画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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事情

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顔まで変えてしまった経歴詐称の人への袋叩きが、メディアで繰り広げられているらしい。
「そいつは昔から嘘つきだった」と、今まで出番の無かった知人たちが過去を広める。
その人物の昔の滑稽なあだ名を記事で知ってしまい、かえってやるせなさを感じる。



ふと読んでいた新聞記事の下のほうに、あるドラマの広告が載っていた。
寺島しのぶ主演の、ある女性犯罪者のドキュメンタリードラマだった。
その女性と言えば、顔の整形を繰り返しながら逃亡を続け、時効ぎりぎりで捕まった有名な犯罪者だ。彼女の人生は、【顔】と言う映画にもなっていた。



片方は本物の犯罪者だ。上の二人の罪の重さを、同列で語ってはいけない。
とにかく外野の人間には、「過去を書き換えてまで実人生から逃げ続けること」への興味が潜んでいるようだ。罪からの逃避度、逃亡の距離、嘘の飛躍具合、が大きければ大きいほど、映画化したり伝説化したりする。



某野球監督夫人の経歴詐称が話題になって、周囲の芸能人たちが手のひら返したようにバッシングをしたことがある。
雑誌広告の見出しでそのさわぎを見ながら、母がボソと言ったことが忘れられない。
「まわりで罵倒する人間に、きれいごと言ってんじゃないよ、って思う。あの時代はみな色々やって生き抜いてきた世代のはずで、経歴の秘密の一つや二つある人も多い。その裏には抜き差しならない事情もある。人なんて後ろ暗いところも探せばあるのよ。けどその嘘の部分だけ取り出して、鬼の首を取ったみたいに優位に立とうとする人間は、必ずいるね」
母は穏やかに見えても、こういうことに関して苛烈な物言いをする。
たいてい、世間のゴシップの騒ぎ方とは逆の視点だ。



母のその言葉を聞いた頃だったと思うが、私は松本清張に魅かれていた。
断罪以前に被害者と加害者含めた人間たちの「人生を網羅する視点」に興味を持った。



いろんな大人を知って生きてきたからかもしれないが、「あの人の正体は結局何者なんだろう」と不明を感じさせる存在に、魅かれることがある。
人の嘘と謎。演出でもなく詐欺でもない、「やむにやまれぬ」「人には言えぬ」が絡んだ不分明もあるということを、よく考える。
【ゼロの焦点】に出てくる、失踪夫の二重生活など、今実際には想像がつかないが、父母の時代や祖父母の時代のさまざまな人の話を思い出すと、さぞそういうこともあっただろうと思うのだ。



何一つうしろ暗いところの無いきっぱりと清廉な人、それはそれでいい。けれど、うしろ暗くないのが全ての正しさの基準みたいになって、その価値観でしかものを見れない人となると、苦手だ。
人は生きていると、何かしら「立場」というものを手に入れる。手に入れ、それから逃れられなくもなる。
自分が「立場」から逃れられない圧迫を、私達は、無意識に小さな逆襲に変え、どこかで晴らす。
その矛先として格好なのが、「立場」に脆弱な嘘がある人、「立場」をそもそも持てもしない人、なのだろう。



野村芳太郎の【砂の器】の映画はビデオで見るずっと前の幼い頃から、母からイメージを刷り込まれてきた映画だ。
「ピアニストの青年が最後のピアノを弾くその音楽にあわせて、父親とたった二人で日本中をさすらい歩いた記憶の風景がずっと映し出される。暗い日本海の波打ち際とか風に揺れる草原がね」
一度思春期に観たとは思うが、改めて昨日観た。いつのまにか泣きながら観ていた。



日本人が日本の風景を知る映像として、【砂の器】を観るといい、と思った。
この背景に横たわる事情は、一人の人間の思いや屈辱を越えている。
戦後の日本を現すドキュメンタリーで素晴らしいものはあるだろうが、松本清張というフィルター、さらに野村芳太郎が映像詩にしたというフィルター、が「一つの時代のどこかに視点として共有されていた」という点に興味がある。
この風景を見、この親子を見て、「実際観たことの無いものであっても確かに知っている」と言える人はいると思う。しかし、表面上の差別的言論統制と引き換えに、この種の甘い涙に誘われることもかえって許されない。今はそんな時代だ。



人間は、生きていれば何かしら、逃げ隠れしなければならない事情が出来るかもしれないのだ。
何が起こるかわからない。
「逃げ隠れるその先は、もう人間界からはみ出し、亡き骸と成りさがる」
と世論は幻想する。
けれど、逃げる人間、隠れる人間の、その漂流のときにしか見ていない強烈な光景は、確実に存在するのだろう。
by meo-flowerless | 2016-03-18 18:25 | 日記