画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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2016年7月の日記

2016年7月の日記




7月2日

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助手の銀ちゃんが古いポラロイドカメラで私をとってくれた。本人の腕前かフィルムのせいなのかカメラのせいなのか、素晴らしく味のある写真が撮れる。私の写真は褪せたモノクロームに写っていたが、上野公園の写真は暗いカラーに写っていた。

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研究室の裏の菜園に黒いカラスアゲハがきているなあ、と、ぼんやり眺めていた。
しかしやけに青い。黒くても全身が青く輝いていて、カラスアゲハに見られる赤い斑点が無い。
アオスジアゲハではない。
やぶからしという植物の花の蜜を頻りに吸っていた。
もしかまさかの珍しい蝶「ミヤマカラスアゲハ」だったのでは、と昼になってまた窓辺に立ってみたが、もちろんもう来なかった。カラスアゲハのおすの綺麗なヤツだったのだろうか。本当に青かった。


7月3日

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野いちご摘みに出かけた。と言っても家から五分くらいの車道沿いの切り通しに自生する苗代苺だ。
母がかねてから「あそこには苺がいっぱいある」と一緒に摘みたそうに言っていたので、夫も含めて三人で摘みに行った。
誰からも見返られない道端に鬱蒼と生い茂っている。日を受けて宝石のように光っていた。母が実家に持ち帰ってジャムにしてくれるという。


7月4日

熊を見かける夢をみた。
山の廃小学校の合宿所のようなところ。自分だけ端っこのまるごと一室を与えられて寝ている。明け方、外のトイレに行こうとすると、すぐ付近を熊が歩いているのを見てしまう。それからずっと半泣きで「熊を見た」「熊を見た」と一日騒ぎ続ける。
「熊を見た」と言うたびに、なぜか年齢が遡ってゆき、子供に帰る。最後にもう、ほぼ背も五十センチくらいなってしまった時、やっと母が出てきて「しょうがないからじゃあ私の部屋で一緒に寝なさい」と言われ、ゆりかごの中に寝かしつけられた。

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夕立のあと、終わりかけの虹を見た。絵画棟の上方から見れば、東京の空も広い。
そういえば今年はじめての虹かもしれない。



7月5日

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BELLOCQ TEA ATELIERの茶にはまった。
NYはブルックリンの、こう....なんというか独立系・アーティスティック系・オーガニック系....な茶葉専門店だ。日本では某高級雑貨店の数店舗にだけ恭しく置いてある。
茶葉に花やハーブがブレンドされたものだが、ここのは、茶葉の試香の段階で既に香り高い。空気や風を思い出させる。季節や旅を感じさせる。そして一つ一つのお茶にそういう様々な土地の情景を感じさせるお名前がついてしまっている。そういうのにてきめんに弱い。
【No.48 PIC DU MIDI】:ピレネー山脈の山並みを眺めるピクニックと高山電車のイメージ(ミント、生姜、黒すぐり)。
【No.52 ETOILE DE L'INDE】:裸足でモンスーンシャワーの洗礼を受ける美しい白昼夢(ジャスミン、マリーゴールド、パッションフルーツ)。
うへーロマンチックだね....と照れながらも飲んでみると、確かに納得させられるほど情景喚起的で美しい風味だ。


香りを試した時に一番感心した【No.45 WHITE WOLF】は日本では売り切れていたので、ブルックリンの本店のサイトから注文した。
水出しで飲んだ。からだの中に雪解け水が染み渡るようだ。より感動があった。雨の林で「木から滴る水滴はきっと幹の中で浄化されて美味しいだろう」とよく思うが、そういう緑の澄んだ味。遠くに桐の花びらの香りのようなものも感じる。
作者のイメージは「米国開拓時代の荒野、干し草や皮革や雪を思わせるブレンド」云々。白茶に杉、茴香、ミント、バニラ、黒すぐり。体はそんなに自由じゃなくとも、心で旅をするのだ。


