画家 齋藤芽生の日記


by meo-flowerless

外部リンク

カテゴリ

全体
絵と言葉



匂いと味



映画
日記
告知
思考
未分類

最新の記事

2024年3月の日記
at 2024-03-04 01:47
変奏曲の魔力、からの解放
at 2024-02-28 22:09
2024年2月の日記
at 2024-02-03 14:46
2024年1月の日記
at 2024-01-13 15:12
珠洲 2017
at 2024-01-13 15:11
2023年12月の日記
at 2023-12-16 10:31
2023年11月の日記
at 2023-11-10 06:59
2023年10月の日記
at 2023-10-07 02:03
2023年9月の日記
at 2023-09-23 01:30
2023年8月の日記
at 2023-08-05 03:09

ブログパーツ

以前の記事

2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
more...

画像一覧

遊びの百科全書5 『暗号通信』  ~ 巌谷國士編 

遊びの百科全書5 『暗号通信』  ~ 巌谷國士編 _e0066861_1145629.jpg



いまでも子供の世界には、なぞなぞ遊びが生き残ってるだろうか。
私はなぞなぞに答えるのが苦手な子だった。
「逆立ちすると軽くなる海の動物なーんだ」
「....フグ」
「ブー、イルカでーす」
「………」   


人に問題を出したりすること、数年前流行った「謎掛け」を考えたりすること、も不得意だ。
謎掛けを競い合って自分のデキナさに悔し泣きし、呆れられたこともある。
言葉の作品をつくったり文章を書くことから、私がそういう頓知や言葉遊び全般を好むと思われたりするが、極端に苦手な分野がある。


大喜利で、巧い!とかけ声かかりそうな分野はだめだ。多分これは克服不可能だろう。
頓知や謎掛けは、言葉のトリックを知的に種明かしできなければいけない世界だ。
自分は暗喩的な人間だと思う。唐突な言い切りのイメージで物事を感覚している。
「人生は緑藻だ、恋はウニだ」なのだ。
何の言葉遊びがなくとも、ひとにはわけがわからなくとも、そう思ってしまったので、そこに説明理由はない。





遊びの百科全書5 『暗号通信』  ~ 巌谷國士編 _e0066861_1164084.jpg



なぞなぞ遊びは不得意でも、謎の解読なら燃える。
あらゆる「暗号」というものには、永遠の憧れがある。
日常の中で暗号を駆使するような場面はない。そもそも暗号の目的の多くは一般人の遊びではない。
文学作品に戯れに暗号を取り入れたものはあるかもしれないが、その遊戯はなぞなぞより重い。
文学でもそうだし、歴史的機密なら当然、暗号的なものには笑いのカタルシスの要素は少ない。


遊びではない謎。それが大事なとこだ。


意味を「当てろ」といわれるのと、意味を「拾え」といわれるのだったら、私は拾いたい。
秘密裏に自分だけに仕掛けられたコードで謎を解読する時間は、惜しまないだろう。
冷酷な司令官から海に撒き餌を撒かれ、冷たい海の中で小魚の中に一匹のエビを探したりする.....そういう労苦は苦ではない。
冗談みたいだが、高校くらいの時はほんとうに諜報員に憧れた。


他国の工作船電波から紛れ込むラジオの乱数放送を、無意味によく聞いていた。夜中の一時間くらい、延々と何桁かの数字を女が読むのだ。
日本にいる他国の工作員は与えられた日本の文庫本小説をめくり、読まれた数字のコードに従って文字を拾うらしい。54231なら例えば、54ページ23行目の一番上の文字。
同じ時間、こちらは全く意味も分からず聞く声のむこうで、別の人間は息を潜めて秘密裏に言葉の意味を拾っている。


ある日絵を描くことが楽になったのは、良い絵とか伝わる絵を描こうと思わなくなったからだ。
絵は私の発する暗号だ、と考えたからだ。
その意味を、拾う人は拾う。拾えない人には拾えない。
自分の絵を見て誰かが「もしかしたら」と胸に手を当ててハッとなる瞬間、を想像する。


暗号は、世界を救うためのものではない。
何かを悪用する言葉だったり、呪いでさえも有り得るし、誰かの欲望のためだけの作戦かもしれない。
他者からすれば感じの悪い、特定の関係の秘密に過ぎない。
そこがいい。


遊びの百科全書5 『暗号通信』  ~ 巌谷國士編 _e0066861_130594.jpg



「符牒が合う」という言葉がある。
符牒とはそもそも業者間の隠語、略語、秘密のマークのようなものだ。
数字の一を「棒」とわざわざ言う、醤油を「むらさき」という、とか、そんな世界だ。
合言葉である符牒が合わなければ、互いに部外者であり、世界を共有できない。


