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【みちのくひとり旅】 山本譲二

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一緒にテレビを見ていた父母が北島ファミリー推しではなかったので、1980年に山本譲二が【みちのくひとり旅】をヒットさせたときも7歳児の私は、一見シレッと黙って、その歌が流れる画面が移り行くのを見ていた。
しかしいまになって思う。その時は好きとは思わなかったその歌こそが、自分の心に歌・男・女の色濃い三角形を刻み込んだのだと。



「お前が俺には最後の女」
はっきり覚えている。この一言は7歳児の心をも、ズギューンと撃ち抜いた。
他の歌詞の部分は覚えはしなかったが、彼が歌を盛り上げていき、クライマックスで繰返し絶叫し最後に呟くこの一言は、恋愛だの流浪だのの意味が分からなくとも、叫びとしてストレートに伝わってきた。



同じ頃に流行った【雨の慕情】の「雨雨降れ降れもっと降れ 私のいい人連れてこい」、【異邦人】の「貴方にとって私 ただの通りすがり」、【ダンシングオールナイト】の「言葉にすれば 嘘に染まる」などの歌詞も、子供心に気になりはしたが、結局「んまあ大人はいろいろうまくいかないこと多いんだね」というくらいにしか思えなかった。
しかし、譲二の唸る「最後の女」は、腹にパンチを受けたようなインパクトで、納得させられた。「そう言われたら女は本望だ」というのを、なんらかのもっとかんたんなコドモ語で、心に呟いたのだった。
父母が流れ者だったわけでもなく、円満な静かな家庭しか知らぬ自分が、何故その言葉に動かされたのかはわからない。



思春期のある日、本の中に「男は最初の恋人になりたがり、女は最後の恋人になりたがる」という一節を見いだした。
「...みちのくひとり旅じゃん」と呟く。それが、かのオスカー・ワイルドの有名な一言であることも知った。
そのときなにか、とても不機嫌な気持になったのである。うまいこというなあ、さすがだなあ、と頭では感心しても、譲二の叫びを最初に聴いてしまったこの身体が、それを許さん。
「文学者が気取ったこと、わかったように言いやがって」というむかつきがほんの少し、よぎったのだった。オスカー・ワイルドの言葉から【みちのくひとり旅】の歌詞が生まれたように推測出来るのだが、私には違うのだった。



いま改めて【みちのくひとり旅】を聴いて、考える。一見共通点のあるようなオスカー・ワイルドの言葉との、しかし決定的な違いはどこなのか。オスカー・ワイルドの言葉が、上からの俯瞰視線で男と女をわざわざ対置させていること、余裕しゃくしゃくな皮肉を帯びていること、恋愛における生物学的ズレのみを言い当てていること、違いの理由はいくらもあるだろう。
でも私自身の感じた違いは何なのか。お前、と私だけが名指されているように感じることか。でもそれだけでは足りない。



オスカー・ワイルドの言葉の中の男女は瞳がかち合ってないでズレている。しかし譲二と女(私)の心の瞳はかち合っているのだ。
譲二が、これが最終女と認定した女を「背中の目」で見つめながら暗に言っているのは、「俺はお前の最後の男、と今だけは信じさせてくれ」である。
その後の女が実際に貞節を守りきるか信じてはいなくとも、「今だけは」 信じさせてくれる心の瞳のかち合い、を譲二は求めているんである。



月の松島、しぐれの白河。歌前半には、男の彷徨の長さが簡潔に凝縮されている。
譲二の長い足がとぼとぼと海岸を歩き、町に流れ着いて誰かと束の間の所帯を持ち、またふらりと出て行ってしまう夜明けの駅。高倉健の映画等に重なって場面が浮かぶ。
高倉健の徘徊の世界は、俯瞰して見てしまうと「なーにをこの男はまた同じことワンパターンに繰り返して」なのだが、絶対に絶対に俯瞰してはいけない。いわゆる母性本能なぞが働いて「ほんとにしょうがない人」などと包み込む心理も、いけない。女は線路の際に黙って立ち、列車が去った方向を「水平」に見送らなくてはいけない。
男は長く孤独でいると獣に近づく。獣が極限で求める他者の視線というのは、たとえ相手が女であっても同じ「獣」のものなのではないか。それは俯瞰しても雌伏してもいけない、同じ高さの目線の、沈黙のやり取りなのだと思う。



サビの訴えかけるような繰返し。
例えどんなに恨んでいても、例えどんなに灯が欲しくても。
例えどんなに冷たく別れても、例えどんなに流れていても。
このボディブロー。譲二はパンチドランカーの痛々しい姿の最後の煌めきを放つ。運命はそうやって、留まる所のない襲い方で人を襲い、翻弄する。
血みどろでやられっ放し、ふらふらの男を見て心引き裂かれながらも、本能的にそれを「止めてはいけない」とわかっている女心が、「お前が最後の女」の一言で、瀕死のボクサーの腕が絡み付いたリングのように黙って男を受け止める......
いつしか【あしたのジョー】の話になっている。



要するに、自分の言いたいのはこういうことだ。
なにも女(私)は「自分こそが最愛の人になりたい」わけではない。なったら嬉しいけど、それで満たされるのはプライドだけなのだ。
それは、男の何かに惹かれ目が離せぬ女の本能とは、関係ない。



男の人生を、見ていること。じつは、容易なことではないと思う。
結婚しさえすればその権利を得てまたその気持を維持出来る、というわけでもない。流れ着いた最後の愛人だからといって、男のそれまでの彷徨を理解出来るわけでもない。それは、男女が互いのどの位置に収まることでどういう価値を守り合っていけるとか、という話では無いのだ。
男には何かを「見せる執念」と迷いが残り火のように残っていなくてはいけないし、女にはその残り火の光を「見ぬく執念」と勘が要るのである。演歌ではそれを、未練と言う。未練とは、グズグズとした情の縺れなんかであるよりも、人生の本気の「執念」の別名である、と思いたい。これは男女の問題というより、人間の烈しさや密度の問題なのだ、と。
仮に「お前が最後の女」と言われ、自分の心が本当に報われる部分がどこなのか、と言えば、お前が一番魅力的だったとか、お前の懐にようやく帰り着いたとか、お前が好きだから一緒に生き死にしたいとか、のニュアンスではない。
それは、単純なようだが、「お前には俺を見る目がある」というたった一言の意味だと思う。


まあでもやっぱり、何で7歳児にそれが響いたのかは、わからないなあ。
とにかく昔の演歌は、いいですよね。
by meo-flowerless | 2016-12-26 01:11 |