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茶の湯と無常

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勤め先の大学で留学生担当委員なるものに今年から任命されたおかげで、日本文化体験の引率として、茶の湯を経験させてもらった。
武者小路千家の『官休庵 東京出張所』にて、庭や茶室を見せて頂き、御茶を頂き、家元の講義を拝聴した。
庭見学のときから茶道精神の抽象性どっぷり、流麗難解な説明がポンポン飛んでくるのを、日本語に慣れていない留学生は「.........」、それを英訳してやれない私も「.........」。
茶室の躙口がこんなに小さく低いところにある理由、二つの露地の行書的、草書的と言える役割...
まあ私は日本人なので予備知識はあったものの、改めて留学生たちの視点を想像しながら見ると、何故この非合理なような小世界の中で見事に成り立っている合理的な美学があるのか、不思議に思えてならなかった。





家元の配慮で正座の苦手な方や足の不自由な方のため、稽古をする茶室には、掘りごたつ状に穴のくりぬかれた畳がある。
「正座が苦手な方はどうぞ、遠慮せず足をその中へ」と言われるが、身体の大きな留学生たちも「私は大丈夫」と固辞する。
みんな偉いな...ここで引率の私が日本人でありながら「掘りごたつ状」なんかに入れないぞ.....
と思い、私もさも平気な顔して正座を始めたが、ものの五分で真っ先に辛くなる。
さすが日本に拠点を絞ってくる留学生たちだけあって、よく日本文化を理解しようとしており、美しく茶を頂いている人もいる。
下座の方に一回器を渡し「お先に」と言いつつ、また再び自分のまえに戻し茶を頂く。
もう何時お辞儀をしていいのやら、何回まわすのやら。
頭は混乱するが、私のところにきた器にはとても愛らしいウサギの描画があったので、心が和んで自然に器を鑑賞できた。



語学も堪能だという、現代的ながらも厳しそうな御家元の講義をそのあと拝聴。英語の混じった京言葉の、テンポの良いお話。
視覚や聴覚に重きを置くいつものわれらの文化を忘れ、触覚、味覚、嗅覚に集中してみよ。
唇をつけた時の器の口の柔らかさ。混じり気のない水の味覚。先人がたきしめてきた香の入り交じった残り香。
やはり自分も日本人だからか、それらの言葉は身にしみて入って来る。
留学生たちは、理解出来ていそうな顔と全くチンプンカンプンの顔、半々。
その顔たちに一瞬、家元も話が途切れ、隣にいた私に「先生もなにか、助け舟」とおっしゃる。
えっと思ったが、わかりやすい日本語&ダメ英語で、必死で、たとえばそもそも『無常』『見立て』という感じ方が日本人にはあること、に言及。
むづかしすぎるよ......冷汗が出る。



「ま、とってもアブストラクトなことなの」
「オー」
「ウ、ア、アブストラクトなスピリットにコンセントレイトするために(笑)、よけいなものをなくしているの、庭も、部屋も、道具も、器も」
「フーム」
「かざりのいっぱい付いた、高いお金で買えるものをいっぱいもっていたら、みんなはそれをぜいたくだと思うよね」
「ウン」
「お茶の世界では、そういうものは、贅沢じゃないの。なんにもないことの方がずっとずっとぜいたくなの」
ここで深くうなづく留学生が何人か。解ってるじゃない!
「お金で買える品物とか、リッチな人のクラスやパワーは、お茶の世界ではまったくラ、ラ、ラグジュアリーとはいわないの。なんにもかざりのない部屋で、庭から聴こえる音とか、自然のアトモスフェアとか、お香の匂いとかに集中しながら、いろいろなことを想像する、そういう時間を持つことを、本当に人間にとって贅沢だなーと思うことなんだよ」



「いろんな意味で、空気を読む、ということだともいえますね!」
とドイツからきた美声年が突然いう。そうそう、まあ......おおきくいえばそういうことだ、と家元。
「花がない庭、がひとつの解りやすい例で....例えば春、日本で桜が咲いたら春だなーと普通は思うよね。けれど、そういう具体的な桜の花とかが眼に見えないところでも、ちょろちょろ流れる水の音とか、空気の匂いとか、に、春という季節を感じようとする.....わかる?しようとするんだよ!そういう姿勢!そういう想像力を高めるのがお茶の空間なの.........ウッ、家元、合ってますか?」



私は必死。先生のおっしゃる通りや、と一応OK頂いたところで、家元の言葉が続く。
「つぎの季節を、待つことなんだよね。まだ来ない、次の季節の気配を......」
また本質的な質問が。
「侘び寂びってなんですか」
「それは我らにもとても難しい質問や。実はそれをちゃんと解っている日本人もいない。利休の時代に、今のような意味での侘び寂びがあった訳ではない。当時は戦争のいっぱいあった時代。皆が疲れ果て、戦闘の気分で興奮し、アドレナリンがいっぱいでて、人を殺したいと思うような時代や。じつは、そのサムライたちの神経を休ませるために茶席いうものがあった。茶室では全てが中立や。すべてを休み、解放し、抽象的なことに集中させるためなのです。わざと、わびしい、さびしい気分に、個人の中に、集中させる、これはとても大事だったんや。解る?」
「サビシイ、というのは知っています、でも、ワビシイ、が解らない」
「外を見て。そうやな...ちょうど今の時分のこんな夕暮れの気分や。何もかもが枯れた、何もない..そう、何もないときにふとおそってくる何ともいえない、虚しいような、そんな気分や」
.........と留学生はさすがに絶句だった。
「先生はわかりますよね。われら日本人は不思議と何処かで刷り込まれているんやね」



