画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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島日記7

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ああ鳴くのを忘れた籠の虫。でかい虫。
電照菊畑の前の家にスゴい大きい虫籠的な檻があるのを見る。
自分にぴったりのサイズだ、と思う。
あれ自分の檻なんじゃないか?という混濁。


寒いと人肌恋しくもなろうが、暑いとこの世の誰からもそっぽを向きたくなる。単純。
島唯一のショッピングセンターで勝手に車移動して、いなくなる気侭な夫に振り回され、炎天下の駐車場をくまなく一人で歩き回るはめになる。軽度の熱中症開始。




『逃散』の二文字が青空に浮かぶ。ええもう、一人になりたいです逃げ出したいです。
しかし車で港まで送ってくれる人が無ければ船にも乗れない。免許の無い私は島では人間扱いすらされないんだ。我慢しかない。


夫は私をほっぽっても無頓着だが、危険な炎天下に瀬戸内国際芸術祭を歩いて見て廻る観光客には救いの手を差し伸べ、道の途中で車に拾って乗せてやったりする。
代わりに私をこのまま海に投棄して行って欲しいと思う。


東京に居場所があるでもなし。職も家もあるけどそれは居場所とは違う。
要はやはり乗物だ。完全個室、完全孤独、移動可能、私だけの場所......車。
車=生命力。今の私にはそう思える。
免許とらなきゃ。誰からもどこからも逃散してやる。


とここまで憂鬱満開なのに、話変わるが、昨日は三都半島に展開する小豆島アーティストインレジデンスの作品を見て廻って、一つ一つの作品の質の高さに考えさせられた。


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各会期3人の招聘作家の他に、芸大生が実験的に展開しているプロジェクトがある。特にそれらを見てよかったと思った。
彼らの多くは私が学生時代所属した保科研究室の学生だ。だからなおさら、自分がもし学生時代急にこの島の果てにつれてこられほっぽり出され、たった一人で何かと向き合わなくてはいけなくなったら何をするだろうか、と考えてしまった。


寺木南『 Full Tide ⇄ EBB Tide』。
国民宿舎で夕食したとき、小豆島の形がレリーフになった洒落た醤油皿があったのだが、それが寺木さんの作品だった。しかしそれだけではなく、海の側の納屋のような展示場所を訪れてさらに驚いた。納屋の暗がりの中に潮位の違う二つの海がある。潮位はほぼ人の目線ほどで際どく、水量は夜の海を思い出させ、一瞬怖い。
工芸的な繊細な作品作る人とばかり思っていた。自分も作り手だから、この作業の気が狂いそうな大変さをすぐに想像する。



高原悠子 『事物』。
コンクリートに挟まれた巨大な翼が岬の芝生の上に。彼女のつくるものの持つ男性的な切れ味が外気の中に存在すると、生きてくる。もちろん女手一つでいきなりできる仕事ではなく地元の人々の熱い協力なしには出来ないであろう作業。そうやって人の心を動かし力を借りて行く技量も、美術家に不可欠な生命力の一つだ。


林千歩の映像作品、こんな遠い海の果てでこんな映像みせんのかい!と思って爆笑したが、千歩の作品の中では地味ながら分岐点になる作品なのかもと勝手に思う。自分の研究室の高田冬彦君との類似を言われたりすることもあるが、気質がまず違う。『二十四の瞳』の映画を下敷きにし、島のご老人たちを生徒役でかり出してるんだが、よくここまでやってもらった。自分に内在する物語を緻密に構築していくというより、その場でどうなるかわからない「出来事のいい加減さ」を絶妙に編集して行く実験映像のような荒々しさが、彼女の魅力なのかもと思った。


大橋文男『しろいいえ』。
まずこの人の基本姿勢である個人の民俗学、言い換えれば「たった一人の民話」というスタンスに共感してしまう。
静かな作品だがとにかく美しい。これ誰にも手伝わせず彼一人でやったんだろうなと勝手に想像する。なんか、そういう人だ。白い糸の先に一つ一つ結びつけてある陶器のかけらも、この期間一人で拾ったのか。ほんの数日私も真徳の為に浜で漂着物拾いをしたが、砂の上の孤独なトランス状態を思い出す。最初は島名産のそうめんで家を建てる計画だったともきいているが、紆余曲折の果てに選んだ白い糸が結局すべての雰囲気を決定づけてて納得出来る。そうめんで作るのもコンセプチュアルで面白かったかもしれないけど、大橋さん特有の「物語を編む」感覚と糸という素材が、調和してる気がする。



『私は一人、この場所で何が出来るんだろう?』
という、シンプルかつじつは凄みのある問題を、ないがしろにしたら、作り手としてはおしまいだ。
正直、どんなに話題のイベント的作品よりも、三都半島で見た作家の内面的な作品の方が何倍もいいと思えるのは、その問いがむき出しの形で現れてるからだ、と思った。
都会で作り上げたフォーマットをここに持ち込んでも何も意味ないと思う。
彼らが孤独の中で自身と向き合わざるをえなかっただけではなく、土地の特質や生活の不自由とのつきあい、いわば潮目を読みながら体で作品を調節して行くような日々、その密度が出ているのだ。



自分に置き換え何が出来るか思案するだけで、もう脂汗が出る。「私は一人で」の部分はクリアーするだろうが、「この場所で何が」という自問自答は私は不得手だ。
一人でなくてはならないが、一人では出来ない。誰の為でもないが、誰かとともに何かを生む。
今を喘ぎ喘ぎ生きつつ一から作品を作り繋げて行くという経験が、自分は少なすぎる。



さっき書いた虫かご的檻のある農家の路地の奥にある、佐藤準さんの作品を見て心躍る。
心躍る理由は、作品の物量や力量だけでなく、「もし私だったら何を作るか」の問いの、糸口になる何かを思い出したからかもしれない。
彼は何万もの虫の死骸をこの土地で集め続けた。ひたすらそれをガラスと樹脂に閉じ込める。
もはや誰の為のなんの牙城なのかわからないような廃屋の中で、横にした硝子戸板一面に博物館さながらにそれらを羅列し、誘蛾灯色の夏の夜灯りで底光りさせている。
青さ、死の匂い、乾き、夥しさ。すべてが凄艶というかんじ。

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やはり私に他所の土地でのレジデンス作品展開があるとしたら、蒐集を中心に据えた博物学的な感覚に可能性を見出すことになるんだろう。逆に文章による「四畳半みくじ」のようなイベント性のある仕事は、付け焼き刃的になると思う。
いつか別の土地にある程度長く住んで土地を廻り倒し、自分ではない人生を仮に生き直すような感覚で、その架空の人物の編む博物学に腰据えて取り組んでみたいと思った。


そして.......それにはやはり、車の免許も不可欠だ、とまたしても思った。
by meo-flowerless | 2013-08-06 15:09 |