画家 齋藤芽生の日記 Twitter/ @meosaito


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古書店主の憂鬱と私の焦燥と

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最近古本を漁っていると、古書店の店主によく話しかけられる。
長々いつまでも書棚を吟味して何冊もレジに積んで持って行くと、もうそのときには私にある人種の認定を下したのかなんなのか、常連のように話しかけてくるのだ。



きょうは本郷界隈の古書店を覗いた。私なんぞにはちと敷居の高い、東大生御用達の研究所専門店が多いのだが、シャッターを閉めている店も多い。
そして、あれっと思うほど大学の門前町が寂れている。冬だからか?この枯葉感.....
数件覗いたが、何となく回転の悪そうな品揃えの店もある。今の東大生は古書店なんか使わないんだろうな。目の前にあっても。



夕暮れ迫り最後に辿り着いたD書店は宝の山のようにも見えてずいぶん長く私はいたが、学生らしき客は本当にいない。
十年前くらい、駒場の東大の付近の古本屋には学生が結構いたけどな。
....などと思ってレジにまた本を持って行くと、女主人さんがまた突然、常連に話しかけるように、話し始めた。




「今年は駄目。本当に駄目。どんなに駄目かって、もう、かつて経験したことがないくらいよ」


もう本郷に嫁いでこのかた40年東大の学生やら先生やらを相手にしてきて、こんな年は今迄なかった、という。
「月ごととか、年ごとの利益とか、もうそんな風に計算できない状態だもの、今は」
いやあ何処もきびしいですよねえ、と始めは当たり障りない応対しか出来なかったが、女主人の話はつづく。
「かつてはね、学生も恐いくらいでね、いろんな難しい本の質問してきたり、そりゃあもう私なりにですけど、勉強してね、身構えてここにいたものよ。でもおばさんこんな本ないかなとか、この本いくらで売れるかな、とか生身のやり取りが楽しかったの。どんな出来の悪い学生たって、当たり前に最低限の本は読んでた時代があったのよ。でもいまは大丈夫なの?っていいたくなる。こんなに本を読まないでやっていけるの?って。学生の論文なんか、全く同じ内容のものが複数提出されることもあるんだって。要するに同じインターネットの頁をそのままひいてきて、同じ文献をそのまま使っている学生がクラスに何人もいるんだって。でもそれもしょうがない、とか先生がいうの。どうするの、ねえ」


知とは身体の記憶とともに刻み込まれるのだ。疲れ果てるまで理想の書物を探して歩く道、重すぎる本がのしかかる手の手応え。講義の身振り手振りの物まねをしながら覚える様々な言葉。旅の感覚の中で拾う異国の言語。歩く道すがらの初めての土地の風景。
教養を身に纏うということと、知を生きるということは全く違うことのような気がする。もっといえば、人間というものはほんらい本当に知りたい時はいわば「生命を賭けて」知りたいものなのだろう。でも、そういう欲求は死滅しつつあるのかもしれない。特に学問の現場でこそ知の身体は摩滅し続けているのか。



ひとしきり嘆きをウンウン受けとめて、店を出たものの。本当に身につまされる。
ところで最近この無知な私が火のついたように直感的に「本」の買占め欲求が出てきたことと、この特に数年のどうしようもなく加速するなんらかの風潮とは、なにか深いとこで繋がっている気がしてきた。
本は無くならないかもしれない。
でも、歴史はどんどん抹殺されるぞ!とるにたらなくも面白いような歴史の側面は、特にだ。




うちの美大生たちと話していて、自分自身を含め、無知なるが故になんて発展性のない会話をしているのだろうと、われながら話が止まってしまう。
「エコロジー」とか「情報化社会が人間に及ぼす弊害」とか「細分化されすぎた世界に於ける個の問題」とか、彼らも私も平気で軽く口に出して深刻な顔をしてみるけど、それ以上実は話が発展しない。たんなる形骸化された話題の焼き直しをなぞってるからだろう。
それが果たして真実なのか、現実なのか、そもそも真実とは、現実とはなんなのか、社会的事実として存在するのか、それは私の思念の中にあるのか、数値としてあるのか、......なんてことすらじつは思ったこともなかったりするのだ。



そういう話題を形骸的でなく思想するためにはもっと過去のことを知らなくてはいけないんだ。と、最近、痛快なまでに痛感する。
なんとなく知った気になっている暗記しただけの歴史認識では、真実に付いてのなんの匂いも嗅ぎ取れやしないんだ、とこの歳で、ようやく気づく。
「あーそう」と名前や年号だけですっ飛ばしていた歴史。受験もしくは教養のためにおさらいしたダイジェスト版の歴史。



最近あらためて西欧の科学革命前後の世界観の激変をよく読み、それをいちいちいまの自分の視野や認識に置き換えて想像してみて、なにかとてつもない新しい世界を逆に知り始めた気がしている。世界史の授業でもかなりツメツメに詰め込まされたところ。そうだよね...万有引力以前は、ものが落ちるということは、「ものが神に近づきたがっている」とか、「斯くあるべき位置に帰りたがっている」とかいうことだったんよね....ふんふんそうらしいね...


えっ?本当に、そんな風に思っていたのか!?
斯くあるべき位置に帰りたがっているって、どこさ?


いや。
逆に私達は、なんで、いつ、何となく引力というものを当たり前に認識させられるようになったのだっけ?
それを知らないでいたら、今頃内心、ものが落ちるたびに心がざわめいていたはずなのだ。
それは実際、どんな実感で感じられるざわめきだったんだろう。
どうやら、こどもの時からそんな心のざわめきや素朴な疑念を浮かべずともいられるような、用意周到な何かを既に刷り込まれているらしい。



完結した物語の中に用意された世界で、かつて人間は与えられた自分の役割と自分の意味だけを生きていた。科学の発見と分離とは、世界のすべてが意味を喪失することだった。世界を世界と認識していたその大いなる主観というものは無くなったのだ。もはや主体ではなくなった私達は「改めて」私という個体を認識し直し、それと向き合わなくてはいけなくなる。そういう類いの主観、の上で私達は絵を描いたりそれを発表したりしている。



逆に言えばそんなにまでの確信にもそれほどまでの喪失にも人間の感受性は耐えてきたともいえる。その耐性。振幅。何よりのこの身体の自然が感覚としてそれを知っている気がする。
宇宙の重箱の隅をつつきまくり科学的進歩を遂げてしまった西欧文明と、引力知らずとも「落花」の儚さを和歌に詠み、巡る季節の円環の中にも直線的な時の流れの虚無を自然に重ね合わせていた日本人と.....誰がどのくらい凄いとはいえないが。
ま、考えるだけで、凄いや。



いやはや。今までピンポイントの知識でなにかの物差しを持った気になっていて、それを使って思考することなんか滅多になかった。
特に私はばかなような気がする。
言葉はパッパッと頭に入ってくる方だけど本当は何も知ろうとなんかしなかったし知りたいと本心から思ったことなかった。今になって、ばか!ばか!と思う。
何かを本心から知りたくなるってことは、丸裸の恥を知るようでもあるし、終ることのない恋のようでもある。ああ。
by meo-flowerless | 2010-12-15 04:31 | 日記