7月6日

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後発隊、額装に旅立つ。またな。


7月8日

抗いたいのは、無意味な強迫感だ。
決断を迫られること、存在頻度を急かされること、居場所の確定を求められること、キャラクターを措定されること、役割をまっとうすること、歴史や時勢を理解し文脈に乗ること。そういうことらが「前進」の機動力なのだ、というような思い込み。そういうことの一連を、嘘に満ちた同調圧力の申し合わせでしかない、と感じる。身震いするほどいやだ。
むしろ後退する時空間でありたい。自分自身の存在自体が。
五十倍遅くありたい、停まってしまってもいい。逃避の余地でありたい。目に見える何かでなくてもいい、確かなことなどなくていい、どこにもないどこかでありたい。
寄せる波が何かを圧倒するのではなく、引く波になって何かを連れ去り連れ去られたい、そんな魂もあるのだ。見えないどこかに何かを連れ去る。そういう引き波的な感覚を「恐い」と言う人が多いのだろうけれど、私自身はそういう恐さのほうが美しいと思ってしまう。


7月10日

いつも深山の宿坊に泊まり込みながら仕事をしている夫が、夜中に山で何かの生物の「ヒー...ヒー...」という鳴き声がするがなんの生き物だろうか、と言う。
「夜鳴く鳥」で検索してみれば、と言った。鵺(ぬえ)のことをイメージしたからだ。
鳥かなあ?といいながらも「夜鳴く鳥 ヒーヒー」で検索してみたら、すぐに「トラツグミ」が検索結果にたくさんでてきた。
そしてやはり伝説上の恐ろしい夜の生き物・鵺(ぬえ)の正体が、実は遠いトラツグミの鳴き声が元だ、と言われていることを知った。
youtubeでトラツグミの声を聴いて、何とも言えず、気の遠くなるような気持になった。おそろしくわびしい。夫が聴いたのもやはり、この鳴声だと言う。
口笛のようにヒュー....ヒュー...と二回鳴き、今度はもっと金属音でキーン...キーン...と鳴く。真夜中にそんな鳴声で鳴くなんて、鳥自身も自分のわびしさを十分知っているとしか想像出来ない。

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うたた寝の夢。
昔の求人チラシによくあった「ホール担当」「ドライバー募集」「コンパニオン募集」などの簡易イラストを、重厚な油彩で肉付けして表現しようとしていた。


7月12日

昨晩、個展のためのテキストを書いていて、小川未明の【牛女】を思い出した。牛女の哀しいイメージは昔から私の中にたいせつなものとして在る、ということに気付いた。
牛女のような大女を絵に描き入れているわけではない。けれど、風景の一部と化してしまったり幻影としてしか現れてくれないような「もうここにいない、けれどどこかにいる女」が、私には幼い頃から強烈に慕わしいものだった。
自分の絵にそういう、不在の寂寥感を現すことは、出来ていない。つい「絵になるもの」を描いてしまう、絵描き根性がまだまだある。でも、牛女を思い出したことは今後に繋がるだろう。
今回の絵のモデルはむしろ、【赤い蠟燭と人魚】の少女のような年齢層の娘が多いか。


【牛女】、【赤い蠟燭と人魚】、そしてアンデルセンの【人魚姫】。思い出しただけで泣きそうになる。共通しているのは、口のきけない、話し言葉を奪われた女たちだということだ。
言葉を書き散らすいまの自分と、真逆の存在だからなのか。もっと寡黙だった幼時の、言いたいことを押し黙っていた切なさを記憶しているからか。このまま言いたいことを言わずに人は何時か死ぬのかな、でもそれのほうが美しいのかな、という逡巡は、小さい頃からあった。
美しいということにはなんらかの「不自由と引き換えの」という条件があるのだ。と教えてくれたのが身の回りにあった本や絵や歌だったのだろう。特に、童話の残酷と歌謡曲の無念には、教えられることが多かった。


本や歌や絵を、そのような悲哀の伝達のために自分も作るのだ、と、昔からずっと思い続けている。「哀しみがこれ以上増えることは世界の負荷になるから芸術でだけでも華やかに前向きにそれを回避しよう」とかいう考えは、少なくとも自分の価値観にはそぐわない。文学や芸術は、人間の持つなんらかの悔恨や遣り場のない哀しみをそのまま抱き込む。報われないがこそ救われる、というアンビバレントの住処は、宗教のなかにではなくむしろ文学や芸術のなかにあるとも思っている。



