画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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日記

ソチオリンピック終わる。
競技自体を張り付いてみていたわけではないが、楽しめた。
一つには、憧れのロシアの地でのオリンピックだということ。
小さい頃モスクワオリンピックを観ることができなかったゆえ、今回は初めて観るロシアの表現の底力みたいなものを感じた。


特に開会式と閉会式は、心の奥に来る感動を感じた。
北京の「壮大さ」とも違う感動、古いのだとバルセロナやアルベールビルもよかったが、ああいう「趣向の美しさ」と違う感動だ。
普通の欧米圏が24色の色鉛筆で何かを描写しているとしたら、ロシアは60色くらい使っているのではないか、という思いがする。
それは単なる虹色的なカラフルさという意味ではなく、エモーションの翻訳をそのくらいの振幅で使い分け演出することが当然、というような感じの意味である。
人間の内面と内面同士の疎通を普通に信じている、複雑さの表現である。




ロシア近辺の音楽や映画に感じるのと、同じ類の情感だ。
あの情感表現への憧れをうまく言葉にできたら、いま自分が表現で目指したいと切に願っているものがもっと明確になる。
自分は長編小説なんか到底読破してないのだが、ロシア文学のあのとぐろを巻くように長い人間劇を、ちゃんと受手に「追わせ」、個々の人生を重ねあわさせるとこまでいく、そういう文化の懐があるのだ。
この国には、広告的に演出される諸価値の裏側にもちゃんと素朴に内面的な生活があり、恋があり、憎しみがあり、絶望があり、詩があり、芸術があるのだろう。
更にそれらが普通に、売られるものとしてではなく、交換可能な同じ舞台の上にある感じがする。
濃密で重厚なもの、は、押し付けたり主張したりすると受け手が辟易するだけだ。
彼らの濃密さと重厚さはは多分、押し付けられているのではなく、自然に「在る」のだ。
文化の価値が、経済効果や競争原理と別のところ、あらゆる意味づけとは別のところに、隔離され温存されているように感じる。



アメリカ文化をその対照と思っているわけでは決してなくて、アメリカにはアメリカのやはり凄い文化がある。
ディズニーもトムジェリもトワイライトゾーンも、ハリウッドもラスベガスも大好きだ。
けれど、一旦解釈されてしまった「アメリカ的」なものの追随、或いはアメリカに対抗すべく作られたもの、に必ず付いて回るのは、スペクタクルやショーとしての成功不成功がそのまま表現の目的になっている感覚、だ。
成功をするための条件として、ある種の複雑さは排除されなければならないことがある。
わかりやすさ、伝わりやすさ、有効性、戦略性が優先される。



この「伝わらなければ話にならない」という通念の裏に張り付いている惰性が、目下の自分の敵のような気がする。
日本にいるとおそらく更にこれに「世界に通用させる何らかの対抗策でなくては話にならない」「経済効果を生み出さなければ話にならない」の匂いが常に付いて回る。サブカルすら価値付けされ欧米に負けてはいけない雰囲気を醸し出すことがある。
美術をやっている以上、表現を通してもちろん何かを伝えたいこともあるし、わかりやすさのための訓練はしているけれど、わかりやすさとは、鮮やかな明らかさとは全く異質なものだということだけは感じている。
言葉などは特に気をつけていないとすぐに「生産性の高い、意味度合の高い」言葉で表現を集約してしまいがちになる。
それよりは腐植土みたいなグズグズした、発芽前の言葉が私は好きである。



.......



このブログの横っちょの欄の下方にあるのは、今さら始めたツイッターの、現在進行形のお窓だ。
やっぱり、なかなか言葉の所在のさせ方が難しい。
書き散らすのは生来の病気のようなものなので、書いていて楽しいのだけれど。
ネットの中にあるのは、もうある程度進行した喋りのコミュニティーでもあるので、どうしても「わかりやすさ」に対する暗黙のルールのようなものを感じさせられる。
自己責任ならぬ自己検閲のラインが合うもの同士がコミュニティーを形成するのがネットの世界だ。
単純に、「文章を書いて出版されて誰かが偶然買って読むかもしれない一冊の小説」なんかとは、言葉の理由と目的が違うのは当然だ。



今のところ、自分の脳裏に浮かぶ些細な断片たちのプロジェクションのように使ってみたいと思っている。
自分という一人の人間の意識の流れを、色のある言葉の断片でドローイングしていく感覚で、本当はやりたい。
ただ、誰も見ていないかもしれないのにオーディエンスの視線をいつしか気にさせられる、そんなツールなので、まだ操縦が難しい。
このブログの一人がたりスタイルに慣れているが、ここでのいわばエッセイと、香星群の小説と、Twitterの日記ならぬ分記、のような感じで文章を使い分けてみたい。
by meo-flowerless | 2014-02-24 04:18 | 日記