画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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小諸赤い旅3

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布団の中。遠い鐘の音。空気の純度を渡って伝わってくる音の震え。右から、上から、後ろから、重なる波紋のようにかさを増やしていく。その音の反響壁になっているであろう山肌を遙かに思い浮かべる。
時計を見ると朝七時。
出窓からすぐ下の小諸駅ロータリーを眺める。しんとした白紫の朝の中、バスの影も車の影もなく、時折通勤客が走って駐車場を横切るだけだ。

トーストと珈琲を求め昨日の喫茶「キャンデーライト」を訪れるが、十時半過ぎても開店前。信州だから蕎麦でも、と思ったが……これも開店前。食べるところは本当に無いなと思いつつ、目に飛び込んできたのは「立ち食いそば」。蕎麦の本場・信州の「立ち食いそば」はいかなるものかとの興味から、店に入る。
角煮蕎麦。おおこれは微妙にマズイ。
角煮が固くて噛みきれず、玩具の骨を噛み噛みする犬の如く、必死で角煮に歯を立てている視線の先では、もともとふやけている蕎麦がどんどん汁を吸ってふやけていく。それでも塩気が身体に入ってやっと意識が明瞭になってくる。店主の佇まいが物静かで、やはり食後は美味しかったような気にもなった。「微妙に不味いもの」というのは後で「微妙に美味しい」ものに変わる。

繁華していない繁華街を外れると、川の清涼を感じる古びた住居街になる。よく晴れている。遠い山々の、貼絵のようにぎごちない斑色。
音、が素晴らしい。
息も出来ぬような静けさが、全ての曖昧な音の気配をもきちんとした輪郭で伝えてくる。
四方を囲んだ山はかなり遠いところにあるが、緩やかな擂鉢のように小諸を抱いていて、この土地の全ての微音を反響させる。

ここからは見えぬ高原地帯の鳥の声。どこか近くで葉が一枚枝から離れ落ちる音。山肌にしがみつくように行く観光の車の音。小諸中の犬という犬が思い思いに主人を呼んだり、腹を空かせたり、あくび混じりで何の気なしに遠吠えしたりする微かな音が、風に乗り、あちらこちらからする。次はどこら辺で犬の声がするか、「遠い犬声モグラ叩き」を意識の中で何となく展開する。
製材の音。どこかで主婦が何か落とす音。そしてその微音の舞台の中ずっと流れ続けているのはちょろちょろとした川の水の音である。
古い石橋から見下ろすと清流には妙に大柄な鴨。脇の家の玄関前ではパンの耳が大量に広げて干してあり、その脇で同じパン色の雑犬が正体もなく半分腹出して眠っている。鼻をくすぐる、様々な木を燻す微妙な煙臭。

渓流がだんだん木陰の深い谷に落ちてゆき、廃屋から持ってきたようなソファーやゴミが散らばる急坂。それに沿って降りてゆく。右手にはガードレール下、掘るように作ってあった地下壕的施設の残骸が、階段やら何やらをむき出しにさせている。こんな崖の隙間に何の建築を嵌め込んでいたのか。遺骸コンクリートの隙間から眩しい光が漏れてくる。
木々の下、擂鉢状になった落葉の海の底、墓地があった。
よく見るとその崖の斜面全域に、貼り付くように墓が建てられている。
一番底の一角には、かなり古い墓石を引っこ抜いて集め、整然と詰めて置いてある。
木漏れ日の下、ギュウギュウ詰めではあるが、なんていい墓石なのだろうと思う。集団で思い思いに騒ぎながら湯浴みする江戸時代の人たちの絵を思い出す。一応ちょっと手を合わせてみたあと、無遠慮にも墓石の頭を撫でてみた。何故か可愛い。

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擂鉢の底の放置野原。かなり細くなった小川が描くカーブを囲み、枯れて荒れ果てた秋草がある。
こびりついた瘡蓋じみた深赤の残菊。
荒れているのにどこかのどかで桃源郷的な、全てから隔絶された地形。
紅葉した丈の低い果樹やささやかな二畳大ほどの畑がぽつぽつとある。短い錆びた鉄板橋、積んである廃石の上に小さな石の即席地蔵と即席塔がある。その形が素晴らしい。老婆の毛が抜けたような白い草の蔓に、軽トラックや自家用車らしきものたちが原形をとどめず埋もれている。
こういう市井の陰の陰に隠れた小川沿いには時折桃源郷を思わせる風景が不意に現れたりするのだ。川沿いということに様々な理由はあるだろう。柳田国男の書いていた、赤い器の流れてくる小川と不思議な無人の家・マヨイガの話を思い出す。

