画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2016年10月の日記

2016年10月の日記



10月4日
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倉敷入り。地元出身の画家。松井えり菜ちゃんが駆けつけてくれ、焼き鳥屋に案内してくれた。いい店。彼女の青春の話が甘酸っぱい。後輩なのに奢ってくれた。今回は有難くご馳走になる。

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10月5日
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展示作業完了。黒いドレスのせいか全体的にシックで、夜の淑女感。
明日は内覧会、あさってから展示。
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10月6日
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有隣荘個展、今日は内覧会だった。生まれて初めて単独で「記者発表」というものを体験。二階和室で、地元の新聞やテレビなど、報道の方々と車座になり、様々なインタビューを受ける。この「秋の特別展示」の個展をする作家は毎年このような地元プレス発表をするのが恒例らしく、記者の方々のほうが質問の仕方など慣れており、話しやすいのでたくさん喋ってしまった。
【密愛村】はある種、口にしづらいような隠微で淫靡な世界観に貫かれて作られているため、口に出して説明すればするほど恥ずかしくもあった。シリーズⅠのメリーゴーランドの「bolt」看板はどういう意味かという質問にも「交尾している二匹の馬の乗物を繋ぐボルトと、たまたま描いていた時に世界陸上でウサイン・ボルトを見ていたから」などと実際のアイマイな理由を言ったら、地元の方は若干面食らっていた。
しかしまあ、みなさん暖かい反応で作品を観覧してくれた。


夕刻には再度、監視や展示業務に当たる地元の方々の前で、作品の話をした。薄闇に包まれた暗い照明の中で【密愛村】の世界観はかえって生き生きと感じられた。蝋燭こそないが皆で畳に座り百物語を語っているような感覚。5、60代女性が多かったが、私の絵は男性よりこの年代の女性の方が大らかに理解してくれる気がする。「何となく正視するのが憚られ」「でもちらと盗み見てみたく」「よく見ると誰もの中に封印されている過去の恥ずかしいような懐かしいような記憶を呼び起こし」という私の力点を、笑いを交えて理解してくれたように思った。
この30分がとてもいい時間だった。生前有隣荘で同じ体験をした辰野登恵子さんが、忘れ難いような時間だと言っていた意味がわかった。
半年制作に追われ続けやっと一段落つく今かえって虚脱感で鬱々としそうになっていたが、この人たちの前で作品の話をしているうち、不思議と自然に次の作品への意欲が湧いてきた。


東京からは写真美術館の笠原美智子さん。広島現美の福永館長。かつて大きな展覧会に私を取り上げて下さり、その後も多々御指導頂いているお二人が駆けつけてくださり、うちの画廊のオーナー交えて再会の話題に花を咲かせた。大原の柳沢さんが美味な飲み処に連れていってくださって、昨夜は痛快な笠原節を堪能した。あの頃もう20代後半から30代になっていたが、笠原さんとの思い出には青春を感じる。ソウルの国際展の時、笠原チームで、韓国の現代美術館のキュレーターの男性と喧嘩したりカラオケに行ったりした忘れられない思い出を口にしたら「あの人死んだのよ」と笠原さんが言った。何とも言い難い気持に襲われた。若い熱血漢だったが、急な病死だったと言う。


夜は、いつもお世話になっている編集者、記者、仕事関係の方々も来て、大原の学芸の方やえり菜ちゃんと不思議な料理屋で宴。住宅街の普通の民家が隠れ家的料理屋になっているところで、床の間にド派手な甲冑や巨大な生花や花柄の陶器などが所狭しと置いてある。私の世界観的だと皆が笑っていた。


一言で言えば「愛」。それに満ちている。大原美術館にも倉敷の土地にも、単なる包容力を越えた人の情愛を感じさせられる。自分が日頃東京でお世話になっている方々の愛情もそこに吸い寄せられ集結したかのように、幸せな時間を過ごした。


倉敷出身の編集の吉田さんは、私の画集を編集してくださった一人。今回里帰りしつつ駆けつけてくれたのだが、「これは絶対めおさんに買わなきゃと思って」と、つながりあうつがいの犬のおもちゃをくれた。住吉大社、と彫られた縁起物。【密愛村】Ⅰのメリーゴーランドの馬が交尾中だった図柄を思い出してくれたのだ。ものすごく気に入った。

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10月7日
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岡山はジーンズを産出する県。倉敷もデニムや帆布ものがよく売られている。
「倉敷デニムプリン」はエグい見かけだがなんとも美味しい。いや人によってはマズイのかもしれない。玉島の畳屋でひっそり売っていたイグサアイスと二つ合わせて推したいおヤツ。