7日14日

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一週間前にやっと絵を描き上げ、おととい額完成と展示作業、そしてきのうオープニング。
と、いつもに輪をかけて慌ただしい個展の始まりとなった。まだDMのお知らせも終わらないまま始まってしまい、頭を抱える。しかしいろいろな方に初日きて頂き大盛況だった。
赤が基調のお料理も瞬く間に無くなった。事前に写真を撮っておいた。


今回の作品は気に入っている。とくに【密愛村Ⅳ】。「絵が変わった」と方々で言われる。変えているつもりは無いけれど変わっていくのだろう。技術的には、ナムラのSKシリーズという筆がとても気に入ってそればかり使っていたからか。決して今まで使っていたような爪先ほどの細筆でも面相筆でもない。色々工夫して毛先を画面にあてがって使って、楽しかった。


初日から嬉しいことはたくさんあった。なかでも、数年前の私のトークを中学生なのにもかかわらず来て見てくれたひとがその後美術を志してある美大に去年入り、なんと今回絵を買ってくれたことが驚きで、嬉しかった。また、院の教え子を通じて画集を手にし、気に入ってくれた理系大学生のひとも初めて見にきてくれ、その画集を編集したNさんとも交えて話をしたり、色々報われる気持が多かった。


7月16日

展示四日目。今日は在廊した。
若いカップルが観にきてくれた。このブログも読んでくれているというので恥ずかしくなってしまった。何より嬉しかったのは、「こういう世界観って、どこの土地に足を運んだりしたらしたら出来るのかな、と思って」と言ってくれたことだ。私より先に画廊主が速攻「寂れた街とかよ!」と答えていたが。

その女の子に言われたことは、シンプルな疑問だけれど、今まで言われた感想の中でもかなり嬉しいひと言だった。世界観として観てくれているということ、私がどこかに自分の足で移動していろんなものを観ている時空間を想像してくれていること。そういうことに少しでも思い及んでくれる人がいるだけで、自分の作品を人に見せることの意味があるのだ。救われた気がした。

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いろんなストレスのことを夫に愚痴っていたら、山で録音した、真夜中のトラツグミの声を聴かせてくれた。この上もなく寂しい声だった。でも彼らは幸せだったり、楽しいのかもしれない。静寂の中の遠い呼応が。山の宿坊の午前四時の柱時計が鳴り、それと同時にウグイスが鳴き出しトラツグミの声が退いていくのが録音されていた。

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家の午前四時。眠れずに朝が来る。へんに薄い赤茶色のような曇りの朝だ。
窓を開けて外の音を聴くと裏の森から聞こえるのは、油蝉とウグイスとホヘホヘ鳥(画眉鳥)のミックス。
そんななかにヒグラシが不意に混じった瞬間、意識が日常から遠いところへ連れて行かれる。
ヒグラシの声というのはなぜ他のものよりも遠く、他のものよりも夢のようで、特別に情緒に訴えかけてくるのだろう、といつも思う。あれが鳴くと、過去も未来もひっくるめた全記憶装置のフォーカスがそこに当たるような気がする。たとえば春蝉が生まれたばかりの生命感なら、ミンミンやツクツクホーシは死にゆく前の生命感、をその声に感じる。そして、ヒグラシはもっとそもそも生命かどうかも危ういように、幻影的、亡霊的だ。
ほんとうはそういうことなのだ、自分が表現の上で憧れていることは。と思った。


7月18日

泉鏡花の小説。【高野聖】の山の深遠な不気味さよりも、【龍潭譚】の燃えるような真昼の満開のツツジのなかで迷子になる感覚、【春昼】の菜の花の道の眩しさなどのほうが、自分にとって魅力的な不気味さが感じられたことを思い出す。
真昼の絵柄は画面の全てをちゃんと風景として描く必要があり、今までは難しくて出来なかった。
【野火賊】のあたりから、恐る恐る、空や海や野原などの風景を描き始め、前よりは風景の中の光を広範囲に複雑に描けるようになってきた。

