画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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東大寺のXJAPAN

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五月。毛穴から自然の霊気が行き来するような気分だ。素晴らしい季節。
そして古美研の季節だ。
古美研とは、勤めている大学の、伝統ある古美術研修旅行のことである。奈良、京都の寺社を巡る二週間の研修。在学中に一度しかいけないところが自分は教員となったので、三年に一度引率をする。油画科の行く時期が、四、五月の一番いい時期。
今年は自分の引率ではない。けれど季節柄、思い出している。



京都もいいが、奈良の包容力のほうにひかれる。特に東大寺は何遍でも行きたい。
先生のくせに毎回たしなめられるが、太い柱の木を頻りに手で撫でてしまう。
季節のせいなのか歴史のせいなのか、風景の全てに「呼吸感」があるように感じる。自分が日頃の生活で深呼吸を忘れ、息を詰めて暮らしているのに気付かされる。
肺が目覚め、器官が震えるような呼吸。光に満ちた晴の日でも、肌寒く濡れる雨の日でも、奈良でならそれが出来ると思ってしまう。



研修中、暗くなってから学生達と一緒に、二月堂の高楼に上がったりする。
そこからの奈良の灯をぼんやり見下ろしながら、他では味わえない感傷に浸る。
時間に対する感傷ではあるのだが、「人の経てきた時間」に対する感傷でも、風景のに対する感傷でもない。「ものの経てきた時間」に対する感傷だ。



奈良の寺社の黒ずんだ色。時を経ても、派手であったであろう当初の色に塗り返さない。
その黒ずみを選んできた奈良人の感性は、情感よりは霊感に近かったのではないかと思う。人の魂以上の「ものの霊魂」をそこに感じない限り、そういう選択はなかったんじゃないか。
現在の修復や色の塗りかえしが悪いとは全く思わない。かつて意味を込めて建造され彩色された建造物や装飾物を、歴史を超えて経験出来るから。でも、奈良の寺院の持つ古色の雰囲気は、また別の次元の感覚の話だ。
あの黒ずみの奥底から、建築や仏が...と言うより、その材質が「息をしている」のが聞こえる気がする。そんな感覚をもって、人々はあれを新しい顔料で塗り籠め「息を詰めさせる」ことをしなかったのだろう。
そう、勝手に想像する。



古美研にいくたび、美術に携わりながらも美術などという言葉は、近現代人の思惑にまみれすぎているのかもな、と思う。今の美術という言葉にどこかつきまとう、何かを理解しようとか学習しようとする集中力は、深呼吸を生むのではなく、逆に「息を詰めさせる」。緊張しながら鍵を解かなくてはいけない、神経的試練のようなものだ。
本当は、奈良の寺社や仏を体験することを、古美術体験などと言うのは抵抗がある。
というか、そもそも、そうではないだろう。あれらの全ては、そこに立つ者が「息を吹き返す」感覚のための環境装置であって、それ以外の要素は不必要なのかもしれない。



夜の春日大社にも、思い入れがある。
春日大社に夜入っていいのかどうか、は知らない。でも学生と探検していて、迷い込んだ。
遠近も分からず手探りでもがく森の暗闇の中、砂利の白さだけが夜の波の航路みたいにぼやっと泡立っていた。あれほどの暗闇は、他にあまり経験していない。
糞の臭気とかすかな音で、木陰に鹿たちが潜んでいるのが分かる。獣の潜む気配とはこういうものか。圧倒的な量の夜気が人間の身の丈を教えてくれる。



歩き尽くしてどこかの広い野原に出た時、学生たちとガキのように野原を走った。興奮の余り、誰かが小川の水に嵌まった。
何故か、泣きたいような気分になっていた。
解放感というのは、哀しみと背中合わせのときがある。日頃どうして、こういう五感の開放を自分に許していないんだろう、という、長い嘆息のような解放感。



解放感の哀しみは、学生時代に若草山でも体験した。
寺社見学の行程が早く終わり、数人で夕暮の若草山に上った。芝というか草原の丘だ。
西日のなかに赤く沈む奈良の街が、何となくせわしない。
「なんかライブがあるらしいよ、東大寺で」「え?東大寺で?」「XJAPANが来てるらしいよ」
などの会話をして、芝に寝転ぶ。
桃色とも水色ともいえない、夕暮の空が流れて行く。
そうやって草の上に寝転ぶことなど、まだ若い大学生でいてさえ、どんどん忘れていく。自分の存在が何か空気に剥き出しになっていることが本当に久しぶりのように感じ、なんともいえない胸の痛みを覚えた。このなんでもない時間、どうでもいい会話、どこともいえない(いや奈良だけど)旅の空。



その時、空一杯にジャバーンというようなギターのこだまが炸裂した。花火大会が始まった最初の一発のような華やぎ。びっくりして、みな草の上から跳ね起きた。
半信半疑だったライブは本当だった。古都の空の幕が開けていくような感じがした。歓声の気配が下方でしている。
なんともミスマッチで不思議な状況。寺の梵鐘がゴーンという静寂の夕景に、金属のお椀をガランガランと落っことしたみたいな音響が重なる。
流れ出した曲が何の曲か私は知らなかったが、高音の声は彼らのもののようだった。様々な山や建物の斜面にこだまして音が揺れていた。



XJAPANと奈良は意外にも、絶妙の相性だ。
遠いビブラートが、何か遥かなものの呼吸を呼び覚ます。宗教的な叫びのようでもある。
音があちらこちらに呼応するせいか、つい数分前よりも下界の街を見下ろす自分の視野が広がり、いっきに風景が全方位パノラマ化する。
普通に考えれば「こんな宗教都市で野外に音が漏れまくるライブなんてけしからん」なのだが、そんな考えを洗ってゆくようなじわじわした余韻の情動が、胸に込み上げてくる。フシギだ。
奈良の包容力が、音韻を風景に取り入れてくれるのだ。もし京都だったら、やっぱりけしからん気にさせられたかもしれない。東儀秀樹とかなら合うのかもしれないが。
皆も何故か笑いながら、「何か妙に感動するな」「寺も粋なことやるな」などと呟いていた。



青く光る東大寺のあたりを見やりながら、こういう奇妙な経験の情動はきっと絶対忘れないのだ、と予感した。
客としての対峙ではなく、行きずりの、バックヤードからの無責任な立ち会い。そうだ、経験というのは「わざわざしにいく」ことだけではない。「図らずも、その場に立ち会う」のも経験だ。
そういう経験は、積み重なるというより、体に浸透して身体そのものになっていくのだろう。
経験を呼吸する器官は自由に開放されている。奈良とXJAPANという奇妙な融合が、不意に私にそう気付かせた。
同時に、再び草に寝転びながら、このような感覚の「自由」を、私という存在はいつまで忘れずに保てるのか、不思議な哀しみを感じていた。


五月......そんなことを思い出した。
by meo-flowerless | 2016-05-22 23:34 |