10月8日

帰京、国立新美術館の「ダリ展」をやっと見に行く。混んでいて一枚一枚の絵を至近距離でじっくり観察するのが困難だったが、それでも来て観てよかったと思えた。どの絵を観ても心躍りを覚える。
私はとうていダリにはなれないとしても、「自分も今迄40年諦めないで黙々と絵を描き続けてきてよかったなあ」と心底思えた。絵を描くことは楽しく、絵を思い描くことは楽しく、絵を見ることは楽しい。その楽しさはたんに幸福と結びつくだけの安楽ではなく、五感の危機や毒への震えみたいなものも含む複雑な楽しさである。



独りの人間の脳裏に浮かぶことの証明としての絵から、人間の感覚の極限も、人生のあてどない可能性も、大きな普遍も、あらゆることを感じ取ることが出来る。絵に限らず、そういう作者の作品が自分は好きだ。「その時代のアートシーンでどういう位置づけであるか」とかいうことを念頭に置いた作品の泡沫感や無常感に比べ、どの時代でも気にせず我が道を行く人の作品群を見るとき、自分も美術の世界の隅っこでで何とか生きていることの夢と意味を感じる。



何と言ってもダリはやっぱり絵がうまいのだ。「絵のうまさ」を細密描写だけのこと、或いはストロークや絵具の体質感だけのことに限定して語る向きが多いが、そういうことではないトータルなうまさを感じる。絵描きは自分の絵に対してプレイヤーとしての能力だけでなく、デザイナーでもありプロデューサーでもありエディターでもなくてはいけない。そういうことを自然に出来て初めて一枚の絵に緊張が漲る。タブローとしての絵の生産だけのことではなく、脳裏に思い描く像そのものを苦もなくずっとトータルプロデュースし続ける能力が必要である。そして自らの中の「芸術性」のようなもののありかに迷いがなく、一見貪欲に時代を取り入れるように見えながら実は「自分の限界をもよく理解し」「取捨選択が出来ている」ことも、じつは芸術家の条件なような気がする。


一歩踏み外せば、表現の世界とは「人真似の海」なのだ。そして「消費の砂場」でもある。その一歩一歩を踏み外さないため自分の身体能力をまず知悉している、というのが基本なのではないか。ダリの絵には創造性の飛躍の先端だけでなく、そういうことの基本をも感じることが出来る。彼独特のイメージ空間の広がりに対しての、形態や色彩や絵具の体質の選択、技能の選択に、何一つ無理も迷いもない。
仮に時代の寵児になった所で次の時代の波にいともたやすくのまれ、溺れ姿を消してしまう難しさ、もこの世界にはある。そこを泳ぎきるには何が必要か、ということを感じさせてくれる表現者に、自分は憧れる。
名高い巨匠として、一時代のトップアーティストとしてのダリを語るだけなのだったらそこまでダリを好きとは思わなかっただろうが、あらゆる所の細部まで観てあらためて「表現力の鬼」としてのダリを感じ、より好きになった。

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芸大の裏にEXPOという名物雑貨屋があったのは、自分の学生時代からのこと。数年前火災に遭ってしまったが、不死鳥のように今は復活を遂げている。
店主の鴻池綱孝さんとは、実は十年以上前に別の場所で知り合っている。奥様はアーティストの鴻池朋子さん。2003年、キュレーター笠原美智子氏に率いられ、私や鴻池さんの女ばかりの日本チームが韓国ソウルの美術展に参加。そのときに綱孝さんもソウルに来ていたのだ。
向こうの美術館のケアが皆無状態、何から何まで自分で展示作業をしなければいけなくなった作家たちは、綱孝氏の道具箱の工具を借りながら、何とか展示したことを覚えている。


彼は店舗EXPO以外にも、マルヒという展示スペースを谷中に持っている。古い家屋の中にまたもっと古い家屋が二重構造で包まれている複雑な民家で、建築自体が面白い。以前そこでの個展に話を頂いたのだが私の事情で色々目処が立たず、申し訳ない気持でいっぱいだった。が、今年「芸大×EXPO展」という、芸大生とEXPOのコレクション品が競うい合うヴンダーカマーとしての展覧会、に参加のお誘いを受けた。
久々に年内に個展が二つもあり、新作は不可能だと思ったが、何とか出品したかった。ちょうど、解体された神社の古いおみくじ自販機を入手したというので、そこから私の【四畳半みくじ】をひく作品をマルヒのスペースに置く、ということで参加をさせてもらった。