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真夜中のアトリエ。上野の森の電灯の明るさを真昼の陽射しと間違え、油蝉が鳴いている。
電気を消して寝床で目を閉じると、夜の蝉の声は耳の中で存在感を増してくる。
周囲の住宅に人には毎夜のこれはさすがに騒音になるのかもしれないが、自分はあまりうるさいと思わない。
「昼と夜を間違える蝉」は油蝉、と決まっているような気がしてならない。熊蟬も時折あるかもしれない。
ミンミン蝉がそれをやらかしたのは一度だけ取手校地で聴いたことがある。かなりクレイジーな感じがした。そして、灼熱を謳歌するようなツクツクホーシは昼と夜を間違えることなどなさそうだ。
いつも夜の蝉の声を聴きながら「都会の蝉だな」と言う感じしかしないのだが、聴いているうちに、同じこの真夜中、どこかの山林の奥深い尾根などで、誰の足下を照らす意味もないのに輝いている水銀灯に反応して山の蝉が間違って鳴いているかもしれないと妄想し、しんみりとした情緒にかられた。

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昨晩ラジオ深夜便をつけ放しで寝たら、60-70年代ブルースロック特集が始まったようで、朦朧と半分目が醒めてきた。マッタリとしていいな、と思っていた中、閃光のようにジャニス・ジョプリンの「サマータイム」が流れてきて完全に目が醒めた。やはり圧倒的だ。なんと呼べばいいのか全く分からない、名曲、名唱、名演、どれでも言い表せないような何かがある。
「あらゆる批評を拒むほどの」というような表現あるいは表出というのが、もうこの時代には出てくることはないのではないか。人間の多くが、歌と言う霊力そのものを霊感で共鳴するような身体を喪い、共感の判断基準も歌詞のメッセージ性が先、話題性が先、セールスの大きさが先、になってるんだろう。


7月20日

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昨日銭湯に行く暇がなかったので、きょうは昼間からやっている湯に遠出しよう、と思って何となく調べていたら、気に入っていた「浅草観音温泉」が先月で廃業したことを知った。
数年前、浅草地域のアートプロジェクトで真夏の町リサーチを繰り返し、メンバーとの合同リサーチでは飽き足らず、ひとりウィークリーマンションに数日間潜伏(自腹です)して浅草を満喫したことを思い出す。その時にたまに昼間から利用していた銭湯が、花やしき遊園地前のツタ絡まる遊興施設「浅草観音温泉」だった。
全盛期は二、三階は宴会場、娯楽施設などが入っていたようだ。晩年はもう、よく運営が成り立っているなと思うような閑散ぶりだったが、中にはいると広大な浴場に素朴だがとても良い、人魚のタイル絵があって、真昼の湯船を独り占めしながらぼんやり人魚を眺めていたものだ。
そのあとの食事は「井泉」のとんかつサンドか隅田川料理の「宮戸川」でひとりメシを楽しむのが最高だった。
まあ今までよく持っていたな、と言う感もある。残念だが思い出を大切にしよ。

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大学付近の雑貨屋でインドネシアフェアをやると言うので一ヶ月前から楽しみにしていた。今日行ってみたのだが、案の定何万円もする布や服ばかりで、全く手のでるしろものではなかった。それなら現地に旅行したほうがいい。
しかし商品のなかに、安めの布袋があって、その中の図柄に思わずほろっと脱力してしまい、買った。
泣いているペンギンと、慰めているペンギン。タグが「PENGUIN」とダイレクトなのも脱力する。日本人の作家の更紗作品らしい。


7月21日

先生の歌ってた【曼珠沙華】を次の日さっそくバイト先の店で歌ってみた、と学生が言った。それはとても嬉しいことだった。その子に伝授したい何かがあって、歌ったようなところがあったから。【ヨイトマケ】や【夜へ急ぐ人】を歌いこなす奴。私なんかよりずっと業を背負った【曼珠沙華】を歌うんだろうな。
前研究室にも唖然とするほど歌のうまい子がいた。この歌を歌って欲しいななどと思いつつ私が歌うと、古い歌でも次回には覚えてきて、鳥肌立つような歌唱力で歌ってくれた。誰の真似でもなく、自分の歌にして歌い上げる。作品の話を言葉ですることよりも、ほとんど歌だけで何かをやり取りしていたように思う。
こっちが個人的に伝えたいことが多い子に限って、ある同じ歌について印象が濃いようで、あの歌は何でしたっけ、とあとできかれる。【化石の荒野】。なんでだろう。血のつながりこそないけど、なんかの遺伝子か。