出来事を反芻するとき、何食わぬふりしつつじっくり集めた自分の中の場面の断片が一つ一つ鍵と鍵穴のように照合していく感じ、そうして読み解いていけるときに、「符牒が合っているな」と思う。
妄想だと分かっていても、真実か否かというのは気にしない。自分の中だけの符牒にしておけばいい。
符牒が合って、鍵穴に鍵が合って、次の扉に進んでいける、精神的感覚じたいが自分には大事だ。


別のたとえなら、歯車の感覚だ。それは、数式を解いて解答が繰り出される爽快感とは違う。
歯車は軋む。その軋みの部分が必要だ。
「歯車」と言えば芥川龍之介が自死する直前の手記的小説。「或る阿呆の一生」とともに、どんなに病的であろうとも、やはり圧巻だ。
よくない符牒をどんどん自分の神経が合わせてゆき、事実がどんどんその方に回り始める怖さ。
錆の無い透明な歯車が回転を高速に上げていく。


一方で、友人である内田百閒がちょうど同じ死の前の芥川をモデルに描いた「山高帽子」が私は好きだ。
同じ歯車でも「軋み」の部分を感じる。
内田百閒の文章にも狂気があるが、どこか生きた哀感を感じるのは、自分の思考回路と言葉の早さが先立って運命を狂わせていくのではなく、周りのものや風景たちが先に符牒を合わせ始め、それに本人の意識がなかなかついていかないもどかしさが描かれているからだ。
自分の歯車は、内田百閒のように、軋むが決して空回らない方の歯車でいたい。



自分の中にも歯車があって、いつもその噛み合う感じを身体で確認してしまう。その結果がはずれでも、行先が悪い夢の方角でも、一度でも鍵穴がきっちり合う、歯車が噛み合う快感を味わうと、その一連の流れに賭けたくなる気持ちになる。



「人生は緑藻だ、恋はウニだ」を解読するのは無意味だ。でもほんとうに無意味か?
ふとした言葉やイメージの向こうには、実は無意識の脈絡が潜んでいることもある。
答えがある訳ないことをじわじわ追いつめる。
自分の絵や言葉が、なぞなぞを人に突きつけるように、当ててみて、などとというニュアンスを漂わせはじめたら、注意しよう、と思っている。だってなぞなぞは謎とはほど遠い。


遊びの百科全書5 『暗号通信』  ~ 巌谷國士編 _e0066861_1171643.jpg



日本ブリタニカ版の遊びの百科全書『暗号通信』は古本で手に入れた。
登場する暗号は、在り方も舞台も様々だ。
占星図、錬金術指南書、護符、アクロスティック、アナグラム、掛詞、カバラ、秘文字。
ヴィジュネル多表とか、ポリビュオスの表とかスキュタレーとかいわれると、もう何度説明されても覚えられない。


ミステリーと暗号、という章が面白い。
「踊る人形」コナン・ドイル、「黄金虫」エドガー・アラン・ポー、「蝶蝶殺人事件」横溝正史、「二千銅貨」江戸川乱歩、「黒死館殺人事件」小栗虫太郎、各小説に登場する、めくるめく種類の暗号トリックが紹介されている。
トリックの絢爛さにはまって推理小説がはまる人がほとんどなのだろう。
ただ個人的に、推理小説のスリルは、「なぜそれほどまでの暗号や符牒を駆使しなければならなかったのか」という登場人物の心理を推理させてもらえるかどうか、というところにかかっていると思う。
秘密裏に何らかの歯車に他者を巻き込もうとするのは、悪事に他ならない。
でも悪事の企ての、その向こうにある心の風景に、自分はこだわる。



編者の巌谷國士の文章を抜粋する。


人間は謎を察知する動物である。
すべての意味のあるもの、いや、すべての意味ありげなものや意味あるかもしれないものが、人間にとっては暗号として映る。
どこかにかならず鍵があるのではないか、そしてその鍵が見つかりさえすれば、ある新しい秩序に到達できるのではないか、と彼は考える。

…………………

しかし同時に人間は、こういう謎がたぶん永久に解きつくせはしないだろうということを、あらかじめ知っている。
解いても解いてもそれは世界の謎の部分でしかないという思いが、かえって人間の謎解きの衝動を触発する。




遊びの百科全書
ーーー「人間は人間であるときにだけ遊ぶ。遊んでいる時だけが人間なのだ」
1「言語遊戯」高橋康也 編 / 2「アイトリック」種村季弘 編 
3「レンズマジック」広瀬秀雄 編/4「図形工房」野口広 編
5「暗号通信」巌谷國士 編/6「人形からくり」立川昭二 編
7「玩具編」澁澤龍彦 編/8「装置実験室」寺山修司 編
9「ミステリーナンバー」高木茂男 編/10「迷宮幻想」岡本太郎編
なんと執筆陣もテーマも贅沢なんでしょう。全巻は持っていないのが残念。

by meo-flowerless | 2013-08-29 13:19 |