そしてほんの数日前に本人から報告を受け驚いたのだが、小中学校、高校、大学全ての後輩でありかつて絵画教室で教えた彫刻家の佐野藍ちゃんが、狛犬ならぬこま猫として、おみくじ機両脇に置くための精緻な彫刻を着々と制作していたのだ。
出会ってから一緒に遊びで絵など描いたりし、十数年経って作家として初めて作品を絡めて同じ場所に存在することの因縁が、心から感慨深かった。
彼女だけではなく全体の作家(学生を多く含む)の質の高い力のこもった作品に比べ、自分の作品のみくじが「ちーん」という音とともにみくじマシーンからポトッとでて来る虚脱感に、何か恥ずかしさを感じた。おまけのように作ったドライブインマケットの紙のしょぼさにも赤面した。まあいいよね。
夜は、マルヒの畳上に作家がひしめき合う懇親会で、深夜迄大いに盛り上がった。

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夫の小山真徳は、EXPOの店舗で展示している。彼と同じ展覧会に出品するのも、考えてみれば初めてだ。私が大原有隣荘展示のためのドレス刺繍を頼んだ、近所のスポーツ用品店で、ロゴ入りのタオルを発注していた。
私の中に架空の土地【密愛村】があるように、彼の中には【夜港荘】という架空の旅館があるようだ。その夜港荘の湯場にいる女の人形、その女が手にしたロゴ入りタオルのプロデュース、その旅館の床の間のミニチュア、日本中の観光タオルを博物学的に集めた重厚な油彩画、を展示していた。制作を頑張り過ぎ痔を煩ったようで、気分が乗らず懇親会には来ないところが、彼らしいと思った。


10月11日

先日ラジオ深夜便で布施明特集をやっていた。自分もCD全集一応持っているし、もちろん嫌いではない大歌手だ。しかし、【愛は不死鳥】を真夜中の静寂の中で聴いていて、なにか苛立つ。そして何故か「これが森進一だったらいいな」という考えから抜け出せなくなる。そう考えると、布施明の激情歌謡曲系のウタ全てを「森進一が歌ったら」という想像に陥った。絶対いいと思う。


そこでふと思い当たったのは森進一の音程の正確さだった。それは歌手だから当たり前なのだが、あの震える声のイメージの向こうにある技術の正確さ。多少高ぶったりすることもあるのかもしれないが、やはりきちんと一音一音ランディングしているのだ。例えば【おふくろさん】の有名な出だしではなく、そのつぎの「空を見上げりゃ〜」と上がっていく所の丁寧さ。
演歌的であるための技術や森進一の個性としての技術というより、それ以前の根本的な歌の技術があるから、森進一が他の人のポップスやフォークを歌ってもはまるのだろう。自分が特に忘れられないのは【さだめのように川は流れる】だった。元歌っていた女性歌手はアメリカで殺されてしまったという曰く付きの暗い歌だ。


いつかテレビの特集で北島三郎が、ある歌のたった一部分を、どのように歌うかという厳しい技術的なことに言及していたが、本当にプロの歌手というのは一音一音の表現を体と頭と心で創りだしているのだと知って、震え上がった記憶がある。北島三郎の兄弟はみな歌が巧くのど自慢荒らしだったのだが、「兄弟は本当に巧い。が、おれはプロ。金をとらなきゃならない歌の技術というのは全然違うんだよ」と言っていた顔が壮絶に渋かった。


滅茶苦茶に声量があって天性の甘い声の布施明を聴いていても、どうも落ち着かないのは、肝心の所で「その音程はそうであって欲しい」ところが、実はそうでもないっていうか、揺らいでいる気がするからだ。もちろん優れた技術にも裏打ちされているのだろうが、それよりは声量とパッションの人という気がする。
いずれも大歌手だからそんなことどうでもいいのかもしれないが、とにかく森進一のウタは心身のこまかいチューニングにぴったりとジメジメと目盛りを合わせてくる、内部から抉るような技術を感じる。情念が技術に裏打ちされていると気付いた時点から森進一を聴くようになったな。小さい頃はまるで理解出来ず、画面に出るとチャンネルを変えてさえいたが。

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八王子駅前雑居ビルの煤け切った二階窓、廃墟の喫茶店かと思いきや、営業していたので入る。
『純喫茶・田園』。襟足のながい元ゾク感ある、煤けた味わいのマスター。前に喫茶マイアミがあったのはここのような気がするのだが。
フルーツロールケーキが、人工メロンやパインの味に満ちた、甘すぎる甘さで懐かしい。
古本市で買った昭和28年の「旅程と費用」という本をひもとく。平成の世に帰る気まったく無し。



