画家 齋藤芽生の日記


by meo-flowerless

外部リンク

カテゴリ

全体
絵と言葉



匂いと味



映画
日記
告知
思考
未分類

最新の記事

2024年3月の日記
at 2024-03-04 01:47
変奏曲の魔力、からの解放
at 2024-02-28 22:09
2024年2月の日記
at 2024-02-03 14:46
2024年1月の日記
at 2024-01-13 15:12
珠洲 2017
at 2024-01-13 15:11
2023年12月の日記
at 2023-12-16 10:31
2023年11月の日記
at 2023-11-10 06:59
2023年10月の日記
at 2023-10-07 02:03
2023年9月の日記
at 2023-09-23 01:30
2023年8月の日記
at 2023-08-05 03:09

ブログパーツ

以前の記事

2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
more...

画像一覧

既視感人

既視感人_e0066861_2373344.jpg



他人がなんらかの「既視感」を感じている瞬間を、見ているのが好きだ。
「ここ来たことがあるような気がする」とか「ちょっと待ってその話知っているかも」と言いながら遠い目をする時の、蒼白の頬や奇妙に澄んだ目を見ると、嬉しくなる。
懐かしさの中でも「知ってる知ってる」という同感のオンパレードには、そこまでの魅力は感じない。
同世代の回想話も盛り上がりはするが、むしろ、他人のなかの見えづらい記憶の断片のたどたどしい話、が結構好きだ。



既視感を感じている途中の人は、ちょっと何かに取り憑かれているようで、とりつく島がない。
その人が記憶の符牒を合わせながら一歩ずつ時を遡っていってるのを、「知らね。勝手に思い出してな」とぶった切ることは容易いが、目に見えない記憶の糸を自分も横でわけもわからず手伝ってたぐり寄せるのは面白い。「他人の過去なんか面白くも何ともない、犬も喰わないよ」という感覚の人間の方が圧倒的に多いようだが、私はそうではないらしい。
自分も「既視感人」だからだろう。



母が何かの拍子に、よく同じことを言う。
「夕方の早風呂の、窓の外のまだ明るい光を浴びると、芽生がはじめて独り暮らしした家へ遊びに来ている錯覚に陥る。同時に何か南天のような赤い実が浮かぶ。脈絡はない」
本当にどうでもいい話題なのだが、私はその話題がいつでも好きだ。
一人暮らしをはじめたのはもう二十年以上前だが、母は多分今も、同じ光に同じ錯覚を起こすだろう。そのせいで私も早い夕方に誰かのシャンプーの匂いを嗅ぐと、反射的に、そのアパートの窓の外からたまにきこえてきた女の子守唄を思い出す。
既視感というか、まとまりのない記憶がふとした時に集まって整列するような、そんな感覚だ。



記憶の連鎖がはじまると、文章を書きたくなる。今はその時期のようだ。
目の前にあることに、全く脈絡のない過去を閃光のように思い出し、急に体験がダイナミックに立体的になる。そういうことの一連を面白く思い、書き止めておきたくなる。
自分は、ある種の肯定的なフラッシュバック/既視感覚においてこそいきいきと生きていられる気がする。



ふとした既視感から記憶を蘇らせようとすることは、自分自身に何らかの催眠療法をかけているようなものなのかもしれない。
何かが見えますか ? それはいつのことですか ? そばに誰かいましたか?
甘く問いかける声に、恍惚とした過去の自分が、おもわぬ証言を引っぱりだしてくるようなことがある。
既視感から引いてきた風景を集めると、いくつかの根があるのを感じる。それを、原風景だと感じる。



既視感を大袈裟に大事にする傾向は昔からあり、自分の友も「既視感人」が多い。
大学時代の親友のワッコチャンとは、夜が明けるまで「わけもわからず懐かしい原風景のパターン」などの話を、飽きもせずしていた。
「既視感人」には、結論が要らない。散らばった断片から起点へと遡る旅なのだが、起点がわかったところでその起点以前にも何かあるような気がするのが「既視感」だ。
届かない空中の蝶をふらふらと追いかけ、見知らぬ森に迷い込むことが楽しいのだろう。



自分が心を掻き立てられる懐かしい記憶のひとつは、「深い渓谷にひびきわたる女の歌声(詩吟)の反響」だ。五歳くらいにはもうこの感覚を知っていた。なぜか「琵琶湖温泉ホテル紅葉」のCMソングの女の人のこぶしを聴くたびに、行ったことのないはずの霧の渓谷風景を懐かしく思い浮かべていた。
小学生の頃はすでにその渓谷のことを「前世の記憶なのかな」と思っていた気もする。
親に聞いても、そのような深い渓谷に行ったことはない。
ワッコチャンは、「グレーの隣に置かれた青紫色が錯覚で発光しているように見える」ことや、「暗い天井の高い建築の天窓の方から差し込んでいたステンドグラスと思われる青い光」が、無性に懐かしい風景だと言うのだった。その後も彼女は、一貫して光にまつわる作品を作っていた。



私達は、夜にもかかわらず他の友に電撃電話をかけ、唐突にこんな風に切り出した。
「あなたの原風景を教えてよ」
迷惑がられるという予想に反して、ほとんどの人がすぐ話に食いついてきた。
「原風景って、懐かしい風景とかでいいの ? 無性に懐かしい ? うーんと、あるね。滑走路だよ。小さい頃から、飛行機も乗ったことがないのに、滑走している飛行機の足が道路を見ているみたいな映像が浮かぶ」「私は、海の底を何故か小さい頃から知っている気がする」などと、答えてくれた。



今思えば、それを全て記録を取っておけば良かったのに、と悔やまれる。
大人になった今も、周りの人にそれをしてみたい。
が、そんな話題をうっとうしく思う人の方が圧倒的に多いし、あの時代あの年齢の独特な空気感で許されたことだったのか、とも思う。
by meo-flowerless | 2016-06-28 22:10 | 絵と言葉