川下枯木の陰に隠れるようにひっそりと立って居る一軒の、窓も何もない、郵便受けだけ貼り付いたトタンとブリキの家は、どう見ても立派とは言えないけれど、強烈な「何か」を投げかけてくる。郷愁でも旅愁でもない、哀しみとか寂しさでもない、もっとこちらを沈黙させる激しいもの。
谷底は様々な音をも全て締め出し、死んだように静かだ。その静寂にカネタタキのピッピッという鳴声だけが寄り添う。
白い廃車の中につっこまれた様々な廃棄物からさらに草が生い茂っている。友が不意にその中の一つの緑の葉を指し「すみれだ」という。
もしかするとこれが名物の小諸すみれかと思う。しかし小諸すみれがどんなものかは全く知らない。
繁みの向こうに見えているのは無機質な高速高架。おそらく道路拡張か何かの工事で、その小さな家のすぐ付近まで工事現場の埃っぽい砂地が迫っている。立ち退きを迫られても頑固に動かない一軒なのかも知れない。

桃源郷の不吉。
終末感からも見放された谷底。
漂白光景の中、一点だけ暗く無限のエアポケット。
こういう場所があるから私は絵を描くのだと思う。

「自分が何故絵を描く(表現をする)のか考えろ」と学生の頃いろいろな人に時々言われた。
求められている答えは心情的なものではなく、もっと社会との繋がりや立場、概念的なことだった。
でも私に絵を描かせるのは、心情とも概念とももっと違うものだ、といつも思った。そんなじっくりした人間の知力に裏付けられたものではない気がした。

一瞬の「絵」が、風景の中、閃光のように切り取られる。
閃光ではなく「真っ黒な穴」でもいい。悲鳴でもいい。沈黙でもいい。
瞬間上空を横切る鳥の影のように、凶々しく私の中をよぎるのだ。
または、死の闇から放たれる妙に生々しい矢、のようなものに射られるという感覚もある。
不吉な何かに誘われて描きたくなるのが常なのだ。どうしようもなく不安、しかし吸い込まれてみたい黒い靄のようなもの。
そんな一瞬の堆積がいつしか澱のように底に溜まり、自分の身体を、不安定極まりない「絵」の身体に変える。

こういう言い方で美術界の公の場でいくら語っても伝わらない。所詮女子供の生理感覚だ、所詮趣味的な世界の戯言だ、とか思われることの方が多い。
が、美術界言語で何かを語ろうとすると、たちまち私の中の「絵」が逃げてしまう。

美術界言語ですらすらと説明的な会話している人を見ていつも思い出すのは、
「物言えば唇寒し秋の風」
の一句。このたった十七文字が呼んでくる皮肉と余韻を少しは味わいでもして、黙って欲しい、とつい思う。
いくら説明的な言語で語ったってそれは自分の言葉にはなり得ないだろう。
本当の秋の風の微粒子が、黙って自分の体の底に沈殿するまで待つのがいいのだ。
忘れた頃にその風は、たった一息の自分の吐息に代わり、自然に唇から出てくる。
その吐息こそが「表現」だ。
が、社会で恥ずかしくなく生きていくための向上心は、その強迫感と忙しさ故に、この「風景の沈殿」を不可能にさせる。
怖い。死の不安よりも、私にはあのせわしない強迫観念の方が怖い。

              *****************

昼、懐古園でやっと美味しい食事にありついた。美食といっても信州ここら当たりは、蕎麦、蕎麦、蕎麦の一色である。
蕎麦屋の客は皆老年。そしてそれほどやかましくない。こんな平日に黙々と小諸の旅を選ぶ人々。私達も同類か。隣席の老人が自分撮影のホームビデオを見返している。そのビデオ音声から突然けたたましいようなプピピプペペーッという調子っぱずれの音が流れ出す。草笛か。チンドン的古歌謡曲の物悲しい旋律。思わず耳を傾けているとその後怒濤のようにこちらに話しかけてきた。こちらは草笛のことが聞きたかったが、向こうは浅間山絶景のカメラアングルとその立脚点について延々と語っていた。