10月14日

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夕方、横浜港から川崎工場地帯に出る船を借り切り、課題の遠足へ。
自分はこの工場見学クルーズも三度目だが、毎回心がリセットする感覚に襲われる。巨大な無機物世界の包容力に徹底的にいだかれ身を任せる。
海上の駅。縦横無尽のジャンクション。無言の航行サイン。石油コンビナート。廃金属で出来た山。製粉業のサイロ。外国からの乗用車輸送船。重油のような夜の波、工場水銀灯の銀河。


今日は風も船の揺れも強かった。ガイドのおじさんの口調を堪能し闇の波間に、揺れながら孤立する。
人が見ようとはしない「世界の背面」を、母なる海に浮かんで静かに見ている不思議さ。人の手にはおえない莫大な無人システムが自律して動き続けているようだが、やはりこれらの背面世界の機械も機構もすべて、誰か小さな人間の身体が昼夜身を徹してコントロールしているのだと想像すると、熱い思いがする。せせこましい人間関係など考えるのが嫌になる。



工場奥地に船がすすむにつれ感覚を支配しはじめるのは、様々なものが燃え、焦げ、摩擦している、毒々しい匂いだ。工場や石油プラントごとに違う匂いと音がある。人の気配を拒絶する匂いと音なのに、何故か暖かい生命感も感じる。機械も生きているのだ、と思わせる。



「あの石油プラントは歴史が古いため水銀灯とナトリウム灯のミックスで美しい」「あの煙突の炎は今ブルーファイアが出ているので順調に燃えるものが燃えている」など、ガイドおじさんの選ぶ言葉がまるで硬質な詩のように聞こえる。
幼い頃初めて目撃した、煙突から吹き上がる炎への興奮は今だに忘れない。今日は暗い紫の炎を吹き上げている煙突も見た。全身イルミネーションのような航空機が多摩川あたりに向かって着陸する大きな光が、そこに重なる。振り向けば満月の下には、光る波の道が出来ている。




10月23日

【ちいさい秋見つけた】という歌を最近よく思い出す。小学校に上がる頃覚えた。そのときはメランコリックなメロディをとてもいいと思い好きな歌だった。けれど歌詞を読めば読むほど寂しさのてんこもりで、一時あまり好きではなくなった。
「お部屋は北向き、曇りの硝子、うつろな目の色、溶かしたミルク」という本当に虚ろな二番の歌詞、部屋まで北向きでは寒かろうにと子供のときは思っていたが、美術の道に入ってから、これは北窓の「アトリエ」のことなんだと察した。そうすると余計にリアルな陰鬱さが増す。そして今思う。子供の童謡本に載ってはいるけれど、あれは一から十までオトナの歌だ。歳を取れば取るほど身にしみていく、人生の秋冬の意味。

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資生堂の口紅を久々に買ってそのつけ心地に満足している。ここ数年化粧が非常にザツになっているのを反省した。まあ顔立ち的に化粧するほどオカマに近づくので実際あまりしないのだが。


コツコツ買いためた素晴らしい色彩のNARSの二色アイシャドー達は、外側パッケージのゴム質が劣化してベタベタになり、中身はほぼ新品なのに使えずお蔵入りしていた。それを引っぱり出してきて、もうNARSのロゴに自己満足するのを諦めつつ、黒のアクリル絵具で塗り籠めベタベタゴムを封じ込めてみた。そして復活!ターナーアクリルガッシュ、さすが私20年来の商売道具。
化粧品に手が伸びてしまうのは、自分の場合、画材や色名への欲望と少し混じっている。化粧品の名前のつけ方には各メーカーによって違うロマンティックなストーリー性があって、それだけで面白い。一見、品番号のみしか書いていなくてその番号で買物をするのだが、よーくみるとお尻のシールやパッケージに、密やかにその口紅やアイシャドウの色彩に意味を込めた名前が印字されているのだ。


自分に似合いそうな色合いでなおかつ名前が好きだと、絶対に買ってしまう。必要か必要でないかは考えない。金欠上等。
この秋新調した口紅の名前。ランコムのSOIR(夕方)。NARSのMARLENE(マレーネ・ディートリッヒ)。THREEのKH・SYLVIA SCARLETT(キャサリン・ヘプバーンの【シルヴィア・スカーレット】)、ローラ・メルシエのMAYA(マヤ文明?)。アルマーニのTEATRO(劇場)。そして資生堂のTOFFEE APPLE(りんごあめ)。

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ラジオ深夜便を付けっ放しで眠っていたが、流れていた春日八郎特集がウタうますぎて目覚めてしまった。うまい人はどの時代にもいるだろうが、なんかこう…知られざる日本の風土のディテールの隅から隅まで思い描いてしまうような歌声。