7月22日

東京文化会館のわきの「モダニズム建築によく設置されている意味のない水路」のような所でゲコゲコとカエルが鳴いていた。あんな観光地のど真中にもいるんだな。カエルの声は良い。

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右ひじの腱鞘炎が慢性化している。痛みが右背筋に広く及んで、眠れない。右半身にサラシを巻いて湿布や氷嚢を固定していたい。
それはそうと「サラシ」で気付いた。サラシを巻くイメージを思い描くたび、何故か、どこかの見知らぬ少年の写真がおぼろに浮かぶのだ。
生真面目な顔をして裸にサラシのようなものを巻いている。数度目に思い出したとき「どこの少年だ?何だ?」と改めて記憶を辿ってみた。その少年の巻いているのはサラシではなく大きなハンカチか手ぬぐいのようなものだったかもしれない。そして、そうだ。脇か乳のあたりに「ニワトリの卵」を、その巻いた布で固定していたのだ。


幼稚園時、雑誌【小学◯年生】シリーズをよく読んでいた。少し年上のパイセン世代の情報を仕入れたいという思いは園児にもあったのか。おそらくその雑誌にその少年の写真が載っていたのだ。【学研の科学】だったかもしれないが、まあいい。
彼はどこかの一小学生で、文章によると、「人肌でヒヨコを孵す」ことを夢見ている少年だった。その子がある期間、肌身放さず布で鶏卵を身体に固定していた、そのルポが載っていたのだ。人肌とニワトリの体温は違うので、その子は孵化を何度も失敗した。というか記事の中で最終的に彼がヒヨコを孵すことが出来たかも、私は覚えていない。
何十年経っても思い出すのは、へんな話、その子の生真面目な顔と裸に巻き付けたサラシ姿に、いろんな意味で子供心の胸キュンを経験したからだったと思う。卵が割れたり孵らなかったり、憔悴している写真もあったように思う。ただ、その寡黙なひたむきなイメージが良かった。


ガキながら好きな男の子はいたが、そんな小さい頃ほど、カッコつけのスケコマシ(古)に魅かれていた傾向があった。自分は今よりずっとトロくおとなしかったので、そういう口八丁手八丁男子に意地悪され、試され、遊びのダブルブッキングをされ、傷つけられることもあった。
がある日、その「裸にサラシを毎日巻いて卵を温める少年」の写真に、恋したとまでは行かなくとも「この男の子はいい子だな」と直感で思ったのだ。そういう実験にはよくオトナの入れ知恵が横たわっていることが多いが、そうであれなんであれ、その子はとにかくまじめに毎日、もろい命を慎重に肌で感じている。遊び盛りの毎日の行動を制限されても卵を守り、命の行方に一喜一憂する。そういうことが、肌で伝わってくるような生々しさがあった。
その後二十代前後まで、カッコつけのスケコマシ男子に出会うたびにどこかで、その見も知らぬ少年の生真面目な「サラシ半身写真」を思い出してなにかを判断する基準にしていたかもしれない。と、いまさら思えてきた。


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「先生、芸大にもポケモンがいるんですって」と助手が言った。何のことかと思ってよくきくと「ポケモンGO」の説明をされた。「ポケモンGO」.....そういやネットニュースでもよく見かける文字である。
欧米ではポケモンに会いたい一心で他人の居住区に入り込んだ人が、不審がった住人に銃で撃たれた、なんて話もあるときいた。
「でもそのポケモンのぬいぐるみに入っている人も一定数いるんでしょ。しかも世界中にいるんでしょ。バイトでやってんの?」
と私が言うと、一瞬の間があったのち、大脱力の大爆笑を受けた。そしてもう一度説明を受けて、何となく様子が以前より分かった。