小諸の最後、懐古園内の遊園地に。非常に細長い空地にあり、柵の向こうは崖のように深そうだ。
見事なまでに、閑散。
誰のためにでもなく流れている音楽は、古い童謡。「叱られて」「グッドバイ」「天神様」「てるてる坊主」。
たった一組の、爺婆も含めた大家族が、何故か乗物にも乗らないで一所に固まって日向ぼっこしている。あとは皆園内清掃のおばさん達だ。
この老人好みの小諸なる観光地に子供を連れてくる人はそもそもあまりいないのでは、と思う。それでもわずかな面積に、陽に輝くメリーゴーラウンドやカップなど、とてもいいデザインの乗物がある。
私にとっての遊園地デザインの善し悪しを決める水準は「いじらしさ」。カップの花柄、馬の顔、汽車の貌、全てにおいて、「ポンコツ」と「エレガンス」のバランスが大事だ。乗物嫌いな幼少の頃から、そういう遊園地の哀愁や斜陽ばかり見ていた。

昨夜闇の中で見た、空中の線路を走るらしき「スワン」の顔に惹かれていたので、乗ることにする。おばさんが箒を置き、何か可笑しそうに私達を乗り場にいざなう。
「たった二人でも、乗物動かしてくれるんですね」
と私は呟く。カタタンカタタンとたった二人を乗せ健気に動く電動コースターをイメージしたのである。
白い段々を上がり、テント張った下、十羽くらい連なるスワンのもとへ。可憐な悲しい顔である。私は先頭、友は二番目。
「じゃ、途中で疲れて停まったら、頑張って後ろの方押してあげてください」とおばさんが言う。
途中で停まるって何?と思った瞬間私の足に触れたのは自転車状のペダル。
あれ?
漕ぐの?これ。
自分でかい?

改めてみると乗物の名は『スワンサイクル』。
「こっこれこの距離を全部自分で漕ぐんですか?」
「はい、そうです」とおばさんは呑気に返す。
行ってらっしゃい、とおくられて、私は猛烈にペダルをぐるぐる漕ぎ始める。十数匹連なっているように見えた白鳥は、一匹一匹独立した鳥型空中自転車だった。

やられた。甘かったよ。やはり私は「都会のバカ者」だよ、と笑う。
スワンの丸い頭がさっきの可憐さとは裏腹に、もっと漕げ!スワンをなめんなよ!と檄を飛ばしてくる。百こぎして2メートルくらいくらいしか進んでいないような感覚がする。赤いコートの裾をバサッと広げ、半分立ち漕ぎになりつつ、そして高所の恐怖に怯えつつ、何よりもこの自分自身のでかい身体と体重によるスワン破壊に怯えつつ、狭い園内の上をぎこぎこぎこぎこ走る。
後方で友が爆笑しながら私の図を写真に撮っている。
昔から運動はそれほど苦手ではないのに何故か、泳いだり走ったりすると皆が笑う。チキショー。

「これ自分の重さで落ちるなんてことないんですかーっ!?」と不安定スワンの上から、ニコニコ遠くで見守るおばさんに絶叫すると「大丈夫ー」と返してくる。園内の子供が、呆れた顔で不思議な「赤色人鳥合体激走物」を見上げている。

スワンの頭越しに見る紅葉の山が情けなくも美しい。
「屁理屈ばかり垂れてないで自分の身体で動け!!」というスワンの教訓。
足を止めると、当然のように、絶景でも何でもない屑籠か何かの上でスワンは知らん顔で停まるだけ。
息が切れる。よく考えると、この乗物は多分子供にはもっときついだろう、と思う。こういう物を喜ぶのは一体どんな人間か。あれ、やっぱり私のような人間か?
無意味な身体の動きと不毛な労働が明日の私に繋がるのだ、きっと。と言いきかす。

赤い秋の中の小諸の結論。
「人生、自分で漕ぐ。」

-「完」-
by meo-flowerless | 2005-11-14 18:41 |