の夜空が曇っていて、黒地に白々と光る雲が空いっぱいに不気味に浮かんでいるのに気づき、何か「死」というものの非常の感じが急に父の歌声の背後に迫って来たように感じた。そのとき覚えた「死」はダイレクトな喪失の悲しみより、「消息不明」の心細さのことだった。




小学校三年の時に初めて学級で旅行に行く行事があった。いま夫が働くのに使っている御岳山の宿坊、そこにかつての私は林間学校宿泊に行ったのだ。
一人の級友が水疱瘡でひどく発熱し、下山することになった。ただでさえ初めてのお泊りで若干殺気立つほどはしゃいでいる子供たちは、その真夜中の下山、という非常事態にものすごく興奮した。私には、彼女がそのまま夜のどこかに忽然と消息を絶つように思えてならなかった。



御岳ロープウェイは18時最終だから、真夜中の下山は記憶違いのはずだ。が、皆で窓の向こうの山の闇をみながら、赤ランプをつけたロープウェイのひっそりとした消息に思いを馳せたことは覚えている。
山の底の方からなにかビーン…という絶え間ない電子音が響いていて、あれはなんの音だろう、と耳を済ました。遠雷が音もなくチカチカ山間に光るのもあいまって、秘密のモールス信号だとか、幽霊ロープウェイだとか、子供じみた憶測にシビれた。
あの山の遠くからなんとなく響いていたビーンという音が今も本当にするか、夫に確かめればよかったが、夫は工期を終え下山している。



あの耳を済ました夜、子供心に、「空耳に対して耳をすましている」という感覚があったのも覚えている。それはまるで今までないがしろにしていた亡霊の微かな声を聞くような不安な悲愴の感覚だった。
ただ単に音が気になるのではなく、夜のあちこちにあるはずの、自分の想像及ばない他者の営みや、土地の過去や、風化した出来事や、封印された時間、そういうものの重い質量に、改めて思いを馳せた時間だったのだ。そういうことに対峙する自己は無防備でたよりなく、未知の暗い地球の半球に剥き身で放り出されていたのかもしれない。



圧倒的に暗い夜の闇に対峙して、必要以上に騒いで怖がるような人はきらいだし、逆に大丈夫大丈夫を連発して不遜な人もきらいだ。怯えながら分け入ってしまうような人には惹かれる。気配は確かにある。その気配との心細いやりとりが、自分が生きているということの基本的な把握なのだと感じる。



トンガリドライブインに対する心細い怯えと怖いものみたさは、そういう、闇に何かを幻視、幻聴する感覚に近い。子供の遠足の道端にポッカリと渇いた傷口を開けている、棄てられた「大人たちの営み」の痕跡。町中で脈々と続く家族の暮らしとは対局にあるような、気まぐれなレジャー感覚の果てに飽きられたそういうものに限って、なんか生々しい人間の慚愧を感じたのかもしれない。
もはや気配と化したかつての人間の念は、いつしか優しい夜風になる。優しいと言っても人の心細さを逆なでするような奥深い怖さをもった優しさだ。トンガリドライブインから発するオーラには、「何かを言おうとしたまま事切れた優しい表情の死骸のような怖さ」がある。



その感覚を、私はもっとちゃんと描けるようになりたい。
by meo-flowerless | 2016-10-05 01:42 |