私はとにかく、ボーっと家元の話を聞きつつ、本来の茶の湯とは本当になんと言うアヴァンギャルドな世界だったんだろう、と想像していた。
なんと静的な、でも激しい、権力への抵抗。権力だけではない。価値というものに対しての。
うーん。来年までにはこれ、ちゃんと英語で表現できるようになろう。



しかしいつ私達は「無常」を刷り込まれるのだろう。いや、もしかするともう日本でもそういう空気は消滅しつつあるのか。
留学生は様々な文化圏から来ているが、侘しさまでは具体的に説明できずとも、「無常」というあの感覚は理解しているようだった。
何らかの知の深度の中には普遍的にあるものなのかもしれない。社会の表層にいくらでも「豊穣と虚無の同居」状態はあるけど、「憧憬と諦念の同居」というものは、なにかの感情を通過していないと感じられない深い孤の感覚だという気がする、そこに無常感は関わっているように思う。



小さい頃にはじめて出会った無常感覚は、まず『浦島太郎』の中にあった。しかしあまり好きなタイプの無常感ではない。浦島太郎に感じるものは日本人特有の無常観ではないかもしれない。説話特有の教訓的な匂いもするからだ。
が、『かぐや姫』が、何故かわからないが求婚をことごとく断り、どんな愛をも受け入れず月に帰るのは、ある意味日本的なように私は勝手に思う。
当時は幼児語で考えてはいたが....「なんて醒めた女なのだろう。なんで愛を受け入れないのだろう、なんで、手に入れないのだろう。何を諦めているのだろう、不思議だ」と、ぞーっと淋しくなったことだけは覚えている。三、四歳のガキでも、よく思い出せば、でもそのくらいの感覚は持っているものだ。



小学校のカルタ大会に優勝したくて、あの小倉百人一首すべてを必死で覚えたことが私にとって何かの薫陶になったと思う。
『まんが百人一首』とか『まんが日本の歴史』は非常によくできていて、簡潔ながらもちゃんと高度な無常感覚をも教えてくれた。



月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど(大江千里).....には、なにかもう個を越えた、人の本質的な孤独を知らされたし、
もろともに あはれと思へ山桜 花よりほかに 知る人もなし(前大僧正行尊).....には、真昼の爛漫にこそあるまっ白な侘しさを知った。
久方の 光のどけき 春の日にしづ心なく 花の散ちるらむ (紀友則)......の中の落花の絶え間ない動き。詠み人が死すとも、私が死すとも。永遠に巡り繰るものと、永久に帰ってこない時間とが同じ日の点景にふつうにあること。これこそ説明不要の無常だ。
今考えてみると本当に百人一首は私の個人的な人生の教科書だったと思う。



また、中学生のとき自分が平家の落武者の血を引いていると聴いた時から始まった無常陶酔感覚もある。
自分自身のことに関わらずとも、古文の時間では『平家物語』が特に心にぐーっと入ってきた。
初めて見た歌舞伎が『義経千本桜』であり、猿之助の演じた碇知盛にもう例えようのない衝撃を受けたことも思い出す。
これは私の筆にはもうちょっと書けないほどの世界である。源氏だから平家だからというのを越えた、心の世界だ。見た方がいい!絶対に。
ずっと後に『俊寛』を見、あれも悲しい話だが、かえって現代的な感情に彩られている気もした。



先日はじめて出会ったとある画家の方は、日本人離れした貴公子のように格好いい男性なのだが、
初対面でも分け隔てなく自分のことをざっくばらんに話す。
若干、唐突に話す。


なんの話の流れだったか、私が自分は平家の血を引いていると半分冗談まじりに自慢したら
「俺、平家、好き」
とあっさりと言い放った。
「ちっちゃい頃から、好きなんだよな、平家。日本人は、負ける方に美を感じるよな。俺も小さい頃からそうでさ。源氏はエレガントに感じられないんだ、義経はともかくも...頼朝とかな。義経は源氏と言えども、もういわば平家の扱いなんだよ」



公家でさ、辞世の和歌なんか読んだり長々名乗ったりしている間に、矢で、そりゃあ、射られちゃうよなあ。ああ、そういうのが、いいよねえ....と言う。
この人唐突に面白いな、と一瞬絶句していると、またおっしゃった。
「だって小学生の時大河ドラマ夢中になってみてたぜ。自分で烏帽子作って、かたびらも紙で作って、ちゃんととそれかぶってみていたよ、俺は」


エボシですか!
うーん、これから一緒に御仕事するのがとても楽しみになった。
茶の湯の話から随分外れてしまった。
by meo-flowerless | 2010-12-17 00:12 | 日記