10月26日

いつから言っていたか忘れたが、夫の真徳が【二眼レフ】の中古カメラをずっとほしがっていた。
一眼レフの構造を説明出来ない私に二眼レフの理解は無理なのだが、とにかくレンズ穴は二つあるようだ。形は、昔の写真機のように、箱を抱え上部から覗きながら撮影するようなごつい形だと言う。その形がいい、と夫はいう。人などを撮る時に通常のカメラを顔や体の前にかざしながら相手を射程の中に納めると相手は緊張をしてしまうが、二眼レフの構造は上から見るので何気なく構図の様子を確認しながら腰の辺りで構えつつ、相手を強ばらせずにバシャバシャと撮れるというのだ。


そんな二眼レフの中古機を、作品展示中の雑貨店EXPOで偶然見つけたらしく、ついに買ってきた。
見せてもらうと、確かに上部の磨りガラスにレンズの向こうの光景が、ボワッと映画のように浮き上がっている。その映写的な覗き窓の構造だけで、私も二眼レフに魅かれてしまう。
おさない頃。顕微鏡をせっかく買ってもらったのに、小さいものが大きく見えるという驚きよりも、付随していた電気スコープの磨りガラススクリーンにレンズの向こうの像が映り込むことに感激し、何回もその磨りガラスを入れたり抜いたりして遊んでばかりいたので、呆れた父に顕微鏡を没収されたことがある。
しかしその時の興奮感覚は、今でもある。昔の人が、覗きからくりや様々な光学機械や浮絵と称する遠近法の絵に至るまで「平面的で静止的なはずの図像が、そうではないイリュージョンで浮かび上がり動き出す」ものたちを愛でて珍しがったであろう気持。そういう気持自体にいまも憧れる。


レンズや硝子と光の屈折のもたらす「投影」「映写」というのは、何だか自分には永遠の夢である。構造がわかった所で、なおも魔法のような儚さがある。
それに加え、写真というのは、ただの紙にその像を永遠に焼いて、儚い記憶を記録してしまうのだから、更に夢のようなものである。夫も、通常の記録用写真とは全く違う位相での写真の在り方への興味、つまり原初的に「うつる」ことそのものへの欲求が、自分の中にでてきたのだ、と言っていた。

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中西夏之先生が亡くなった。
大巨匠の偉大な死という感覚も、もっと身近な先生の悲しい死という感覚も、どちらも自分には無い。
淡くて眩しい光の残像のように「中西夏之」の面影はある。教授をされていた頃の接点といっても、自分の論文の副査になって頂いて二度ほど指導を受けたことが一番大きな接点で、それ以上に深く近づく機会は無かった。他の人のように「苛烈で議論好きで深入りする」ような人柄でもなく、いつも不思議な映像詩のようにそこに居た先生だった。


大西博先生の不慮の事故死の葬儀のとき、中西先生に再会した。
丁寧にご挨拶をし、私のことなど覚えていないかもと思ったので一応名乗ると、まるで知らない人を見るような不思議な無表情のままなのに、「あのときのあなたの論文ね、まだよく覚えていますよ」とふわふわした声で言ってくださった。


葬儀場で振る舞われる精進料理の席は、新旧の芸大関係者でざわついていた。その時まだ詳細のわからなかった大西さんの事故について皆が何度も憶測を塗り替えるように大声で話していて、しめやかな雰囲気は無かった。私は、中西先生とちょうど向かい合わせの席で緊張していた。


喧噪の中でほとんど聞こえないような小さな優しい声で、私に向かって、大西さんとの思い出を語ってくれた。詳しい所までは忘れたが、他県の山の中西先生のアトリエに突然大西さんが遊びに転がり込んできて、その辺りの秘密の釣り場の話を中西先生に打ち明けた、というような話だった気がする。喧噪で声がかき消され中西先生の白いビロードのような繊細な声はほとんど届かなかったのだ。それでも私はずっと中西先生の顔を見ながら、その話を堪能していた。中西先生にとっても、大西さんのそういう一連のは唐突で意外な人なつこさだったらしく、「彼はそういう所があった。懐に飛び込んでくる」というようなことを言っていた。


たしか真鶴の地名が話のどこかにでてきた。真鶴半島は魚付き林という林の根が海になだれ込んでいる地形で、そこに魚が集まり続けるのである。自分の記憶の真鶴の光と影にその二人を重ねて勝手に映画のようにそのやり取りを想像していた記憶がある。
しかし記憶があやふやで、そうではなかったかもしれない。
いずれにせよ中西先生も大西先生も、自分には詩そのもののような面影で残り続ける人である。
by meo-flowerless | 2016-10-04 21:09 | 日記