7月23日

今日は大きな夏祭りか花火があったのか、新宿駅地下通路の流れが浴衣の色彩に染まっていた。三丁目地下のエスカレーターを上りながら、知った顔の女の子の群れが隣のエスカレーターを下ってきた。
その列の最後は、【恋流島】という絵のモデルを数年前にしてもらった、卒業生のIちゃんだった。ずっと会うことがなかった。至近距離でゆっくりとすれ違い私は彼女の肩まで手を延ばしたが、触れられなかった。彼女は全く気付かずすれ違っていった。絵が出来た、と知らせたかったんだが。
今回出したシリーズの一番始めに描き始めた。彼女の姿と海の描写で満足してしまい一年以上そこから手が入れられなかった絵。最後に人魂とドローンを描き加えた。
何とも言えずいい顔をした娘なのだ。皆で夏祭りに行ったのだろう。片方だけが気付いているすれ違いとは不思議な感覚だ、とよく思う。


7月25日

夫、個展を観にくる。いつもながら少ない言葉で的確な感想を述べる。蝉のやつが良い、と言う。
夜にもう一度その話をしていた時「あの絵だけが音を感じるから」と言われた。その通りあの絵だけが音、匂い、そういうことを感じそういうことを伝えるために描かれた。鋭い。

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夕方、谷中マルヒで打ち合わせ。芸大裏の名物の古物店[EXPO]と芸大生の作品をVSに対置する展示だと言う。オーナーの鴻池さんが「神社のみくじの販売機」を入手したので、それを使って私がなにか出来ないか、という話。赤い家屋の形をした、郵便ポスト質の造形物がそそる。
奥様の鴻池朋子さんがご本人の個展打ち合わせを山川冬樹氏としていた。お二人のオーラに一瞬たじろぎ、敷居を跨ぐのに緊張が走るほどだった。どちらにもお会いするのは久々で、話が出来てよかった。アーティストは凄いなあ、と今さら若者のようにどぎまぎさせられる。
夜、おみくじの新しい案が浮かぶ。「ブルースみくじ」というのはどうかな。下部には「スナック密愛村」のフェイク広告も入る。

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夜の上野公園、携帯を持って佇む人の群れに帰路を阻まれた。
その数、その姿勢、その集中と沈黙、まるでゾンビの無言劇のようだった。ポケモンGOというやつは、一過性でも日本の風景を変える切っ掛けになってしまうだろう。このまえの「若冲展の行列」の凝集的不可解と対になるかのような放散的不可解。


7月26日

高いところを走る電車からプールが見下ろせた。今日は肌寒いだろう。
パイナップル型のビニールボート、赤い水着の西洋人、なんとなくシュールな利用者のなかに、海女のように白い長袖シャツをずぶ濡れにして泳いでいる女の子がいた。二度見したが車窓風景はあっという間に過ぎた。そういうスイムウェアが流行っているのか。本当にシャツで泳いでたのか。

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大好きな映画のビデオを、十数年ぶりに観る。【集金旅行】(中村登監督、1957)。
若い時にVHSで借りて観て、痛快な旅のスピード感、青々とした日本の風景、笑ってしまうようなほろ苦い男女の機微、いい映画だなあと思った。十数年前と同じ新宿ツタ屋にまだVHSがあったので、借りた。
岡田茉莉子と佐田啓二。あっけらかんとした小悪党に見えて情と度胸のある女の、岡田茉莉子がとにかく良い。女心が分からない男の「ちぇっ」と、女心を分かってもらえない女の「あーあ」を、鮮やかな絵葉書的画面上の二つのくりぬきワイプみたいに、同時に見ている感覚。脇を固めるのが伊藤雄乃助、トニー谷など。筋は粗いし、淡々としているけど、じつは磨き抜かれたコメディという感じがする。さすが井伏鱒二原作、なんともおおらか。最後の花菱アチャコと岡田茉莉子の阿波踊りの場面に、全ての機微が凝縮されている。さらっとしているのになんて色っぽくて哀しいんだろうと思う。
なんでDVD化しないんだろう。だれかこの良さを分かって再評価してくれ!


7月29日
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妙高高原夏の芸術学校で指導。いもり池、笹ヶ峰。

7月31日
山から下りる。ようやく夏休みだ。
by meo-flowerless | 2016-07-02 22:33 | 日記